第6話 神との闘い
カイルはその場から三歩ほど後ずさった。
次の瞬間、大地が爆ぜるような勢いで前方に飛び出したかと思うと、神速の太刀さばきを見せた。
鈍い音がして鉄剣が弾かれる。神は指一つ動かしていない。鉄剣を弾いたのは大蛇のような尾だ。
振り戻される尾に抱きつき、カイルは背後に移動する。
鋭い鱗にかき切られ、少年の逞しい腕から鮮血が迸った。
鬣のような体毛に覆われた背に向けて再び渾身の一閃を放つ。
神の翼がふわりと動いた。
カイルは弾かれるように後方に吹き飛ぶ。
背後の巨木を足場にして、再度、神へと飛び掛かる。森を熟知したカイルならではの離れ業だ。
自身を一本の矢のようにして、突き気味の斬撃を試みる。白く露出した首筋に狙いを定めて。
本気で命のやり取りをする時の、それはやりようだ。
神の手が動いた。
少し首を傾げ剣撃をかわすと、その刀身を掴みカイルもろとも前方へ放り投げる。
まるで獣のようなしなやかさで、空中で身をよじり、難なく着地してみせたカイルは、そのまま地を這うような姿勢で神へと駆け寄る。
その視線は、猛禽のような足元に注がれている。
再び、おぞましい大蛇が大地ごとえぐるような軌跡でカイルに迫る。
不意に、カイルの軌道が変わった。
地を迫り来る大蛇を一蹴りすると、その身を伸び上がらせながら下から上への斬撃を放った。
低い姿勢から伸び上がった力と、地を走る尾を蹴った反動とが合わさって、剣筋はこれまでで一番鋭い。
だが。
その切っ先が神の顋を捉えようとしたその時、カイルの体は再び宙を舞っていた。
伸びきったその胴体に、神の拳が突き入れられたのだ。
さしものカイルも受け身をとることが叶わず、まともに地面に叩き付けられた。
下草の繁る大地が衝撃を吸収し、致命の傷には至らなかったが、それよりも神の拳による手負いが深刻で、ついにカイルの足が止まった。
それは、瞬きをする間のできごとだった。
レイは、そのあまりにでたらめな攻防にあきれかえっていた。眼前で繰り広げられる神と幼馴染みとの死闘は、認め難い厳然たる事実を残酷に突き付けてくる。
自分と手合わせをしてきたカイルは全く本気ではなかった。
あの鋭い剣捌き、あのしなやかな体捌き、そして迷いのない烈迫の気迫。それらをどう処すればいいのか、レイには皆目見当もつかない。
そんなカイルが、全身のそこここから血を滴らせ、体を折り曲げ肩で息をしている。神への一太刀は絶望的なほどに遠い。
それでも。
それなのに。
カイルの瞳は希望に輝き、その場の誰よりも生き生きとしていた。
深く一呼吸ついてから、カイルはおもむろに神へと歩を進める。
それは、見たこともない不思議な歩法だった。一見すると、ただ無防備に正面から近付いているようだ。しかし、一度事が起これば即座に反応してみせるに違いない、そのような足捌きだ。
足の裏は地に着いているようで着いておらず、常に最大速力で即応できるよう、足腰に瞬発力を蓄積しているように見える。
「まるで草を食む獣だな」
愉快そうに言うと神は、その長大な尾で再び地を薙いだ。
カイルの体が宙を舞う。
尾に打たれたのではない。自ら跳躍したのだ。
高い。
およそ人の跳躍とは思えない。
落下するに任せて、カイルは叩き付けるように剣を振り下ろす。
神が動いた。
跳躍ではなく飛翔だ。
飛び上がりながら、鋭い爪で剣撃をいなす。
鉄の剣から火花が散った。
着地したカイルはすぐさま、飛翔する神を追う。
彼の膝には一体、バネでも仕込んであるのかとあきれるほどの跳躍で、神に追いすがる。
左手が尾の先にかかると、ほとんど指の力のみで、自身を神の巨躯の上へと持ち上げる。
中空を漂う神は、その身をよじりきりもみしてみせた。
背の鬣にしがみつくのが精一杯だ。
神はさらに高度を上げる。
背に取りついている限りは、翼の風圧で吹き飛ばされることはなかったが、見たこともない高さからの景色に思わず足がすくむ。
ついに高度は樹冠を越えた。
まだ若い陽光が存分に降り注ぐ。
不意に、風にあおられた神の頭髪の隙間から、小さな緑の光が漏れる。
それは、首筋あたりの髪を一束、結わえ付けた小さな鉱石が、朝日を弾いて見せた光だった。
翡翠だ。
カイルは胸に込み上げるものを感じた。目頭が熱く今にも涙がこぼれそうなのに、口許が綻ぶのを抑えられない。この時の少年は、世にも不思議な表情を浮かべていたに違いない。
神は上昇を止め、中空に急停止した。
最早恐怖は感じていない。
強い反動に身を任せ、カイルはしがみついていた手を離し、さらに上空へとその身を投げ出した。
緩く弧を描くようにして神の表へ回ると、落下するに任せて大袈裟の軌道で剣を振り下ろす。
神が右手を突き出した。
が、その爪が一瞬、獲物を見失ったように止まった。
カイルの背後からは、まばゆい光矢が注がれている。
奇跡は目前だ。
が、今度はカイルの体勢がわずかに崩れた。
神の髪の隙間から、緑の鉱石が光の矢を反射している。その小さな光の矢が、カイルの瞳を射止めた。
遥か上空で、神の翼が起こす旋風の中、体勢を維持することは容易ではない。
なおも剣を振り下ろそうとするカイルを、神の右手が無情にもなぎ払った。
少年の体が宙を舞う。
この高さから落下すれば、いかなカイルと言えど命はないだろう。
胸のあたりが切り裂かれている。
少年は満ち足りていた。
10年の想いは全てぶつけたし、過ぎるほどに答えてもらった。
澄みわたる空を見上げながら、星の重力にその身を委ねる。
少年は微笑んで瞳を閉じた。
ふわり。
果たして、少年の体は地面に叩きつけられることなく、中空で柔らかく抱き止められた。目を開ければそこには、喜色満面の神がいる。
神は、カイルが未だ手放さずにいた鉄剣の刀身をその手でつかむと、そっと自身の胸元に押し当てた。
「お前の勝ちだ」
その笑顔は慈母のように暖かい。
「あんたの名は…?」
少年は問うた。
「セシエル」
神は答えた。