9話 オーバーフロー
体はとうに限界を迎えていた。冷たく、感覚もほとんどない。今、こうして立っていることがやっとなほどだ。口からは吐く息に混じって血がこぼれ、呼吸がままならない。でも、ここで立ち止まるわけにはいかない。意識が戻った直後に聞いた彼の言葉。「あんたなら俺を止めてくれる…」。余計な懐疑も詮索も必要ない。彼が止めることを望んでいるのなら、俺はそれに応えよう。
俺はまたしても電気を纏う。紫電が轟音を響かせながら、宙を舞う。纏え、ただ強く。俺はその仕組みをなぜか自然と理解していた。いや、そうじゃない。これは…おそらく俺の今の状況と関係している。さっきもいった通り、俺の体はまともに動かすことはできない。だからこそ、俺は別のところに目をつけた。一つだけまだ動かせるところがある。それが脳だ。外傷を負っていない、かつ体の機能の中心となる部分。俺は脳に意識を集中させ、過剰に働かせている。思考力が上がったことで、その仕組みを容易に把握することができたのだろう。さらに、自分の帯電する電気を掌握している。言い換えれば、適応と操作を並行して行なっている。
御託はこのくらいにしておこう。ここからはスピード勝負。いかに彼を素早く制圧できるか。心臓が脈打つ音が鳴り、張り詰めた空気が肺に入る感覚を覚える。だが、俺は不思議とそれを緊張や不安と感じていない。ただ深く集中する。意識さえも霞んでしまうほど…。肺に溜め込んだ空気をゆっくり吐き出す。
「じゃあ、行くか…。」
全てを吐き終えた直後、俺の一歩はすでに踏み出されていた。彼もそれに合わせるように動き出す。ただ、力むことをせずに全身を脱力させた。羽のように軽く、抜け殻のように空っぽに。そして、彼が短刀を再び俺に突き刺そうとした瞬間、脱力させた拳が彼の腹に放つ。それと同時、俺は電気を強める。すると、突き立てられた拳がより深く叩き込まれ、木が根を張るように電撃が刻まれていく。想像を絶する痛みが彼の表情を歪ませた。だが俺は、攻撃の手を緩めない。反対の手で彼の顎を打つ。そしてさらに、彼の胸に目掛けて強烈に蹴り飛ばす。彼の体は最も容易く吹き飛んでしまった。瞬間、俺は受け身をとる彼に手のひらを向けた。1秒にも満たない時間で、電気が中心に収束していく。放たれる雷のような一線。それは止まることを知らず彼を貫いた。
一方で、観測室では忙しなく研究員たちの声が行き交っていた。
「ゼウスの超越率、上昇中!」
「バイタル不安定!脈拍,血流ともに基準値を大幅に超えているぞ!」
「局長、ゼウスの遺伝子情報が書き換わっていきます!」
前代未聞の事態に悪戦苦闘し、その情報を処理し切るので精いっぱいだ。所々で抱えきれなくなった研究員たちが口論している。そんな阿鼻叫喚の中でけたたましい発狂が響く。辺りは一瞬にして静まり返り、その発生源に視線を向けた。部屋の真ん中で頭を抱え、うずくまる男。体を震わせて、ぶつぶつと何かを言っている。明らかに普通でないのは確かだ。
「局長?」
そう栗峰が肩を叩き、呼びかけた。刹那、その顔は跳ね上がる。顔を手で覆い隠し、身悶える。その光景に誰もが釘付けになった。あれだけ飛び交っていた人の声は跡形もなくなり、愕然としていた。すると、顔を覆っていたその手はゆっくりと開かれていく。ゆっくりと…引きずるようにして…。そうしてその顔が晒される。それはその場の全員をの身体を震わせた。
あまりの興奮に歪んだ顔。奇妙な笑い声を発しながら、口が裂けるほどにニヤつかせた表情はまさしく狂人そのものだった。その瞬間、理解する。ブルブルと震えていたのは武者震い,身悶えていたのは興奮を抑えきれなくなったから,ぶつぶつと何かを言っていたのはただ、笑っていたのだと。男はそのまま、千鳥足で実験室を映し出す窓へと歩みを進める。ゾンビのように何かに向かって一心不乱に縋り付く様子というのはここまで恐怖を感じるものだったのだろうか。男は窓の前まで来ると、その様子を平然と見つめていた女性に声をかける。
「栗峰…。ゼウスにEA器官を移植した覚えは?」
「いえ、全くありません。過去の改良でゼウスにEA手術を行った記録もありません。」
「つまり、目の前の状況は…。」
「ええ、ゼウスはEA器官なしに本来の能力限界を超えた力を使用していると考えられます。」
数秒の沈黙が続く。そして…そして…そして…。奇声とも言えるような絶叫とも言えるような声が鼓膜を揺らす。男は笑っていた。声が枯れることを知らないように、高らかに…。悍ましささえ感じてしまうその光景に人は言葉を失う。異常なんてものじゃない。狂信者という言葉ですらそれを表すには足りない。
その光景を見ていた研究員がふと目の前のモニターに映し出された数値に目を向ける。すると、その目はだんだんと見開かれていき、その人を驚愕させる。震える声で笑う男に伝える。その驚くべき事実を…。
「きょ、局長…。」
「なんだい?今、とてもいいところなんだ…。あまり、邪魔しないでくれるかな?」
そうやって、睨み返す様子は悪魔と言っても違和感を感じさせないほどだ。熱狂的な信者はその身を神に捧げてしまうくらいだが、この男もそうなのであろうか。それでも、その研究員は話を続ける。
「ゼウスの超越率…100%。体細胞,遺伝子,バイタル、全てに至るまで生物の限界を完全に超えました…。」
「それは…本当かい?」
「モニターの故障でなければ、間違いありません…。」
男は両手を掲げ、言葉を発する。その様子は先陣を切る指導者の姿のようにも、世界を混沌とさせる狂人の姿のようにも見える。
「諸君、見たまえ!あれが、あれこそが、我々の求めた新人類の姿だ!もうプロトタイプなどではない!全てを掌握し、新人類の始まりとなる存在。原点の誕生だ!」
その言葉の後、次々と喝采が起こる。苦労を労うように…勝利を祝うように…。
その一方で、実験室内は壮絶な惨状とかしていた。肉が裂け、血が飛び散り、至る所から骨が見える。しかし、そんな傷も数秒も経たないうちに治っていく。眩い閃光とともに放たれる打撃と血をべっとりとつけた短刀の応酬。両者互いに、原型をとどめなくなっても、攻撃の手は止まらない。そんな惨劇が止まることなく続いていた。どれだけ打撃を加えようが、どれだけ電撃を放とうがすぐに立ち上がり、刀身を突き刺す。どれだけ引き裂こうが貫こうが、たちまちに修復し、鉄球のような攻撃を放ってくる。殴殺と刺殺が絡み合う空間で命は燃えていた。
「まだ、倒れねぇのかよ。」
「倒れないよ。君を助けるまではね。」
「その威勢もどこまで続くんだろうな!」
「いつまでも続けてやるさ!」
しかし、そんな状況も長くは続かない。いくら体が修復しようともその体は着実に弱っていく。もうすぐ終わりの時は近い。そろそろ…本気で終わらせに行こう…。もう自傷は起こり得ない。この身が焼け落ちることもない。だから、俺はもう一度、その身に火を灯した。瞬く間に広がる炎。ゆらゆらと揺れ、地獄へと誘う。もう熱くはない。皮膚が灰になることもない。炎に適応する方法をすでに俺は知っている。使い方さえも…。電気と炎を同時には使えないが、切り替えることはできる。
「今度は耐え切れると思わないようにね。」
「ああ、終わらせるぞ。」
彼の深紅がより色度を増す。獣のような目も殺意を隠すことはない。だからこそ、その強烈さが肌を震わせる。 そして、俺たちは…踏み出した。電気と炎が織りなす打撃と血を吸い続ける斬撃。焼ける匂いでむせ返り、血の匂いが辺りに満ちる。俺は自らの血液を浴びる。痛みを感じることはないが、自分の血肉が、骨が断たれる感触は絶え間なく感じる。彼は火に焼かれ、皮膚が焼けただれる。拳や蹴りの跡が深々と刻まれており、とても痛々しい。命を賭けたぶつかり合いは目を当てられないほど惨たらしい。しかし、彼らの魂の輝きは、見るもの全てに命の重さや美しさを知らしめる。これこそが、人が忘れた生物の闘争というものなのだろう。彼らは叫んでいた。声が潰れても、肺が裂けても、絶対に勝つと魂で叫ぶのだ。
俺は拳に電気を溜める。皮膚が裂けるほど、限界を超えて…。彼は全てを紅に染める、目から血が溢れても…。そうして、俺たちは絞りカスすらも込めた全力の一撃を放った。俺の体は肩から腹まで大きく引き裂かれ、鮮血が噴き出す。彼の体を豪雷を纏った拳が貫いている。そんな中で、俺たちは笑い合う。
「いやぁ、やっぱり親父はつえーんだな。」
「君も、僕なんかよりよっぽど強いよ。カマエル、俺は君を止められたかな?」
「ああ、十分だ…。」
次第に俺たちの体は崩れ落ち、視界は黒く染まる。そうして俺たちは意識を失った。