06:ハートヒル邸でのアリシア・クロウ
物語の主人公たるアリシア・クロウではあるが、愛らしい容姿に一途で素直な性格は評価されるべきものであったが、残念なことに、それは若い娘ならば持っていて当然、程度の美徳であり、社交界で目を惹くには至らなかった。影でキャロラインが彼女の持参金の少なさを宣伝したせいもあったが、本人もライアン・ソーンに心を残すあまり、積極的に若い男性との交流を避ける節があり、結局、三度の機会は結婚には繋がらなかった。
二十歳を迎えたアリシア・クロウは父の死と経済的な困窮に直面し、若い自分の愚かな判断を省みるようになった。自分は恋に恋するあまり判断を誤った。まだヘンリー・クロウの娘という体裁と若さのある内に、相手を見つけるべきであった。それがどうだろうか。父は亡くなり、後ろ盾になってくれるはずの異母兄は嫁の言いなりでまったく頼りにならないどころか、自分たち母子を追い出すことに消極的ではあるが手助けするほどの体たらくであった。しかし、アリシアはそれを恨む前に、まず、そうなると簡単に想像出来た状況であったのに対策を取ることを怠ったった自分を責めることにした。ここに来て、胸に刺さったライアンの言葉の棘がちくちくと彼女を苛んだ。
物事をきちんと考え、自分の足で立つ人間にならなければならない。
そこで、家庭教師と言う職を得て自立しようとした。
その決心を聞いた時、アンナはレインバード邸のアリシア・クロウが職に就くことになるなんて! と大いに悲観した。
キャロラインもさすがに驚いて、義妹を嗜めた。
「考え直してくれないかしら?
これじゃあ、まるで私たちがあなた方に満足な援助をしていないようだわ。
そりゃあ、こちらの生活もありますからね、そんなにたくさん差し上げる訳にはいきませんけど、だからって働きに出ないといけないほど少ないと思われるのも心外だわ。
母子二人、慎ましく暮らしていく分には、十分でしょう?」
「ええ、キャロライン。あなたの温情には感謝しますわ。
私が家庭教師として働きに出るのは、それとは別の問題ですの。
自分の可能性を試してみたいのです」
アリシアはキャロラインを見、ざっと部屋の様子をみやった。着ているドレス、調度品……目に入るものが高価そうなものに新調されていた。ヨアン夫婦の友達だと言う客人も多く出入りし、二人は彼らには気前よく歓待していた。
もともと、アンナの影響力を排除し、ヘンリーの浪費癖を助長させるような言動をしてはレインバード邸の財産を費やしていたキャロラインは、ヘンリー亡き後、それを改めるような真似は勿論、しなかった。その逆である。
遠からず、この家は手元不如意になってしまう可能性が高い。
そうなればまず、まっ先に切られるのは自分たち母子なのだ。その時になって職を探し始めるのでは遅すぎる。
アリシアは今度こそ、判断を違えないように行動したいと願った。それに、母と一緒に田舎に引っ込んでいては、ただ彼女の愚痴を聞くばかりで、なんの出会いも期待は出来なさそうだ。キャロラインは家庭教師として働き、ヨアン・クロウと出会うことが出来た。もしも人が良く、暮らすに困らない財産のある男性と出会い結婚出来れば御の字だ。
「あらまぁ。そう簡単に言いますけどね。あなたのような箱入りのお嬢さまには到底、勤まるようなものではなくってよ」
「分かっている……つもりです」
「へぇ……そう」
どこをどう分かってるのかしら? という侮蔑的な視線でキャロラインはアリシアを見た。
初めて会った時から憎らしい娘だった。朗らかな明るい気性は彼女にはなんの悩みのない能天気に見えたし、一途でひたむきな性格は、向こう見ずで頑固な娘に見えた。
実際、アリシア・クロウは現実を知らず、異母兄のヨアンと同様に思考力が低いせいで、現実を見ない楽観的な娘であったかもしれない。しかし、ライアン・ソーンに出会い、ただ漫然と時を過ごした挙句、彼からなんの約束も引き出せなかった自身の立場と魅力を正確に悟ったアリシアは、三年の自省と苦悩の末に決然とした女性へと変貌を遂げていた。それでもキャロラインにはただの身の程知らずの我儘娘だ。
「せいぜい、私たち夫婦の迷惑になるような恥ずかしい振る舞いをするのだけは止して下さいね」
「どれだけ困窮しようとも、絶対にレインバード邸には頼りませんわ!」と息巻くアンナを宥め、母の実家近くに借りた小さな家に送り届けると、アリシアは自身の任地に赴いた。
***
途中までは乗り合い馬車の一人旅だ。宿場で乗員が増える。質素な身なりの若者だったが、身のこなしは上品で教養がありそうだ。ただ、アリシアをちらちらと見るのがいただけない。おまけに声まで掛けてきた。
「あの……」
「なんでしょうか?」
同じ馬車に乗る旅の仲間である。警戒しながらもアリシアは若者に応対した。
「大変失礼ですが、もしやミス・アリシア・クロウではありませんか? これからハートヒル邸に家庭教師に行かれる」
「……! そうですけど……あなたは?」
若者は人の良い笑顔をアリシアに向けた。
「私、エドワード・マーチンです。ご存知ですか?」
「エドワード・マーチンですって!?」
たまたま乗り合わせた他人ではなかった。エドワード・マーチンはクロウ家の縁戚であり、もしもジョセフ・クロウに男の子が生まれなかったら、彼が、もしくは彼の息子がレインバード邸を相続するのだ。
つまりは幸運になる前のライアン・ソーンという訳だ。
そこまで考えて、アリシアは未だ自分がライアンのことを忘れられない事実を再確認せざるを得なかった。
「……お声を掛けてしまい、不快にさせてしまったら申し訳ありません」
アリシアの表情に、エドワードは自分のような人間が仮にもレインバード邸の娘に話しかけたことを急いで詫びた。
「いいえ! びっくりしまして……まさかこんな所でお会いできるとは。とても光栄ですわ」
慌てて右手を差出し友好の意を示す。
「こちらこそ! 実は私もハートヒル邸を含む教区の牧師を任せられることになり、赴任する所なのです」
「そうでしたか! 偶然ですね」
そう言えばエドワード・マーチンは聖職者としての勉強をしていると聞いたことがあった。
「案外、偶然でもないかもしれませんよ」
「どういうことですか?」
「その教区の聖職任命権はドーソン夫人が握っているのです。
私がミス・クロウの遠縁なのを知って、口添えしてくれたのかもしれません。
そういう意味で、あなたは私にとって恩人です。これからどうぞよろしくお願いします。お困りのことがあれば、きっと力になりましょう」
「そんな……ミスター・マーチンが教区を任されたのは、あなた自身の力です。
こちらこそ、どうぞ私を正しい道へと導いて下さると嬉しいです」
アリシアにとってエドワードとの友情は大きな助けになった。
家庭教師という者は他の使用人たちと同格の扱いではなかったし、仲間ともみなされていなかった。では家族の一員かと言えば、決してそうではない。食事は一人で取るものとされたし、親しく言葉を交わし相談出来る人物もいない。家庭教師は屋敷内では中途半端な立場であり、孤独だった。
もっとも、アリシアは幸運な方だった。雇い主のドーソン夫人は善意に溢れた人物だったし、その下で働く人々も良心的で、アリシアに親切にしてくれる。
もっとひどい扱いを受けている家庭教師はたくさんいるのだ、とアリシアはエドワード・マーチンから聞かされた。
「雇い主が家庭教師を下に見ると、子供たちが言う事を聞かなくなります。家庭教師もきちんと叱って躾けることも難しくなります。そうすると効果的な教育を施すことも出来なくなりますが、その責任は家庭教師に負わされることになるのです。彼女たちは職を失い、満足な推薦状も貰えず路頭に迷うことになることさえあります。
また、家庭教師として雇っておきながら、他の雑用一般を押しつけられたり、中には……えーっと、雇い主やその息子から不道徳な誘いをかけられることも……」
聖職者として口に出すのが躊躇われるような話に、エドワードはあたりを見回した。牧師館からハートヒル邸へ至る小道は気持ちがよく整備されており散歩には絶好の場所だったが、今はアリシアとエドワードの二人しか姿はなかった。
「恐ろしいことですわ」
アリシアは苦境に立たされる同胞を思って身震いした。
「まったくですよ! 許せませんね。しかし、それが現実なのです。
ですからミス・クロウ。あなたは幸運な家庭教師の一人です」
正義感の強いエドワードは憤り、恩義を大いに感じる彼はまた、ドーソン夫人の善行を褒め称えた。
「そうね……。
ミスター・マーチン。私はこうなってみて、反省したことがあります。
思えばキャロラインも家庭教師でした。私たち母子は、表には出さないこそすれ、その過去を軽んじていたのかもしれません。それがキャロラインとの不仲の原因であったのかもしれない……」
アリシアの扱いはエドワードが保証したように良いものだった。教え子といっても、もう大人に近い少女で教育の基礎もきちんと学んであった。アリシアはほぼ話し相手か、楽器の合奏相手のような存在であったのだ。本来は一人で食事を取るべきとされる家庭教師を、家族の食卓に加えてくれる。ドーソン夫人は手当たり次第に手紙を出すアリシアが、どこかでおかしな輩に引っかかっては哀れと思って、孫娘の家庭教師という名目で雇ってくれたのかもしれない。いいや、十中八九そうであろうとアリシアは思い、その配慮をありがたくも恥かしく思った。キャロラインが彼女の決意を聞いて、レインバード邸のお嬢さまのお遊びにすぎないとせせら笑ったのも道理だ。結局、自分はどこまでも温室の花なのだと、またもや棘が痛む。
「キャロラインはどんな扱いを受けていたのかしら? もっと歩み寄るべきでした」
「優しいアリシア。しかし、その考えは傲慢です」
エドワードの厳しい言葉に、アリシアははっとした。
「そうね。きっとキャロラインは私に同情されたくはないでしょうね。
だって、私、何も知らないのですもの。キャロラインのことも、この世界のことも、なにもかも……」
「私も若輩者です。共に成長していきましょう。可能性があるということは、喜ばしいことです」
「まったく……そうですね」
二人は顔を見合わせると微笑み合い、それからハートヒル邸の方に歩き始めた。
その若い男女の様子を窓から見ていたドーソン夫人と友人のウエスト夫人は、こちらも顔を見合わせると微笑んだ。
「あの二人、お似合いだと思いません、ウエスト夫人?」
「思いますわ、ドーソン夫人。
ミスター・マーチンを呼んで良かったですわね」
「そうなの。お節介かとは思ったけど、彼を呼び寄せたのは正解だったようね。
エドワード・マーチンは十七歳のアリシア・クロウには物足りない男だけど、二十歳のアリシア・クロウには申し分のない男性だと思いますの。
ミス・クロウはこれといった財産もなく、あると言ったら、愛らしい美貌だけど、それも結婚となると世の男たちは持参金の少なさに足踏みしてしまって……男たちの見る目の無さと言ったら!
持参金の多さで娘たちの価値をはかろうとしているのよ」
そういう二人の夫人は、娘や孫娘にはたっぷりと持参金を持たせることが出来るので、所詮は他人事なのであるが、だからこそ、彼女たちは存分に憤り口を挟むことが出来ると言えよう。
「ミス・クロウもねぇ。もう少し、若い男性に自分の魅力を表現してもいいのに。
せっかくの集まりも、ピアノも歌も、客人の前で披露しようとはしませんのよ。
マーサに教えているのを聞いていると、とても素晴らしい腕前なのに!」
「あら、困ったこと」
と言う二人の夫人だったが、もしアリシアが彼女たちの息子や孫息子に媚びを売るような女だったら、こうも面倒を見たりはしないだろう。
「でもミスター・マーチンは違いますわ。そうでしょう? ウエスト夫人?」
「ええ、ドーソン夫人。私もそう思いますわ。あの二人はお似合いですわ」
二人の夫人が顔を合せると、挨拶代わりにアリシアとエドワードの話題が出るほど、家庭教師と牧師の結婚は確実視されたいた。
ハートヒル邸での仕事も一年が過ぎ、アリシアは二十一歳になっていた。教え子、ドーソン夫人の孫娘・マーサ・ドーソンは十五歳になり王都での社交界に挑むことになった。
「ミス・クロウもマーサに付き添って王都に来てほしいわ」
命令ではなく、親しい友人にお願いするようなドーソン夫人の口調に、アリシアは曖昧に微笑んだ。
彼女の心の内は複雑だった。自分はやはり家庭教師としてではなく、情け深いドーソン夫人に庇護される存在だったのだ。初めから仕事の方は期待されず、衣食住だけでなく給金まで与えてくれる。エドワードに言わせれば、なんという慈悲深い夫人だろう。しかし、それに甘んじていていいものか。ドーソン夫人は親戚でもない。ただの知り合いである。そもそも、彼女自身の知り合いではなく、あのライアン・ソーンのだ。
途端に恐ろしい事実に思い当たる。ハートヒル邸の面々と共に王都に赴けば、遠からずライアン・ソーンに再会してしまうのではないか。それは避けたい。彼に対するアリシアの愛情は冷めているはずだ。あの頃のアリシアはライアンに対し、壮大な物語を作っていた。何かとても悲しい出来事があって、あんな風に陰鬱で厭世的で、死神と呼ばれるような人間になってしまったのだと。その心を自分が救えるのではないかとまで思っていた。母・アンナが父・ヘンリーに抱いたのと同じような『支えてあげる自分』に酔ったのだ。
まったくの思い上がりで、恥かしくなる。ライアンはほんの気まぐれで自分に親しくした。いいや、親しくしたとすら思ってもいないかもしれない。それをアリシアが勝手に勘違いして、恋心を抱いてしまったにすぎない。そしてその気持ちをあけっぴろげに表してしまった。ライアンどころか、レインバート邸のほとんどの人間にも筒抜けという迂闊さだった。
男は自分の釣果に満足したのか、もしくは疎ましくなったのか、とにかく女の前から姿を消した。
今になって未だに独り身の自分がライアンの前に姿を現し、まさか昔の恋を引きずって、あるいは、それが原因で婚期を逃したと思われたくない。
アリシアの現状を知って、ライアン・ソーンがどんな反応をする人間なのか、もうアリシアには分からなかった。人々は死神と言う。確かにそうなのかもしれない。彼はアリシアの大事な局面に現れては、彼女の生きる道を邪魔をするような気がした。
事実。今回もライアン・ソーンは現れた。アリシアは本当に彼が死神に見えた。