第2話 キュフレルの川辺で
「カイル、ここにいたの?」
ある晴れた日の朝、まだ陽も登らぬうちに日課の北の森探索に出かけたカイルは、キュフレル川の上流で、道中で仕留めた魔獣の血抜きをしていた。ここから北の森は目と鼻の先だ。村人たちも滅多に近寄らない。
「今日は大イノシシね」
そんな村の外れで、血生臭い作業にも物怖じせず、カイルに話しかけてくる少女の姿があった。
「うん。俺に向かってきたのだから、まだ若い個体だ。でも、すごくいい体格だ。毛皮も美しいし牙も大きい。肉は少し固いかも知れないな」
カイルも少女と話す時、自然と饒舌になる。穏やかな空気が、そこにはあった。
フュリー・サイゼラ。
ここ、サイゼラ村村長の一人娘である。
深緑の長髪をなびかせ、こんな辺境には不釣り合いなほど気品ある立ち居振舞いは、最早少女と呼ぶには相応しくない。一方で、大きな瞳に時おり映る好奇の心や負けん気の強さが、ただの箱入り娘ではないことを如実に物語っている。
カイルとレイ、そしてこのフュリー、同じ年に生まれ18を迎えることができたのはこの三人だけだ。中でも村長の一人娘であるフュリーは、魔獣の襲撃に際しては誰よりも優先的に守られた。そのことが自責の念となり、今なおフュリーを苦しめている。
しかしこの村で、傷を負っていない者などいない。
少女はいつしか、苦しみを力に変え、村長の娘としての責務を全うする決意と覚悟を、若い魂に刻み付けていた。
「よくそんな大きなイノシシ、一人で担いで来られるわね」
感心を通り越してあきれ気味に、フュリーは呟く。しかし彼女は、カイルがこうして仕留めた獲物の処理をする様が好きだった。
カイルにとって魔獣は、家族を根こそぎ奪っていった憎い存在のはずだ。しかしこうして、血抜きを施し解体していくカイルからは、不思議とそんな雰囲気は伝わってこない。どこまでも丁寧に、とても大切な、尊いもののように扱っている。
「父さんがね…」
カイルの作業を川辺で眺めながら、フュリーは話し出す。
「また、あの話をカイルにって…。うちに、婿入りしないかって…」
これまでに何度か持ちかけられた話だ。天涯孤独となったカイルの行く末を案じての、村長の提案だが、無論、彼の並外れた実力を見込んでのことでもある。しかし、自警団にさえ入ろうとしない男が、村長の家に納まることなど、あるはずがなかった。
「つまり…、私と夫婦になるってことだけど…、別に、カイルに村長としての仕事をしろってわけじゃなくて…、あんたがうちに入って支えてくれたら磐石っていうか…、私も、その…別にイヤじゃないし…」
この話になるとさすがのフュリーも、毅然としてはいられなかった。
つまりはそういうことである。
そしていつも、結果は同じだ。
「ふぅ…。すまないな、フュリー。俺はどうやら、お前より二回り胸の大きな女性しか愛せないようなんだ」
無神経な野生児の万死に値すべき暴言を受けて、フュリーの気品ある淑女然とした立ち居振舞いは、いずこかへ消え去った。
「あんた…去年は一回りとか言ってたくせに、何をもう一回り増やしてんのよ…」
低くくぐもった声には、蒼白い怒りの炎が揺らめいている。
「うん、フュリーもこの一年でいくらか成長したのだろうが、俺の好みもそれ以上に成長したということだな」
蒼白い怒りの炎に、カイルがさらに油を注ぐ。
村長の娘の我慢も、最早限界だ。
「…この…バカイル~!!」
村の片隅で怒りを叫ぶ少女の声はしかし、爽やかな朝日を弾くキュフレル川のせせらぎに、優しく飲み込まれてゆくのだった。
だが、この時既に、二人には予感があった。
根無し草がこの村に長く留まることは、おそらくないのだろうと。