03:ライアン・ソーンの訪れ
未婚の娘にとって社交の場はすなわち結婚相手を探す場所でもあった。アリシアの母、アンナも当然、そのつもりで娘を王都に送り出したのだ。どれだけ立派であろうが夫人たちとばかり親しくなった話を聞かされても手放しでは喜べない。
もっとも、その夫人たちがアリシアに誰か良い人を紹介してくれれば話は別である。
だが、アリシアのような素直で愛らしい娘に相応しいと、夫人たちが認める紳士はなかなかいなかった。あそこの名士は粗野、あそこの準男爵は金遣いが粗い、こちらは若すぎて、あちらは年寄すぎる。年頃の素敵な娘はたくさんいるのに、立派な紳士が少なすぎる、という具合だ。
一人、いるとすればライアン・ソーンだろうが、一体、どうした訳か、彼は舞踏会で二曲踊ったきり、アリシアの前に姿を現すことはなかった。
その日も、アリシアは日課のように夫人たちと会うはずであった。しかし、キャロラインが昨晩行った音楽会で知り合ったという外国の資産家に招待され、そちらに出かけることになった。アリシアの為の馬車はなかったし、キャロラインは自ら得た新しい社交の場にアリシアを連れて行く気は毛頭なかった。
「ここ連日、お出かけでしたものね。少しはお休みしたいのではなくて?
まさかドーソン夫人やウエスト夫人に馬車を頼もうなんて、そんな思い上がったことを考えてはいないでしょうね。みなさん、ご親切なようですけど、そこまでしてもらう義理があなたにあって?
それに、お母さまからお手紙も来ているのに、あなた、返事をしていないようね。
まるで私が邪魔をしているみたいに思われるから、今日は家で、長いお手紙でも書いてさしあげるといいわ。あなたの社交界での成果を……たっぷりとね」
社交界の成果など書くほどもないアリシアに向けてキャロラインはそう言い放つと、今日も自分の体裁に相応しい予定が出来てご機嫌なヨアンを連れて行った。アリシアにとって幸いだったのは、ジョセフもまた留守として残してくれたことだ。
ジョセフ・クロウは父に似ず活発で利発、母に似ず優しい子に育った。両親は都合と機嫌が良い時はジョセフを側に置いて甘やかしたが、その他の場面ではあまり構ってはいなかった。ヨアンは息子を可愛がるには情に薄い男だったし、キャロラインは子どもの手のかかる世話に関しては乳母に任せっきりだったからだ。おかげでジョセフの悪い見本とならなかったことは、もしかするとヨアンとキャロラインが果たした親の責務として、もっとも貢献したことだったかもしれない。
アンナとアリシアはそれぞれ祖母と叔母として適切な愛情をジョセフに与えていた。ヨアン夫婦には思うところがあったが、ジョセフの可愛らしさはそんなことは吹き飛ばしてしまった。ジョセフもまた、二人にとても懐いていた。
「可愛いジョセフ。今日は私と一緒に遊びましょう。
そういえば、ずっとお出かけしていて、ジョセフには寂しい思いをさせてしまったわね。
すぐにお母さまにお手紙を書いてしまいましょう」
王都に出て初めの頃は、母親に手紙を書くのも楽しい時間だったアリシアだったが、最近では筆も重くなってきた。母親はアリシアがどんな若い男性と出会ったのか知りたがったが、手紙の登場人物は増えない。増えたとしても『夫人』がつく人ばかりだった。
あの舞踏会から帰った後、熱に浮かされたような気分で一晩中かかって書き上げた手紙を母に出さないで良かったと、彼女は今更ながら自身の判断を褒めた。その手紙にはいかにライアン・ソーンが自分に親切だったか、立派な紳士だったか、とにかく若い娘を持つ母親ならば期待せずにはいられないようなことばかり書いてあったからだ。
机に向かったものの一向に進まぬ文字列に、アリシアはため息をついた。
あの日、自分が経験したのは夢だったのではないだろうか。本当はライアン・ソーンなんて紳士はどこにも存在しないのではないか。
「いいえ、そんなことはないわ。
だって、確かに私はあの人と踊ったんですもの。二曲もよ!
なんて素敵な時間だったのでしょう。あの人は……あの人は……どうして私に会いに来てくれないのかしら?」
たった一夜の気まぐれとは信じたくない。
けれども、あれ以来、アリシアが参加する集まりには顔も出さないし、王都の家に尋ねてくることもない。勿論、手紙や言伝なども皆無だ。
「やっぱり、あの人は私のこと、特別だとは思っていないのだわ」
アリシアはいつまでもライアン・ソーンにばかり心を囚われている訳にはいかないかった。ドーソン夫人たちと交流することで、そのことを考える時間を引き延ばしていたが、そろそろ真面目にライアンのことを考え、あれは単なる社交辞令か何かであって、自分が期待してはいけない相手だったことを自身に認めさせなければならない。
そしてキャロラインによって与えられたこの日の休日は、そのいい機会になりそうだった。そうなるはずだった。
それなのにどういう運命の思し召しか、その時、王都にあるクロウ家に訪れる人の姿があった。
ちょうど机に座っていたアリシアには窓からその様子が見えた。まずお洒落な馬車が停まり、その中から出て来たのは……。
「ミスタ・ソーンだわ! まぁ、どうしましょう。どうしたらいいの?」
立ち上がり慌てる叔母の姿を見て、それまで大人しくアリシアが手紙を書き終わるのを待っていたジョセフが不思議そうに聞く。
「アリシア、どうしたの?」
幼子の声にアリシアは我に帰る。ジョセフを抱きしめ、それから、その両肩に手を置き、聞いた。
「ジョセフ。どうかしら? アリシア叔母さんの今日のドレスは似合っていて? 髪型は可笑しくない?」
ファッションなどまだ知らぬ男児に矢継ぎ早に質問が飛ぶ。天晴なことに、ジョセフは大きく頷くと請け合った。
「アリシアはいつも可愛いよ!」
「まぁ、優しい子ね、ありがとう」
自分でも鏡を見、髪を撫でつけたアリシアは、何事もない風を装って急いで側に置いてあった本を手に取ってソファに座った。いつ、執事がライアンの訪れを告げにきても大丈夫だ。
「……おかしいわね」
「アリシア?」
叔母の真似をして隣に行儀よく座ったジョセフが見上げるが、聞きたいのはアリシア自身だった。
いつまでたっても誰も何も言いに来ない。たまらず、部屋を出る。
階段の上から、ライアンの姿を捉えたが、その姿はすでに立ち去る寸前だった。
「あ! ……待って!」
キャロラインが不在で本当に良かった。アリシアははしたなくも、すでに外に出かかっている男性を追って、玄関先まで出てしまった。
「……ミス・クロウ!」
さすがにライアンも驚きの声を上げる。執事はもっとだ。「お嬢さま!」と制する声に、目で必死に謝罪と懇願を込めると、執事は困ったような表情を浮かべながらも礼儀正しく控えてくれた。
「せっかくいらしたのに、もうお帰りに?」
どれだけ会いたかったか! とアリシアは叫びそうだった。
「……申し訳ありません。みなさんお出かけとお聞きしまして。
いえ、ミス・クロウだけご在宅はなのはお聞きしましたが、それでは一層、お邪魔する訳にはまいりません」
「まぁ、そんなこと……」
気にしませんわ。と言い掛けて、これ以上、恥知らずな真似をしたらライアン・ソーンに嫌われてしまうとアリシアは口を噤んだ。
それにしても久しぶりに会うライアン・ソーンは美化された記憶以上に素敵だ。少し困ったような顔もよく似合う。
その上、彼はこう言った。「私も用事がありまして、長居も出来ません。今日は本をお持ちしました。あなたに。お読みになりたいと言っていた本が手に入りましたので、お届けに上がったのです」
アリシアは有頂天になった。ライアンは忙しいにもかかわらず、わざわざたった一冊の本を届けに来てくれた。それも私の為に!
もしもアリシアが恋に盲目でもなく、せめてもう少し冷静だったら、ライアン・ソーンの訪問の不自然さに気が付いていたはずだ。ヨアン夫婦は毎日のように出かけている。確実に会いたいのならば、あらかじめ挨拶に来て名刺を置いていって、次の機会の予約を取るべきだった。ライアンはアリシアと面識があったし、ソーン家はキャロラインが好きそうな資産家だった。外国の資産家を訪ねるくらいなら、ライアンの為に時間を割くのはやぶさかではないだろう。
だがしかし、ラインはそうはしなかった。まるで留守を狙ったように訪問し、そしてアリシアの在宅にひどく驚き、早々に帰ろうとしていたのだ。用事があることも当然、言い訳であった。
それを素直に受け取り、感謝に顔を輝かせるアリシアを見たライアンの瞳の奥に、悲しみの色が濃くにじんだのを、舞い上がった女の子が気づくことは出来なかった。
「ありがたくお借りいたします」
「いいえ、これはあなたに差し上げます」
「え……でも」
それでは本を返すという名目で、また会える機会を逸してしまう。
「ご遠慮なさらずに」
「か、感想を……お話できれば嬉しいです」
「……そうですね。機会があれば」
まったく期待出来そうにない返事だったが、疑うことを知らないアリシアはやはり素直に喜び、何度も礼を言ってライアンを見送った。
部屋に戻って直ぐにもライアンからもらった本を読みたいアリシアだったが、辛抱強く彼女を待っていたジョセフを見て、一旦、それは置くことにした。上の空で、突然、ほくそ笑むといった怪しい叔母と遊ぶ羽目になったジョセフだったが、それはそれで面白く過ごすことが出来た。
***
「あら、ミスター・ソーンがいらしたの。残念だったわ。私たちが留守でさぞやがっかりなさったでしょう」
帰ってきたキャロラインはそう意味深に微笑んだ。
「お会いできないで残念でしたわね。でも、ミスタ・ソーンは私にご用事があって参られたのです」
あたかもライアン・ソーンの目当てが自分だと言わんばかりの態度に、アリシアは腹を立てた。一体、この自信はどこからやってくるというのかしら。
それどころか、キャロラインはアリシアを批判し始めた。
「……そう? まさか娘一人しかいない家に、若い男を上げた訳ではないですわよね?
若い男女が一つの部屋に二人っきりだなんて、不道徳な行いですわよ。
あなたは田舎者で知らないかもしれないけど、王都でそんな軽はずみ行動をする娘はいません。どんな不利な噂を流されるか分かりませんもの。嫌だわ。連れてこなければよかった」
「僕もいたよ!」
幼い息子が足元で主張するのを、キャロラインは無視した。
「……チャールズが側に付いていてくれました。それに、玄関先で少し話しただけです。決して疑われるような真似はしていません」
キャロラインの言い方は嫌味たっぷりだったが、言っている内容は正論だった。そこがキャロラインのキャロラインたる所以なのだ。もし、こんな風に義姉に言われた、とアリシアが不満たっぷりに他人に訴えたとしても、ほとんどの人は良識のある女性だと彼女を評価するだろう。ただし、彼女のいけない所はアリシアが言うまでも、他人が聞くまでもなく、率先して『軽薄浅慮な義妹を嗜めた私』と言い触らすところであった。そうなってしまうと、アリシアが不利な立場になってしまう。
執事のチャールズに同意を求めると、彼は進み出て若奥さまに自分がきちんと仕事をしていたことを伝えた。
「まあ、いいわ。王都での生活もあとわずか。
もうお会いすることもないでしょう。
ミスター・ソーンも我が田舎までやって来て、レインバード邸を訪ねようとは思いませんでしょうし」
どことなく憂鬱な口調で失望めいた表情のキャロラインを見て、アリシアは華やかな場所の好きな義姉が王都から田舎に引っ込むのが嫌なのだと推測した。
アリシア・クロウの知識と経験では、その程度の推察しか出来なかったのである。
とはいえ、そんなアリシアを小娘と侮るキャロライン・クロウの予想もまた、当たらなかった。
ライアン・ソーンは驚くことに、春になってミドル州のレインバード邸に姿を現したのだ。