1話 無機質なアイデンティティ
隣から聞こえてくる悲鳴が耳の中につんざくみたいに響く。包帯だらけのこの身体はすでに痛みを感じない。楽しみもなく、ただ"その時"を待つのみの俺は与えられた部屋で座り込んでいた。
刻一刻と迫るそれに大して何の感情も抱かない。いつものこと。朝に起きて、ご飯を食べて、仕事に行く。そんな日常の中の一出来事にしかすぎない。それでも、ここには"それ"に慣れていない奴らもいる。隔離され、人と関わることのできない苦痛を味わい、"それ"による身体へのダメージで心が壊れる。稀に、俺のように生き残る奴らもいる。しかし、生き残っているのはごく一部。大半の奴らは廃人となり廃棄される。逆に生き残った者はプロトタイプと呼ばれ、さらなる改良が施される。そして、とうとう俺にもその順番がやってきた。
「被験体番号00 アンセス。今日の実験を開始する。」
部屋の窓からこちらを見る白衣を着た人間たち。彼らはこの施設の職員であり、こうして実験を行っている。そして、被験体番号とは製造された順番をもとに付けられ、固有の名前が与えられる。俺の場合は00。この実験の最初のプロトタイプ。そして、俺の後に作られたプロトタイプは俺のデータを基に改良されているため、祖先を意味するancestorから取ったアンセスと言う固有名が与えられている。そして、今日も実験が行われる。部屋の扉が開くと同時に武装した人間たちが入ってきて、俺を拘束する。ご丁寧に上半身だけでなく、口や目までも塞がれた。そうして抵抗できなくなったところで、首元に繋がれた鎖を引っ張られて連れていかれる。いつも通りだ。こうしてボロ雑巾のような扱いを受けるのも。何もかもが…いつも通り…。
しばらくなされるがままに歩いていると「止まれ。」と言われた。何やら電子が複数回聞こえる。どれも押している箇所が違うところから推測するにパネル操作によるコード入力だと推測される。思った通り、一通り打ち終わっただろう時に、ピピピッと甲高い音が鳴り響く。そしてドアが開く音がすると、また首を引っ張られる。とあるところまで歩かされると、拘束が外され、視界が戻る。見ると薄暗いコンクリートの部屋の中で机が一個と椅子が向かい合うように二脚置かれており、机の上にはチェス盤が置かれている。そして、机の向こう側の椅子にはすでに少女が座っていた。人間とは思えない虹色の瞳に色素が抜けた白髪。
「今回は他のプロトタイプとの共同実験だ。被験体番号01 インテラ。」
インテラ。intelligenceが由来の固有名。その由来通り知能が改良され、普通の人間の何倍もの知能を得ている。彼女とは以前にも共同実験を行ったことがある。以前は流された映像を瞬時に記憶し、研究者からの問いに対して答えると言うものだったが。今回はチェス盤があることからおそらく・・・・・。
研究員「察しの通り、今回はチェスをしてもらう。スピードチェスだ。しかし、本来よりも時間は短くしてある。君たちにはより少ない時間で攻防を行なってもらう。そうだな…、だいたい30試合くらいしてくれ。十分なデータが取れた時点で終了。逆に言えば、取れなければ続行だ。さ、アンセス。席につきたまえ。」
言われた通り残された席に着く。こんな閉ざされた空間で照明は俺たちを照らしている。今この空間内には俺たちしかいないようで、でも意識外では傍観者が何人もいる。ゲームの中のキャラクターはこんな気持ちなのだろうか。本人たちはそれぞれが己の意志で人生を選んでいると本気で思っているのに、実際は敷かれたレールの上を馬鹿正直に走っているだけ。それに気づいた時、彼らはどう思うだろうか。少なくとも目の前の少女の目は死んでいた。光沢もない濁った虹色。怒り、苦痛、悲哀、絶望。全部混ざったような瞳はすでに諦めたと語っている。
「早くしよ。長引くだけ面倒。」
「ああ。そうだな。先行は譲る。」
「そう。じゃあ遠慮なく。」
そうしてインテラはコマを動かす。一切迷いのない手。わずか1秒ほどでタイマーが押される。すかさずこちらもコマを動かす。タイマーの音が間髪入れずになり続ける。ただ適当にやっているわけではない。お互いの複雑な策略が盤上で入り混じる。約1秒の間にあらゆる手を講じる。何十、何百通りと。普通の人間なら不可能だが、あいにくとそれを可能にさせられている。生物における"知能"と呼ばれるものをお互いにいじられているのだ。そうしてゲームが始まってから1分少々経った頃決着する。
「チェックメイト。」
気づかない間に伏兵を進められていた。ポイントへ完璧に誘導された俺は最初から手のひらの上で踊らされていたのだ。
「次、父さんが先行。」
「わかった。」
また始まる。しかし、結局負ける。次も、そのまた次も…。気付けば負けている。さすがインテラと名前をつけられるほどの実力と言ったところだ。その無表情の内にスーパーコンピュータのような世界が広がっているのだろう。俺よりも遥かに高度で、先の未来をその目の奥で見ている。だが、そう何回も上手くはいかない。始めてから14試合目の時だった。
「これでチェックメイトだね。」
「そうみたいね。」
今度はこちらが勝った。インテラが手を抜いていたわけではない。そもそもとして俺はさっきも言った通り、こいつと同じように脳を改造されている。つまり、俺も普通の人間の何倍もの知能を持っている。従ってこいつの行動パターンを学習し、策略を複雑にしたまでのこと。それまでこいつの動き方を見るためにあえて攻めることなく守りに徹し、なるべく長引かせた上でデータを収集していた。ここから俺も攻めに転じる。
「次は俺が先行だな。」
そして、俺も作戦通りコマを進める。だがインテラも同様にこちらの行動を学習している。だからこそ、そう簡単にはキングは取れない。防御に徹すれば気が付けばウイルスみたいに侵食し、攻撃に徹すれば核をついて崩される。実に厄介なのだ。こちらが勝ったようになったものの、相手はより強くなる。依然としてインテラが数多く勝利を収める。試合も30試合目を終え、ようやく終わったと思ったのも束の間。
「よし、もう30試合追加だ。」
そんなことを簡単に言ってのけた。お互いに疲労も溜まってきた頃の無茶振り。はなからこうするつもりだったのだろう。部屋の窓からこちらを覗く目は冷淡で不気味だった。そんな目で俺たちを見て、一体何がいいのだろうかと思ってしまう。向かいの方を見ると、インテラのため息が多くなっている。当たり前だ。いくら改良されているからと言って、疲労がたまらなくなったわけじゃない。それに脳のリソースが多いとは言え、彼女は一手一手何百通りもの策を講じ続けた。コンピュータでも回線が焼き切れるほどの情報量。普通の人間とやっていればこんなことにはならないだろうが、俺はインテラとほぼ互角。そんな相手ゆえに短時間で莫大な消耗を経験してしまう。
「そんな目で見てもやらないといけないんだし。さっさとやるわよ。今度は父さんが先行。」
「・・・・・それもそうだな。」
研究員たちはこちらの都合など気にするつもりなどない。だからこそ、延長を何度も繰り返した。疲労でふらつくインテラを横目にまたコマを動かす。先ほどと比べてコマの動きが遅く、一手の間隔も心なしか長くなる。限界を迎え万全でない状態のインテラに勝つことなんて造作もなかった。
「チェックメイト。」
「・・・・・。」
もうまともに考えることすらできていないだろう。両手で頭を抱えた彼女は机に突っ伏したまま動かなかった。
「うーん。やはり、どれだけ知能が高くとも容量が無ければ短時間しか持たないか。情報処理能力の向上と脳のリソース確保が課題だな。よし、インテラを部屋に戻せ。お疲れのところ悪いがアンセス、今から君を改良する。次の部屋に移動してもらうよ。」
「分かった。だが、インテラにはやってやるなよ。流石にこんな状態で改良を施されるのはかわいそうだ。」
「もちろんだ。こんな状態でやってしまっては改良を失敗してしまう可能性の方が高いだろう。翌日にでもしよう。じゃあ、君は移動してくれ。」
インテラはそのまま2人の人間に両腕を引っ張られ、おぼつかない足取りで部屋に戻って行った。インテラは俺のことを父さんと呼ぶが、本当の父親ではない。確かにインテラは9歳くらいだが、俺は17歳。どっちかと言えば兄と呼ばれるのが自然だ。ならどうして俺は父親と呼ばれるのかと聞かれれば、答えは単純明白。さっきも言った通り、俺はこの施設の全プロトタイプの原型。言ってしまえば父親のようなものだ。だからこそ、インテラに限らず、全てのプロトタイプは俺のことを父親と呼ぶ。対して俺も他のプロトタイプのことは息子や娘のように思っているわけだ。
と、そうこうしている間にまた同じように拘束され、連れて行かれる。改良と言えば聞こえはいいかもしれないがやってることは人体実験の他でもない。そして俺は何やら固い物の上に乗せられ、首の辺りを刺される。徐々に微睡が襲ってきたところで麻酔を打たれたことを知る。抗う術も持たない俺はそのまま意識を暗闇に手放した。
「今回はどのくらい向上が望める?」
「今回の改良で見込めるのは3〜4%ほどかと。」
「いや、もっといけるはずだ。最低でも5〜6%にしろ。」
「よろしいのですか?一度にそれほどの改良をしてしまえばアンセスの体が崩壊しかねませんが。」
「なーに、気にすることはないさ。そんな程度で彼は壊れないよ。それにアンセスはまだまだ可能性を秘めている。現在の超越率はたったの27%。先がないと疑う方がおかしい。他のプロトタイプは確かに優秀なやつばかりだ。インテラもマスラーもウェプノも。どれも実用的で素晴らしい。だが、アンセスは別格だ。彼こそ、我らが求める新人類のあるべき姿なんだ!なんとしてでも超越率100%は上昇させなければならない。なんとしてでもだ…。だから最低でも5〜6%の上昇は欲しい。急いでいるわけではない。焦りは禁物ということは重々分かっている。
ただ、もし…今回の改良に耐えられるのであれば、彼は我々が予測できぬ領域までいけるやもしれない。頼んだよ、粟峰。」
「承知いたしました、局長。」
暗闇で溺れかけている。苦しい。呼吸がうまくできない。体が思うように動かない。突っ張ったようみたいに硬直している。そして、じわじわと体の中を何かが這うような感覚を覚える。気持ち悪い。吐きそうだ。今までに味わったことのない苦痛。ああ、いつも通りだ・・・・・。
おそらく、俺の体は睡眠状態にある。だったら、これは夢を見ているという状況なのだろうが、改良の影響が精神の領域まで及んでいるらしい。だが、ここまでのは初めてだ。思わず、意識が飛びそうになる。どうにか気合いで堪えるしかないのだが、それにも限度はある。だんだん意識はぼやけ、満足に自分を認識できないくらいになってしまう。もういっそ、このまま意識を放り投げてしまえば楽になるのかと思う。
子供の頃に読んだ本があの時の俺を興奮させた外の世界の話。薄暗いコンクリートの向こう側にある世界。植物、動物、人工物。ありとあらゆる記載は俺の想像を膨らませた。思いを馳せ、いつかこの施設を出てみたいと思わせた。感情をもっと享受したいと。
そこで俺はもう一度起き上がる。いや、まだだ。外の世界に出るまで俺は諦めない。この目で外の世界を見るまでは…。絶対に。身体中の痛みも痺れも微睡にも抗う。ただ外の世界を見たいという願望。それだけが意識を繋ぐ唯一の命綱だった。すると目の前に光が灯る。その光は大きくなり、やがて俺の体を包み込んだ。
そして…そして…そして…。
俺は目覚める。まだぼんやりとした頭で状況がうまく理解できない。俺は何をしていた。やけに倦怠感を感じる。衣服が妙に肌に吸い付いて、自分が汗をかいていたことを知る。何が起こっているのか分からないがとりあえず起きようと思って、そこで違和感を覚えた。
体が軽い。比喩表現などではなく物理的に軽いのだ。まるで発泡スチロールみたいだ。それに、視界が明瞭すぎる。輪郭がはっきりとするなどとそんな次元じゃない。ちょっとした壁の汚れまでも捉えることができている。さらに言えば周りの音もよく聞こえる。匂いも肌に伝うわずかな風の流れでさえも。起きたばかりの頭で必死に考える。おそらく改良によるものだ。これはおそらく五感と身体の強化。それも今までのとは比にならないくらいの。
それよりここはどこだ。薄暗いコンクリートの部屋。あたりを見回すと自分が寝ていたベッドが一つと不自然に真ん中に置かれた椅子が一脚。間違いない。俺の部屋だ。となると俺は改良が終わった後にこのベッドに寝かされたのだろう。今までならこんなことはなかったのに。どうしてだ。そもそも目を覚ますところも作業室の中でまた拘束されて戻ってくるのが通常の流れだ。俺は長い間眠っていたのか?いや、だからと言って部屋までこんな親切丁寧にされるとは思えないが。とりあえず確認を…。
「ふふふ。お目覚めかな?アンセス。」
部屋の窓の向こうにとある大男が護衛を引き連れて立っている。白衣に黒髪。そして目から頬にかけての深い傷跡。この男は
「ザッケハルト局長。」
「息子に名前を覚えてもらえるだなんて。父としてこれほどまでに嬉しいことはないよアンセス。」
「あなたが勝手に父親を名乗っているだけなのですが。」
「だが、実際に君を作ったのは私だ。開発チームの中心となってね。今日はとてもいい日だ。これほどまでに気分が高揚したことはないよ。」
気味の悪い笑い声が鼓膜を撫でる。この男は掴みどころがない。何を考えているのか目的すらも分からない。分かるのはこの男が俺たちプロトタイプを作ったということだけだ。
「それで何のようで。」
「その言葉を待っていたよ!さすがは私の息子だ。欲しい時に欲しい言葉が聞ける。君に伝えることがあるんだ。」
「俺の体に起きている異常のことで?」
「・・・・・。」
しばらくの沈黙の後、凄まじい叫び声を上げる。もはや悲鳴と言っても差し支えのないほど。しかし、その顔は満面の笑みを浮かべている。口は裂けそうなほどにやけさせ、目は異常に垂れ下がる。恐怖にすら感じる笑顔を見せつけながらこちらを向く。
「何という素晴らしさ!それが仮に改良の賜物だとしても僕の期待に応えてくれる。最高だよアンセス!あーすまない。ついつい我を忘れてしまった。」
「饒舌なのは相変わらずのようで。」
「当然だよ。君と語ることができるのだからね。ゴホンッ。本題に入るとしよう。君の体に起きている異常は君の予想通り改良によるもので間違いないよ。今回は君の全ての身体機能を向上させた。体力や知能だけでない。五感に至るまで全てだ。そして、そして!何より1番のビッグニュースは・・・・・。君の超越率が凄まじく上昇したのだよ!これを幸福と言わずして何と言う!」
「超越率?」
「あーすまない。君に伝え忘れていた。超越率とは身体能力や知能。人間におけるあらゆる能力を総合し、従来の人間からどれほど超越しているかの割合のことだよ。要するに普通の人間よりどのくらいすごいのかって話さ。そして以前までの君の超越率27%。だが、今回の改良により君の超越率ははるかに上昇した。今の君の超越率は85%!私が望んだ最低上昇率は5%。だが、結果はどうだ。58%だ!・・・・・私は誇らしいよ。これほどまでの上昇負荷に耐えた君を私は息子として本当に誇らしく思う。そこで、君には新たに固有名をつけることにした。もはや、今の君を人間などという下等生物の範疇に置いておくわけにはいかない!だからこそ、君には神の名を冠する名前を与えよう。これからもよろしく頼むよ、ゼウス。」
言うだけ言ってザッケハルトは下卑た笑い声を出しながら去っていった。
「ゼウス…か…。こんな歳にまでなって厨二病みたいだな。」
俺は真ん中に寂しそうに置かれた椅子に座り込む。能力向上した身体にまだついていけてないというのに、今日の情報量だけでいっぱいいっぱいだ。深いため息をひとつ吐いて俺は
「これからどうしたものか。いつか人でなくなってしまうのだろうか。」
と先の見えない自分の将来に不安になるのだった。