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「──今日は自主練」
一言で練習を切りあげて、僕と部長は人目を避けるように教室を抜け出す。
「確か、この辺りだったと思うんだが」
部長の記憶を頼りに階段をのぼる。写真部の部室は、西校舎三階の奥まった場所にある。東校舎にある演劇部の部室とは、中庭を挟んで、ちょうど反対側にあたる。廊下に面した窓からもれる蛍光灯の明かりが、部屋の主が不在でないことを教えてくれる。
軽く扉を叩いて、数秒──中から応えはない。
「失礼するよ」
言って、部長が扉に手をかける。
広々とした空間──倉庫として利用していた教室を改装したというその部屋は、演劇部の部室にくらべると、ずいぶんと大きい。まばらに机が並び、ところどころに用途の不明な機材が散らばっている。奥にあるのは暗室なのであろう。部屋の隅の一画を、天井に取りつけられた暗幕が囲っている。
部屋に一歩入ると、死角になっていた部分に、暗幕を背にした女子生徒がいることがわかる。はしたなくも机の上に脚を放り投げ、ほう、と見とれるように文庫本のページをめくっている。
いまだに女子生徒の顔と名前が一致しない僕であっても、学年で最小の部類に入ると思われる彼女の身長を見誤ることは、さすがにない。
「──嶺岸さん?」
呼びかける声に、嶺岸由希子が顔をあげる。
「あれ、宮川くん?」
僕らの存在に気づいた彼女は、慌てて脚を正す。読みかけの本を机に放り、勢いよく立ちあがる。
「知り合い?」
「クラスメイト」
尋ねる部長に短く答える。
「すみません。お見苦しいところを、お見せしてしまって」
「いえいえ、眼福でした」
おどけて謝意を述べる部長に、彼女はますます恥じ入る。
「それで、何かご用ですか?」
嶺岸由希子は、照れ笑いを浮かべながら、ごまかすように話題を変える。
「ちょっと緒方に用事があってね。緒方はどこにいるの?」
尋ねる部長に、彼女は苦い表情を返す。
「先輩なら──うちの部長なら撮影に行ってます。すぐに怒られて帰ってくると思いますから、お茶でも飲みながら待っててください」
言って、彼女は小動物のように跳ねる。棚の前で忙しそうに動き回り、急須と湯のみを取り出す。小さな棚から、茶葉、ポット、茶菓子、と続けて取り出される様は、どこか巧みな手品を見ているようで、不思議と心地よい。
「お好きな席にどうぞ。日本茶で構いませんよね?」
彼女の言葉に頷いて、僕らは適当な席に腰をおろす。
少しだけ開いた窓から吹き込む秋風が、机に無造作に置かれた文庫本を、はらり、となでる。グラウンドからかすかに届く運動部の掛け声が、僕の耳に懐かしく響く。高校に進学して間もない人間が言うことではないのかもしれないが、どこか郷愁を覚える、色褪せた写真のような空間である。普段は真面目な嶺岸由希子が、先ほどのような緩んだ状態になるのも、無理はないことなのかもしれない、と思う。
「どうぞ」
丸い盆に載せた湯のみを、彼女が手ずから僕らの前に並べる。急須も湯のみも、特徴のない安物なのであろうが、湯のみから立ち昇る香りだけは繊細である。先に口をつけた部長が、ほう、とうなり声をあげる。
嶺岸由希子は、話し上手であり、かつ聞き上手でもあった。僕らにあわせて演劇の話題を提供して、食いついたところで──と言っても、食いつくのはもっぱら部長の方だったのであるが──更に新しい話題を引き出す。茶菓子を突きながらの談話は弾み、いつのまにやら女性陣は同級生のように打ち解けて語りあう。共通の知人である写真部の部長を肴にして、二人の会話に花が咲く。
「──嶺岸!」
不意に、僕らの会話を遮るように扉が開き、騒々しい声が飛び込む。
「お前、撮影ポイントの情報をもらしただろう! 女子バレー部のガードが厳しくなってるじゃないか!」
言って、写真部の部長──緒方慎司が鼻息も荒く近づいてくる。部長に向けて、よう、と一言。僕に向けて、小さな会釈。僕らの間に割って入り、拗ねた子どものように、むくれたまま腰をおろす。
「濡れ衣ですよ。証拠もないのに人を犯人扱いしないでください」
淡々と返しながらも、彼女は新たに彼の分のお茶をいれる。彼の方も、それが当然であるかのように、座ってお茶を待ち受ける。
口に出して指摘したならば、間違いなく否定されるのであろうが、それは熟年夫婦の日常のように揺るぎないものとして、僕の目に映る。
「ビデオテープには、衣装部屋に入る生徒の姿が映っていた。ところが、その生徒が衣装部屋から出てくる姿は映っていなかった──と」
僕らの話を反芻するようにつぶやいて、緒方慎司が唇を舐める。
「そして、私たちが部室に戻ってきた時には、衣装部屋には誰もいなかった」
一口──温くなった日本茶をすすり、部長が返す。
「衣装部屋に、隠れられるような場所はないのか?」
「ない」
部長は一言で切り捨てる。
「困ったね」
「困ってるんだよ。衣装部屋の窓から外に出たっていう可能性もなくはないけど──」
「いや、それはないだろう」
緒方慎司は断言する。
「──ありませんかね?」
問い返す僕に、彼は大仰に首を振って見せる。
「ないね。演劇部の部室、窓の外がどうなってるか、見たことはあるかい。あの辺りには排水パイプも取りつけられていないんだ。あんなところから外に出るなんて、自殺行為だと思うよ」
緒方慎司は再び断言する。
「おい、ちょっと待て──何でそんなことを知ってる」
部長は、彼の断言に違和感を覚えたようで、湯のみを置いて問い質す。
「毎日みてるからね」
「あんた、まさか──」
部長の疑いの眼差しに、彼は慌てて笑顔を返す。
「いやいや、いかがわしい写真は撮ってないよ。堂島が呆けた顔で本を読んでいるところとか、赤毛の一年生が机の上であぐらをかいているところとか、その程度の写真だよ」
「その程度の写真だよ──じゃねえ! ネガを出せ、ネガを!」
言って、部長は彼の胸倉をつかみ、脅すように前後に揺らす。
「ちょ、待て、落ちつけ! おい、嶺岸、助けろ!」
自らの部長の叫び声もどこ吹く風、嶺岸由希子は動じない。おもむろに立ちあがり、皆の湯のみを盆に載せて、ポットの方へと歩み寄る。
「また日本茶でいい?」
振り向いて、彼女は僕に問いかける。僕の一存では、と他の二人に視線を送るのであるが、どうやら返事をする余裕などないらしい。いつのまにやら取っ組みあいにまで発展した争いは、一向に治まる気配を見せない。
「いいみたい」
僕らは互いに顔を見あわせて、それぞれの先輩の不甲斐なさに深く嘆息する。
「──あの」
と、嶺岸由希子から湯のみを受け取りながら、僕は声をあげる。
「コマとコマの間に移動した、という可能性はありませんかね?」
「コマとコマの間?」
問い返す緒方慎司に、部長が説明を加える。
「ほら、お前が言ってたじゃん。長時間の録画が可能になるかわりに、一秒あたりのコマ数は少なくなるって」
「ああ、なるほど。少なくなったコマの間で移動したんじゃないかってことね」
「そういうこと」
頷く部長に、しかし彼は首を振って答える。
「でも、それも無理だと思うよ。堂島は、ビデオデッキの設定、別にいじってないんだろう?」
尋ねる彼に、部長は小さく頷く。
「いじっていないのなら、録画時間は七十二時間に設定されているはずだ。この場合、一秒間のコマ数は四コマから五コマ程度になるはずだから、かいくぐって移動したというのは、まあ無理だと思うよ」
窓から外に出たのでもない。コマの間を移動したのでもない──手詰まりであった。思いつくかぎりの可能性を否定されて、僕と部長は苦悩の溜め息を吐く。
「思うに──前提が間違っているんじゃないかな」
うなだれる僕らに向かって、さわやかな香りとほのかな苦みのある二煎目のお茶を口にしながら、おもむろに緒方慎司が口を開く。
「前提って、何が?」
先ほどの言い争いで奪い取ったフィルムケースを左手で弄びながら、部長が問い返す。
「ビデオテープの内容が、さ」
「ビデオテープの方が間違っているなんて、そんなことあり得るんですか?」
言って、僕は二人の会話に割って入る。
「あり得るさ。例えば、そこにいる堂島がビデオテープを改竄したとすれば、可能性としてはあり得る話だろう?」
「何で私が!」
手にしたフィルムケースを握りつぶしながら、部長が反論する。
「本気で言ってるわけじゃないよ。可能性の話だ。柔軟に考えろってこと」
ビデオテープの方が間違っている。部長がビデオテープを改竄したというのは例え話だとしても、推理の前提となるビデオテープの内容を疑うというのは新鮮な見解である。
ビデオテープ。中央に映った鏡。まくれた布からのぞく鏡面。その鏡面に映ったジャージ姿が、部室の入口から衣装部屋へと動く。偶然のとらえた映像が、僕らを思考の迷路に閉じ込めている。
偶然──偶然? そもそも、その偶然は、どのようにして訪れたのであったか。鏡面を覆っていた布は、なぜまくれていたのか。思い返す中で、ざらり、とした違和感が、僕の皮膚をなでる。
あの時──あの時、彼女は何と言っていた?
「──桜子、部室の鍵、持ってる?」
「持ってるけど、どうかしたのか?」
言って、部長がポケットから鍵を取り出す。
「貸して」
有無を言わせず鍵を奪い取り、ごちそうさまでした、と写真部の二人に頭を下げて、僕は部屋を飛び出す。
「おい! トム!」
呼びとめる声を振り切って、演劇部の部室へと走る。渡り廊下、中央校舎を駆け抜けて、部室へと飛び込んで。
鏡を覆った布を取り払い──僕は全てを理解した。