08:晩餐の夜は更けて
ライアン・ソーンの思わぬ帰還に、ドーソン夫人は驚いたが歓迎した。
「ローズウッド邸の様子を見に来たのですよ。改修が必要と思いまして」
そう説明する隣人に、ドーソン夫人が待っていましたとばかりに動く。
「もっともですわ。ミス・ソーンはお若くていらっしゃるのでしょう?
明るく過ごしやすい家にして差し上げないとね。
私、腕の良い職人を知っていますわ……」
「ご親切な申し出に感謝します。必要になりましたらお願いしたいものです」
「必要になったら? 必要に決まっていますわ!
それで、あなたはローズウッド邸にご滞在で?」
「いいえ。近くの宿屋にでも泊まって、通おうかと。
ローズウッド邸に入りましたが、埃っぽく湿気が溜まっていて、とても休める感じではありませんでした」
「人が住まない家は、あっという間に痛むものですよ。
ああ、でも、それでは不便でしょう。よければハートヒル邸にご滞在下さいな。
ここならローズウッド邸まで歩いていける距離よ。遠慮することなんてないわ。
私はあなたのお父さまの頃から親交があるんですからね。親も同然よ。それに、これからまた善き隣人として付き合うのですもの。妹さんたちが来た時に、私が大事なお兄さまの不便を見て見ぬふりをするような女と思われたくないわ、ね、だからどうぞ、ミスター・ソーン。このローズウッド邸にお泊りなさいな!」
ライアンは渋ったが、結局はドーソン夫人に押し切られた。
ライアンがハートヒル邸に滞在すると聞いて、さすがにアリシアの気持ちは揺れた。
「大丈夫よ」とアリシアは自身に言い聞かせる。「もう彼は私になんの興味もないはず。だって、今までなんの音沙汰もなかったのよ。それに、私はもうすぐ婚約する身なんですからね」
***
夕食の席はライアンに加え、エドワードが呼ばれた。エドワードはいつもと変わらない様子だが、玄関先で出迎えたアリシアへの挨拶にはどことなく親愛の情が込められているように感じられた。出来れば二人で話し、気持ちをエドワードの方により傾けたかったアリシアだったが、彼は新しく客人となったライアンへ興味を向けた。彼自身はローズウッド邸に定住するつもりはないらしいが、その妹はやってくる。親しく近所づきあいをしたいと思ったらしい。またライアン自身の物腰にも好感を抱いたようだ。生憎、ハートヒル邸にはエドワードの話し相手になる成人男性は少なかった。二人の会話はよく弾んでいた。
おかげで、アリシアはライアンと話さなくて済んだし、視線もそちらに向ける必要もなかった。エドワードの前で、迂闊にもライアンとの過去を知らせるような真似はするべきではないだろう。
「そうそう、アリシアもミスター・マーチンも一年前にこちらにやってきたのよ。
二人は親戚同士でねぇ。とても仲が良いの」
男二人の会話にドーソン夫人が口を挟み、アリシアとエドワードの続柄をライアンに説明する。
「そうなのです。とは言え、私の家はそれほどのものではありません。息子に教育を施すのが精一杯でした。
レインバード邸には行ったことがありませんが、立派なお屋敷で、大変な権勢とお聞きします」
彼にも相続する可能性があるが、それはジョセフに何かあった場合である。そして、そんなことは勿論、あってはならないことであり、エドワードは思いもしないことである。
かつて自らも同じような身の上であり、そのあってはならないことによって、莫大な財産を相続した男は、なぜか羨望の眼差しでエドワードを見た。それから、アリシアに目をやる。
「私は何度かレインバード邸を訪問したことが。ねぇ、ミス。クロウ」
「……ええ」とアリシアはライアンの方を見てしまった。視線が絡む。頬が染まったが、それは恥じらいではなく怒りである。エドワードの前でレインバード邸に訪れたことがあるなど、余計なことを言わないで欲しい。ドーソン夫人も驚いた顔をしている。
「あら、そうですの。そんなお話、聞いていないわ。
アリシア、ミスター・ソーンとレインバード邸でお会いになっていたの?
それは知りませんでしたわ」
「特にお話することもないと思いまして。
レインバード邸の隣人のミスター・ブレイクの客人としてミドル州を訪れていましたの。それで父が招待したのですわ」
自分目当てではないこと、隣人の礼儀としてライアンを招待したにすぎないことを、ドーソン夫人以下、出席者に強調してから、アリシアはライアンに微笑んだ。
「そうだわ、ミスター・ブレイクとはご連絡を取っていますか?
私は手紙をやり取りしていますので、よければ、近況を教えられると思います」
「ありがとうございます。しかし、私も折々に連絡は取っています。
最近の手紙ではお元気と聞いています」
「そうでしたか」
アリシアは手紙の往来はあっても、本人の訪問はあれっきりなのを知っていた。だからと言って、その事実を指摘すれば、まるで恨み言を言っているように聞こえるだろう。彼女は素っ気なく答え、会話を終わらせた。会話はドーソン夫人が早速、引き受けた。
「ミドル州には一度だけ? ミスター・ブレイクというのは、どういう方なので?」
ライアンはドーソン夫人にミスター・ブレイクとの関係性を話す。
「あら、その方、相続する息子さんはいないの?」
「……ええ、残念ながら」
「そうね……残念なことね。
お一人の暮らしでは寂しいでしょう。もっと頻繁にお会いに行って差し上げなさいな。
年を取るとね、人恋しくなりますの。私もマーサを預かって良かったと思っていますのよ。この子の父親は国王さまに仕えているので、王都住まいでしょう。王都は子どもを育てるには誘惑が多すぎます。あまり良い環境とは思えませんわ。そりゃあ、魅力的な場所ですよ。それは否定しません。こんな田舎では寂しでしょう。でも今は、アリシアもミスター・マーチンもいてくれるので、にぎやかで明るくて、私も若返る気分よ。
王都に行かなくても、毎日が、舞踏会のよう!
……あら、マーサ、大丈夫よ。今年も王都には行きますからね。あなたもちゃんと連れて行ってあげますから、そんな声を出さないの。
本当にねぇ、老人になって若い子たちに無視されたり邪険にされたりするのは、嫌なものよ」
ドーソン夫人はマーサの手を慰めるように軽く叩いた。
「そのようなつもりではないのですが……私が足しげく通っても、ミスター・ブレイクが喜ぶかどうか分かりません。何しろ、私はあまり……いい噂がない人間なので」
「ミスター・ソーン。あなたったら! 心無い人があなたのことをとやかくいいますけど、人の生死は神さまがお定めになることですよ。ソーン家の先代が若くして亡くなったことも、それによってあなたに大きな財産が舞い込んだことも、すべては運命なのです。
あんな噂、気にしなくてもいいの。どうせあなたに嫉妬している人が流している噂なんですからね。
せっかくの得た人生を、そんな風に陰気に過ごす物ではなくってよ。
ねぇ、ミスター・マーチン? あなたも是非、ミスター・ソーンに言ってあげてください。こんなおばあさんの言うことではミスター・ソーンも納得して下さらないでしょうけど、ミスター・マーチンでしたら、立派な牧師さまですもの。きっとミスター・ソーンの考え方を明るい方に導いて下さるわ。
この間のお話もそりゃあ、素晴らしかったのよ。ミセス・ウエストもそれは感銘を受けて、ミスター・マーチンのような牧師さまが自分の教区に居て欲しいって、おっしゃったのよ。正直、あちらの牧師さまは随分とお年を召して、お話も新鮮味が……いやだわ、私ったら牧師さまになんてことを!
とにかく、ミスター・マーチンのような牧師さまが勤めている教区に引っ越してこられるなんて、ミスター・ソーンの妹さんは幸運よ。
だからね……」
ドーソン夫人のエドワードの説教について質問とも感想ともつかない話が続く中、テーブルの向こうに座っているマーサがたまらずアリシアに話しかけてきた。
「ねぇ、アリシア先生。ミスター・ソーンの『噂』ってなんなのです?」
マーサの目が興味津々といった感じで輝いていた。若い娘は突然、夕食の席に加わった、この資産家で見栄えの良い男性を最初から気にしていたのだった。ほぼ、恋心といっていいほどだ。だからこそ、彼の些細な物事を知りたくてたまらないのだろうと、アリシアは我がことを思い出しながら苦笑した。
「アリシア先生もご存知なのでしょう? 教えて下さいな。私だけ除け者なんてひどいです」
そうは言われても、本人の前で『死神』の言葉を出すのは憚られる。アリシアが迷っていると、ライアンが簡単に説明した。
「まぁ、そんなひどい! いくら先代のソーンさんが早くに亡くなったからって、それがミスター・ソーンのせいだなんて、あんまりなこじつけです。そんな陰口を言う人間をみつけたら、私、ひっかいてやります!」
若い娘らしい義憤だった。そして、すっかり恋する娘の顔だ。世の若い娘というのは、少し危険な男に魅かれがるものなのだろうか。『死神』という噂を聞き、ますます興味をもったようだ。
アリシアはマーサを微笑ましく見たが、ライアンもまた同じような好ましい視線で彼女を見ていることに気が付き、思った。
ああ、きっと、ライアン・ソーンという人間は、こんな風に自分を肯定してくれる存在が欲しいだけなんだわ。それが昔はアリシア・クロウで、今はマーサ・ドーソンなのだろう。
「マーサったら、いけませんよ。そんなお行儀の悪い。
近々、あなたのお母さまが見えるのですからね。親の目が届かないからって、私が甘やかしていると思われたら困るわ」
「申し訳ありません、ドーソン夫人」
自分のおしゃべりに夢中かと思いきや、しっかりと若者たちの会話に耳をそばだてていたドーソン夫人がマーサの言動を嗜めたので、アリシアは慌てて謝った。彼女はマーサの家庭教師なのだ。行儀作法も仕事の内である。
「あら、アリシア、いいのよ」
どうやら本気で怒った訳ではないらしい、ドーソン夫人は鷹揚に笑った。
「あなたはよくやっているわ。
マーサの苦手だったピアノがとても上達したのはあなたのおかげですよ。ねぇ、マーサ」
マーサは祖母の話が再開されるわずかな隙間を逃すまいと、すかさず頷いた。
「本当にアリシアはピアノがお上手。お食事が終わったら、ミスター・ソーンにもお聞かせしますわ。
芸術は年をとっても楽しめる趣味ですけど、若い内にその素養を養っておくのが肝心だと、私、常々、思ってますの。だから、会う人会う人、みんなに勧めていますのよ。
ミスター・マーチンもそう思うでしょう?」
一年の間に身についた技で、エドワードも間髪入れず頷き、さらに「まことにドーソン夫人のおっしゃる通りです」と追従することまで出来た。
「そう言えば、ミスター・マーチンはアリシアのピアノ、まだ聞いたことがないのではなくって?
アリシアは人前ではほとんど弾かないから、もったいないわ! 今日こそ、弾いてもらいますからね」
「いいえ、私は……人前で弾くような身ではありませんので」
「ええ! アリシア先生! 一緒に弾きましょうよ。
私、一人で弾くなんて、とても緊張して無理です。
一緒に弾いて下さい。私を助けると思って!」
ドーソン夫人だけでなく、マーサにまで懇願されてはアリシアも断りきれなかった。エドワードも聞いて行くようにドーソン夫人に言われたが、残念そうに、それでいてどこか誇らしい風に「ご親切なお申し出は大変、ありがたいのですが、実は我が恩師の元に用事があって、急遽、明日の朝早く出立しないといけないのです。私の代わりのものは、お願いしておきましたので安心して下さい」と断り、ハートヒル邸を辞した。
ドーソン夫人は、残念がったが、そんな大事な用事ならば、と引き留めることはしなかった。
「ミスター・マーチンは何をしにいくのかしら、ねぇ、アリシア?」
「さぁ、なんでしょうか……」
エドワードが自身との結婚の許可を貰いに師の元に、早速、行くのだとアリシアには分かったが、無論、それをまだ公にする訳にはいかなかった。そして、自分がまだ母親に手紙を書いていないことを思い出した。
しかし、それを書くのはどうしても明日になるだろう。
アリシアはかつてレインバード邸でライアンにピアノを聞かせた時とは、まったく違う心もちでピアノの前に座った。ライアンもまた、彼女の側に立ったりはしなかったし、ましてや歌うこともしなかった。ただじっと、アリシアの弾く姿を見続けた。
アリシアとライアンの久々の再会の夜は、ピアノの音とドーソン夫人のおしゃべりで過ぎていった。
エドワードは自分の家へとっくに帰っていたし、ハートヒル邸の面々も、夫々の自室へ引き込んだ。
ただ一人、暗闇に沈んだ居間にアリシアの姿があった。手持ちの燭台が照らし出す、僅かな光が先ほどまで弾いていたピアノを浮かびあがらせる。
どうにも寝付けないアリシアは、何かに呼ばれるようにそこに来てしまった。
じっとピアノを見つめていると、戸口から同じようにかすかな光が漏れていることに気が付く。
ハートヒル邸の使用人かと思いアリシアが口を開く。
「すみません。クロウです。忘れ物をしたので取りにきましたの。すぐに出ます」
闇の向こうで光が大きく揺れた。
「ミス・クロウ? あなたなのですか?」
声の主はライアンだった。
アリシアが驚いている内にライアンはするりと居間に入ってきた。アリシアがこの部屋を出るとすれば、彼の脇をすり抜けなければならない。彼女はそうしようとして、ライアンに捕まった。
「離して下さい」
小さな声で言うが、ライアンはアリシアの手首を掴んだまま、ピアノの方に彼女を導き、その椅子に座らせた。
「ミスター・ソーン……!」
そして、彼自身はアリシアの足元に跪いた。