05:春の終わり
ピアノの一件があってから数日後、天気が良かったこともあってアリシアは散歩に出ることにした。彼女は歩くのが好きだったし、レインバード邸周辺の自然を愛していた。
途中でその愛する景色の中に相応しいライアンと出会い、二人はとりとめのない会話をしながら、どこに行くわけでもなく歩いていた。
そこにキャロライン・クロウがやってくるのが見えた。
アリシアはライアンと散歩をしている所にキャロラインが加わるのは歓迎できない、と思った。
「ミスター・ソーン? あちらに早咲きの薔薇がありますの。この最近の気候なら、もしかして一輪か二輪は咲いているかも。もし良かったら、確かめにいきませんか? あの……良かったら……」
拙いやり方だったが、アリシアの意図を悟ったライアンは自身の気持ちもあって方向を転じた。
そのままキャロラインのことは忘れてしまえば、その日も、他の春の一日と同じくらい、楽しかったはずだ。
けれどもアリシアはライアンがキャロラインの姿を認め、思わず眉を顰めたのが気になって仕方がない。
「あの……失礼なことを聞いても良いですか?」
「なんでしょうか?」
「キャロラインとは以前、どこかでお会いになったことがあるのですか?」
瞬間、こんな質問をしなければ良かったとアリシアは後悔した。
「いいえ? なぜそんな風に?」
全てを拒絶するような口調だった。
キャロラインの話題など持ち出すべきではなかった。彼女は名前だけでアリシアに不利益を与える存在なのだということを悟った。
なんとか誤魔化したいが、アリシアの頭は真っ白になってしまい、上手く言葉が浮かばない。
そんなアリシアに、ライアンの態度も幾分、和らいだ。
「失礼。彼女に似ている女性を知っているので、つい、重ね合わせてしまったようですね」
こちらはこちらで下手な言い訳だったが、ライアンに盲目的なアリシアは簡単に納得して憤った。
「そうですの!? キャロライン一人でもうんざりするのに、彼女のような女性がこの世に二人もいるなんて、まったくなんてことでしょう! しかも、両方の女性に会うなんて、お可哀想なミスター・ソーン! ……あっ……今の話は忘れて下さい、ごめんなさい!」
いくら気に入らない兄嫁であろうと他人に陰口を言うなんて、よくないことだとアリシアは口を押えた。
ライアンは不快には思わなかった。舞踏会の時と同じように肩を震わせ、笑った。
「あなたはミセス・クロウが苦手のようですね」
「ええ、そりゃあ、もう!
だって、あの人、いつも私の母を商家の出だって貶めるんです。
自分が紳士の家の出だからって、そこまで言われる所以はありませんわ。
言いたくないですけど、キャロラインのご実家がそこまでのものとは思いません。
ご自身も家庭教師として働いていたのに、なぜ、そこまで高慢になれるのかしら?」
アリシアが調子にのって不満をぶちまけると、ライアンの態度は一転した。
「……自身の気持ちを高く持たないと耐えられない現実もあるのですよ、ミス・クロウ。
あなたのような名実共に立派なお家に生まれ育った方には、想像もつかないでしょうが」
「え……」
「確かに私はミセス・クロウも、彼女に似た女性も苦手です。
強欲で、利己的。自分の幸せの為に他人を不幸にしても構わない。
……ですが、自身の利益という幸せを得るのに、どこまでも忠実で、決して機会を逃さないあの果断さ、さらに悪びれない姿は見習うべきものがあるかもしれません」
思いかけずキャロラインを擁護する発言が飛び出た。おまけにライアンはキャロラインという女性をアリシア以上によく把握してる。
ライアンは苦い口調で続けた。
「自分の手で自分の将来と生活を確固たるものにするのに躊躇することはしない。
ある意味、見事な女性と言えましょうね」
アリシアは今までキャロラインをそういう風に見たことがなかった。
何事にも口を出して、全てを自分で決めたがるキャロライン。自分の為にのみ、彼女の決断力は発揮される。
それは褒められることだろうか?
「たとえそうだとしても、私には彼女を尊敬することは出来ません」
初めて、と言っても良いだろう。アリシアはライアンの発言を否定した。足が震える。
「当然です。勿論です。ミス・クロウ。
あなたがミセス・クロウのようになる必要などまったくありません。
あなたはレインバード邸のミス・アリシア・クロウなのだから。
この花のように美しいものだけを見て、素直に優しいあなたのまま、変わらずにいて下さい」
ライアンはようやく蕾をつけた一輪の薔薇をなんとはなしに手折り、アリシアに差し出した。
「……っ!」
何も考えずに受け取ったアリシアはその棘で指を傷つけてしまった。瞬間、アリシアの手を取り、その傷ついた指を口に含もうとしたライアンは寸前で止まった。
「こ……これは、大変なご無礼を」
「平気です。これくらい、大したことではありません」
本来ならばその触れ合いに若い娘は心躍らせるはずだった。
だが、アリシアには棘が刺さっていた。薔薇の棘は指に。そして、ライアンの言葉の棘が胸に。
ライアンがアリシアを『レインバード邸のミス・アリシア・クロウ』と敬い、『そのままでいい』と許してくれた。
その言葉に陶然として甘えてもいいはずだった。しかし、アリシアにはそれが棘に感じられた。
何も考えず苦労も知らず、ただのうのうと生きているだけの毒にも薬にもならないつまらない人間だと批判されたような気がしたのだ。
キャロラインへのライアンの口ぶりは、苦々しくもどこかに魅了されている風があった。対して、アリシアへのものはどうだろうか。そこに咲く花を綺麗だと言うのと変わらない。それも、野に咲くたくましい花へのものではなく、美しく咲いて当たり前であろう温室で育てられたそれへの賛辞。
「本当ですか?」
「ええ、大丈夫です。小さい棘ですもの」
アリシアはじっと自分の指先を見た。傷は浅く、すぐに血は止まった。
「ならば良かった。あなたを傷つけるつもりはなかったのです」
ライアンの言う通り、彼はアリシアの生き方を批判した訳ではなかった。むしろ、初めて会った時から彼女の素直な性質を快く感じていた。
アリシアが疑問を持ったとすれば、それは彼女自身に何かしら思う所があったからに他ならない。
けれども胸に刺さった棘は小さく、その痛みはすぐに薄れてしまった。棘を胸に残したままアリシアはすぐに、いつもの彼女に戻ってしまった。
「薔薇はまだ咲いてはいませんでしたね。
満開まではまだまだ先のようです。でも、それはそれは見事な景色になるんですよ。
また、ここに参りましょう」
「苺も摘みに行かなければいけませんし、レインバード邸の方々と付き合うのはは忙しいものですね」
「お嫌ですか?」
「とんでもない。前にも申し上げた通り、ここの自然は素晴らしい。その恩恵を存分に受けることが出来て光栄です。
だからこそ、私も長く滞在したいと思うのです」
「良かった! きっと一緒にまたここに来ましょうね。約束ですよ。
約束は、守って下さらないと嫌ですからね」
あくまでも滞在の目的にアリシアの存在を上げないライアンだったが、アリシアは気にしなかった。
***
しかし、巧みに娘への愛情の発露を抑えている男は、娘の母親にとっては厄介な存在だ。
アリシア・クロウはすでに十七歳であり、可能性の低い恋に賭けている暇はない。ライアン・ソーンにその気がないのならば、さっさと見切りをつけて他の恋を探すべきである。
気を揉んだアンナはアリシアにライアンとの仲をしきりに聞き出そうとし、約束を取りつけるか、さもなければ、すっかり諦めてしまえと言うようになった。それに対しアリシアは反発した。恋というのは、そんな駆け引きでするものではないという娘らしい考えに囚われ、さらに楽観的だった。
「もういっそどこかに行ってしまえばいいのに!」
「お母さまったら、そんなひどい事をおっしゃらないで。
ミスター・ソーンには何か悲しい過去がおありに違いないわ。だから、あんな風にいつも悲しそうで陰鬱なのよ。
そのせいで、恋や結婚に踏み出せないのかも」
「そんな面倒な人間とあなた、付き合ってもいいことなんてありません。
大体、悲しい過去って何? それをあなたがどうこう出来ると思っているの?」
「でも、私といると楽しそうよ。時々、声を上げてお笑いになるの」
自分の言動が幼稚なせいなのだと落ち込む時もあるが、いつも陰鬱そうなライアンがどんな理由であれ、笑ってくれることはアリシアには嬉しかった。あの笑顔の為ならば道化になっても良い。が、おかしなことに、アリシアがライアンを笑わせようと努力してもそれは叶わず、なぜだか彼女が意図していない時ばかり笑いが起きるので困ってしまっているのも事実であった。
そんな娘のうっとりした表情に、アンナは首を振った。
かつてヘンリー・クロウに恋した娘時代のアンナもそうだった。あの気難しく自分勝手な男を自分だけがなんとか出来るというおかしな使命感にかられたせいで、道を間違えてしまった。その結婚の唯一の成果である娘には同じ轍を踏んで欲しくない。
親心から来る忠告をアリシアは聞かなかった。かつてのアンナがそうであったように。
それでも、アンナはヘンリーと一度は愛し合い、結婚したのだ。
最終的にライアン・ソーンがアリシア・クロウと結婚してくれさえくれれば、アンナとしては申し分ないのだが……。ここでもアンナは首を振るしかなかった。親のひいき目で見ても、ライアンの結婚の意志は薄そうだ。
相反するようになったアンナとアリシア母子にとって決定的な日がやってきた。それはアリシアとアンナとの決別ではなく、ライアンとのものだった。
その日、アリシアはアンナの付き添いで街に買い物に出ていた。帰った時、ヘンリーは自室で午睡を楽しみ、ヨアンは少し離れた土地に駐留している軍隊に所属している知人が手紙を寄越したので、キャロラインの勧めもあって、ジョセフを連れて訪問して不在だった。
レインバード邸の居間に、ライアンとキャロラインが二人っきりでいる姿を見たアリシアとアンナは、戸惑い、不快な気持ちになるのを抑えきれなかった。
キャロラインはソファーに座り、ライアンはその足元に跪いていた。まるで求婚しているようだが、そんなことがあるはずがない。なぜなら、キャロラインは結婚して子供までいるではないか!
アリシアとアンナの帰宅に気が付いたライアンは、さっと頬を赤らめた。立ち上がり、落ち着きのない様子でアリシアを見つめる。
「あら、お帰りなさい。早かったのね。ご実家に顔を出すと聞いてましたわ。もっとゆっくりなさって良かったのに。あちらはレインバート邸とは違って、堅苦しくもなく、さぞや居心地が良いでしょうからね」
冷静だったのはキャロラインくらいだ。ライアンは項垂れ、口をぎゅっと引き結んでいる。
「用事は済みましたので」
冷たい口調でアンナは答え、さらに冷たい視線をライアンに向けた。信頼できない相手と思っていたが
キャロラインとこんな妙な雰囲気になっているなんて、ますます許せない。
アリシアは驚きと失望のあまり、立っているのがやっとという状態だった。
「……お帰りをお待ちしていたのです。よろしければ散歩にいきませんか?」
ライアンがアリシアを誘った。その柔らかな声を聞いた瞬間、アリシアの目から涙がこぼれた。
「すみません。今日は……あの、疲れてしまったので」
「そうですか……それもそうですね。では、また明日」
「ええ、明日」
ライアンが帽子を取り、レインバート邸から辞すと、アリシアはドレスの裾を持ち上げて走った。自室のベッドの上に身を投げ出すと、泣くことを自分に許した。
それっきり、ライアン・ソーンはレインバード邸にやってくることはなかった。彼は急用が出来たからとミドル州を去っていったしまったのだ。それも外国に。例の『妹』さんを急いで迎えに行かなければならなくなったらしい。
ミスター・ブレイクを通じて、アリシアには挨拶もなくお別れすることの非礼の手紙が届いた。またもや、アリシアの頬は涙に濡れた。
それから次の社交界シーズンも、その次も、ライアンがアリシアの前に立つことはなかった。
そして二十歳になったアリシアに、次の社交シーズンは来なかった。
アンナ・クロウは未亡人となり、レインバード邸は名実ともにヨアン夫婦のものになった。時を置かず、アンナはキャロラインの嫌がらせに耐えられず、娘と共にレインバード邸を離れることになる。アンナは実家の商家を頼ったが、アリシアはそれを拒んだ。彼女は知り合った夫人たちの数人に手紙を書き、ドーソン夫人のハートヒル邸で家庭教師の職を得ることとなる。