呪われたゆりかご
「もう、いやだ……」
小さな呟きを吐き出した途端、自分の中になにかがすっと入り込んでくる。
意識がぼんやりとしていき、瞼が閉じてくる。
起きなければ、とすればするほど私の意識は遠のいていき、やがて視界が真っ黒に染まる。
何かに身を任せてみたら、すとんと体の自由がなくなっていく。
暖かい何かの空間に揺蕩うように、ゆらゆらと気持ちよく、あきらめて身を任せてしまう。
どうせ、私が起きていたところで、誰も私の言葉を聞いてくれるわけではないのだから。
うん、そうだ。
このままでいい。
ここはとても気持ちがよくて、暖かくて、誰も私のことを傷つけたりはしない。
ゆらゆらと、起きているのか寝ているのか、わからない状態に私は陥り、そしてそこに安住した。
「どういうことだ?」
私の夫だと思われる男が詰問口調で誰かに問いかける。
体はぴくりとも動かないけれど、私は周囲をぼんやりと認識ができるようだ。
瞼も、指先も、どれも少しも動かせない。けれど頭だけは働いている。
どうしてこうなったのかも、いつまで続くのかもわからない。
けど、この世ではないどこか別の空間に漂っているかのような己の状態を、とても気に入ってしまった。
常に一人ぼっち、外から聞こえる誰かと誰かの笑い声を聞きながら、私はいつものように疎外感だとか、惨めな気持ちだとか、ありとあらゆる陰鬱な気持ちにまみれて座っていたはずだ。
それはいつものことで、それこそこれから先ずっとずっと続いていく予定で。
どうしていいのかも、どうしたらいいのかもわからない。
誰も自分のことを気にしてくれたこともない。
そんな自分は無価値なものだと、そう認識していた。
「分かりません、ゆすっても叩いても全く起きてこなくて」
一応私付きとされている女中が答えているのが聞こえる。
この家に嫁いできてから今まで、何の世話もしてくれなかった彼女。
女主人であるはずの私の言葉を軽んじ、蔑ろにしてもいい人間だと決めつけていた女。
それは、この屋敷に働く誰もかれもが思っていたことで、最も近くにいた彼女が顕著だっただけだけれど。
下働きの女ですら、この家の者は私のことを蔑ろにする。
「なんだってこんなときに」
今日は、彼の友人夫妻が訪れる予定となっていたはずだ。
そんなときだけは、私はこの女主人にふさわしい衣類を着せられて、普段はいることのない居間にいることが許された。
いつもは、この本邸にすら私は存在していない。
それほど、この家にとって私は部外者なのだ。
「旦那様、お客様が」
おそらく自分は長椅子の上に横たえられているのだろう。
ゆらゆらとしていて、位置関係はイマイチはっきりと認識できていない。
けど、人の気配や話し声だけははっきりと理解できている。
とても不思議で、とても気持ちがよい。
執事が焦ったような声で、私の夫へと話しかける。
「ああ、ちょっと待て、いや、自分が行く」
玄関まで主人がわざわざと出迎えるのだろう。
幼馴染同士である友人夫妻は、本来ならこの場所まで使用人と一緒に軽々と入ってこれるほど気安い関係なはずだ。
この状態をとりあえず隠そうとは思っているのだろう。
ピクリとも起きない、まるで死人のような私がいては、外面だけはよいこの人は困るのかもしれない。
「久しぶり」
だが、そんな夫のごまかしなど通用しない、とばかりに、彼らはするりと居間へと入り込む。
この声は私にも覚えがある。
結婚式のときに、私に親切に声をかけてくれた夫妻のうちの夫の方だ。
彼らはとても感じがよく、彼らの幼馴染である夫がいい人であると疑ってもいない。
「おい!」
ばたばたと音がして、二人ほどの人間が自分に近寄ってくる。
たぶん、あの幼馴染夫婦なのだろう。
おそらく二人に見下ろされている格好の自分は、彼らにはどう映っているのだろうか。
「ああ、いや、具合が悪いって」
「はあ?何やってるんだ、だったら早く寝室に運ぶなり、医者にみせるなりしろよ」
それは、あたりまえの指摘だろう。
いきなり眠り込んだかのように意識を失った妻を、ただぼんやりと眺めているだけだなんて、意味がわからない。
おそらく、こうやって彼らが私を発見してくれなければ、私はそのまま別邸の寝室にでも放り込まれて放置されていただろう。
それもまあ、こうなってしまえばいいことだったのかもしれないけれど。
「私、主治医の先生を呼んできますわ、女性だから安心できてよ?」
すかさず、妻の方が提案をする。
この国では、妻に貞淑であることを求める傾向が強い。それは、医者相手にすら発揮され、女医というのはあまり働き先のない女性の中では最高峰に位置する職業だ。
優しい彼女は、夫が私を男性に見せることを気にしていると考えて、そう提案してくれたのだろう。
もっとも、彼はそんなことを気にするほど、私のことを気にかけてはくれていないけど。
「……ああ、悪い、あてがなくて」
曖昧に、うなずいて、そして安心したかのような声をだす。
そんな演技もできたのだ、と変なところで感心する。
どれぐらいたったのだろう。
人間の気配が減って、たった一人が私のそばにいる感覚を覚える。
たぶん、女医さん、というのが来てくれたのだろう。
しきりに私の体のあちこちをのぞいている。
それは、きっと、みつけられたらこの家にとって不都合なことも含んでいて、考えたらあれがよくこの状態をゆるしたな、という気もしてきた。
体の感覚はなくて、思考だけはぐるぐると回る。
そして、ここにきて、私はどんどんと口が悪くなっていることに気が付く。
元の自分はもっと内向的で、どんなことをされても相手に強く非難することなど出来ない性格だったはずだ。
私の中に入り込んだ何か、が私の性格にまで影響しているのだろうか。
それは、とても素敵なことで、何かに身をゆだねきっていることを、ちっとも後悔していない。
「非常に生命活動が低い状態にあります」
「はぁ?」
よく分からないことを女医さんが口にする。
確かに、頭だけが動いて、体が動かないなんてそういうことなのかもしれないけれど。
「仮死状態、といった表現が一番しっくりくるのかもしれません」
「それで、原因は?」
「わかりません」
「は?」
「ですから、わかりません」
「原因があるはずだろう!」
「それは、はい。ですが、毒でもないですし、一見して病気でもありませんし、それにこのような状態の病気はあいにくと存じておりません」
「はぁ、これだから……」
たぶん女性だから、と言い募ろうとして口をつぐんだのだろう。
おそらく友人夫妻も近くにいる、はずだから。
「それと」
「まだ何かあるのか?」
「……奥様は、乗馬や剣術、といった荒事をなさる方なのでしょうか?」
「そんなわけあるか、彼女はほとんど家のなかにいる」
「そう、ですか」
「何かあったの?」
友人夫妻の男性の方がたずねる。
「いえ、体力の方がどれぐらいあるのかな、と思いまして」
どこかとってつけたかのような説明をする。
たぶん、私の体のあちこちにある傷に気が付いたのだろう。
けど、彼女の立場でそれを口にするわけにはいかないのも理解できる。
医者とはいえ、立場が弱い。権力者の顔に泥を塗るわけにはいかない。本当にあっけなく、彼らはその力を行使し、身分のない者たちは踏みにじられるのだから。
彼女が口をつぐむであろうことを見越して、第三者である友人夫婦がいる、というだけではなく私のことを見せたのだろうから。
「それでは、これでお暇しますね」
原因などわかるはずもなく、医者である彼女と、友人夫婦は去って行った。
残されたのは夫と、いつまでたっても動けない私。
ゆらゆらと、本当に気持ちよく。
現実の自分の体がどんなふうになっていくのかもわからないけれど、それでもいい、と思えるほどに。
どれぐらいの月日がたったのかもわからない。
周囲の気配を感じ取る力も徐々に弱まっている、気がする。
もう体の方が弱っているのかもしれない。
周囲から常にない強い声が響く。
懐かしくも思い出したくはない父親の怒鳴り声が聞こえる。
そして、私のことを道具以上でも以下でもない、といった扱いをしていた義父の声も。
「はずれをよこしておいてどの口が言う」
はずれ、は、まあ私のことなのだろう。
なにせ動けない。
この家の仕事をこなせぬばかりか、最大の仕事である世継ぎを生むこともできはしない。
もっとも、そのどちらもあのままの私では達成できない仕事ではあったが。
淡々と、そう冷静に嫁いできたころからの自分を思い返せば、ありえないことの連続だった。
少しだけ格下で、けれども恥ずかしくはない程度の家格をもった娘。
それが私。
両親は私のことをそういったもの、嫁いで家のために利益をもたらすものだと扱ったし、婚家は社交などせず世継ぎを生むだけの道具、として扱った。
それは、この国の風潮ではよくあることで、とりたててそれを不幸だと思ったことはない。
実母も、義母も、そう扱われて世継ぎを生んで、今があるのだろうから。
ただ、私はそういった扱いすら受けていない。
契約のように結ばれた婚姻で、嫁いでみれば夫にはすでに愛人がいる。
その愛人は本邸を切り盛りし、女主人の役割はすべて彼女が担っていた。
おそらく、子供を作ることさえ彼女の仕事なのだろう。
私はただ結婚した、という事実があればいいだけの存在。
平民である愛人の子供を、この家の正当な跡取りにするためだけにあてがわれた嫁という存在。
乗っ取り、ともいえる不当な行いだけれども、露見しなければいいだけの話だ。
それは、こういった力のあるうちでは案外簡単に行えてしまうのだろう。まことしやかに、といった噂話はつきまとうかもしれないけれど。
「娘は健康そのものだ!だいたい、娘は暴力を振るわれていただろう。そのせいじゃないのか!」
ここで、本来知りうるべきではない人間、実父が私の秘密を吐き出す。
私そのものにはまったく興味がないくせに、それが立場を優位に働かせる切り札になるのだとわかれば、簡単にそれを利用している。
「言いがかりも甚だしい、失敗品をよこしておいて、よくも図々しいことを」
「悪いがこちらにも証拠があるんだよ」
何かのやりとりをして、義父が口をつぐむ。
なんとなく、悔しがっている気がしないこともない。
「誰が……。あいつらか?」
ようやく口を開いた夫が絶句する。
たぶん、友人夫婦がらみではないかと推測をする。
私は、見えないし、動けないし。
けれども私の今の状態を知るのは彼らと、彼らが連れてきた医者だけだ。
「だいたい、愛人を本邸に侍らせる、なんてどういった立場の人間ならできるんでしょうねぇ」
ここぞと厭味ったらしい口をきく。
おそらくどれだけ自分たちの瑕疵を少なく、そして相手の弱点をつけるのかを考え抜いてきたのだろう。
「はあ?それこそ言いがかりだ。それに愛人の一人や二人……」
言いかけが義父の言葉が途切れる。
私にはどこまでも尊大だけれど、元来小心者の夫の挙動から父の言葉が真実だと知ったのだろう。
とっくに領地に引きこもった先代当主夫妻は、この家がどういう風に運営されていたのかを本当に知らなかったようだ。
だったら、私は彼らに少しだけ縋ればよかったのかもしれない。
愛人を切れ、とは言えないけれども、私のこの家の嫁としての立場は守られた可能性はあった。
なにせ、正当な家の正当な血筋を守ることにかけては、彼らは努力を惜しまないのだから。
がつり、と鈍い音がして、何かが床に倒れたような気がした。
ああ、夫が殴られたのかな?
ざまあみろ、という気持ちが沸き上がる。
ゆらゆらとした気持のよさ以外に、気分が高揚していく。
ばたばたと誰か出ては入っていく。
聞き覚えのある女の叫び声、だとか、父親の怒鳴り声、だとか。
ゆらゆらと、気持ちよく。
もう、ここにずっといたい。
けど、もういいのじゃないかな、とも思う。
結局、私は誰かの呪い、おそらく愛人なのだろう、を受けた被害者だということに落ち着いた。らしい。
古に魔法だとかそういったものがあったことは知ってはいたけど、呪い、だなんてものが症例としてあがるだなんて思いもよらなかった。
ありがたいような、よくわからない文言が私に降り注ぐ。
ゆらゆらとした気持ちよさにずっと浸っていたい私は、けれどももういいのかな、という思いもよぎってくる。
私の中に入り込んだ何かは徐々に消えていき、ゆるゆると何かが繋がっていくかのような気配を感じ取る。
それは、頭と四肢の何かなのかもしれない。
今なら動かせそうな気がして、指先にほんの少しだけ力をこめる。
ぴくり、と動いたそれに、ものすごくいい声で誰かが歓声をあげる。
知らない、けれども落ち着くその声の持ち主はだれだろう。
確かめてみたくて、ゆっくりと瞼を開ける。
まぶしくて、まぶしくて。
ぼんやりとした輪郭は、何がなんだかわからなくて。
それでもゆっくりとあっていった焦点は、その知らない誰かの形をはっきりとさせていく。
「神父さま?」
そうつぶやいたはずの私の声は耳には届かない。
どれほどこの状態だったのかはわからないけれど、声を発するというのは思ったよりも力と体力を使うようだった。
「よかった、もうこれで大丈夫ですよ」
温かい声に、私は横たわった状態のままうなずいた。
それは、ほんのかすかな動きだったけれども、私は守られていた暖かさから現実へとようやく戻ってきた。
見覚えのない寝室で起きた私は、病明けの人間が食べる食事から開始され、ゆるゆると回復していった。
ときおり、あの女医さんが訪れ、私の様子を尋ねる。
ここは、どうやら本邸のようだ。
一度も入ったことがなかったそこに、倒れてから初めて足を踏み入れるだなんて思いもよらなかった。
もっとも、歩いて入ったわけじゃないけど。
医者と、見慣れない女中だけが代わる代わる訪れ。そのたびに私の体は回復していく。
私は半年ほどあの状態だったらしい。
どうりであちこちが動かしにくいと思ったはずだ。
八割ほど回復した私に、夫がようやく会いに来た。
頬がやつれ、本当に嫌そうに私のもとへやってきた彼は、子供を作るぞ、と言い捨てた。
ふわり、と笑い。
「お断りしますわ」
はっきりと拒絶する。
以前の私からしたら考えられない姿勢だろう。
父の言うことを聞き、母のようになれと強制され、嫁いだ先で夫の言うままに過ごす。
それを是とした教育しか受けていない私が、拒否の言葉などを口にするはずがないのだから。
言われたことがわからないのか、夫は怒ることもできずに口を開けたままこちらを見下ろしている。
「私、神に仕えることにしましたの」
できるだけほがらかに、思っていたことを告げる。
あの、私の状態をどうやってだか癒してくれた彼は、どこかの神殿のえらい人、だったらしい。
あれから私の様子を数度見に来てくれたあの人は、私にそういう道があることを示してくれた。
敬虔だったり、望まれたり、そして押しつけられたり。
そういう道を目指すことが可能だとは想像もしていなかった自分にとって、その道はまさしく「神の啓示」にも勝る救いの一手だった。
私の言葉を理解したのち、数度私の頬を打った夫は、わめきちらしながら退出していった。
ああ、彼はやはり何も変わらない。
おそらく、愛人と自由にやるためにも、私との子作りが必須となったのだろう。
やっぱり、愛人の子供を私の子供だと偽って出産させるのは、どうやっても綻びが出るだろうほど雑で不出来な計画だったのだ。
けど、私が付き合う義理はない。
実家にも戻れず、ここにいるしかなかった私は、もうすでに溶けて消えた。
あの呪いとともに。
腫れた頬をそのままに、私は身の回りのものだけをもって神殿に逃げ込む。
理由は、私を見れば十分だ。
女性の権利がないがしろにされている国で、夫がやることだから当然の権利だ、とうそぶいたところで、真摯に仕えている神の部下達は聞いてはくれない。
私はその日のうちに、神の御許にて一生を過ごすことを誓った。
残された彼らのことは知らない。
妻を虐待して追いやった彼らは少しだけその醜聞にさらされるだろう。
けど、それだけだ。
ちょうどいい家の都合のいい女はどこにでもいて、彼はきっとその人を娶るのだろう。
そして何事もなかったかのように暮らしてく、はずだ。
私は、日々彼らのことを「祈り」ながら、敬虔な神徒であるようにただひたすらに過ごしていくだけだ。
そう、「祈り」ながら。
やり返せてもいないけど、ちょっとした意趣返しはできたよ、というお話。
きっと元夫のところは後継ぎができない呪いとか後継ぎが不出来な呪いがかかっているはず。