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太郎丸が吠えて、駆け出す。他の犬種のように俊足なわけではないが、それでも確かな足取りで匂いの主を追うあたり、猟犬の名は伊達ではない。
僕らは太郎丸の後を追い──太郎丸は時折足を止めて僕らを急かしながら、田舎道を行く。やがて、田舎道は山に向かうのであるが──太郎丸は途中で道をそれて、農道に入る。
太郎丸の後を追って、その農道をどれほど駆けたであろうか。日頃の運動不足を嘆きかけたところで──太郎丸が初めて、鋭く吠える。
見れば、畑の脇の農道に、子どもを胸に抱いた老婆が倒れている。二人の向かいには、刃物を振りあげる男がおり──その間に立ちはだかるのは誰あろう、オードリーである。
子ども──少年は泣きじゃくり、老婆は──おそらく祖母であろう──孫に刃物が届かぬように、とその身体を覆うように抱いている。
「息子を返せ! わかってんのか! 誘拐だぞ、これは!」
刃物を振りあげた男は、恫喝するように叫ぶ。その内容からするに、男こそが少年の父親なのであろうが──それにしても尋常の様子ではない。
太郎丸は、男に立ちはだかるオードリーこそ、匂いの主であると悟ったようで、今にも駆け出さんとするのであるが。
「待て! 太郎丸!」
呼んで、吉崎真琴は太郎丸の足を止める。素手ならばともかくも、刃物を持った暴漢が相手となると、たとえ犬であっても、差し向けるのはためらわれる。
「三郎丸も! 待て!」
意外にも、愛らしいポメラニアンである三郎丸の方が、血気盛んなようで──吉崎真琴の待てがなければ、すでに飛びかかっていたのではないかと思わせるほどである。
「いざとなれば──太郎丸に行かせる」
そう言って、吉崎真琴はなりゆきを見守ろうというのであろう、犬を控えさせるのであるが──事態はことのほか早く動いた。男は刃物を前に突き出して、オードリーに向かって歩き出したのである。
「おいおい──まずいんじゃないか?」
「はい、大変まずいです──相手の男性が」
焦る吉崎真琴に返して、僕は父親と思しき男の身を案じる。
ルスランは──本人は言いたがらなかったのであるが──以前は軍人だったのではないか、と僕はひそか思っている。ルスランにねだって教わった護身術は、僕の知るどんな武術とも異なっていて──僕と桜子は途中で挫折してしまったのであるが、オードリーはスポンジが水を吸収するように、そのすべてを体得してしまっているのである。
男は、オードリーに近づいたあたりで、彼女が自分よりも大柄であることに気づいたようで──彼女に相対して、警戒するように構えをとる。
オードリーは、男に対して、両手を前に構える。それは、彼女のいつもの構えなのであるが──男にとっては、ひょっとすると命乞いのようにも思えたのかもしれない。男は奇声を発しながら、右手で刃物を突き出して、オードリーに迫る。オードリーは、前に構えた左腕で、男の右腕を外から強く打って、その勢いのまま半身になって、刃物をかわす。
そのときには、すでにオードリーの左手は、男の右腕をつかんでいる。オードリーの左手に引き寄せられて、男の刃物はあらぬ方向に向かい──同時に、その顔面には、彼女の右拳が打ち込まれる。長身から振りおろされた一撃は、見事に男の顎を射抜き、おそらくそのまま意識をも刈り取る。遠目には、男の顎がひしゃげているようにも見えるのであるが──相手は刃物を持っていたのであるから、過剰防衛には至らないはず、と自分に言い聞かせる。
オードリーは、男から取りあげた刃物を畑に放って、ふう、と息をついて──僕は、ようやくたどりついた彼女に向けて、手を振り、声をかける。
「オードリー!」
呼びかける声に振り向いて、オードリーは露骨に顔をしかめる。嫌なやつらに見つかった。声に出さずとも、そう考えているのがわかる。
オードリーの行動は、僕が思うよりも、ずっと早かった。制止する間もなく、足もとの子どもとその祖母を荷物のように軽々と肩に担ぎあげて、僕らに背中を向けて走り出す。
「三郎丸!」
飼い主の呼び声に応えるように、三郎丸が矢のように放たれる。僕は、太郎丸ではなく、なぜ三郎丸を、と吉崎真琴の判断をいぶかしむのであるが──すぐに、それが正着であったことに気づく。
「おい──これは反則だろ」
愛らしいポメラニアンに、足もとにじゃれつかれて──オードリーは観念するように足を止める。




