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「今日はここまで!」
部長の声に、ほっと一息──練習とは言え、演劇にともなう独特の緊張感には、いまだに慣れることができず、僕は持参したタオルで吹き出した汗をぬぐう。
日増しに早くなる日の入り──いつのまにやら空は茜色に染まり、涼やかな風が火照った身体をなでる。しつこかった夏も、どうやら終わる。
後片づけを済ませて、皆でそろって部室に戻る。
「宮川の演技も、少しは見られるものになってきたな」
右隣に並んだ吉崎真琴が、世間話でもするかのように語りかける。
「もう、吉崎先輩ったら、宮川君のことになるとあまいんだから」
左隣から、今度は高野美幸が割って入る。
彼女の指摘のとおり、他には厳しい吉崎真琴も、どうしてやら僕にはあまいところがある。部長である堂島桜子の幼馴染であるからなのか、それとも半ば無理やり入部させられた僕をおだてて貴重な部員数を確保するためなのか──尋ねたことはないのだけれども、理由はそのあたりにあるのだろう、と推測している。
「あまいかな?」
「あまいですよ」
問い返す吉崎真琴に、高野美幸は鋭く返して。
「確かに、以前にくらべると宮川君は上手になったとは思いますけど、もっとがんばってもらわないと困るところだって、たくさんあるんですからね」
続けて、高野美幸は僕に向けて口を開く。
「例えば、白雪姫こそが最も美しいと褒めたたえるところ──もっとテンポよくやってもらわないと、どことなく嘘っぽくなっちゃうんだから」
高野美幸は、普段の彼女からは想像もできぬほどに熱っぽく注文をつける。あふれ出るほどの熱意が、彼女の演劇に対する情熱をうかがわせる。
「わかった?」
視線をからめとるように、僕の顔をのぞき込んで。
「はい──善処します」
「よろしい」
満面の笑みがこぼれる。
階段をのぼって三階、東校舎の端。古びた扉の鍵をまわして、部長が取っ手に手をかける。
「──あれ?」
しかし、扉は動かない。二度、三度と力を込めるが、鍵が閉まっているのは明らかである。鍵をまわして閉まるということは──鍵をまわす前には、扉は開いていたということになる。
「トム──私、お前らと一緒に部室を出る時、鍵閉めたよな?」
「閉めたよ」
部長の問いに短く答える。ざわり、と周囲が鳴る。
僕らが施錠した後に、部室の鍵をあけた誰かがいる。
再び鍵をまわした部長が勢いよく扉を開き、その後ろから皆がいっせいに室内をのぞき込む。机の上に乱雑に散らばった予備の台本、壁際に並んだ部員の鞄と脱ぎ捨てられた制服、そして部屋の左隅に鎮座した鏡。一見したところでは、どこにも異常は見られないように思える。
演劇部は、その活動の性質上、いくつかの高価な機材を所有している。しかし、それらの機材は、より安全性の高い倉庫に厳重に保管されており、部室の中にはこれといって盗まれるようなものは存在しない。あるとすれば──個人の貴重品くらいのものである。
「各自、盗られたものがないか、自分の荷物を確認してくれ」
部長の指示のもと、皆が部室に散らばる。僕も周囲にならって、壁際に置いた鞄を手に取り、中身を確認する。小銭の入った財布、バスの定期入れなど、貴重品と思われるものは、練習の前と変わらず鞄の中に入っている。
「鏡は何ともないみたいだ」
自分の荷物の確認もそこそこに、オードリーが鏡の無事を告げて──まくれていた布を元に戻す。借り物の鏡のことを、どこかで案じていたのであろう。オードリーの報告に、部長が安堵の胸をなでおろす。
しばらくの確認を経ても、被害を知らせる声はどこからもあがらない。皆の肩から力が抜ける──その間隙を突くように。
「──何だ、これ」
不意に、隣の衣装部屋から声があがる。
「誰がこんなことを!」
憤りをあらわにした重い声が続く。
僕らは顔を見あわせて、何事か、と各自の確認を放り出す。扉を抜けて衣装部屋に駆けつけると、そこにはドレスを握り締めて座り込む高野美幸の姿がある。細い肩は小刻みに震えて、頬をつたう涙が奇妙に艶かしく映る。
彼女の手にしたドレスには、何か鋭利なもので切られた跡がある。要所は原型を留めており、切り刻まれた、というほどに酷い印象ではないものの、それをそのまま演劇に用いることは難しいように思われる。
白雪姫の衣装は、演劇部に代々伝わる古臭いものだった。当時の部員の手による創作衣装であり、それだけに愛着を感じるものも少なくはないようで──惨状を目の当たりにした女子の間からは、小さなうめき声がもれる。
「ひどいよ、こんなの」
ともに悲しむことで、痛みをわかちあおうとでもいうように──高野美幸の周囲を女子が取り囲み、皆が一様に悲しみを振りまく。同情の空気にあてられた男子が、行き場のない怒りを両の拳に込める。
「──堂島」
吉崎真琴が小声で部長に呼びかけて、何やら耳打ちをする。
「ひでえもんだな」
オードリーはつぶやきながらも、どこか他人事のように女子の群れを眺める。
この場を支配する異様な感情の波にとらわれていないのは──僕とオードリー、部長と吉崎真琴の四人だけである。
誰かが部室に忍び込み、白雪姫のドレスを切り裂いた。それは揺るぎようのない事実である。
誰が、何のために──問題点を整理する。どうやって、という手段については、さほど悩むところはない。部室に忍び込むこと自体は、それほど難しいわけではない。
部室の鍵は四つある。一つは職員室に、一つは用務員室に、もう一つは部長によって管理されていて、最後の一つだけが共用になっている。共用の鍵は、部員の誰もが部室を自由に使えるように、と廊下の掲示板の裏に隠してある。つまり、その場所に鍵が隠してあることを知っているものであれば誰でも、部室に自由に出入りすることができた、ということになる。さらに言うならば、鍵の隠し場所など、半ば公然の秘密のようなもので、それを知っていたからといって容疑者の枠を狭められるようなものでもない。
「──犯人探しは後だ」
言って、部長が腕時計に目を落とす。
「この時間なら、まだ手芸部が残ってるはず。高野は、その衣装を手芸部の部室に持っていって、修繕を頼んでくれ。堂島が頭を下げてお願いしてたと言えば、向こうの部長が引き受けてくれるはずだから」
涙に濡れた横顔を引き締めて、高野美幸が頷く。
「掲示板の裏に鍵はあるか?」
尋ねる部長の声に、オードリーが部室の表へとまわる。
「あったよ」
答えて、オードリーが部長に鍵を放る。
「共用の鍵は私が預かっておく。明日からは、部室に用事があるものは、まず私のところに連絡をくれ」
この対応で間違いはないだろうか、と部長が僕に目で尋ねる。応急措置としては無難なところであろう、と頷きながらも──僕の思考は「誰が、何のために」という難題にとらわれたままであった。