竜が死んだ日
この日、一柱の竜が死んだ。
それぞれ下界では神とまで謳われる存在――竜と魔王。
人は理解を越えた存在を神と呼び、その存在を恐れ敬ってきた。
その世界の頂に立つ二つの存在が、雲の上から人々の生きる下界を見下ろしていた。
天上に並ぶは大きさが不釣り合いの二つの影。
竜の影は見上げるほど大きく、魔王の影はその十分の一にも満たない。
竜の持つ覇気は言うに及ばず。年月を感じさせる巌のような鱗。折りたたまれた大きな翼。鋭い爪に牙。
――まさしく物語の存在がそこにはいた。
その横に並ぶ魔王は姿そのものが影。
それは捉えどころのないその存在を表しているようで。風にあおられてその影が不定に揺らめいていた。
黄金色に輝く瞳をもった竜がおもむろに口を開く。
「マタ同胞ガ死ンダカ。定命ノタメ二死ヌナド……無様ダ」
《そうだろうか。限りある命だからこそ美しいのかもしれないよ》
猩々緋に輝く瞳をもった魔王の声が、竜の頭の中に響いた。
竜はその瞳をジロリと横へ滑らせると、
「アレハ貴様ノ差シ金カ?」
《何のことだい?》
竜はさきほど同胞の最期のきっかけとなった魔法を思い出していた。
彼らには生半可な魔法は効かない。
彼らの存在そのものがより大きな魔法のような存在だからだ。
「人化ノ術。アレハ俺様スラ知ラナイ魔法ダ」
《ご想像にお任せするよ》
竜と呼ばれる存在は何も彼だけではない。
だが、古代竜とも称される、力ある竜の数は極めて少なかった。
下界を見下ろす竜は彼を除くともう一柱しかいなかった――それも先ほど世界からその姿を消した。
つまり、その瞬間に彼は最後の古代竜となった。そうなれば生殖活動はもはや不可能。
いくら眷属を生み出すことはできても、種としては絶滅を迎えた。
だが、そんなことは彼にはどうでもよかった。
なぜなら、彼には寿命という概念が存在せず、また彼を殺すことができる可能性をもつ存在は、天上天下を探し回ってもそうはいない。隣に立つ魔王くらいなものか。
だからだろうか。最期の同胞が消えたというのにもかかわらず、竜はそれを気にした様子もない。
「喰エナイ奴メ」
竜はそういうと視線を再び下界へと向けた。
悠久ともいえるときを生きる二柱は、ご近所さん。
ときおりこうして集まっては話し合う仲であった。
今度は魔王から口を開いた。
《私たちも随分と数を減らしたね》
「アァ、オカゲデココノトコロ退屈ダ。何カナイカ?」
竜が視線を隣の魔王へと向けた。
《また天使との小競り合いが起きそうだけど来るかい?》
「ソレハ飽キタ」
魔王はたびたび眷属と共に、神や天使たちと喧嘩を繰り返していた。
竜はその日の気分でときおり魔王へとその力を貸していていたのだ。
竜がいれば百人力。
だが、相対する彼らもただの有象無象ではない。
一人一人が歴戦の戦士たちである。
彼らには竜を殺すに至らなくても、傷をつけるだけの力があった。
そんな彼らとは痛み分けの歴史の上を数百年と歩いてきた。
負けることもなければ、勝つこともない。
竜はそんな繰り返しの歴史には飽きしていた。
《それなら金銀財宝を集めるのはどうだろうか? 君の眷属の話だが、宝の山の上でよく眠ると聞く》
「ソレモ飽キタ」
眷属たちのなかで、特に若い者の中にはそういった趣味があるとは知っていた。
流行が巡ったゆえか、それもこの竜の因子がゆえか。
かくいう竜もかつて世界中の富をかき集めて、ねぐらとしたことがあった。
しかし、それもすぐに飽きた。
金銀財宝は集めていたころのほうがまだマシだ。
だが、それももう一度するかと問われれば面倒くさい。
ふと竜はあることを思い出した。
「貴様ハ何ヲシテイル?」
竜は知っていた。最近この魔王がたびたび下界へと入り浸るようになったことを。
もともとフラフラと下界へ羽を伸ばしていることは知っていたが、ここ最近は下界に住んでいるといっても過言ではなかった。
《私は最近、子どもたちと国造りで忙しい毎日だよ》
「子ドモ……」
魔王のいう子どもとは、眷属。
竜と魔王のような存在は力を分け与えることで、眷属をつくることができた。
眷属化は対象に主の力の一端を分け与える行為。
それは下界の生態系や食物連鎖を変えてしまうほどの劇薬であった。
下界で竜として広く知られている存在も、厳密には彼の眷属に過ぎない。
《君もいい加減に眷属をきちんと育ててみてはどうだろうか?》
「ウーム」
かつて、竜も気まぐれに眷属を作ってみたこともあった。
しかし、竜は放任主義という名の飽き性であった。
彼にも眷属がいることにはいるが、我関せずの立場。
それゆえにか、彼の眷属は眷属同士のつながりも薄かった。
そんな竜とは反対に、隣の魔王は彼の眷属たちと大の仲良し。
それが興じて最近では国まで作ったようだ。
《家族はいいよ。生きがいを与えてくれる。最近だと人種がおすすめかな》
眷属を思い出しているのだろうか。魔王の声はどこか優しかった。
「ヒト? アノ劣等種ノコトカ?」
《そうだね。彼らは存外おもしろくてね。ときには私の眷属を凌ぐものも出てくるんだ》
欠片とは言え、魔王の力を宿す眷属と肩を並べる存在。
そんな人並み外れた彼らは各地で怪物や英雄と呼ばれ、その名を下界の歴史に刻んでいた。
「人二何ヲスルノダ?」
《何を? ――何も》
魔王の体を象った影がゆらゆらと揺られている。
竜は首を傾げた。
「何モ?」
おかしなことだ。
わざわざ関わっておきながら何もしないなど。
竜は視線でその先の言葉を促した。
《あぁ、私はただ見ているだけ。ときどき手を貸すこともあるけれども、基本的にすべてを決めるのは彼ら自身だ》
彼らはやろうと思えば、何でもできる。
何でもできるがゆえに、先がわかってしまい、長生きが退屈なものになる。退屈は神すら殺す。
「面白イ。貴様ガソコマデ言ウノデアレバ、俺様モ人ヲ育テテミヨウ。タダ俺様ハ俺様ノヤリ方デ動クガナ」
《おや、焚きつけておいてあれだけど、珍しいね。君が動くなんて……。ただその姿では人の世に混じられないだろう。私の人化の魔法を真似るといい》
魔王の不定の影が、瞬く間に人の形へと変わっていく。
やがて定まったその姿はどこからどうみても人。
黒髪狒々赤眼の完璧な造形を誇る男の姿であった。
「――とまぁ、こんな感じだ」
それを見ていた竜は、
「ヤハリ、ツカエルデハナイカ。……ナルホド――こんな感じか」
人ならざるものを人の器に押し込める魔法、『人化の魔法』。
彼らの眼はすべてを識っている。
竜はその眼でその魔法をみた瞬間にそのすべてを理解した。
その巨大な体がするすると縮まっていく。
やがてその姿はやがて優男と同じ姿になった。
猩々緋と黄金。その瞳の色が違うことを除けば、魔王の人の姿と瓜二つである。
それは二人が目を瞑ればその見分けがつかないほどに。
「これはまだあくまで一時的な変身魔法だけどね。それにしても……いいじゃないか。どこをどうみても人族だ。あとは好きに遊べばいい、私のおすすめは――」
魔王の口上を遮るように、人の姿を手に入れた竜は天上から下界へと飛び降りた。
待ちきれないと言わんばかりに。
「やれやれ……。いってらっしゃい」
小さくなるその背中を、魔王は温かい笑みを浮かべて見送るのであった。
§
「さて、地上に降りたはいいが。どうするか」
人の姿で地上に降りた竜は、鬱蒼と茂った森の中にいた。
右を見ても左を見ても、振り返っても木々と緑で覆われていた。
空を見上げると、風で揺れる木葉の隙間から、頭上にのぼった太陽の輝きが降り注いでいた。
風が吹くたびに木々が騒ぎ立てる。耳を澄ますと虫の音、動物の鳴き声が聞こえてくる。
特に考えがあるわけでもない。
ただ、適当に人を見つけて育てたら、すぐに天上へと戻ろう。そう考えていた。
意識を周囲に割くと、少し離れた場所に人の気配を感じた。
「なんだ?」
竜は行く当てもないのでとりあえず、気配を感じた場所へと向かってみることにした。
舗装された道どころか獣道すらなかったが、仮に人の姿をとって竜は竜。
彼にとっては道がないことは障害たりえない。
ずんずんと足を進めていくと、そこにあったのは手作りの祭壇であった。
そしてその祭壇の前で背を向けて、竜の立つ方角へ背を向けて横たわる一人の少女の姿。
少女の手足は縄で縛られており、その体が無防備にむしろの上に転がっていた。
「おい、小娘。貴様はそこで何をしている?」
竜の言葉に、少女の背中がわかりやすく飛び跳ねた。
少女は恐る恐るといった様子で、体を反転させて、竜を見た。
その瞳は、なんでここに人が? と驚いた様子であった。
少女は竜の問いかけに対して、
「わたしのからだを森の神様へささげるの。それがあたしの村の掟」
素直にそう言葉を返した。
少女の言葉に竜は眉をしかめた。
「森の神? ――くだらん」
下界は神に満ちていた。
人知の及ばざることに対する総称、それが下界での神の姿であった。
神をくだらないと吐き捨てる竜に、少女はますます驚いた様子であった。
「あ、あなたは?」
「俺様? 俺様は竜だ」
少女はその言葉に少し視線を泳がせると、
「竜ってわたしたちと同じの姿をしているんだね。もっとこう……」
体で表現しようと思ったのか。
しかし、手足をしばられた少女はただ身じろぐ結果に終わった。
少女もすぐにその無駄を悟り、大人しくなる。
そんな地面に這いつくばる少女を見て竜は、
「これは仮の姿だがな。どうだ怖いか?」
「ううん。だって、どうせわたしは今からここで森の神様に食べられて死ぬんだから……」
少女の瞳には生への諦観があった。
「小娘のくせに聡いな」
「……だから、供物に選ばれたのかも。不気味だからって」
そう言って少女は自嘲気味に笑った。
「竜さんはどうしてここに?」
「たまたま通りかかった――そうだ。どうせ食われるなら俺様が喰ってやろうか?」
名案だとばかりに竜はそう提案した。
口にしてからそれが自分でも妙案だと竜は感じていた。
竜は人に興味があった――そして、その血肉の味にも。
竜は消極的な雑食。
何を食べなくても生きていけるが、何でも食べることもできる。
竜はふって降りてきた人を食する機会に興味がわいてきていた。
しかし、少女はそんな竜に対し、
「だめだよ。わたしの体は森の神様への捧げものなんだから」
「捧げないと、どうなる?」
竜の問いかけに、
「きっと森の神様がわたしたちの村を襲うわ。そうしたら、もうわたしの村はおしまい」
少女は身を震わせてそう答えた。
そこに背後から木々のなぎ倒される音が近づいてくる。
倒される木々の大きさ、かきわけられる草木の音からそれはかなりの巨体のようだ。
竜の視線の先では、少女がガタガタと震え始めていた。
やがて姿を現したのは、一体の怪物。
鋭い爪のついた四肢をもつ、見上げるほどの巨大生物。獰猛な牙がその口からのぞいている。
「あ、ああ……」
少女の瞳が絶望に染まった。
その反応を見るにどうやら目の前の魔法生物――魔物が少女の言うところの、森の神様、とやらのようだ。
竜の頭に声が響いた。
《オマエ、ムラ、クモツ、オイシソウ》
それは目の前の魔物から発せられていた。
釣りあがった口角の隅から、ドロリとした涎が塊となって地面へとこぼれ落ちた。
竜の知る神とは似ても似つかぬ醜悪な存在がそこにはいた。
「なんだ? これが貴様の言う森の神か?」
《オマエ、シラナイ、ショクジ、ジャマ、コロス》
現れた魔物を指をさして、少女へと確認する竜に対して、
《シネ》
魔物の殺意ある爪が振り下ろされた――
竜の黄金色の瞳がギラリと光る。
「貴様ガナ」
――が、それが届くことは未来永劫なかった。
振り下ろされた腕ごと、魔物の胸を抉り飛ばす一撃。
魔物は信じられないとばかりに目を見開くと、そのまま地面に倒れ伏し、動かなくなった。
竜は前腕から指先まで竜のそれへと戻った自身の手を見て、
「雑魚ガ――おっと、竜の力を使おうとすると人化の魔法が解けてしまうな。まったく人の体というのはなんと不便な……」
しかし、竜へと戻った手を振るうと、それはまた人のそれへと変わる。
「え? え?」
戸惑う少女を前に
「神は死んだ。貴様は俺様が喰う。文句はないな?」
最初から少女に選択肢はなかった。
竜は少女の首根っこを掴んで持ち上げると、
「……だが、貴様は細い、細すぎる。それに汚い。俺様への供物へ相応しくない。そうだ。俺様が俺様好みに育てて、それから喰ってやろう」
そういって人の姿をした竜は獰猛に笑った。
§
「森の神を殺すなんて、なんて恐ろしいことを……!」
「祟りじゃ! 森の神様の祟りがくるぞ!」
竜が森の神様へ捧げられるはずだった少女を連れて帰ると、当然村の大人たちは怒り狂った。
しかし、竜は、
「黙れ。俺様が代わりにこの村を守ってやる。ありがたく思え」
森の神様を殺したと言ってもなかなか信じてもらえなかったが、最終的にその死体を確認しに行った村人の言葉により、瞬く間にその怒りは畏れへと変わった。
「貴様は俺様の主菜だ。よく食って、よく体を動かして、よく寝ろ――なに? 食べるものがない? 村長とやら、今すぐコイツに飯を出せ! さもなくば村人全員血祭りにあげてやる!」
血祭りにされてはかなわないと、村長は這う這うの体で、村で一番立派なぼろ屋へと魔王と少女を案内した。
しかし、
「なんだ? この泥水に木の根っこは? 人は雑食ではなかったか。森の精霊どものような食事ではないか。肉だ。肉を喰らえ――なに? 肉がない? 仕方がないな! 少し待っていろ!」
竜はそういうと、山へ駆け込み、しばらくするとその体の何倍もの大きさの魔物を仕留めて連れて帰ってきた。
村の狩人に血抜きや内臓を洗わせ、村の女たちに味付けさせ、それを竜と少女が食す。
人の姿をすると竜の食欲も人相応になり、あまった部位は村人たちへと与えた。
「なんだ? この家畜小屋は? 馬鹿を言うな、これから俺様も住むのだぞ。一番大きな家に――なに? このボロ家がそう? 貧相すぎる! 少し待っていろ!」
竜はそういうと、魔法を使って一瞬で村を作り変えてしまった。
村人全員が収まるほどのお城のような巨大な屋敷。冬は温かく、それでいて夏は涼しい魔法の屋敷。
さらには、屋敷の中庭の一面を野菜畑に作り変えてしまった。
四季折々に様々な作物を宿す不思議な畑。決して不作になることがない魔法の畑に。
「なんだ? 村を維持するための人手が足りない? ――なに? 野盗がでた? ちょうどいい! 少し待っていろ!」
竜はそういうと、村に押し入ろうとした野盗を一網打尽に捉えてしまった。
捕らえられた野盗たちは、呪いをかけられた上で村に奉仕する使用人へと身分を変えた。
「なんだ? 王国? 年貢? 知るか。俺様の村では俺様が一番偉いのだ。――なに? 王様の命令だ? うるさい、俺様に指図をするな! 少し待っていろ!」
竜はそういうと、いかなる外圧をものともしなかった。
はじめは使者を、最後は軍を差し向けられるもこれを撃退。
逆に村の地域の治める貴族の屋敷へと乗り込んで不干渉を誓わせた。
魔物たちは、本能的に竜の存在を察知して村へと近づくことさえしなかった。
竜の庇護を受けて村は飛躍的に大きくなった。
その生活は信じられないくらい豊かになった。
冬を乗り越えるために口減らしをする必要もなければ、寒さに身を寄せあって凍える必要もない。
しかし、竜は別に村人がどうなろうとよかった――ただ一人を除いて。
「貴様もだいぶ肉がついてきたな。だがまだまだ食べるには早い」
すべてはこの小娘を最上の肉へと仕上げるため。
「貴様も俺様の供物に相応しくなってきたではないか。だが、まだ早い」
最上の肉となった瞬間に、頭からひと思いに喰らうのだ。
「貴様も食べごろになったではないか――なに? 子ができた?」
ある日から丸みを帯びてきたその体。
脂身は好かん、と注意したところ、なんとその身に子を宿していた。
「貴様を喰わないのかだって? まだ子には乳が必要であろう。俺様は不老不死。急ぎはしない」
贄がまた贄を生む。これは永久機関というやつではなかろうか。
「貴様の子も俺様と最初に出会ったころの貴様ぐらいのまで成長したな」
そろそろだろうか。いや、まだかもしれない。
「どう食してやろうか。決めたぞ。貴様は極上の葡萄酒のように寝かそう。
そうして熟成された最高の状態の貴様を余すことなく喰ってやろう」
ここまで丹精込めたのだ。中途半端なところで食べてしまうのはもったいない。
「なに? 貴様の子に子ができた? 人族の繁殖は早いな」
わざわざここまで手間暇をかけたのだ。
舐るよう喰らってもいい。きっと素晴らしい味がするはずだ。
「なに!? 貴様の子の子に子ができただと!
この前に子の子ができたばかりではないか! ――なんだと? じじくさい?」
人の成長は早いものだと思っていたら、もう子の子に子ができただと……!
流れる月日。月日と共に大きくなる村、にぎやかになる竜の周囲。
いつの間にか竜と少女は、村を治める統治者として広く信望を集めていた。
しかし、やはり竜にはそのすべてがどうでもよかった。
竜の願いは最初から変わらない。
そして、いよいよか……。竜はついにその時期を悟りつつあった。
§
竜は少女と二人きりでその日を迎えた。
寝室で横たわる少女は、
「りゅうじん、さま……。そこに……いらっしゃい……ます、か?」
いつの間にかその姿をシワシワの老女へと変えていた。
竜聖女とまで謳われたその美貌も今は見る影もない。
枯れ木のように細くなった腕を上げようとしても、少しばかり腕が寝具から浮くばかり。
竜により健康美の極みのようにいた彼女もただの人。
老いには勝てなかった。今では一人で立ち上がることさえできなかった。
一柱と一人が森で出会ってから、もう随分と時が流れた。
流れた時間は少女から若さを奪い、その姿を老女へと変えた。
「あぁ、俺様はすぐ隣にいるぞ」
しかし、竜は初めて出会ったときから変わらないままであった。
初めて出会った日から何一つ変わらない姿で、かつて少女だった老女の横たわる寝具の隣へと腰かけていた。
老女はゆっくりとその首を竜へと向ける。定まらない視点が竜を探す。
「どうやら……わたし、は……ここまでの……ようです」
まるで彼女の命を表すように、燃え尽きたような真っ白い髪がサラリと流れた。
竜は彼女をただ見下ろし、
「……逝くのか?」
老女はその問いには答えず、ただ柔らかな笑みを浮かべていた。
くしゃりと柔らかく歪んだその顔。
その顔に刻まれた皺がいっそう深くなる。
「しあわせ、でした」
老女は竜の瞳をまっすぐに見つめると、そう呟いた。
その言葉には万感の思いがこもっていた。
「はっ、魔王へと味方する竜に魅入られて幸せなどと……。貴様は天使の下へはいけんな」
竜がにやりと意地の悪い笑みを浮かべる。
人族の間では、魔王よりも天使が圧倒的な人気者であることを竜は学んでいた。
老女はゆるゆると天井を遠い目をして見つめると、
「そうかも、しれませんね……。でも、それもいい、です……。そのほうが、ずっと……」
呟くように言葉を繰り返した。
老女は再び竜へと顔を向けると、
「……だっ、て……りゅうじんさま、は……そこに、いらっしゃらない……でしょう?」
ほんの一瞬だけ竜の息の根が止まった。
「…………あたりまえだ」
息を呑む、という行為はここ数百年で初めてのことだった。
竜は無意識のうちに老女からその顔を背けた。
その理由は全知とまで謳われる竜にもわからなかった。
「それなら……わたしは……やっぱり……いけませんね……」
震えながらも精一杯の力で差し出された老女の手。
竜はその手が落ちる前に、零れ落ちそうな彼女の手を素早く捕まえた。
握りしめた手からは、彼女の体温をあまり感じることができなかった。
それが一人と一柱に残された時間が、それほどないんだと語りかけていた。
竜はすっかりかさついてしまった老女の手を、包み込むようにそっと握りしめた。
「最期に言い残すことはあるか? 特別に俺様が聞き届けてやろう。
貴様が望むのであればこの村の未來でも、貴様の子の子の子の子の子の面倒でも」
少しでも力をこめたら砕けてしまいそうで。
竜は握りしめた手とは反対の手で、老女の手の甲を撫でた。
しかし、老女には叶えてほしい願いなどなかった。
少女の願いは、もう既に目の前の竜に叶えてもらったから。
老女の願いは、残された者たちが健やかに生きることだけ。
そして、それは誰かに叶えてもらうものではない。
残された者たちが、己で考え、ときに過ちを犯しながら自分たちで見つけていかなければならない。
老女は人生を通じてそれを学んだ。
だから、竜へは何も願わない。
ただ――
「……わたしを、めしあがらない……の、です……か……?」
ただそれだけが老女の最期の気がかりだった。
しかし、それを竜は、
「はッ、老いさらばえて枯れ木となった貴様になど喰う価値もない」
バッサリと切って捨てた。
「――って聞いておるのか。おい」
老女は笑っていた。
かつて少女だった老女は、竜の視線の先で既にこと切れていた。
「ったく、竜である俺様をたばかりおって……。
まぁ、よい。贄の育て方はわかった。人など掃いて捨てるほどいる。また次を探せばよい」
竜は握っていた手からそっと手を離した。
亡くなればそれはただのモノだ。
竜は心底興味をなくしたように席を立ちあがると、微笑んだまま息を引き取った老女へ背中を向けた。
最奥の部屋から出た竜に歩み寄る一つの影。
その影は、老女が少女であったころの姿によく似ていた。それもそのはず彼女は少女の玄孫であった。
「リュウさま、高祖母さまは……。そう、ですか……」
玄孫は竜の反応を見て、すべてを悟ったようだ。
竜はずんずんと通路を歩きながら中庭を目指していた。
玄孫はその背中を小走りで追いかけながら、
「我が一族はみな、リュウさまへに召しあがられる準備はできております。そうと言っていただければ……」
「俺様は竜だ。天使でも悪魔でもない。お前たちが何かを捧げる必要はない」
にべもなく突き放す。
竜は続けて、
「俺様は村を出る」
そう言葉を吐いた。
「では、お供を……」
「ならん。お前たちがいると次の贄に影響を及ぼす」
なおも食い下がる玄孫を一瞥もくれないままに切って捨てる。
いつからか、村に住まう者たちは竜と少女へとかしずくようになっていた。
中でも少女の産んだ子女の血縁は、あれやこれやと竜と少女の世話を進んで焼きたがった。
この玄孫もその一人。少女の面影を宿すこの美少女を、喰い損ねた少女の代わりに食ってやろうか! と考えてみたこともあるが、どうにも食欲がわかない。
「そんな……」
竜の言葉に絶望の表情を浮かべる彼女の玄孫。
「最強である俺様の心配より、最強の俺様がいなくなるこれからの村の心配でもするといい」
「リュウ様と高祖母様が作り上げたこの村は最強です! いつまでも、いつまでも私たちはリュウ様のお帰りをお待ちしております!」
「好きにするといい」
竜は中庭に出ると、そのまま竜へと姿を変え、空へと天高く舞い上がる。
地上ではそんな竜の姿を見て、村人たちが口々に声を上げているが、竜にとっては些事であった。
ただ竜は最初に出会った少女が逝ってしまってから、その胸に広がるこれまで感じたことのない感情がたまらなく不快だった。
§
竜は胸に感じる不快感を埋めるために、第二第三の少女を探した。
少女からノウハウを得た竜はそれから次々と、少年少女を贄として拾い上げた。
次に拾った人族の少女は、
「りゅうさまー!」
手先が器用で知恵が回り、その発明には悠久の刻を生きる竜すら感心させられるほどであった。
その次に拾った獣人族の少年は、
「りゅーさまー!」
体が人族よりずっと強く、人族の贄ではできなかったところへ肩を並べて一緒に訪れることができた。
さらにその次に拾った魔人族の少女は、
「リューさまー!」
魔法の素質が人族や獣人族より強く、竜の魔法の片鱗を受け継ぐことができた。
最高の食材、最高の環境、最強の庇護者の下で彼らはすくすくと健康に育ち――みな死んだ。
「りゅうさま……」
「りゅーさま……」
「リューさま……」
竜を残して、みな死んだ。
腹立たしいことに、最初の少女のように枕の上で笑顔をみせたまま。
代わりなんていくらでもいると思っていた。
吐いて捨ているほどの人の数。今もまだ増え続けているその数。
美味しそうな贄を選ぶ精度も、回を追うごとに上がった。
どうやって育てるかも、何を与えるかも学んで次へと活かしてきた。
それでも、一人として同じ人はいなかった。
むしろ別離を繰り返すほどに、胸に飽いた穴の数は増えていく。
次、また次と贄を変えていくたびに、次、また次と心に穴が開いていく。
老いさらばえ、死の床で無力に倒れ伏しているはずの皆が笑顔だった。
老いを知らない最強の竜だけがいつも笑顔ではなかった。
いつも竜は彼らを食べ損ねてた。
「ありがとう、ござい……まし……た……」
今もまた贄を一人見送った。
かつては戦士の中の戦士と言われた青年も、やはり老いには勝てなかった。
いつまでも竜は彼らを食べ損ねていた。
§
「久しぶりだね。古き竜よ」
「あぁ、久しいな。古き魔王よ」
最期の贄を看取った竜は、再び雲の上へと戻ってきた。
いつかの日のように並んで下界を見下ろす二人。
それぞれ黄金色と猩々緋に輝く瞳色。
それ以外は全く同じ容姿が並んでいた。
魔王が人の姿で問いかける。
「どうだった? 人は?」
「短慮で、すぐ欲に目が眩み、竜である俺様にも平気で嘘を吐く。脆く、儚い、哀れな劣等種よ」
竜が人の姿で言葉を返した。
あの日から変わらない。むしろ、あの日よりよく知ったその内面。
「それで?」
猩々緋と黄金の瞳が交差する。
「俺様は――人になりたい。人と共に生きたい」
あの日とは違う。そして、あの日にはわからなかったその魅力。
「……わかっているとは思うけど――失ったものは戻らないよ?」
その言葉には二重の意味があった。
竜が力を失っても亡くしたものは戻ってこず、失うことになる力は永遠に取り返すことはできない。
それでも――
「いい。俺様は――人と共に死にたい」
――竜の答えは変わらなかった。
魔王はそれを聞くと、
「そうか……。寂しくなるね」
少し寂しそうな顔で微笑んだ。
この日、一柱の竜が死んだ。
この後、神性を捨てた竜が下界でわっちゃわっちゃするのはまた別のお話……。
ご感想・ブクマ・評価など頂けると、とても嬉しいです。
それが、明日も物語を書き続ける力になります。