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放課後の部室──遅れてきた僕らを待っていたのは、部長だけだった。彼女は部屋に四つしかない椅子を贅沢にも独り占めして、仰向けに寝そべって読書に勤しんでいる。
「──遅いぞ」
一言、部長は本から目を離すことなく、ぼそり、とつぶやく。
「ホームルームが長引いたんだよ」
オードリーが返して──彼女は手にした薄っぺらい鞄を壁際に放り投げ、机の上に腰をおろしながら、部長に尋ねる。
「他の連中は?」
「もう練習に行った」
「桜子は何してんの?」
「部長と呼べ」
部長は不満気に言いながら起きあがり、開いたままの本をうつぶせにして机に横たえる。タイトルまではわからないが、その幾何学的なカバーデザインからするに、彼女の好きなSF小説なのであろう、と思う。手に取ったオードリーが、二、三行に目を通して、露骨に顔をしかめる。
「今さら呼び方なんて変えられねえよ」
言い放って、オードリーは本を置きながら、脚を伸ばす。長い脚を器用に椅子にからめて、僕の方へと蹴って寄こす。座れ、ということなのであろう。乱暴な厚意に苦笑しながら腰をおろす。
「他の部員に示しがつかないだろ?」
三年生の引退から一ヶ月──新任の部長である彼女は、部長としての威厳をつくりあげることに苦心しているようだった。
部長──堂島桜子は、言ってしまえば僕らの幼馴染だった。年齢こそ一つ上のお姉さんにあたるのだが、記憶の中の彼女に年上の貫禄はない。オードリーと連れ立っては悪事を働き、その後ろを僕が周囲に謝りながらついていく。高校に至る今日まで、その関係に変化はなかった。
幽霊部員でも構わないから、と僕らを演劇部に誘ったのは彼女だった。部員の数が予算に反映されるので見せかけだけでも人数を確保しておきたい、というもっともらしい理由に騙されて、幼馴染のよしみで入部したのが運の尽き。
「こちとら、やりたくもねえ演劇をやらされてるんだ。呼び方くらい大目にみろ」
オードリーの不平のとおり──いつのまにやら、僕らは演劇部の立派な戦力として数えられているのである。
「だいたいな、無理やり演劇をやらせるんなら、せめて主役をやらせろよ」
「幽霊部員に主役を任せるわけにはいかないだろ」
両者とも、抜けぬけと言う。
「僕は役なんてなくてもよかったんだけど」
「部員に役をあてがわないわけにはいかないだろ」
部長の銀縁眼鏡の奥で、底意地の悪そうな瞳がくるくると躍る。よくもまあ、そこまで屁理屈をこねられるものだ、と感心さえする。それぞれの不満を上手にはぐらかされた僕らは、互いに顔を見あわせて苦笑をもらす。
「それで、桜子は何してんの?」
ようやく、会話は最初の質問へと戻る。
「講堂が使えなくなったんでな。練習場所の変更を知らせるために、戻ってきたってわけ」
遅れたお前らのためにな、と部長は恩着せがましく続ける。
「そんなの、わざわざ部室に戻ってこなくても、携帯電話で知らせてくれればよかったのに──」
言いながらも、集合時間に遅れたという後ろめたさから、僕は曖昧に語尾を濁す。
「なるほど──今日の練習場所は教室だな」
しかし、オードリーは違った。気後れする僕をよそに、事情を察した様子で、部長の広い額を軽く小突く。
「教室の中で練習用のスペースを確保するためには、机と椅子を移動させる必要がある。大方、肉体労働が嫌で逃げ出してきたんだろうよ」
「うるさいな、違うよ! 鍵を閉め忘れたような気がしたから戻ってきたの! ついでに練習場所の変更を知らせるために待ってたの! オードリーが邪推してるような他意はない!」
図星を突かれたものか、部長は向きになって否定しながら、小突かれた拍子にずり落ちた眼鏡を、怒ったように押し戻す。
「くだらない話は終わり! 二人とも早く着替えろ!」
言って、ごまかすように部長の権限を振りかざす。
「へいへい。今日は衣装だっけ?」
「だから、講堂は駄目になったって言っただろ。教室だからジャージ」
「へいへい」
「返事は一回でよろしい」
「へい」
素直なのか、そうでないのか、判断に苦しむ言葉を返して、オードリーが机からおりる。彼女は壁際から鞄を拾いあげて、隣の衣装部屋へと足を向ける。
「トム──」
ツトムの「ツ」の部分を、まるで促音のようにつまらせて、オードリーが独特の発音で僕に呼びかける。幼い頃から何度となく指摘した間違いなのであるが、彼女にそれを正す気はなく──困ったことに、今ではクラスの中でさえ、あだ名として定着してしまっている。
「──のぞくなよ」
「のぞかないよ」
艶めかしく告げるオードリーに、僕はすげなく返す。
衣装部屋は女子専用の更衣室だった。男子なんぞ、どこで着替えても恥ずかしくなかろう、というのが歴代部長の一貫した考えだったようで──結果として、僕ら男子は部室の適当なスペースや、場所が足りない場合は表の廊下で着替えることとなる。
「見ないでよ」
「見ねえよ」
恥じらう僕に、部長がすげなく返して──再びページをめくり始めた彼女をよそに、僕はシャツを脱ぎながらジャージを取り出す。僕の着替えるところなど誰ものぞき見るわけがないとは思っていても、やはり多少は気になるもので──部長の視線から隠れるように、すばやくズボンを脱ぎ捨て、急いでジャージに脚を通す。
「──わ」
ところが、焦りのあまり、ジャージの裾を踏みつける。よろける身体を支えるように手を突き出して──その時になって、ようやく僕はその存在に気づく。
「──何だ、これ?」
手をついた先──部屋の奥、入口から見て左隅のカーテンの陰に、布で覆われた三角柱が立っている。直角二等辺三角柱とでも言えばよいのであろうか。部屋の隅に、ぴたり、と収まったそれは、まるでそこにあることが当然のような顔をして、超然と僕を見下ろしている。
「演劇に使う鏡だよ」
「──鏡?」
部長の言葉を受けて「鏡」という認識のもと、再び三角柱に目をやる。形からすると、こちらを向いた斜面の部分が鏡面になっているのであろう。鏡面部分は布で覆われており、どのようになっているものか、直に確認することはできない。それでも、布からはみ出した外枠は時間で汚れており、骨董品として無価値ではないのであろうな、と思わせる雰囲気がある。
「どこから持ってきたの、こんな鏡」
「古文の川崎から借りた。こういう骨董品を集めるのが趣味なんだって──あ、触るなよ。私だって、布さえまくってないんだから」
手を伸ばそうとする僕に、壊したら事だからな、と部長が続ける。
「何で川崎が?」
顧問でもないのに。
「知らん。鏡の衣装をどうしようかと悩んでいたら、どこから聞きつけたのか、川崎が持ってきたんだ」
「──あたしが頼んだんだ」
部長の言葉を遮るように、着替え終えたオードリーが衣装部屋から出てくる。
「オードリーが川崎に? どういうつながりだ?」
どうやら、それは部長にとっても初耳だったようで、彼女は本を閉じながら尋ねる。
「川崎はルスランの友人だったんだ。骨董品仲間とでも言うのかな。二人して、よく変なものを集めてたよ」
オードリーは事もなげに言う。
「ルスランと川崎が? 友人にしては年齢があわなくないか?」
「あたしたちがルスランの後をついてまわったのと同じさ。あの人の交遊関係に、年齢なんて関係ないんだから」
オードリーの言葉に、それもそうか、と部長が頷く。
オードリーは自らの祖父を名前で呼ぶことを好んだ。
ルスラン──獅子のたてがみのような白髪は、かつては燃えるような赤髪だったのだという。誰にでもわけへだてなく接して、幼い僕らのわがままにも、笑ってつきあってくれた。
思い出す──子どもの頃、ルスランは僕らの英雄だった。その大きな背中に憧れて、彼の迷惑も顧みず、まるで親鳥を慕う雛鳥のように後ろをついてまわった。行く先も告げぬ彼の散歩は、幼い僕らにとっては大冒険で、寂れた河原を歩くだけであっても、浮き立つ心は抑えられなかった。
オードリーが初めて泣いたのは、そんな散歩の折、秋も間近な色変わりを控えた頃のことだった。
「どうして、あたしの髪の毛だけ、赤いの?」
今のオードリーの姿からは想像もできないことであったが、周囲からの奇異の視線にさらされて、幼い彼女の心は脆くもひび割れていた。
「──俺のせいだな」
ルスランは、ためらうことなく認めた。
「俺の髪の毛が、むかし赤かったからだ」
今ならばわかる。オードリーの髪の毛が赤いのは、何もルスランのせいだけではない。父母の双方に赤毛の遺伝子がなければ、子どもは赤毛にはならないのだ。少なくとも、父方にも同様の遺伝子があったことは間違いない──しかし、それでも、ルスランは自らのせいだと認めたのである。
「今は赤くない」
「そうだな」
「あたしも白い方がいい」
「どんな色の髪の毛だって、最終的にはこうなるさ」
言って、ルスランは自らのたてがみを誇らしげになであげる。
「それなら、あたしも白くなるまで待つ」
汚れた袖で涙を拭いて──それ以降、オードリーが赤毛を悔やむことはなかった。
「──これが川崎の持ってきた鏡か」
言って、オードリーが鏡に近づいて──彼女の首筋を覆った赤毛が、ふわりと躍る。
「どれどれ」
触るな、と言われると触りたくなるのが人の常なのであろう。オードリーは、ためらいなく鏡を覆っている布をまくる。
「へえ──ちゃんと映るんだ」
当り前のことを口に出しながら、オードリーが鏡の前であれこれとポーズをとる。
「こら! 触るなって言ってるだろ!」
「へいへい」
「返事は一回でよろしい」
「へい」
まるで儀式のように、何度となく繰り返されたやり取りを終えて──二人はにやりと顔を見あわせる。
「準備ができたなら行くぞ」
言って、僕らを追い立てるようにして、部長が部屋を出る。へいへい、と後に従う僕らを満足そうに眺めて──彼女はポケットから鍵を取り出して、鼻歌交じりに施錠する。