第4話 再来
「獣の神が戻って来た!」
村長の屋敷へ息せき切って駆け込んで来たのは、アムガー・ダインだ。
村の外れで田畑を耕して暮らす偏屈な老人である。しかし、彼の育てる農作物は絶品で、頑固だが真っ直ぐな人柄が作物に反映されているのだと、村人たちは口々に噂した。
そんなアムガーじいさんの言葉はだから、決して軽くは扱われない。
10年前、北の森から巨大な影が飛び立つのを見たと言ったのも、実はアムガーじいさんだった。その年に彼は連れ合いを失っている。
以来10年間、畑仕事に精を出しながらも、北の森への注意を怠ったことはなかった。
夕刻、村の主だった人物を集め、緊急の会合が開かれた。フューザック・サイゼラは、村長としての考えを簡潔に述べた。
まず、村を守ることを第一に考えたい。
アムガーじいさんが目撃した影が、事実、獣の神だったとして、それがすなわち魔獣の侵攻に結び付くのか。
いたずらに森を刺激して、自ら脅威を呼び寄せるような愚は避けねばならない。
とは言え、このまま捨て置くにはあまりにも事が重大だ。
いずれにしても、森の中の様子が分からねばこちらも対策の立てようがない。
そこで、少数精鋭による森の調査を提案したいが、いかがか?
特に反論は出なかった。
「ただし」とフューザックは続けた。
ただし、今回の調査にはカイル・コストナーの協力が必須だ。
彼抜きには、森の魔獣を刺激せずに進むことは不可能と思う。
ゆえに、彼の助力が得られない場合は、森への調査は中止し、当面は村の守りを固めるが最善と思うが、いかがか?
これも、特に反論は出なかった。
こうして、その日の夜には、全村人に向けて触れが出され、同時に、森へと赴く人員の選抜が行われた。
多くの人々にとって森は、未知の領域であり恐怖の対象だ。それでも人選は滞りなく進められた。
自警団長のガイ・グラント、その息子レイ・グラント、そしてガイが信頼を置くいくたりかの腕自慢たちだ。
カイルの説得には、自警団長自らが赴いた。カイルの助力を得るためなら、この若輩者にいくらでも頭を下げるつもりだった。果たして少年は、意外なほどあっさりと申し出を受け入れた。むしろ、放っておけば今にも一人で飛び出して行きそうな勢いだったので、調査隊の出発は予定を早め、翌早朝となったのだった。
森の奥へと進む道程は、驚くほど穏やかだった。それは、カイルが10年間通い続けた道だ。今や森の獣たちも、この道を軽々に侵そうとはしない。
魔獣の脅威がなければ、なるほどそれは確かに、恵みの森と呼ぶに相応しい様相だ。深く濃い緑に支えられた大地は、そこに数多の生命が息づいていることを教えてくれる。
殿を務めるガイ・グラントは、油断なく辺りを警戒した。
「ひっ!」と小さく声を漏らしたのは、カイルの後ろを行く屈強な青年だ。
一行の行く手に、一頭の魔獣が現れたのだ。
その姿は概ね、人々のよく知る馬に似ている。しかしその体躯は、そこらの馬とは比較にならないほど逞しく、目の覚めるような美しい青毛が、ミルボに降り注ぐ木漏れ日を弾き、神々しい燐光を放っているかのようだ。
そして何より、額から突き出たささやかな角が、馬ではない何かであることを物語っている。
警戒する一行を制してカイルは言う。
「大丈夫、あの青毛は森の中でも一番話の分かるやつだ」
しばしの沈黙の後、青毛の一角獣は森の木立の中へ消えて行った。
一行は再び、森の奥を目指す。
奥へ奥へと歩を進めるにつれ、木々の層は厚くなり陽光は薄くなってゆく。幾重にも折り重なった枝々は、まるでそれ自体が一個の生物のようで、一行は、巨大な何かに補食されているかのような恐怖を感じていた。
深緑に彩られた薄闇をどれほど進んだか分からなくなった頃、不意に、ぽっかりと開けた不思議な空間に出た。
そこに"彼女"はいた。
"彼女"と呼ぶことが適当かどうか分からない。
その姿は、人のようでもあり獣のようでもあり、それでいて人でもなく獣でもない。
胸から上だけ見れば、美しい妙齢の女性のように見えなくもない。
妖艶で、それでいて鋭い眼光を放つ瞳は、琥珀色の燐光を帯びて闇夜の中でも全てを見透かすようだ。
長く豊かな頭髪は、背中から繁る馬の鬣のような体毛へと続いている。艶やかな黒に見えるそれらはしかし、森の木漏れ日を弾く時、深緑の真実を現す。
二つの乳房まで存在するに至っては、彼女も人から産まれ落ちた何者かであるようにも思えるが、その豊かさと言えばおよそ人知を超えたものであり、そこに神を見出だすより他ない。
男たちはその場から一歩も動けずにいた。
確かに彼女は、息を飲むほどに美しかった。しかし、屈強な男たちの足を大地に縫い止めてしまったのは、その美しさのせいばかりではない。
大きく骨張った両の手から伸びる鋭い爪は、男たちが身にまとう革鎧など容易く引き裂き、心の臓をえぐり出すだろう。足先に至っては最早、猛禽のそれに近い。
腰の辺りから伸びる大蛇のような尾は、虹色に輝くおぞましい鱗に覆われ、その一振りは大木をも薙ぎ倒し、一度からめ取られれば生きて逃れる術はないだろう。
そして何より、あの巨大な翼はどうだ!
空のものとも、山のものとも、海のものともつかないその両翼は、今はその背に折り畳まれているが、彼女が天空へと舞い上がる時、辺りの矮小な存在など翼の巻き起こす突風に吹き飛ばされ、その巨影により太陽さえも覆い隠されることは疑いもない。
まるで息をすることさえ忘れたかのような戦慄の中から、一歩歩み出た男がいた。
カイル・コストナーだ。
いかなカイルと言えど、神の威を浴びては平心でいられないようで、息は荒く足取りは覚束無い。レイも、これほど取り乱したカイルは見たことがなかった。
それでも、永遠とも思える時間をかけて、カイルは神の御元へ辿り着く。大柄なカイルが並ぶことで初めて、神の巨躯が明らかとなる。
カイルは、この醜くも美しい獣の神を見上げ、鉄の剣を突きつける。
一行にさらなる緊張が走った。
神と対峙した少年は、絞り出すような声で、しかし力強い意志を持ってこう告げた。
「俺の…嫁になってくれ!!」