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異世界恋愛 短編集

水面の向こうの世界には

作者: 藍生蕗


 こんな事は大したものでは無いと思っていた。

 光を受けキラキラと輝く水面はいつでも綺麗で、村の大人たちが言うような魔物が住むだの、あの世に繋がっているだの、そんな噂なんて嘘っぱちで。


 ごぼりと息が漏れる。

 手を伸ばしてももう届かない遠い水面の向こう。

 重くなる身体は楽になろうと、諦め悪くそこに手を伸ばす。

(苦しい……)

 水面から見る景色と水中から見えるそれとは、こんなにも違うのか。纏めていた髪が解け、赤毛が海藻のように水中を漂っている。

 絶望的に届かない水の壁の向こう。

 ここに来た経緯を思い返し、セラナは再びなけなしの息を吐いた。


 ──もういいと思ったから。

 村の隣にある緑の深い森の中。

 ナハルの湖。

 一応この湖にはそんな名前がついているけれど、誰もそんな呼び方はしない。ひっそりとした森の中で、そこだけ陽の光を受けてキラキラと美しい。


 大人たちに来ては行けないと言われても、肝試しだの度胸試しだので来た事はあるのだ。バレれば後でこっぴどく叱られたけれど。

『この湖には魔物が住みついていると村の皆が信じている』

 魔物は人間の心を食べて? 食べられた人もまた魔物になってしまうとか何とかかんとか。

 だからここは魔物の湖──そんな名前で呼ばれていた。



 ◇



 セラナはそんな話を信じるような子供では無かったけれど、怒られて喜ぶような質でも無かったから、ここには近寄らなかった。

 けれどだからこそ今日は、大人たちの話す怪談もどきを信じて湖に足を浸した。そしてそのままザブザブと中に向かい、腰の辺りの深さになったところで止まった。


 何も起こらない。

 見渡してもそこはいつもと変わらぬ森の奥の湖の景色。深い緑を頭にかぶった木立が立ち並ぶ中で、ぽかりと空いた空間には、セラナが起こした波紋が広がるだけの、絵のように静かな湖が広がっていた。

 いつもの風景。


「やっぱりね」

 自嘲するように吐き捨てて、セラナは腕で水面を掻いた。

 ここに近づくだけで酷く怒る大人たちは、多分この深さで子供が遊んでは溺れてしまうと懸念したから。

 きっとそんな理由。

 噂だって故意に流されたものだろう。お化けが出るから近づくなと言われれば、大抵の子供は怖がるものだ。


 けれどセラナは今、お化けに会いたい気分だった。もういっそ魔物とやらに会い、食われでもすればもしかしたら……

(後悔してくれたかも、しれない)

 ぱしゃんと水音を立て、水面を一つ薙いだ。


『リオと付き合う事になったのよ』

 嬉しそうに顔を綻ばせるエマにセラナは固まった。

 サラサラの栗色の髪を一つにまとめ、同じ色の瞳を煌めかせている。小柄でリスのように可愛らしい女の子を前に、セラナの手の中で、頼まれていた買い物のメモがくしゃりと音を立てた。


『今日これから彼のお家に挨拶に行くの』

 嬉しそうに告げるエマに、セラナはそう、と口にした。

 言わなくても分かる。

 セラナだって分かっていた。

 エマがリオを好きだって。

 リオは癖のある淡い金髪に深い青の色の瞳を持った美男子だった。村の年頃の娘は皆リオが好き。

 だからエマも、セラナがリオを好きだと知っていたっておかしくない。

 だから行ってくるねの一言が「邪魔しないでね」に聞こえるのだ。


 ここは小さな村。話はあっという間に広がるだろう。

 セラナもエマも今年十六になる。リオは二十二歳──そろそろ適齢期だ。

 年頃の男女が付き合い始めるなら、自然と結婚を意識する事になる。だから親にも紹介し合って、村中に見守られ、やがて二人は結婚するのだろう。

 セラナは唇を噛んだ。


『おめでとう』

 どんな風に言えたのかは余裕が無さすぎて分からない。けれど向かい合うエマの顔は、ぱあっと輝く。

 ありがとうセラナ、と満面の笑みで駆けていくエマのひらひらと揺れるワンピースを見ながら、何故自分はエマを見送らなければならないのかと胸が悪くなった。


 見下ろせば自分は買い物に出るだけの、部屋着にエプロンを着けた野暮ったい格好。これからリオに会いに行くエマのお洒落な装いとは大違いだ。思わず奥歯を噛み締めた。


 出先で会ったのだって偶然じゃなくて、待ち伏せしてたんじゃないかとか。セラナの気持ちを知っててわざわざ告げて来るなんて性格が悪いとか、リオは趣味が悪いとか。


 考えれば考える程、自分を嫌悪する思考が頭を占めていく。セラナは泣き顔に歪む自分を誰にも見られたくなくて、湖のある森へと駆けて行った。


 飛び込んでやると意気込んで湖に入ったものの、不思議な事に水に入れば気は済むもので。

 濡れて身体に張り付く服や、髪が鬱陶しくなり指先で引っ張ってみる。


『何をやってるのかしらね』

 ははっと乾いた笑い声を立てて、セラナは岸に向かった。今はもうリオとかエマより、湖の水が冷たくて、びしょ濡れになった経緯を母に何て説明しようとか。そう言えばうっかりしていたけれど、夏が終わってもう結構経っていたんだった、とか。


 水は冷たいし寒い。

 思考はどんどん現実的な方に傾いていった。

 そこでふと気付く。

 ──という事は、案外これは成功だったのだ。

 ぽんと膝を打つ。


 気分転換というやつか。

 けれど次にこんな事があったら、もう少し弊害の少ないものを選ぼう。そんな思考も湧いてくる。

 気持ちをごまかして強がってみれば、何だか笑いたくなってきた。

 そうして勢いよく足を踏み出したところで湖の中の石に足を取られ足を滑らし、ザブンと沈んだ。



 ◇



 伸ばしても届かない水面の向こう。

 もがいて身体を捩った先には、暗く深い湖の底が見えた。

 そこでやっと理解する。

 セラナが歩いていたのは湖の浅い場所。あるところで急に底が深くなっている。黒く先が見えない底は夜よりも深く淀み、何も見えない。


 もしここに子供がいたずらに入り遊び場にしたら、誰が助けてやれるだろう。山に囲まれた小さな村に、泳げる人間などいないのに。


 セラナの背中にぞっと寒気が走る。

 寒いというなら水に入った時点でずっと感じている筈なのに、そんなものじゃない。そんなんじゃ足りない冷気がセラナに絡みつく。身体が重い。服が邪魔だ。

 死──


 軽んじていた気配があっさりと自分を掴んだ。

 こんな筈じゃなかったのに。

 ただ少し怖い思いをして、誰かに……リオに、心配されたかった。エマが自分のせいかもしれないと、自責の念でも抱いてくれたら良かった。

(そしたら私だって)


 何を思われても、思われなくても。

 自分に対する人の思いを測りたかっただけなのだ。

 そんなつまらない承認欲求を叶える為に、最低な事を考えたから、こうして湖の魔物に飲み込まれて死んでしまうんだろうか。

 酸素が無くなる。

 セラナの身体は抜けていく力と共に、ゆっくりと沈んで行った。



「馬鹿! 何やってるんだ!」

 怒声と共に、落ちていく水底とは逆側に腕を強く引かれた。

 遠かった水面が目の前に近づいたかと思えば、ザバリと音を立て身体が水上に引き上げられる。


 思い出したように肺が空気を取り込み、咽せ返るくらい必死で呼吸をしつつも、酸欠からくる目眩で目の前がぼやける。それでもセラナは目の前の何かに必死でしがみついた。


 心得ているのか、セラナを抱える腕はあっと言う間に岸に泳いで辿り着き、身体を押し上げ自らもセラナの隣に登った。

 ごほごほと咽せる背中を撫でる手に顔を上げれば、黒い髪にガラス玉のような水色の瞳がこちらを見つめていた。


「リトス……」

 声と一緒にぽとりと雫が落ちる。

「お前……! 馬鹿じゃないか? 何やってるんだこんなところで!」


 セラナの声を聞き一時止まってから、リトスは声を荒げた。その声も態度も怒りを表しているのに、元来物静かな人だからだろうか。大声、ではない……のだが、その分重みがあるように思えて萎縮してしまう。それなのに、


「別に」

 セラナはふいとそっぽを向いた。

 リトスはエマの兄だ。

 何だか敵に塩を送られた気分になる。


「おい」

 引き続きリトスの静かな怒りは続いている。

「どうしてここにいるのよ」

 けれどセラナは吐き捨てるように言い放った。


 そうじゃない。

 本当はお礼を言うべきだ。助けて貰ったのだから。

 リトスは街に行ってそこで暮らして……確か警備隊をしていて、だから──申し分無い程、命の恩人だから……なのだけど。


 震える唇を噛み締める。

「っ寒いのか? 急いで村に戻ろう」

「やめて触らないで!」


 心配顔で覗き込み、腕を掴むリトスを全力で拒絶する。

「放っておいてよ……」

 なけなしの強がりを口にすれば、出てきたのは酷く弱々しい声音で。

 助けて貰って強がって、リオとエマにしようとしていた事を代わりにリトスにしようとしている。

 相手が嫌な思いになれば、傷つけばいいと思っていた。


「──最低」

「……」

 最低なのは自分だ。

 でもいっそ勘違いして怒って帰って欲しい。

 本当は誰かを傷つける以上に、自分を傷つけたかったのだから。


「私……」

 理由をつけて泣きたかった。

「お前はなんで俺がこんなところにいるのか疑問に思わないんだな」


 予想外の言葉に顔を上げれば、透き通るような水色の瞳が真っ直ぐにこちらを向いていた。


 リトスはその髪色と性格のせいか、子供の頃は暗いと皆に敬遠されていた。けれど顔立ちは整っている方だし、声を掛けられないまま密かに彼を想う人も、まあいたと思う。

 彼は言わばリオとは真逆のタイプ。

 けれどセラナはライバル視していたエマの兄というだけで、何となく近づきたく無かったし、距離をおいていたような気がする。


 その水色の瞳を雫が伝い落ち、セラナははっと気がついた。リトスもセラナを助ける為に湖に入ってびしょ濡れだ。


「大変! リトス! 風邪引くわよ!」

「お前っ、何言って」

 はあ、と溜息混じりに額に手を添えれば、水のせいでべしゃりと音がする。今もリトスの身体は頭から水がダラダラと垂れ落ちて……


 セラナは焦った。自分しか見えてなかった世界が不思議と広がっていく。

「とにかく! 帰りましょう!」

 今はとにかく目の前のびしょ濡れのリトスを乾かして、早く温めないと。

 そう言って身体を捻れば、ぐらりと身体が傾ぐ。

「セラナ!」

 叫ぶリトスの声がセラナの頭にぐわんと響き、目の前が真っ暗く染まった。



 ◇



 人口二百人弱の小さな村だから子供の数だって限られていて。

 好きになる子だって大体被るものだった。

 リオは人気があった。

 年頃の女の子は皆リオに気にかけて貰いたくて。

 セラナもその一人。

 その他大勢の一人。

 でも大事に育ててきた気持ちは伝える事も顧みられる事も無いまま、皆ひっそりと摘み取って泣いてるの?

 だったら一人くらい……私一人くらい、声を大にして泣いたっていいじゃない。


 パチパチと火が爆ぜる音に気付き、セラナは目を覚ました。

 首を巡らせれば、ここはどうやら見慣れた自分の部屋のようだが、冬でも無いのに暖炉に薪がくべられていて。

 はてと首を傾げていると段々と記憶が掘り起こされてきてセラナは焦った。けれどどうやら室内には誰もいない。


 ほっと息を吐く。

 正直リトスがいたら気まずくて仕方がないところだった。

 そろりと上体を起こせば、くらくらと目が回る。

 再び横になりたい気分ではあるが、なんだか喉が乾いてしまって、セラナはサイドテーブルに置かれた水差しに手を伸ばした。


「あんなに水を飲んだのにね」

 一口喉を潤し、ぽつりと呟いた。

 と同時にドアがガチャリと開き、びくりと反応するセラナに驚いた声が飛んでくる。


「セラナ!」

「お、お母さんっ?」

 目を見開き駆け寄る母に、セラナは焦る。

 立入禁止の湖に入って溺れてずぶ濡れで気を失って……どれだけ怒られるだろうか。


 振り上がる母の手に反射的に目を瞑れば、次には柔らかい感触に包まれていて、セラナは拍子抜けに目を丸くした。

「え?」

「馬鹿! 具合が悪いならもっと早く言ってちょいだい! 真っ青な顔で玄関で倒れてて。三日も眠って……どれだけ心配したと思っているの!」


 セラナを抱きしめ肩を震わせる母にどうしたらいいのか分からなくて、目を泳がせる。

「ごめんなさい」

 ぽつりと溢れたたった一言が、セラナの胸も締めた。

 迷惑を掛けて、酷い事を考えて、自分勝手な行動をとって沢山心配をかけて……

「ごめんなさいお母さん!」

 セラナも母にしがみついて、声を上げて泣いた。



 ◇


 

 少しばかり落ちついたものの、母はまだセラナの世話をあれこれ焼きたがるものだから、何だか気恥ずかしくなる。

 そして聞こうとしては躊躇われるのは、リトスの事だ。

 彼は何て言ってセラナを家まで連れ帰ったのか……

 けれど母の話を聞いていると違和感を覚えるのは何故か。


 注意深く話に耳を傾けていれば、肝心のリトスの話が出て来ない。

 だけど聞きたくても聞けない。

 もどかしい気持ちで、どうでも良い話を続ける母の話を聞くとも無しに聞いていれば、母の口からリオとエマの名が飛び込んで来て、セラナははっと息を飲んだ。


 娘の様子を確かめるように一瞬間を空け、母は話を続けた。

「このまま行けばきっと二人は結婚するだろうねえ」

 少しばかり苦い思いに俯けば、ふと思い当たり、口にしてみる。


「だったら、結婚式にはリトスも来るわよね」

 その言葉に母は目を丸くした。

「まあ……そうなんじゃないの?」

「あ、もしかして、もう来てるのかしら? 両家の挨拶があるんだし」

 その言葉に母は首を捻る。

「さあ、そんな話は聞かないねえ」


 今度はセラナが目を丸くした。

 小さな村だ。人の出入りは直ぐに気付かれる。

 もしリトスが帰っているなら、誰かが直ぐに話題にしているし、三日も経てば村で知らない人なんていないだろう。

(もしかして……)


 来て直ぐに帰ったのだろうか。

 セラナの暴挙を話さなくても良いように。

(でもそれなら黙っていれば済む話だろうし)

 難しい顔をして考え込むセラナを、母は興味深そうに眺めてふっと息を吐いた。


「何だかねえ。あんたはリオを好きなんだと思ってたから心配してたんだけど」

 その言葉にセラナは、えっと言葉を詰まらせる。

「そんな心配いらないみたいだったね」

 ほっとしたように笑いかけ、母はセラナにそろそろ休めと口にしてカーテンを引き始める。


 しばらく母の観察眼に背中を強張らせていたが、薄暗くなった部屋に段々と瞼が重くなり、再び眠りについた。


 それからひと月後、リオとエマは正式に婚約した。半年後には結婚式があるという事で、村中その話題で持ちきりだ。

 セラナもまたその話に聞き入ったものの、婚約式に顔を見せないリトスに焦れた。

(何よ、家族が婚約したっていうのに)


 婚約式も村中が二人のお祝いをした。

 けれどその中にリトスの姿が無かったものだから……

 聞いて見ようと思うのに聞けないでいる。

 リトスの事なんて気に掛けた時なんて無いくせに、何故どうしてと言われる事が何となく嫌で。


(何で来ないのよ)

 実は村を出て行く若者は少なくない。

 村にいても生計を立てられない人の方が多いし、学や働き口を求めて村を出て行く。

(でも考えてみれば、リトスは長男だし家を継げばいいんだし、どうして出て行ったのかしらね)

 そんな事を考えていれば、リトスの名前が聞こえてきなものだから、セラナは慌てて耳を澄ませた。


「そう言えばリトスはどうしているんだね?」

「何でも街の警備隊の仕事が忙しいそうですよ」

 同じように不思議に思った人たちが、けれど場の雰囲気を壊さないように声を潜めて口にする。

「そうかね。村から若者が離れて行くのは、やはり寂しいものだな。結婚式には出られるんだろう?」

「流石にそれは出るでしょう」


 そこまで聞いてセラナはその場をそっと離れた。

「結婚式って……半年先じゃない」

 口をへの字に曲げれば目の前に人影が立つのが見え、セラナは、はっと顔を上げた。


「やあセラナ」

 にこやかに笑いかけてきたのは、リオだ。

「リオ」

 祝酒を勧められて断れなかったのだろう。

 折角の正装を、赤らんだ顔とフラつく足取りで台無しにしている。

「飲み過ぎじゃない?」


 元々リオはお酒が好きだ。

 ただ酒は趣向品で、普段から沢山飲めるようなものでは無い。だからと言って主役の一人が飲み過ぎというのもみっともない。

 思わず口にすれば、ムッとした顔が返ってきた。


「君って本当に情緒が無いというか何と言うか。こんな時は飲むものだ、お祝いなんだから。羽目を外して何が悪い? ……君の将来の結婚相手は大変だな。小言ばっかりで。その点エマはいい子だ。僕の言う事をちゃんと聞いて尊重してくれて……」


 飲んで気分がいいのか、リオは饒舌に語り出す。

 前はどんな事でもリオの話なら一生懸命聞いていたのに、今は聞き苦しい言葉に顔を顰めそうになる。

 それにリオはセラナをそんな風に見ていたと思えば。

(何だか白けるわ)


 もし今でもリオを好きなら、きっと今の言葉を真に受け、セラナは傷ついて自己嫌悪に陥っていた。

 でも今口にした言葉は、セラナが具合を悪くした時に母に掛けて貰う気遣いと同じで、セラナは嫌だと思わない。むしろ目の前に危なっかしい人がいるのに好きにさせておける神経の方を疑ってしまう。


 そうして気付く。

 今自分を、リオを俯瞰して見ていられるのは、リトスのおかげだ。

(リトスが助けてくれたから)

 死に身体を洗われ、こうして生に引き上げてくれたから、こうしてリオと背を伸ばして向き合っていられるのだ。そう考えればセラナは自分の身体が、かあっと熱くなるように感じた。


「リオ」

 背後から掛けられた聞き慣れた高い声に、リオと同時に振り返る。

「エマ」

「沢山飲まされちゃったのね、折角の正装が台無し。それに髪も乱れて、あっちで直しましょう」


「あ、ああ」

 てきぱきとリオの身嗜みを整えるエマにリオは気不味そうに目を泳がせたものの、その表情は緩んでいる。好きな人の言葉ならどんなものでも嬉しいものだ。

 すると、ふとエマは剣呑な眼差しでセラナを振り向いた。

「まだ何か用なの?」

「……え? 別に……?」

 セラナの反応にエマは疑わしそうに目を眇める。

 というか、祝いの席なのに今日の彼女は何か余裕が無い。


「困るのよね。まだ結婚してないからって、リオに言い寄る人が多くて。しかもお酒で酔わせてなんて最低だわ」

「……」

 確かにリオは人気があるけれど、それ程飲むのは本人が好きだからでもあるだろうし、こんな人目の多いこんな場所でそんな大それた事が出来るわけない。

 そんな風に言われては勧めた方も気分が悪いだろうけれど、それ以上にエマは神経質になっているようだ。


「エマ、婚約式にそんな話をしないでくれ」

「だって! あなただって勧められるまま断らないし、心配なのよ!」

「分かったよエマ、あっちで話そう」

 声を荒げるエマを宥めながら、リオたちは肩を並べて場所を移す。


 その背中を見送りながらセラナは改めて思う。

 同じ事を言っても自分とエマの言葉は違う。

 それはリオにはエマが特別だから。

 きっと以前なら打ちひしがれた事実な筈なのに、今は不思議と二人を見送る心が軽い。

「お礼、言わなきゃ」

 前向きな気持ちが、ぽつりと零れた。



 ◇


 

 翌日セラナは母を説得し、街に向かう手筈を整えた。まあいずれにしても、もう子供ではないのだから、働き口を探さなければならなかった。

(結婚を考えるような相手もいないし)

 何故か頭に浮かぶリトスを振り払い、赤くなりそうな頬をぺしぺしと叩いた。


 それでも住み慣れた村を、家族から離れて出て行くのは勇気がいるものだ。娘は大体そうだったから、村長が周囲の集落から結婚相手を見繕ってくれていた。

 まあでもそれも順番待ちだったりするから。

(案外いいタイミングだったのかもしれない)

 セラナは最初は様子を見てくるだけだと、過保護な母を説得して村を出発した。


 目指すはリトスが勤める警備隊。

 リトスに会って、とにかくお礼を言いたい。

 その気持ちだけで、村に週に一度だけ来る辻馬車に飛び込んだ。

(言いたい事が沢山あるわ)

 浮かれる気持ちと、躊躇い迷う気持ち。振れ幅の大きな感情に振り回されつつ、セラナは抱えていた膝に顔を埋めて、そっと目を閉じた。



 ◇



(街ってとても大きいのね)

 街の中心辺りに高く空を突く先端の尖った塔のような建物があり、それを囲うようにある沢山の家。

 加えて家だけでは無く、お店だって全部回るのに何日かかるんだろうという程ある。


 驚きに固まるセラナを辻馬車の業者は心配気に見る。どう見ても田舎者だし、加えて馬車と徒歩で四日も掛けて、既に身体はヘトヘトだ。

「一人で大丈夫かい? お嬢ちゃん」

「大丈夫! 知り合いがいるので!」

 けれど心は何故か元気になっていて。


(リトスがいる。やっと会える)

 はやる気持ちを抑え、セラナは警備隊のある場所へと駆けて行った。



 警備隊の建物は二階建の作りで、セラナの家が四つは入りそうな大きさだった。

 大きな街には屯所と呼ばれる場所が三つあるようで、中には隊員が寝泊まりする部屋もあるそうだ。

 それは道を聞きながら教えて貰った事なのだが、今セラナは、目の前に聳える屯所に口を丸く開けて呆けているところだ。


 驚きに声も出ない。

 けれど灰色の建物はどことなく排他的な雰囲気を醸し出し、声を掛けにくい。屯所の前をまごついていると、後ろから声が掛かる。


 振り返れば浅黒く日焼けした、年齢のよく分からない筋肉質の男がセラナを見下ろしていた。

「どうした? お嬢ちゃん。警備隊に何か用かい?」

 男の雰囲気に身動ぎし、後ずされば今度は男の後ろから、くすくすと笑い声が上がる。


「お嬢さんに怖がられていますよ? 副団長」

 そう言って浅黒の男より少し若い雰囲気の男が、首を傾げてセラナを見た。セラナは急いで口を開く。

「わ、私あの。リトスの知り合いで。ここにいるって聞いてっ」

 たどたどしく言葉を紡げば、向かいの男達は二人共目を見開いて、そのまま顔を見合わせた。



「結構前に……」

 セラナは膝を突いた。

 誰も使っていないかと思われる、静かで無機質な部屋はリトスのものだと言う。

 そこは静かな印象の彼とは合っているかもしれないけれど、それ以上の静寂が物語るものに背中が冷える感覚が蘇る。


 容易く触れられるほど近しくない間柄だったと思い至り、セラナは伸ばしかけた手をベッドの縁に掛けた。

 そこにはリトスが眠っていた。

 ずっと眠っているのだそうだ。

 もうずっと、少なくとも半年は前から。


「どうして」

 声がぽつりと溢れる。

「警備の仕事の一環で、山に盗賊団を追い込んだ事があったんだが──」

 先程副団長と呼ばれた男性はイラダ。

 一緒にいたもう一人の男性はマシェルと名乗った。

 話し出したのは副団長のイラダだった。

 リトスは崖から落ちたんだそうだ。

 それが原因で意識を無くしたまま、今日までずっと……


「リトス」

(じゃあどうやって私に会いに来たのよ)

 どうして助けたの? どうやって?

 誰かを助けるのが使命だから?

 ぐるぐる回る思考に首をもたげ、セラナは項垂れた。

「実は怪我をしたばかりの頃、ご実家に連絡を入れたんだけど、どうにも返事がなあ……」

「リトスは家の話をあまりしたがらなかったし」

 その言葉にセラナはゆるゆると顔を上げる。

 そうだったかもしれない。


 いつも溌剌としたエマと、どこか物静かな印象のリトス。

 村中が、両親だってそう見ていた。

 ──対照的な兄妹。

 家族間で何があったのかは知らないけれど、どこか周りから浮いていたリトスの事は、もう無かった事にしてしまったのかもしれない。面倒だ、と……


「お嬢ちゃんが会いに来てくれて良かったかな。今日ここを出て行く事になっていたから」


 その声にセラナは、はっと顔を上げた。

 セラナの瞳に少しだけ戸惑いを見せ、マシェルが口を開く。

「医療の専門機関に身柄を渡す事になったんだ。もうここでの治療は、ね」

 半年も寝たまま、もしかして家族を待っていたのだろうか。

 他の隊員たちも限界だったのかもしれない。

 ぎゅっと胸が苦しくなる。

「寝ている症状に近いから、話しかける事も回復に繋がるそうだ。お嬢ちゃん、いる間だけでも声を掛けてやってくれ」


 そう言って二人は部屋を出て行った。

 部屋に一つだけあった椅子を引き寄せ、セラナはそこに座り直し、じっとリトスの顔を覗き込む。


「リトス、どうして……」

『どうして俺がここにいるか考えないのか?』

 ふとリトスが掛けた言葉が頭に浮かぶ。

 聞きたいのはこっちの方なのに、何故か追い込まれている気分になる。


「どうしてって……」

 警備隊だから。

 人命救助が仕事だから。

 だから仕事で意識を失って戻って来なくて……

 だけど


『死んでも助けたかったのはお前だからだ』

 聞こえる筈の無い声が胸を打った。

「死んでないじゃない」

 思わず声が震える。


 でも、警備隊の屯所を離れなければならないのは、もしかしてそんな理由があるのだろうか。

 嫌な予感が頭を占める。

「そんなの嫌! リトス!」

 何もしてないのに、お礼も、感謝も……話したい事が沢山できた事も!


「起きてよ!」

 あの湖の底は冥界に繋がっていて、だからリトスがセラナを助けられたというなら。

「返すから」

 命を

 貰ったものを、足りないものも

「あげるから……」

 静かに眠るリトスにそっと口付けた。

「戻ってきて……私もリトスが好きになったの」

 だから助けてくれたんだよね。


 リトスの胸に額を押し付け、セラナは声を殺して泣いた。

 もっと早く気付いていたら。

 リトスを見ていたら。

 ポロポロと溢れ出す涙をリトスの寝巻きに染み込ませ、セラナは嗚咽を漏らした。


「──正解」

 首の後ろに温かく逞しい感触が当たる。

 ばっと顔を上げれば寝起きのせいか、眩しそうに目を眇めるリトスの顔があった。


「リトス?」

「お前が好きだから助けられたんだ」

 引き寄せられれままリトスに近づき顔を覗き込む。

「お、起きたの? どうして?」

「分からない。けど──」

 ぎゅうと抱きしめる力が込められる。


「セラナも俺の事を好きになったからかもしれないな」

 命を懸けた結果。

 命を賭けたから捕まえた。

「良かった」

 遠慮なく抱きしめるリトスからセラナは慌てて身を起す。大人しいと思っていたリトスの熱と力強さに胸がざわめいて仕方がない。


「リトス、お医者さんを呼ばなきゃ!」

「医者なんていいからセラナが傍にいてよ」

 不服そうに眉を寄せるリトスをベッドに押し付け、セラナは部屋を飛び出した。



 ◇



 その背中を見送りながらリトスは残念に思う。

 でもまた直ぐにこの腕に抱けると思うと口元が緩んだ。


 何故かなんて分からない。

 ただリトスはずっとセラナが好きだっただけだ。


 燃えるような赤毛に、気が強くてお節介な質の人。

 妹をライバル視してたから、自分とはどこか距離を置こうとしてたようだけれど。

 元来の気質のせいか、彼女は人から敬遠されがちなリトスにも遠慮なく構った。本人はそこに特別な意味は無かったようだけれど。リトスの心は掴まれた。

 そして好きだったから、こちらを見てもらえない事から目を背けたくて、家を出て街で暮らす事を選んだ。


 家族もリトスが家業を継ぐ事に不安があったようで、止めはしなかったが、その代わりもう戻って来るなと突き放された。一応長男なのに、家を出る事を選んだ息子を許せなくもあったらしい。

 勿論妹は喜んだ。


 多分、妹は片恋していた相手を入婿にして囲い込みたかったんだろう。リオは次男で、寄宿舎に通う兄に代わって家の手伝いをしていたから、いずれ出ていかなくてはならない立場だった。けれどその兄も帰る時期が近づいていたから……あの妹は案外策士なんだ。全て画策した訳では無いけれど、今の状況を後押しする事は抜かりなくしてきた。


 リトスの家は林業とは別に細やかな木工細工を商売にしていて、村では二番目に裕福だ。リオも満足するだろう。


(……執着する質なのは兄弟揃って同じなんだな)

 リトスは一息吐いて天井を見つめた。


 死んでもいいと思った。

 だから危険とされる警備隊に入ったのだ。

 自分の事を一切見ない幼馴染(セラナ)が、それで一瞬でも振り向いてくれるなら。彼女に何か残るなら。

  

 そんな思いが繋がった。

 それはきっと二人に巣食った魔物。

 浅く深く漂う眠りの中で、自分を揺らした同じく死を望む声。

 呼ばれた訳では無い。けれどリトスは反応した。


 そしてもし……彼女が誰かの為に死ぬというのであっても、その道を共にするのは自分でありたいと、そんな望みを持った。

 気付けばナハルの湖にいて、溺れもがくセラナを目の当たりにして必死で引っ張り上げていた。彼女が原因で入った警備隊勤務が、彼女の命を掬い上げる事に役立った。


 そしてその瞬間は一緒に死にたいなんて考えは何処かへ飛んでいて。

 生きて欲しいと思った。

 単純な自分の思考に苦い笑いが漏れ、気を失ったセラナにそっと口付けた。



 指先を唇に触れさせる。

 返してもらった熱は、身体を芯まで温め、熱まで起していった。

「リトス!」

 やがて駆けつけた副団長や、屯所に残っていた隊員たちが部屋に雪崩れ込む。

 その中の一人にリトスは両腕を広げた。


「セラナ」

 躊躇いがちに近づく彼女は、隊員たちの視線が気になるようで……

「リトス、お医者様はもうすぐ来るわ。だから」

「じゃあそれまで君を抱きしめさせてくれよ」

 てらいもなく、さも当然という風に笑いかければ、戸惑いながらもセラナは応えてくれた。


 温もりに頬が緩む。

 あの湖に二人沈んでいくより、こうして身を寄せ合って痛みや苦しみに向かって生きていくほうが、ずっと幸せだと思った。


 けれどそれは君と二人だからという条件が勿論付いていて。

 リトスは囃し立てる隊員に笑みを返し、恥ずかしがるセラナを更にきつく抱きしめた。


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