第0話 獣の神は笑う
ここは深い森。
鋭い牙の獣、硬い鱗の獣、強靭な四肢の獣たちが跋扈する心地好く秘密めいた場所。
おや?
こんな所に場違いな珍客が一つ。牙も鱗も、棘も毒も持たない、小さな人間の子が一つ。
身の丈に合わない、鉄から鍛えた刃などを携えているが、ここは深い森。腹を空かせた獰猛な獣に難なく追い詰められている。
こうなっては仕方がない。か弱い人間の子にできることと言えば、こんな場所に迷いこんだ己が不運を嘆きながら、獣の腹に納まることのみだ。
………。
これはしかし、どうしたことか。先程まであれほど猛々しく振る舞っていた鋭い牙の獣は、不意にその身を強ばらせ、そそくさと去って行くではないか。
ああ、そうか。私としたことが、いささか不用意だったようだ。立場もわきまえず、彼らに近付き過ぎた。あの獣は気付いてしまったのだ。私の存在に。
森の獣は獰猛だ。一振りで肉を抉り、一噛みで骨を砕く。
森の獣は強靭だ。厚い毛皮は鉄も通さず、毒を食らいながらなお生き続ける。
だが、獰猛で強靭な、愛しい獣たちは、私の前にひれ伏す。そのように生まれ落ちたのだからどうしようもない。
私は、獣たちの上に君臨する神なのだから。
さてしかし、これは困った。不意に命を繋ぎ止めたこの小さき者を、私はどう処するべきか。見れば、あちらこちらから血を流している。どちらにせよ、いずれ獣の腹の中だ。
とりあえず私は、この小さな人間の前に立つ。
驚いた。獣の神を前にしてこの人間は、その闘志いささかも衰えず、不釣り合いな鉄の刃を私に向けて来る。そんな物では私の体に、傷一つ付かないというのに。
私の爪で心の臓を抉ろうか。私の牙で喉笛を噛み千切ろうか。私の尾で体ごと凪ぎ払おうか。それともこの翼で空へ舞い、遥か雲の上からどこぞへ投げ捨ててしまおうか。
…だが、それではあまりに面白くない。永の命を生きる私にも、戯れは必要だ。
私は、目の前の小さな命をとりあえず保留する。
「小さな人間の子よ。ここはお前のような者がいて良い場所ではない。早々に立ち去るが良かろう。私が指差す方へ、振り返らずに真っ直ぐ歩いてゆけ。じき、人里に出るだろう」
慈悲深くも私は、生還への道筋を示してやった。そしてもう一つ、大切なことを伝えるのも忘れない。
「そして、大きくなったら、再び私の元へ戻って来るがいい。その時は美味しく喰ろうてやる」
私は高らかに笑いながら、走り去る少年の背を見送る。あれだけ私の匂いをまとっていれば、獣たちも近付きはすまい。そうして事もなく、我らとは縁なき人の暮らしに戻ってゆくのだ。
…そう思ったのだが。
この小さな人間は、よくよく私を驚かせてくれる。一目散に逃げ帰ったかに見えた少年が、再び私の眼前に現れる。相も変わらず無言である。無言で私に何かを差し出す。その小さな手には、淡く光る緑色の鉱石。
翡翠だ。
礼のつもりだろうか。人の世では魔除けの石として重宝されていると聞く。神たる私に魔除けとは片腹痛いが、こんな幼子が意味を知るはずもない。
私が少年の手から翡翠を受け取ると、今度こそ少年は一目散にかけてゆく。振り返らずにかけてゆく。
私は柄にもなく、小さな人間がくれた小さな翡翠の欠片をしげしげと見つめる。
どうやら私は、笑っていたようなのだ。