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07:ライアン・ソーン、三度目の訪れ

 手紙を受け取ったドーソン夫人は大きな喜びの声を上げた。


「あら、まぁ! メアリー・アンダーソンからだわ!」


「メアリー・アンダーソン?」


「そうよ。マーサは小さかったから覚えていないかもしれないけど、お隣のローズウッド邸のお嬢さんよ。

結婚前はメアリー・ソーンと言っていたわ」


 ハートヒル邸の家庭教師の刺繍の手が止まった。

 ドーソン夫人の言うメアリー・アンダーソンのことは知らないが、ソーンという名は知っている。かつてローズウッド邸に住んでいたという男の妹に違いない。


「そのミセス・アンダーソンがなんと? 舞踏会の招待状かしら?」


 社交界を控えたマーサには、来る手紙来る手紙が自分への招待状に見えていた。


「マーサったら気が早いこと。

そうではなくて……あら、大変、メアリーがローズウッド邸に来るそうよ! 妹さんを連れて……ええっと、待ってちょうだい。そうじゃないわ、妹さん。ルシア・ソーンがローズウッド邸に引っ越してくるそうよ。それでしばらくご夫婦で滞在するんですって」


「ルシア・ソーン? その方、どんな方? ミス・ソーンとアンダーソン夫妻しかいらっしゃらないの?」


「ミス・ソーンのことはよく知らないわね。どうやら、親戚の娘さんを引き取ったようよ。

それよりも、メアリーの小さな娘さんと息子さんが来るんですって! 母親が育ったローズウッド邸を見せたいのねぇ。ああ、楽しみだわ。これまでは子どもが小さいから王都に来ることもなく、ご無沙汰だったから。あの小さなメアリーがお母さんだんなて!

思えばソーン家のみなさんがローズウッド邸からアークライト州のブルーム邸に引っ越してから大分、経つわ。十年は経つのではないかしら? 長い間、人が住んでいない建物はあちこち痛んでいるに違いないわ。修理する必要があるわね。どこに頼むのかしら? 私に相談してくれれば、腕の良い大工を紹介出来ると思うわ。ほら、覚えている? 前に東屋を建てる時に頼んだ、スミスよ。あの東屋は本当に見事ね。ウエスト夫人も褒めていたわ。彼女、すごく羨ましそうだったから、いつでも紹介しますよ、って言ってあるの。……まだ、頼まれていないけど。きっと、私に手間を掛けさせまいと遠慮しているのね。

けど、ローズウッド邸の改修の相談なら、私も労を惜しまないわ。早速、メアリーに手紙を書きましょう。壁紙も張り替えた方がいいはずよ。ここは少しばかり湿気が多い土地だから……ミス・クロウの生まれたミドル州は、この国でも随一の気候の良い場所だったわね。羨ましいことだわ。湿気は建物を傷めますものね。

しかし、どうい風の吹き回しかしら……もう戻って来ないと思っていましたのに。

……ま、ご当主のミスター・ソーンはいらっしゃらないでしょうよ。手紙には何も書いていませんもの。

男手ならミスター・アンダーソンがいますものね」


 アリシアのただならぬ表情に気が付いたドーソン夫人は、いそいでライアンの来訪の可能性を否定した。だが同時にドーソン夫人はアリシアのその態度に首を捻る。確かにアリシア・クロウは若い頃、ライアン・ソーンと面識があった。舞踏会で二度、踊ったのだ。それくらいではないか。かつては結婚相手に、と思っていたが縁がなかったようだし、アリシアにはエドワード・マーチンという似つかわしい相手がいるではないか。

 ドーソン夫人はライアンがミドル州に短期間とはいえ滞在し、若いアリシアに誤解と期待を持たせるような行動を取ったことを知らなかった。そこで彼女はアリシアの異変を、若い時分のちょっとした恋の記憶が起こした波紋にすぎないと判断する。ただし、その波紋が大きく広がり、エドワードとの間にさざ波が立っては困る。

 もっとも、ライアンはマーサの相手としてはそこそこの相手である。そこそこ、と言うのは、資産的には申し分がないが、年齢が上すぎるという所が減点である。また、陽気な気質のマーサに恋をさせるには、気難しい相手だ。それでもライアンは魅力的だ。

 来て欲しい気持ちと、来て欲しくない気持ち、半分半分のドーソン夫人は、自分自身に言い聞かせるように、もう一度、アリシアに向かって言った。


「ミスター・ソーンがわざわざローズウッド邸にくることなんてないわよ、きっと」


 ドーソン夫人の気楽な確約では、アリシアの心を宥めることは出来なかった。

 やはり自分がドーソン夫人の元に来たのは間違いだった。ライアンがかつて住んでいたローズウッド邸もすぐ隣にある。いくら帰ってくるはずがないとはいえ、今後、一切、例外がないとは言えないのである。

 しかし、とアリシアは思い直した。まだ、間違いが確定した訳でもない。ライアン・ソーンに再会する前に、ここから出て行けば良い。幸いにも一年の実績がある。頼めばドーソン夫人は推薦状を書いてくれるだろう。それを持っていれば、なんの経験もなかった一年前のアリシア・クロウよりは、よい条件の屋敷に勤められるはずだ。

 アリシアはこれまでの反省を活かし決断をしようとしたが、急ぐあまり判断を間違ってはいけない。

 そこで、彼女は信頼するエドワード・マーチンに相談することにした。

 エドワードの反応は、彼女の決心に否定的であった。


「たった一年の家庭教師の経験では、無いにも等しいですよ。

なぜ、そうもドーソン夫人の親切を拒むのですか?」


「前にも申し上げたように、これでは同じなのです」


「同じ?」


「そうです。何も考えず、父親の庇護の下でのうのうと生活し、いざ、立ち行かなくなった時、私には何も残されていない。ドーソン夫人の親切はありがたいですが、また同じような事態に直面した時、今度こそ、しっかりと受け止めることの出来るだけの何かが、欲しいのです。

今ならまだ、間に合うと思います」


「あなたは不安なのですね」


 エドワードはそう、アリシアの気持ちを推しはかった。


「ええ、ありていに言えばそうですわね」


「そうですか」


 そこでエドワードが考え込むように黙る。


「……私はあなたがハートヒル邸を離れるのを望みません」


 ようやく口を開いたエドワードはアリシアに言った。


「初めて会った時に言いましたよ。私がここでの職を得たのはドーソン夫人の口添えあってのものだ、と。そして、そうさせたのはあなたの存在です。

あなたがドーソン夫人のご親切を裏切り……」


「裏切ってなんて!」


 あんまりな言われようにアリシアは抗議の声を上げたが、エドワードに手で制される。


「すみません。しかし、ご親切を無碍にしようとしていることは事実です。

そうなればお優しいドーソン夫人もさすがに気分を害するかもしれません。

その場合、私もまた彼女の勘気に触れましょう。ここにいられなくなるかもしれません」


「そんなこと……ドーソン夫人はそんな方ではありません。

ミスター・マーチンは立派な牧師さまです。もしここに居られなくなっても、きっと他に必要としてくれる場所がありますわ」


「あなたは何も分かっていないのです」


 はぁ、と大きなため息がエドワードの口から洩れる。


「あなたも不安でしょうが、私もそうです。条件の良い職場など、なかなか見つかりませんよ。

あなたはレインバード邸に生まれ育ち、私のような紳士とは名ばかりの困窮した家での生活など考えも出来ないのです」


 あれから四年も経ち、随分、成長したと自負していたアリシアは、かつてライアンに言われたような言葉をまたも受け、恥かしさでたまらなくなった。やはり自分は考え無し。もしくは、考えても仕方のない愚かな人間なのだ。


「仕方がありませんね。

私はドーソン夫人の恩義に報いたいし、ここでの生活も続けたい。やっとみなさんと慣れ親しんできたところです。ミス・クロウだってそうでしょう?」

 

 アリシアは頷いた。


「私はあなたの迷える心を救いたい。ですから……」


「ですから?」


 一旦、言葉を切ったエドワードは真剣な顔でアリシアを見た。


「ええ、ですから、私とあなたが結婚すれば良いと思います。

あなたは牧師の夫人としてハートヒル邸の側で暮らすのです。そうすればドーソン夫人の話し相手にもなり、彼女も満足するでしょう」


 アリシア・クロウ、人生初の求婚は、なんと味気の無い、無機質なものであろうか。

 唖然とする女に、男は付け加えた。


「私の妻として、あなたは相応しい存在です。

美しいし優しい、教養もある。この一年でお互いの趣味や考えが似ていることも分かりました。

初めて会った時から、あなたは私にとって好ましい存在でした」


 残念なことに『考えが一致』しているとはアリシアには思えなかった。彼は恩義を大事にするあまり、人間の情愛という面で何か欠如しているような気がする。しかし、同時に非常に真面目で誠実な人柄なのも事実なのだ。彼と結婚すれば、彼女は少なくとも裏切られることはなく、平穏で安定した生活を送れるかもしれない。

 ただ、せめて追加部分を先に言って欲しかった。嘘でも初めて会った時に運命を感じたとでも言ってくれれば、アリシアは飛びついて返事をしただろう。

 と、そこまで考えて、アリシアは自分の傲慢さを諌めた。自分はもうレインバード邸のアリシア・クロウではない。ハートヒル邸の家庭教師のアリシア・クロウなのだ。エドワード・マーチンの申し出をありがたく受け取る身ではないか。

 返事を、と思い、口を開きかけたが、アリシアは言葉を発することが出来なかった。


「お返事を……いただけますか?」


 思い出したように跪いていたエドワードは少し傷ついた。意を決して結婚を申し出たのに、この反応はあんまりだと思った。しかし、ようやくアリシアが口にした台詞に気をよくする。


「母に……母に手紙を書きます……」


「ああ、そうですね。母上にきちんと認めてもらってから婚約しましょう。

私も師に報告して、許可をいただきます。なに、どちらも形式的なものですよ。反対はされないでしょう。しかし、大事なことです。勝手に婚約など、ちゃんとした男女がするものではありません。

あなたは思慮深い方だ」


 微笑むエドワードに、アリシアの迷いは吹っ切れた。この人は自分にはもったいなほどの人間だ。結婚したい。すぐに返事が出来なかったのはまずかったけど、結果的にはそれも評価して貰えた。



***



 そうして自分の為にハートヒル邸に用意された部屋の机に座り、便箋を前にしたアリシアの気持ちは充足していた。早速、ペンをインク壺に浸す。

 ふと、昔も王都のクロウ家でこうやって母に手紙を書こうとしたな、と思い出し、何かに呼ばれたように窓の外を見た。

 便箋にペンから落ちたインクの染みが広がった。その黒い染みに似た黒い影が、緑の向こうに見えたのだ。

 アリシアの胸は高鳴り、落ち着かなくなった。

 まさかそんなはずはない。

 こんなに遠くから、あの人影が誰かなんて分かるはずもない。必死で否定しても、もうペンは動かなかった。代わりに、彼女の足は動いた。

 確かめるのだ。もしこのまま見過ごせば、彼女の心は乱れたままだ。この目で『違う』ことを確かめなければ。

 ハートヒル邸を飛び出し、彼女は走った。

 ざあっと音がして、茂みから馬が飛び出す。


「……!」


 突然、現れ、尻餅をついた人影に気が付いた馬上の人間は慌てて、馬から降りた。


「大丈夫ですか! ……!」


 相変わらず黒い服に、陰鬱そうな表情。


「ミスター・ソーン……」


 震える声でアリシアはその名を呼んだ。


「ミス? ……ミス・クロウ」


 ライアンもまた、その名を呼んだ。


 手を差し伸べる男を女は呆然と見た。まさか本当に人影がライアンだとは思いもしていなかった。ただ、違うことを確かめたかっただけなのに。なぜこんな風に登場するのだろうか。あまり歓迎できない再会だとアリシアは冷静に思った。

 そこで、アリシアはライアンの手を取らず立ち上がり、草を払った。


「お久しぶりですね、ミスター・ソーン。お元気でしたか?」


「……はい。あなたも……お変わりなく」


 そうは言ったものの、ライアンの目にはアリシアは随分、落ち着いて思慮深い娘になったように見えた。以前の熱っぽい視線も口調も、今では抑えられている。ただ、その代わり、熱はより内側に秘められたようにも感じられた。


「いいえ、私、随分と身の上に変化がありましたの」


 アリシアは思い直した。ライアンと会えて良かった、と。会ってみれば、思ったよりも普通に接することが出来るような気がした。あれほど彼女を魅了した陰鬱そうな雰囲気は、辛気臭いとしか思えなくなったし、四年経っても見栄えは良いままだったが、色あせて見えた。


「変化? ですか」


「はい」


 そこにマーサの声が響いた。「先生! 先生、どうなさったのですか? 慌てて走っていかれるので、何かあったのかと」


「先生?」


「私、ハートヒル邸で家庭教師として働いているのです」


 ライアンの知人、ドーソン夫人の温情である点は引っかかったが、アリシアは毅然と言った。

 胸に刺さった棘が久しぶりに痛んだが、アリシアは笑顔を作り、それを押し込めた。

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