9
早朝──校門が開かれて間もない時刻。
朝練前の体育館には、たった一人──彼女しかいなかった。明かりもつけずに薄暗い舞台で軽やかにステップを踏み、まだ見ぬ観衆に向けて歌うように台詞を紡ぎ出す。
「素敵なところでしょう。ここには不幸なんてないの」
それは、何かの演劇の台詞なのであろうか。その方面に疎い僕には、よくわからない。ただ、彼女の澄んだ声だけが、誰もいない舞台に凛と響き渡る。
彼女は誰よりも練習熱心だった。熱意があり、次第に実力も伴い、今まさに演劇という一分野で秀でた才を発揮しようとしている。彼女は、その「女優」という仮面を、いつから身につけていたのであろう。
「宮川君?」
僕の存在に気づいた彼女が、優雅な動きを、ぴたり、と止める。少し──もう少しだけ見ていたいという気持ちを振り払って。
「おはよう」
と、声をかける。彼女は笑って、身軽に舞台から飛び降りる。ふわり、とドレスが花のように舞って。
「おはよう」
彼女は僕の前に立って、律儀に挨拶を返す。
「──そのドレス」
「うん。手芸部ってすごいのよ。もう直っちゃった」
言って、誇らしげにドレスの裾をつまんで見せる。
手芸部から戻ってきたドレスは、破れた部分を活用する形でアレンジされており、それが何とも言えず、彼女の色香を引き出している。
「ずいぶん早いのね」
意識しての行動なのであろうか、彼女は後ろに手をまわして、僕の顔をのぞき込むように身体を傾ける。大胆に開いた胸部に吸い寄せられる視線を、僕は努めて押し止める。
「高野さんほどじゃないよ」
普段から仲良く会話する、というほどの間柄でもない。二、三のやり取り以降は、何とも居心地の悪い沈黙が訪れる。彼女の視線が宙を泳ぐ。それほど親しくない相手であっても、何とか会話の間を繋ごうと話題を探しているのがわかる。悪い人ではないのである。
それでも──いや、だからこそ、と言うべきか。僕は問い質さずにはいられない。
「どうして、自分の衣装を破ったりしたの?」
「──どういうこと?」
突然の詰問に、彼女はそっと薄い唇を歪める。思いもかけぬことを問われた、というような顔で、怪訝そうに僕をみつめ返す。これが演技であるのならば、まったく大した女優である。
あの時、オードリーは言った。ちゃんと映るんだ、と。鏡を前にして「ちゃんと映る」なんて、わざわざ言うやつはいない。鏡が像を映すのは、当り前のことなのだから。もしもわざわざそんなことを言ったのならば、オードリーには、そう口にするだけの理由があったはずなのである。
布に覆われた鏡──その鏡は、まさに「正しく映る鏡」だった。
直角二等辺三角柱──僕が鏡面だと思い込んでいた斜面は、単なるガラス張りにすぎなかった。実際に鏡が張ってあったのは、三角柱の内側、直角に交わった二面の方だったのである。
おそらく、仕掛け鏡の一種なのであろう。斜めに向きあった二枚の鏡が、互いに映った像を更に反射する。右の像は左に、左の像は右に。右手をあげれば、鏡の中の自分も「右手」をあげる。
ビデオテープの映像、あれは犯人が入口から衣装部屋へと動いているところをとらえたものではない。あれは──衣装部屋に潜んでいた犯人が部室から抜け出していくところをこそ、とらえていたのである。
犯人が部室に忍び込んだ後に、突然戻ってきて居座ってしまった部長。長引いたホームルームで遅れた僕ら。予定外に出口を塞がれた犯人は、さぞやきもきしたことであろう。僕らが部室を後にするや否や、犯人は扉を閉める手間さえ惜しんで、急いで部屋を抜け出したというわけである。
あの日の練習場所は二年六組の教室。僕らよりも遅れて現れたのは──彼女しかいない。
「高野さんは知らなかったかもしれないけど、部室には防犯用のビデオカメラが取りつけられているんだ」
僕は切り札を裏返す。部長の仕掛けたジョーカーが、彼女の女優としての顔を切り崩す。かすかに見せた狼狽が、彼女が犯人であることを雄弁に物語っている。実のところ、部外の人間の犯行という可能性もなくはなかったのだが、たった今それが消える。
「どうして──自分の衣装を破ったりしたの?」
再び問いかける。
「演劇部に不満があったから? それとも、白雪姫の役が気に入らなかったから?」
重ねる問いに、彼女は何も答えない。僕の詰問から逃れるようにうなだれる。
「それとも──オードリーのことが嫌いだったから?」
その名を口にした瞬間、彼女の頬がこわばるのがわかって──だからであろうか。
「オードリーは、悪いやつじゃないんだ!」
知らず、オードリーをかばうための言葉が口をついて出る。
「髪の毛は真っ赤だけど、あれは生まれついてのもので、染めてるわけじゃない。言葉遣いだって、普通の女の子にくらべると荒いけど、そんなの部長だって似たようなもんだ。大きな身体に力が有り余ってるから、乱暴に感じる振る舞いもあるかもしれないけど、でも弱いものいじめは絶対にしない。一部の教師に嫌われてるのだって、理由のほとんどは偏見なんだ。それに──そうだ、それに!」
と、息継ぎを一つ。
「オードリーは君が犯人だってこと、誰よりも早く気づいたはずなのに、誰にも言わなかった」
沈黙が舞台を満たす。彼女はうつむいたまま動かない。アドリブの苦手な僕に、これ以上の台詞があるわけもなく──暗転したまま、しかし場面は変わらない。
不意に、彼女が顔をあげる。女優としての仮面はひび割れたまま、高野美幸という素顔が隙間からのぞいている。それでも、彼女は怯まなかった。スポットライトに照らされた女優が自らの見せ場を確信するように、満を持して口を開く。
「オードリーのこと、嫌いじゃないわ」
「それなら、どうして?」
「だって──」
彼女は、迷いを示すようにそらして見せた視線を、ためらいがちに僕のそれとからませる。
「宮川君、この世で一番美しいのは誰なのかって問われると、いつも口ごもるんだもの。白雪姫だって答えればいいだけなのに、お妃さまに見とれちゃってさ。どんなに着飾ってみても、ドレスを切り裂かれて泣いてみても、大胆に胸の開いたドレスで迫ってみても──私のことなんて、ちっとも見てくれない」
堰を切ったように言葉が溢れ出す。拗ねるように言い放って、彼女は再びうつむく。落とした視線の先には、握り締めた両の拳が震えている。ほんの一瞬──拳に気を取られていた隙に、彼女が不意打ちをかける。つぶらな瞳が、上目で僕の意識をからめとる。
「あなたのことが好きなの」
その台詞だけは、きっと演技ではない。
「私のこと、もっと見てほしかったの」