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「──大鳥居」
やわらかな陽射しが窓際に日溜まりをつくり、暖かな対流が僕らを午睡へと誘う。五限目の教室は、さながら温室のようだった。古文の教師、川崎の口からもれる言葉さえ、疲れ切った僕らには、まるで子守歌のように響く。
「大鳥居」
川崎は二度目の声をあげる。彼女の名前を正しい発音で呼ぶものは、もはや教師しかいない。呼ばれた当人は、授業を受けているという体裁を繕うこともなく、机に伏して惰眠を貪っている。
こつり、と右足で彼女の椅子を揺らす。
「オードリー」
小声で呼びかけながら、もう一度。先ほどよりも強く蹴ったというのに、彼女に目覚める気配はない。授業の中断された教室に、力強い寝息が一定のリズムで刻まれる。
「──宮川」
恰幅のいい身体を揺らしながら、川崎が僕に近づいてくる。
「演劇部は練習がきついのか?」
古文の教科書に指を挟んで閉じて、のんびりとした口調で問いかける。
「しいて言えば、朝練が」
「──そうか」
答える僕に、川崎は腕を組み、考え込むように目を閉じる。
オードリーは教師に受けがよくなかった──いや、もっとはっきり言うならば、悪かった。素行があまりよろしくないというのはもちろんのこと、何よりも母方の祖父から受け継いだというその赤毛が、彼女の印象を悪くしていた。群集の中で頭一つ抜きん出る長身、彼女の赤は人目を引いた。校則に逆らって真っ赤に染めているのだ、と口さがない連中の噂にのぼることも少なくなかった。学校側は、できることならば黒く染めてほしい、と再三にわたって彼女に申し入れた。だが、彼女は頑として聞き入れなかった。学校側の要望を受け入れない生徒──受けが悪くなるのも無理はない。
だが、川崎だけは違った。川崎は彼女を邪険に扱ったりはしなかった。それどころか、一部の教師に不当な扱いを受ける彼女をかばっている節さえあった。
「今日は暖かいな」
窓から射し込む秋光に照らされるオードリーの赤──それを愛でるようにみつめながら、川崎が告げる。
「自習にするか」
わっと教室がわいた。男子が指笛を吹き、女子が歓声をあげる。教科書が輪唱のように音を立てて次々と閉じられ、親しいものの近くに、と大移動が始まる。あるものは雑談に興じ、あるものは頭から机にダイブする。中にはオードリーに手をあわせて拝むものまでいて──教室は一瞬にして休み時間の様相を呈する。
「静かに自習しろよ。他のクラスは授業中なんだからな」
言って、教卓に戻った川崎までもが、頬杖をついてまぶたを閉じる。はい、と行儀のいい返事があがって──級友たちの声音が抑えられ、適度な雑音が広がる。
こつり、と三度目、僕はオードリーの椅子を揺らす。それでも、彼女の寝息だけは何も変わらず、静かに教室に浸透し続けた。