身分のこと
職業選択の自由を実現できる社会の条件はなんでしょうか。
これには二つの種類があるでしょう。
一つは、選択できるいずれの職業もさしたる専門性もなく、負荷も同程度で、また得られる利益にも大差ない程度の社会の成熟度であること。
これは例えば無人島に十人で流れ着いたので役割分担してみんなで生き延びようとかそういう状況で再現できます。
誰がどれをやっても大差ないという状況であれば、どれを選んでも構わないわけですから、選択の自由を認められるでしょう。一度選んだあとではその限りではないかもしれません。
もう一つは、職業を選択できるだけの知識と判断力を手に入れた後から、専門性の高い技術を身に着けても間に合うだけの社会の余裕と教育レベルを満たしている状況です。
要は義務教育のあと高等学校や専門学校、大学に通える、つまりすべての人間が生まれて十年から二十年程度職に就かずとも食べていけるだけの環境が整っていること。
職業を選択するということはそれができる知能を持っているということ。
そして、職に就くというのは労働で生活費を稼ぐということであり、職を選択していないということは収入がないということです。
職業を選択できる知能を得るための教育期間をどれだけ見積もるか――現代日本では成人年齢の十八年プラスα――はともかく、その期間を社会全体で養える余裕がなければ職業選択の自由は実現できません。
さて身分というのは職業選択の自由を阻害する要因です。
気の早い方は言いたいことを察しておられるかもしれませんがつづけます。
身分、そして身分社会というのは職の専門化によって生まれたものです。
ほかに利権の確保という要因もありますが、これも付属するものなので併せて述べていきたいと思います。
まず、生きていくために必ず必要なものはなんでしょうか。
そう、食料です。
食べ物を口にしなければ生命活動を維持することはできません。
では食料を得るためにはどうすればいいでしょうか。
まず考えられるのが、ある場所からとってくればいいということです。
原始の世界では狩猟、採集によって食料を得たと学校で習ったことと思います。
では、食料がある場所というのが、他人の手の中であった場合はどうでしょうか。
そうです。殴って奪います。
返り討ちに遭うリスクを考えると奪うのが最適解ではない状況もあるでしょうが、古来食べ物のために暴力をふるった事例は無数にあります。
かの武田信玄も略奪で食料を得るため暴れまわったといいます。
なければあるところから奪うというのは人類史上極めて普遍的なものです。
逆に、奪われないためには何をすればいいでしょうか。
自分が強くなればいい。
ですが寝てるときやおなか痛いときに襲われるかもしれません。それに相手が自分よりもっと強かったら?
一人相手ならこちらは二人で挑むのはどうでしょう?
見張り役か、できれば同じくらい強い人と組めばどうでしょう。
一人だと裏切るかもしれません。三人以上で組んで見張りあうほうがいいでしょうか。
より安心するため、利害が一致する相手を選ぶといいですね。親兄弟や子どもなどは有力な候補になるでしょう。
敵も数が多ければどうでしょう。こちらも数を増やして、武器も持って、訓練もして強くなりましょう。
というのが安全を得るということです。
安全を得るためには、返り討ちにするだけの戦力を確保することがまず一つ。
そこから派生して、あいつは強いから奪おうとするのはやめたほうがいいという情報を広めるとか、強い人に半分あげて守ってもらうとかありますが、根底は戦力です。
戦力を確保するためには武器を持つこと、訓練すること、数を増やすこと、など様々なアプローチがありますが、お互いに競い合って戦力を高めていくと、どれも軽視できなくなります。そしてその過程で戦いを専門とする階級が生まれます。また、戦いを指揮する階級も。
これが身分制度の第一歩、戦士階級です。
初めは他の役割と兼ねていたでしょう。しかし、戦力というのは防犯と同じように絶対値でなく相対値です。相手が1ならこちらが10あれば安泰でしょうが相手が100なら10では足りない。いたちごっこになります。そうすると専門家が生まれるのは必然なのです。
さて、一つの共同体の中に戦士とそれ以外がいる場合、どちらが重要でしょう。
答えはもちろん戦士です。
戦士がいるということは、戦士が必要な環境であるということ。
戦士がいなければほかの共同体その他の脅威によって襲われて共同体は略奪を受けます。その際殺されることも当然あります。むしろ皆殺しのほうがあとくされがない。
もちろん食糧生産は重要ですが、戦士がいなければ奪われてゼロになると考えればより重要なのは戦士です。飯を一回抜いても死にませんが、戦士の守りがなければ今日中に襲われて死ぬかもしれません。やはりより重要なのは戦士ということになります。
そこで戦士が上それ以外が下という身分が生まれます。
さらに、戦士を指揮する者が戦士の上につきます。なぜなら指揮する者の指示に戦士が従わなければ総合的な戦力が低下するから。
こうして、戦いを前提とし、戦いの専門家である戦士階級を中心とした身分制度が発展していきました。
これは近世まで続きます。銃とシビリアンコントロールという概念が発明され普及するくらいまで。
では戦いの専門家である強い戦士を育てるにはどうすればいいでしょうか。
幼少のころから鍛えること、先人が得た経験を反映すること。つまり職業に合致する専門教育を施すことです。
戦国時代の武家に生まれた者は厳しい鍛錬と兵法書を読み込んでの勉強に明け暮れました。
宣教師の記録にも織田信長が鍛錬を欠かさなかったとあります。京都に進出したころの信長はすでに大大名です。そんな高い身分の者でも鍛錬が必須でした。
またいい歳になってから還俗して将軍候補として担ぎ上げられた足利義昭は足利将軍としては非常識なことをして信長に苦情を入れられています。筆者はこれを将軍としての教育を受けていなかったことも原因の一つだと勝手に思っています。
幼少の頃から専従するというのはとても有利なことです。これは例えばトップアスリートの方々のうち早くからそのスポーツをやっていた人が目立つことからもわかると思います。何かを始めるのは早いほうがより経験を積めることは紛れもない事実。時間は人間がいまだ支配できていないので。
もちろん有利であることがすなわち勝者であることとイコールではないです。
だとすると有利にある者たちは何を考えるでしょうか。
はい、ノウハウの占有です。
知識や技術そのもの、およびそれを次代に伝える教育の手法。これを占有すれば安泰です。例えばテニス教室に通えるのは親がテニス選手の人だけ、などとすればイレギュラーな天才を排除でき、テニス業界は世襲プレイヤーで独占できる、みたいな話。たとえ話。
そもそも参入できなければ下克上は起きません。
小さいころから戦士として育てられた者となんでもない一般人。向かい合えば思わぬ不覚をとることがあるかもしれませんが、同じ土俵に上がらなければそんなこともおこらない。
ではなぜノウハウを占有してまで有利を得続けなければならないのか。
これにも二つの視点があります。
一つは共同体全体の視点。
その役割を担っている共同体内の集団、例えば戦士団が混乱しては困るという点。
共同体を守るための戦力が下克上により混乱、弱体化や喪失されてしまうと外敵に対抗できなくなります。
あるいは別の職業でもそうです。今まで必要十分でやってきた者たちが入れ替わったら今まで通りできるでしょうか。より強い剣を打てる鍛冶師に入れ替えたら鍋や鍬の補修がへたくそだった、なんてことになったらどうでしょう。困りますね。
政治がひどいんで革命したら革命政権はもっと政治がへたくそでもっともっとひどいことになった、なんて例も現代でもある話。
現状でうまくいっているなら、現状維持したくなるのは自然な考えです。プラスαがあるのはいいことですが、思わぬ落とし穴があることを考えると、共同体にとってもそれまでの実績がある集団に任せるのが安心です。彼らがその機能を維持している限り、占有を認め働いてもらうほうが共同体全体の安定につながります。
もう一つは占有する者の視点です。
これはちろん、既得権益を確保できることです。
既得権益を確保するとどうなるかというと、明日のご飯の保証になるし、家族を養えます。
つまり他にそれができる者がいないなら、その仕事をずっと続けられるということ。
仕事をすれば収入を得られます。収入を得れば自分と家族に衣食住が手に入る。場合によっては家族以外にも。
既得権益とはそういうことです。
仮に百万人の領地と一万人の家人を雇っている貴族がいるとするならば、その貴族は一万人を食わせるだけを稼がなければならないし、そのために百万人を維持し働かせ税を納めさせなければいけません。
これが五十万人の領地になれば一万人の家人を維持できなくなるでしょう。仮に同率で五千人を解雇したならば、その五千人は路頭に迷うことになる。
彼らにそんな運命を与えないためには百万人の領地という既得権益を何としても確保し続けなければならないのです。
あるいは妻と子ども三人と年老いた両親、徒弟を抱える鍛冶屋の親方がいるとして、なんか隣に魔法でポンと製品を生み出すチート野郎が住み着いて仕事を全部奪ってしまったとしたら、鍛冶屋の親方はチート野郎をぶち殺してでも仕事を取り戻したいと思うでしょう。なぜなら自分だけでなく妻と子供と親と徒弟の命がかかっている。
既得権益とは一人一人の食い扶持が寄り集まったものなのです。これをただ悪と断じて取り上げることは彼らから明日のご飯を奪うことにつながります。
まあ創作現実問わず、誰かしらが不当な利益を得ている場合も多くありますが。
さらにもう一つ、両者に及ぶ利点として、早くから専従させることによって教育完了の年齢を引き下げることができます。
すでに述べたように、職業に必要な知識や技術が専門化していくと相応の教育期間を必要とするようになります。
自分で食い扶持を稼げるようになるまでの間、その人物の食費等の生活費は共同体全体の余裕から出ることになります。
実際には親が負担する場合が多いでしょうが、それも親に負担できるだけの収入か財産を与えられるだけの余裕が共同体にあるということです。
仮に一人年に百万かかるとすれば、夫婦と子ども三人で五百万、加えて老親二人まで養うならば七百万の収入が必要になるわけです。
収入二百万では子どもが自ら稼げるようになるまで育てる余裕はないわけです。
一般的な親が必要な収入を得られない共同体は余裕が足りていないとなるわけです。
この子どもの無収入期間は当然早く終わるほうが共同体全体の負担が少なくなるわけですが、専門教育にかかる時間は何歳から始めようと大差ないでしょう。
であればより若いころから始めるほうが早く一人前になり、共同体の負担は少なくなりますし、親の負担も少なくなるわけです。
子どもの死亡率が落ち着く六~七歳くらいから教育が始まり、十四五歳あたりで一応のひとりだちというのが近世くらいまでの定番だったでしょうか。
現代のように十八歳前後から考え始めても間に合うというのは、それだけ共同体である国が発展しているから許されるのです。
選択の余地なく職業を決められるというのは、共同体の負担という観点からみると必要なことであり利点だったのです。
話を戻しましょう。
それぞれの職業がノウハウの占有をした場合、次に起きるのは共同体内で職種間の重要性を比較して優劣をつけることです。
なぜならば、共同体維持のために優先順位をつけることが必要だからです。
その結果、その優先順位を根拠として身分が決まっていきます。
それ以外にも要因もあるでしょうが、おおむねそうだと思います。
技術の独占による専門化によって身分が固定化していくのです。
それは例えば支配者階級となった戦士階級からさらに分化して政治の専門家となり貴族階級になるとか、そういったこともあるでしょう。同じ階級の中でもさらに分化していくこともあるということです。例えば親方と弟子、見習いに分化するように。
それは役割や機能からくる必然のものだったことも多かったと思います。
指導者をそれ以外より下においては機能しません。
また、戦力、軍の上下関係をおろそかにするのもよろしくない。混乱して力を発揮できなくなります。
また争いの規模が大きくなると軍事より外交のほうが優越するようになり、また共同体が安定すると軍事より政治のほうが優越するようになります。
身分が生まれたのち、より上の立場に立ったものが何を考えるかといえば、その身分の安定です。
そして下の立場にいる者も、まず今より下に行きたくないと考えるでしょう。
一番下にいる者たちはつらい思いをすることになりますが、飯も食べられず野垂れ死にするよりはまし、と受け入れざるを得ません。受け入れられなくなったら反乱を起こすこともあります。
上にはいきたいが今より落ちたくないというのはごく普通の考えです。下に行かずに済むように身分の間の壁を強固にしようというのは上に行けば行くほど強く思うでしょうし、下の者は逆らうことは難しい。なぜなら戦力を握っているのは上の階級だから。
こうして、全体の総意として身分の現状は維持されようとするのです。
これがひっくり返るにはいくつかの条件が必要です。
まず戦力をひっくり返すことができること。
つぎに民意、みんなで現状をひっくり返そうという強い意志で統一されることです。
どちらが欠けてもひっくり返ることはないでしょう。
反乱は鎮圧されますし意志が無ければ反乱すら起こせません。
戦力については比較的最近では銃の発明と普及がそれにあたるでしょう。
銃は使い手が子どもでも国の指導者を絶命させうる武器であり、それまでの武器とは一線を画す手軽さがあります。
というのは大げさでも、幼少時から訓練して武力を鍛えた戦士階級の者をそれ以外の階級の者が殺すことができるようになったのは事実です。
もちろん同じように銃を持っているならより訓練を積んだもののほうが上になりますが、同じ土俵にのるようになったというだけで大違いで、まぐれ当たりで致命傷になるというのもおおきい。
どんな屈強な戦士も反撃されて運が悪ければ死ぬリスクがあるという。
より少ない訓練時間で一定の戦力を保持できるようになったというのは戦士の専門性を低下させ、戦士階級の優位性が大いに薄れました。
その結果、これまで被支配階級であった人々が、政治参加を求めるようになります。
みんな可能ならもっといい暮らしがしたいので。そしてそれまで政治を占有していた者たちの優位が崩れたなら我慢する必要もなくなります。
そのための理論武装も生み出され、それは成し遂げられました。
いわゆる市民革命です。
もともと支配階級に不満を持ち反乱がおきることがあったところに戦力と名分が加わったのですから、自然な流れだったのでしょう。
これにて身分制は終了しました。
と思いきや。
実際のところはどうでしょうか。
新しい身分制度につながる過渡期かもしれませんし、実はまだ残っているかもしれません。
まあその辺は置いときましょう。
まとめると。
身分制も理があって存在しているということです。
それは共同体のもつ余裕と戦力の占有が大きな要因となっており、この二つの条件がなくなれば職業選択の自由と機会平等を訴える時代がやってくるでしょう。
仮に戦力の占有が解消されたとしても、専門化した技術や知識を選択したのち改めて専門教育を受けるだけの時間を許容すできる共同体でなければ崩壊するか頭が入れ替わるだけになると思われます。
共同体の余裕だけ伸びた場合は、支配階級が富むことになるでしょう。
あるいはその余裕を吸収した勢力が台頭し頭が入れ替わるか。
現代のわれわれが持つ自由はそれだけの積み重ねがあってのことである。そして、一歩踏み外せば北斗の拳のような世紀末状態となり、失われることもあり得ることを、知っておくといいかもしれません。
おもいつきでかきました