04:春のひと時、嵐の前
ライアンはレインバード邸の近所に住む紳士の家に逗留するという名目でミドル州にやってきた。その紳士・ミスター・ブレイクに家族はおらず、アリシアが幼い時から老人だったが、今も老人なのを見ると、彼女の父親とそれほど年齢が違わないのかもしれない。彼は人づきあいが好きではない人間な上にヘンリーとは趣味も性格も合わず、キャロラインとはもっと合わなかったので、レインバード邸とは表立っての交流はほとんどなかった。ただ、アリシアのことは可愛がってくれていたので、母のアンナがご機嫌伺いと称しては娘を連れていった。老人はアリシアが来ると喜んだ。最近ではジョセフもその仲間に加わることもしばしばだった。こちらも老人の気に入り、お菓子や本でもって彼を歓迎した。
アリシアがある日、ブレイクの所に顔を出すと、老人は思いもかけないことを言った。なんと、彼はソーン家と遠縁だというのだ。
「そのミスター・ソーンから手紙が来てねぇ。しばらくこの家に逗留したいというのだ。
新しいミスター・ソーンだよ。先代もだが、今までこちらのことは忘れ去っていたかのようになんの連絡もなかったのに、こんな突然、家にやってくるなんて……そろそろ私の寿命が尽きると知って、この家の値踏みにきたのかね。なにしろ私が死んだら、この家の財産はみんなソーン家の当主がもっていくことに決まっている。ライアン・ソーンはそれと同じ方法でソーン家の莫大な財産を手に入れることに成功した。あの男は死神かもしれん」
「まぁ、そんな! ミスター・ソーンはそんな人ではありませんわ!」
アリシアが憤ると、ブレイクは驚いた。そこで、彼女は自分がライアンと知己があることを話した。と言っても、舞踏会で二度踊り、玄関先で僅かな言葉を交わしただけである。
そうと知って、ブレイクは若い娘の早急な思い込みに内心、苦笑した。この娘はすっかり見目のよい若い紳士にのぼせている。しかし、それをキャロラインのように表立って嘲笑することはなかった。若い娘が恋に落ちるのに十分すぎる。むしろ、その機会を与えたくせに放置する男のなんと薄情なこと。だが、そう判断するのは早すぎるだろう。ライアン・ソーンはこれまで没交渉だった自分を頼り、アリシア・クロウの側に来ることを決めた。小さい頃から知っていた少女も、恋をする年頃になり、結婚するにふさわしい年齢になった。離れていくのは寂しいが、ソーン家とブレイク家は遠縁にあたる。もしかすると、結婚した後も、遊びに来てくれるかもしれないし、この屋敷に住むことだって可能だ。
そこで人づきあいの悪いブレイクには珍しく、大いに歓迎の意を含んだ返事をライアンに送ったのである。
手紙が届くとすぐにライアンは厚意に対するお礼と訪問の予定を知らせて寄こした。
***
ライアンのいるその春の日々のなんと美しく楽しかったことか。ライアンはアリシアと散歩し、談笑した。
雨の降った朝、アリシアは恨めしい気持ちで窓の外を見た。これではライアンと一緒に散歩をすることは出来ない。しかし、ライアンはレインバード邸に馬車を寄越してくれた。
これに対し、キャロラインはいやに陽気な声でこう言った。
「馬車を寄越すくらいなら、自分が乗っていらっしゃればいいのに。おかしい人ね」
「ミスター・ブレイクも退屈しているのでしょう。ミスター・ソーンとは気が合うとおっしゃっていましたが、雨に閉じ込められて二人っきりでは、さすがにつまらないこともあるでしょう」
「ははっ」
我慢できない、という風にキャロラインが鼻で笑ったので、アリシアは不快になる。
「なにが可笑しいの?」
「別に。ただ、若い娘が恋人でもない男性の馬車に乗って、その男の滞在する屋敷に呼ばれるなんて、あんまり聞こえがいいものではなくってよ。それとも、ミスター・ソーンとはそこまでお話が?」
キャロラインの質問に、側にいたアンナが反応した。
「そうなの? ミスター・ソーンとはそんなお話に?」
「いいえ、いいえお母さま。私とミスター・ソーンは……」
アリシアの言葉がつまる。一体、自分とライアンはどういう関係なのだろうか。毎日のような顔を合せ、親しく会話をする。けれども、恋人同士のそれかと言えば、そうではないような気がする。ライアン・ソーンはアリシアに愛の言葉を囁いたりはしない。
アンナはあからさまにがっかりし、キャロラインは「それみたことか」とばかりに嘲った。
「ミスター・ライアン・ソーンは死神と呼ばれる男。きっとミスター・ブレイクの所にも、彼の財産目当てで来たに違いないわ。そのついでに、アリシア、あなたのことももて遊ぼうとしているのかも」
キャロラインの言葉にアンナも動揺しているようだ。
「もしも、ミスター・ライアンが死神ならば、ミスター・ブレイクのことが心配です。私は行きます」
対抗心と、わずかな不安からアリシアは語気を強めた。幸いにもジョセフがブレイクに会いに行きたいと言い出したおかげで、レインバード邸からはアリシア、ジョセフ、そして乳母が赴くことになった。これだけ行けば体裁も取れるだろう。最終的にソーン家の莫大な資産を知るヘンリー・クロウが娘を行かせることを決めた。
ジョセフに会ったブレイクは喜び、少年と老人は美味しいお茶とお菓子を頂くことにした。
ブレイクの思惑は、ライアンとアリシア、二人の時間を作ることにあるのは間違いなかった。
「雨の中、わざわざ来て下さってありがとうございます」
「いいえ。こちらこそ、馬車をありがとうございます。今日はお会い出来ないと思っていましたので……とても嬉しいです」
「それは良かった。私も、あなたにお会いしたいと思って……」
窓辺に立ったアリシアは恥ずかしさに視線を外に向けた。出先にキャロラインが変なことを言うから、どことなく気まずい。
「あの……」
「なんでしょうか?」
ライアンは普段と変わらない様子で答えた。
そう、彼は会った時とまったく変わっていない!
アリシアはそのことに気が付き、失望した。死神と呼ばれるライアンは自分にはとても親切で優しい。だが、それ以上の情愛を感じることが出来ないのだ。
「いえ……あの……いつまでこちらに?」
「そうですね、夏いっぱいはいる予定ですよ。ここは涼しくて良い土地ですね」
「ええ! とても素敵な場所ですよ! 風も水も清らかで。
夏になると近くの湖に遠足に行きますよ。苺が取れるんです。それにクリームをたっぷりかけて……とっても美味しいの! 毎年、楽しみにしています。今年はミスター・ソーンもご一緒して下さるでしょう?」
ミドル州をの自然を愛しているアリシアは我がことが褒められたように心が弾んだ。それにライアンは夏中いると言った。つまり、まだまだ長く滞在するのだ。考えてみればライアンはここに来たばかりではないか。キャロラインも母も答えを急ぎ過ぎている。今はライアンとの時を楽しめばいいではないか。
「あなたは本当にこの土地がお好きなのですね」
「はい!」
アリシアは元気よく返事をしたが、ライアンが悲しそうな顔をしているので、しまったと思った。もしかして自分がこの土地を、レインバード邸に愛着があるせいで、ライアンはここから引き離すのが悪いと考え、そのせいで求婚に二の足を踏んでいるのではないだろうかという疑惑が浮かんだからだ。
「えっと、でも、他にも素敵な土地はあると思います……私はここと王都しか知らないので」
「私は外国も含め、様々な場所に行きましたが、ここ以上に素晴らしい場所はありませんでしたよ」
「……そう……ですか」
上手に自分の気持ちを伝えきれなかったアリシアだったが、ライアンがミドル州を褒めてくれたのは、きっと自分の影響力もあるからだと思うことで気を取り直した。
「では遠足のこと約束して下さるのですね?
あ、そうでした、その前に父が、今夜の夕食もご一緒して欲しいと申しておりました」
アリシアの言葉をほぼ否定しないライアンだったが、どうもレインバード邸に招待される話になると、途端に気が乗らない様子になる。それでも彼は断ったりはしないのだが、死神と呼ばれる陰鬱そうな雰囲気が一層、濃くなるのだ。
ミスター・ブレイクを一人置いてレインバード邸に行くのに気が咎めるのだろうとアリシアは思う。
一方で、レインバード邸の面々は総じてライアン・ソーンを歓迎した。
見栄っ張りなヘンリーは資産家のライアンをもてなし、我が権勢を誇るのが好きだし、彼が来るとなるとアンナはいくらお金を使っても小言を言ったりはしないからだ。アンナは娘のことを思い、ライアンに良い所を見せるのならば、どんな苦労も惜しまなかった。ヨアンですら、ライアンが来るとカードゲームの面子が増えるという理由で、歓迎することに悩む必要はなかった。
ただ、アリシアが不安に思ったのはキャロラインの存在だった。ライアンに対するキャロラインの対応は、妙に思わせぶりな所があった。
夕食が終わりカードゲームに興じるヘンリー、ヨアン、キャロライン、そしてライアンを、アリシアは羨ましい気持ちで眺めながら、同じ部屋のソファに座り、本を読んでいる。本はライアンが贈ってくれたものだ。彼の到着後、すぐに以前貰った本の感想を話した。熱っぽく語るアリシアを見たライアンは「では、他の本も差し上げましょう」といくつか持ってきてくれたのだ。どれも面白く、夢中になって読めたアリシアだったが、今は違う。本に集中するふりをして、ライアンとキャロラインの会話に耳をそばだてていた。
「そういえば、ミスター・ソーンはご家族がいらして?」
「はい。妹が二人」
「……二人? え?」
「ええ、二人ですよ。
一人は結婚し家を出ました。もう一人は近々、外国から呼び戻す予定です。
彼女は先代のミスター・ソーンの娘で、母親と一緒に外国に住んでいるのですが、出来れば呼び寄せて、私の妹として今後一切の世話をしたいと思っています」
アリシアの隣に座っていたアンナが小さく頭を振った。クロウ家と同じようにソーン家も男子が相続権を持っているのだ。クロウ家と違うのは、新しい当主は先代の娘にも経済的な支援を惜しむ様子がないところだ。
「それはミスター・ソーンらしい親切ですこと。まこと紳士の鑑ですわ」
「当然のことと思いますが?」
「……その妹さんはまだお若くて?」
「十三歳になったと聞きました」
「では学校に預けられる年ですわね。私、よい学校を知っていましてよ」
ここでもアンナが頭を振る。キャロラインはアリシアも学校にやってしまえと常々言っていた。学校で教育を受けるのも悪くはないが、キャロラインに任せたら、きっと無用なまでに厳しく、粗末な食事に隙間風の入るような学校に預けられると確信しているのである。ライアンの心からの親切も内心、体面的には少女を引き取っても、あとは厄介事として遠くの学校に預けてしまうに違いないと侮っているのだ。
だからライアン・ソーンがキャロラインの言葉を否定したので、アンナは嬉しくなった。アリシアもほとんど同じ思いであり、ライアンの親切心に尊敬を新たにした。
「いいえ。こちらでの生活に慣れるまでは家で教育を施そうと思っています」
「あら? じゃあ家庭教師を雇うってこと?」
「……ええ。そうなりますね」
「ふふふ。若くて美しい家庭教師ですわね」
カードで口元を隠しながら、キャロラインは艶っぽく笑った。
鋭い視線でライアンはキャロラインを見た。
非友好的な目つきだったが、アリシアにとってライアンが他の女をその瞳の中に入れるのを見るのは苦痛であった。読んでいた本に目を落とすと、なんということか、文章が逆さまだった。慌てて、本を持ち変える。
「あら、そんな怖い顔なさらないで、ミスター・ソーン。そういう女性が好みなのかと。親のお金で着飾るのではなく、自らの足で立つ健気で賢明な女性がね……ふふふ」
「……失礼」
ライアンは立ち上がり、アリシアの座る方にやってきた。
「その本は気に入りましたか?」
「ええ……ええ、とても」
本の位置が正しいか、アリシアは再び確認した。大丈夫。今度はちゃんと持っている。
「本がお好きなのですね」
「……はい」
緊張のあまり上手く言葉の出ない娘の代わりに、同じく近くに座り、刺繍をしていたアンナが答える。
「そうですの! アリシアは本が好きで。
若い娘が本ばかり読むのは不健康だという人もいますが。
ですが、若い娘といえども、教養は必要です。それに道徳心も。
うちの娘が読んでいる本はどれもちゃんとしていますわ」
そこで一旦、言葉を切ると、ちらっとアンナはキャロラインの方を見る。
キャロラインは冷笑していた。『本が好き』と言っても、今の所、アリシアの人格形成になんの役にも立っていないではないか。アリシアはただ表面上の字面の美しさや綺麗事しか見ておらず、真の意味で内容を理解したり、自身の考えや振る舞いに反映させていない。教養だって披露する相手がいなければ何の役にも立ちはしない。
アンナはそんなキャロラインのいかにも娘を馬鹿にしたような表情に気分を大いに害し、なんとしても一矢報いようとした。
「それに、本ばかり読んでいる訳ではありません。アリシアはピアノも弾きますし、歌も達者ですのよ。
そうだわ! アリシア、あなた、ピアノを弾いて差し上げなさい」
「ええ! カードゲームはどうするんだい?」
ヨアンが抗議の声を上げたが、そろそろ休憩してもしたいという父・ヘンリーの意見に手札を置いた。キャロラインは口元に笑みを浮かべたまま、ライアンに視線を向けたままだ。
それを気にはなるものの、母親にライアンの前でピアノの腕前を披露するように言われたアリシアはとりあえず、失敗しないことに集中するしかなかった。
ああ! もっと練習しておけばよかった!
ライアンはアリシアが弾いている間、ずっとピアノの側にいて、楽譜をめくるのを手伝ったり、一曲などは共に歌うことすらしてくれた。
これにはアンナは勿論、ヘンリーにも好評で、ピアノの椅子から立ち上がり一礼した娘に惜しみない拍手をした。
「やあやあミスター・ソーン。うちの娘のピアノの腕前はどうかな?」
「とてもお上手です」
「そうだろうとも」
「ええ、とっても上手にお弾きになさったわね」
キャロラインが心無い称賛をすると、自分の妻を自慢したくなったのかヨアンが「君のピアノも聞きたい」と言いだした。普段のキャロラインならば、目立つことが大好きで、率先してピアノの前に座っただろうが、今晩ばかりは渋った。
「だったら先に言って下さればよかったのに。アリシアの後では気後れしますわ」
そこをなんとか、とヨアンは言い、ヘンリーも遠慮することはない、と加勢した。
「ミスター・ソーンも聞きたいでしょう。音楽がお好きなようだ。
是非、キャロラインにピアノを弾くように勧めて下さい」
アンナは夫と義理の息子の仕打ちはあんまりだと憤った。キャロラインなんて、すでに結婚して息子もいる身なのに、ライアンに魅力を宣伝する必要なんてまったくない。珍しくキャロラインが謙遜していると思ったら、結局は、男たちに持ち上げられるために、もったいぶっているだけではないか。
「困ったわ。
ねぇ、ミスター・ソーン? ミスター・ソーンは私のピアノなんて、興味、ありませんわよねぇ」
そう言われたら、礼儀上、「興味がない」とは言えない。
ライアンは「どうぞミセス・クロウのピアノも聞かせて下さい」とキャロラインに乞うことになった。
さすがにアリシアもキャロラインの意図を知り憮然としたが、行儀よく、場所を空ける。
キャロラインのピアノは達者だった。弾いている姿も声も美しかった。アリシアはライアンの興味が自分ではなく義姉の方に移ってしまうのではないかと恐れ、彼を見た。そして息を呑んだ。
なんて怖い顔なのかしら。
まるで……そうだ、舞踏会で初めて彼を見た時も同じような顔をしていた。あれは自分ではなくキャロラインを見ていたのだ。つまり、ライアンはキャロラインのことを知っているのだ。その逆もまた然り。
決して友好的な関係ではないようだが、それでもアリシアは不安だった。