ルイス・アクレナイト 2
ルイスは半年前の出来事を思い出す。
父と弟といつもの様に海賊征伐に出ていた時の事だった。
ザコ海賊相手に剣を振るっていたら、どこからか老婆の声が聞こえて来た。老婆の声は耳元で聞こえる。まるですぐ隣に老婆がいて何かしゃべっているみたいに……。
ルイスは辺りを見渡した。老婆なんかどこにもいない。いる筈が無い。こんな船の上で。
突然目の前ににやりと笑った老婆の顔が見えた。
それは酷く禍々しい感じだった。
「うわあ!!」
ルイスは剣を振るった、積りだった。だが、剣は自分の手からがちゃんと落ちた。剣が握れなかった。剣が途轍もなく重く感じた。
ルイスはそこにしりもちを付いた。腕を突いて立ち上がろうとして、またバランスを崩した。手の感覚がおかしい。慌てて自分の右手を見た。そこには皺だらけの手が見えた。
人差し指中指の欠けた小さな手だ。ルイスは茫然とそれを見詰めた。
まるで老女の手だ。
腕は白いフリルのついた服に包まれていた。
「何だ!これは」
そう叫んだ自分の声はしわがれた老女の声だった。
次の瞬間、激痛が体を走った。
ルイスは切られた脇腹に手をやる。
気が付くと船の上だった。
俺は夢でも見ていたのか?
さっき取り落とした剣を拾うと慌てて敵に向かった。だがタイミングが悪かった。横から切りかかって来た奴に巻き込まれそのまま海に落ちてしまった。
あちらこちらに死体が浮かぶ。
海賊達の死体だ。
流れる血の匂いに誘われて鮫がやって来た。ルイスは慌てて剣を構えた。
その中の一匹がぱかりと大きな口を開けてルイスに迫って来た。
流れ着いた海辺の村で生死の境をさ迷った。あの老婆の顔が浮かぶ。どこかで見た顔だ。
どこかで……。そう思いながら思い出せないでいた。老婆のぼそぼそと呟く声が耳に残っている。まるであれは呪文の様だった。
老婆の声が消えてアルトの優しい声が耳に届いた。
オルカ国のステラの声だった。
ルイスは心から安堵した。
誰かがオルカ国のシャーク宰相の元に自分を運んでくれたらしい。
ステラは泣きながら自分を看護してくれた。
「ルイス様。ルイス様。あんなに美しくて立派だったあなた様のお顔が……」
体のあちらこちらが痛かった。だが、顔が一番痛かった。ルイスは包帯に巻かれた自分の頬に手をやった。そこに頬のふくらみは無かった。
長い間ベッドから起き上がる事が出来なかった。
眠ったまま老女の事を考えた。それからイエローフォレストの父の事、弟の事、婚約者のリエッサ王妃の事を。
リエッサ王妃とは政略結婚だった。
それはアクレナイトに対する脅しであり、自分は人質に取られた様なものだった。
リエッサは父であるジョージ・アクレナイトにスパイの嫌疑を掛けた。あまりにもブルーナーガの国に近付き過ぎたのだ。王宮に父を呼び出したリエッサは自分に忠誠を誓うなら、息子を自分の婿として差し出せと言った。
ジョレス国王は前の年に亡くなられていた。
父は悩んだ。スパイなどとんでもない。父は日々イエローフォレストの為に働いているというのに……。
海洋国家ブルーナーガは自由な国だ。それぞれの国がぞれぞれの思惑で動いている。自由な空気の中には自由な発想が生まれる。国はどんどん発展し豊かになって行く。今のイエローフォレストとは段違いだと感じた。
ジョレス国王が病に臥せっている頃から国の空気が淀んで来たと感じる。じりじりと落ち込んで行くような。格差の広がりと閉塞感を感じた。
父はオルカ国を羨ましいと思った。そしてその自由な空気を自分の領地にも取り入れたいと思っていたのだ。その結果がスパイ容疑だった。
リエッサ王妃は自分よりも7歳も上だった。そしてジョレス国王の側妃だった。ジョレス国王の喪も明けぬ内に使者がやって来た。自分は決心した。イエローフォレストを父が望むような自由で明るい国にしようと。この国は古臭く、権威主義的な慣例がはびこっている。旧体然とした貴族達が安穏として権利を貪る。既得権限は決して離そうとしない。それが自分の当然の権利だと思っているのだ。国民から税金を搾り取って造られる豪華な夏離宮。
家の無い者達を保護する長屋でも造ればどんなに良いだろう。
自分が王になれば国を変える事が出来るかも知れない。ある意味、これはチャンスかも知れない。そう思った。
リエッサ王妃は美しく気が強く獰猛だった。まさにスズメバチ。
その強さと貪欲さに驚いた。噂には聞いていたがここまで猛烈な女だとは思わなかった。
気位が高くて我儘で傲慢で。そして余りにもモラルの無い女。残酷で身勝手で計算高くとことん自分勝手な女。
余りの無慈悲さに「それは良くない」と進言したのが始まりだった。彼女はあっさりとそれを聞いて受け入れた。素直な面もあるのだと思った。意外な感じだった。
もしかしたら彼女はそこまで性悪では無いのかも知れないと思った。
病床にいた自分はリエッサ王妃の腹の中にいる自分の子供の事を考えた。
自分はもしかしたらリエッサ王妃を愛して行けるのではと感じた。
あんな女だが。
何とか連れ添って生きて行けるのではないかと思った。
彼女は歪だ。我儘な子供が何も学ばずそのまま大人になって年を重ねた様な。
野生の生き物と同じだ。
本能で生きている。
彼女は人として大切な事を何も学んで来なかったのだ。
彼女の両親は彼女に愛情を持って育てなかったのだろうか?
陸軍大将のハアロ大将軍を父にもち、芸術に造詣の深いミア夫人を母にもつのに。ルイスは不思議だった。
自分が守らなくては。そう感じた。
起き上がって彼女の所に帰らねば。
彼女を守り彼女を助け国を守って行かなくては。
そう思った。
それは自分に課せられた義務だと思った。
しかし、自分の心と身体は背負っている責務とは裏腹に、自分を真摯に看護してくれるステラに惹かれていた。
温かくて穏やかなステラ。
ブルーナーガのイール国の嫁ぐ予定だったのに、突然婚約者が亡くなってしまった気の毒な令嬢。彼女の事は昔から知っている。
賢く優しい人だ。その聖母の様な優しさと慈しみに心から癒された。そして惹かれた。
ステラはリエッサ王妃とは真逆の女性だ。
だが、リエッサが自分を待っていると思うと……。
ある日、何かの拍子に老婆の事を思い出した。それはまるで今までずっと立ち込めていた霧が風で一吹きされた様な感じだった。
「そうだ。あの顔はハアロ将軍の家で見掛けたリエッサ王妃のおばあ様、ルシール様に似ている」
ルイスはそう思った。
齢100にもなろうとしている老女。ハアロ大将軍の父親の妾だったらしい。小さな東屋に住んでいた。
ルイスはまた考え込んだ。
「何故、ルシール様が……?」
海賊に切り付けられた瞬間、目に入った自分の手は何だったのか。
あの瞬間、まるで自分が老女になってしまったみたいな……。
右手の指二本が欠けていた。
だが、あの白い服に包まれた小さな手は、あれは確かに自分の手だった。
あれはまるで呪いだと思った。
誰かが自分を呪ったのだ。自分の死を願ったのだ。
ルシール婆が?
何故?
まさか? リエッサが?
自分が生きている事を知った両親と弟がオルカ国へやって来た。
彼等は泣いて喜んでくれた。同時に化け物の様な顔になってしまった自分を深く憐れんだ。母は驚きの余りに失神してしまった。
何故か弟のシンジノアが自分の身替りとしてリエッサの婚約者になっていた。
リエッサが自分恋しさに錯乱して弟を自分と思い込んだと言う。それは有り得ないだろうと思いながらも、あれ程気性の激しい女性ならそんな事もあるのかと思った。そこまで彼女は自分を恋い慕っていたのだろうか?
ルイスは違和感を覚えた。
自分は死んだ事になっている。
それならそれを利用してルシール婆を調べる事は可能だろうか。
ルイスはシンジノア・シャークとしてオルカ国に留まりルシールの近辺を探る事にしたのだった。