02:死神と呼ばれる男
ついに十七歳で社交界に出た娘にとって、しかし、現実は厳しかった。社交の場となった舞踏会ではとにかく人が多く溢れ、他人に構っているような余裕がないような状態だったからだ。そんな中で注目されるのは、クロウ家以上の家柄の令嬢か、もしくは、かなりの資産を持つ令嬢に限られていた。勿論、キャロラインがそういう場を選んだのであって、彼女自身も今回ばかりは自分が賞賛されることを諦めなければならなかった。普段は自分と同等、もしくはそれよりも下と見做した人々の集まりで大いに溜飲を下げるキャロラインにとっては残念な社交シーズンの始まりであった。仕方が無いとはいえ、アリシアの存在は邪魔でしかない。
夫のヨアンは大学時代の友人たちと会え、彼が唯一、考え事をしてもいいと許すカードゲームをすることが出来たのでご機嫌だった。そのせいで妻と異母妹の存在をすっかり忘れてしまった。なに、異母妹のことなどキャロラインに任せておけば良い。女は女同士で居た方がずっといいのだ。
この場合、表面的ではあるが交友関係の広いヨアンが、異母妹を他人に紹介する為に少しでも付き添うべきであった。元からアリシアを社交界に披露する気など毛頭ないキャロラインはその役割をすっかり放棄してしまったのだから。キャロラインは上手い具合に知り合いをみつけ、アリシアを無視して会話を始めてしまった。
おかげで、アリシアはまったくの手持無沙汰になってしまった。誰も自分を気にしない。夢見ていた社交界はなんとつまらないのだろう。みんなが冷たく見えた。
いっそ、早くレインバード邸に帰りたいと願うアリシアは、強烈な視線を感じ、驚いた。
たくさんの人がいるにもかかわらず、その視線はまっすぐ自分を見ていた。睨んでいるといってもおかしくないほどの鋭い視線に十七歳の少女は恐怖を感じる。
けれども、それは彼女に向けてのものではなかった。視線の主はしばらくアリシアたちの様子を伺っていたようだ。悠然と人をかき分け、彼女の方にやってきた。おもわずキャロラインの方を見たアリシアはそこに、驚きの表情を浮かべる義姉の姿を見ることになる。
「まぁ……ライアン」
「ご無沙汰しています。ミセス・クロウ」
冷たく固い口調で、決して懐かしむ様子ではない。
「ええ、そうね。久しぶり。お元気?」
キャロラインはすぐに自分を持ち直し、手袋をした右手を差し出した。男はそれを恭しく取り、軽く口づけた。
ライアンと呼ばれた男は、キャロラインの手をすぐに離すとアリシアの方を見た。視線でキャロラインに求めると、義理の姉はしぶしぶといった様子で義理の妹を「アリシアですわ。主人の妹ですの」と簡単に紹介した。
「そうですか」
ライアンがアリシアを不躾にも思える視線で見るので、思わず目を伏せてしまった。だが気になるので、上目使いでチラチラとその様子を窺ってしまうのも彼女だった。
不作法かな、と思ったが、アリシアにとってライアンの視線は強すぎた。そして、見目麗しい美丈夫だった。年の頃は二十代後半だろうか。身に着けたものは立派だったが全体的に黒っぽく、また、その身にまとう雰囲気はどこか厭世的で陰鬱そうだった。もっとも、そのどこか影がある様子は、アリシアをはじめとした若い女性陣には魅力的に見えた。
何が彼をそうさせているのだろう。
どんな事情でキャロラインと知り合いなのだろう。
興味を隠しきれない様子でこちらを覗う少女に、ライアンはさすがに自分もまた無遠慮に彼女を見すぎたことに気が付く。彼はもう一度、彼女に向き直った。
「失礼。私はライアン・ソーンと申します」
思ったよりも深く優しい声だった。
アリシアはその瞳の奥底の悲しみと、その声に一瞬で引き込まれた。
名ばかりではあるがその後見であるキャロラインは扇子を持つ手に力が入っていた。彼女の視線が剣呑になっているのにライアンは気が付き、ほくそ笑み、これ見よがしに、アリシアの手を取った。
「お会いできて光栄です。ミス・クロウ。
宜しければ、是非、ダンスをご一緒に」
「え……っと、私で良ければ」
本来ならば付き添いであるキャロラインに確認しなければならないはずだったが、初めて男性にダンスに誘われたアリシアはすっかり舞い上がってしまい、誘われるまま、ダンスの輪に加わってしまった。
いざ、音楽が始まる直前、さすがにいけなかったかしら? とキャロラインの方をみると、彼女は恐ろしい顔をしていた。自分の不作法に怒っているのだろうか、心配になったアリシアの意識をライアンは自分の方に寄せた。
「さぁ。ミス・クロウ。踊りと私に集中して下さい」
男女の駆け引きなどまったく知らない初心な小娘はそれだけでもうライアンに夢中になってしまった。
せわしなく相手が代わるダンスの合間合間に、アリシアはライアンと会話する。
「私はミドル州から参りましたの。ミスター・ソーンはどちらから?」
「アークライト州です。生まれは別の地方ですが、数年前、遠縁の家を相続しまして、そちらに移ったのです」
「そうですの。
アークライト州はどのような場所ですか? どんなお屋敷? 住みやすい素敵な場所ですか?」
アリシアの質問に、ライアンはすうっと目を細めた。
「とてもいい場所ですよ。以前の家よりもずっと立派で、広大な土地がついています」
「それは良かったですわね。
実は私はミドル州から出たことがなくて、初めて王都に出て来たのです。
生まれ故郷を離れるって、こんなに不安で心細いこととは知りませんでしたわ。
ついさっきまでは、もうお家に帰りたいとまで思ってました。
きっと王都と私は馴染まないのね。でも、ミスター・ソーンは新しい住まいがお気に召しているご様子。
ならば、故郷を離れた寂しさが癒されるのも早いでしょう」
「本当に良いことですわ」と微笑むアリシアをライアンは唖然と言った表情で見た後、肩を震わせて笑い出した。
笑われたアリシアは頬を赤らめた。自分はきっとおかしなことを言ったのだ。
王都に馴染めない田舎者だと思われたのかもしれない。
「いや、失礼」
「いいえ、私こそ、おかしなことを言いました」
「あなたは素直な感想をおっしゃったのです。謝ることはありません」
ライアンは悲しみの色を深くし、どこか遠くをみやった。思わず足を踏まれそうになったアリシアは、寸前で交わし、礼儀正しく何事もなかった風に装った。
「申し訳ありません。踊りに集中していないのは私ですね。あまり……ご婦人と踊ることはなかったものですから」
アリシアはライアンの言葉に胸を高鳴らせた。普段、他の女性とは踊らない彼が、自分と今、まさに踊っている! 自分の魅力が、この見事な男性を惹きつけたと思うと、彼女は純粋に嬉しくてたまらなくなった。
母親のアンナは社交界に出る前に、口酸っぱく、「若い娘がいかに注目を浴び、若い男の気持ちを惹きつけるか」について話していたが、肝心の娘本人はあまり真面目には聞いていなかった。自分が結婚するなんて、アリシアにはまだ考えられなかったのだ。
それに煩わしい駆け引きなんて必要もなく、こうやって初対面の男性に誘われて踊ることが出来ている。
「では、慣れないといけませんわ。
ミスター・ソーンと踊りたいと思う女性はたくさんいると思いますもの」
「なぜそうお思いに?」
「え……だって……」
それはライアン・ソーンが素敵な男性だからだ。
当たり前の質問だったが、面と向かって本人に言うには躊躇われ、赤面してしまう。
身に相応しくない自信を持ったアリシアだったが、それはすぐに萎んでしまった。気の利いた会話など、やはり自分には出来ない、と。
「すみません。あなたを困らせてばかりですね。
さぁ、おしゃべりは止めて、踊りに集中しましょう。あなたも私の足を踏んでいますよ」
「……!」
アリシアは初めての社交界で、ライアン・ソーンと二曲ダンスを踊った。それは少女にとって夢のような体験だった。
あのライアンと踊っている少女がいる、と周囲の人間が注目するようになると、ダンスが終わったアリシアの元には、若い男性が集った。いずれ劣らぬ立派な若者だったが、ここに来て、少女は怖気づいてしまう。助けを求めるようにキャロラインの姿を求めた。普段なら、絶対にしないことだ。そんな彼女をあざ笑うかのように、キャロラインの姿はなかった。慌てて会場の中を探し回るが、義姉の姿も、義兄の姿もなかった。
まったく見知らぬ土地の見知らぬ場所で、見知らぬ大勢の人の中に取り残された少女は先ほどまでの夢見心地から一転、恐ろしい窮地に立たされていた。どうやって帰っていいのか検討もつかない。
泣きそうになったアリシアに、相変わらずダンスの申し込みがなされる。
「すみません」
強引な若者を振り払えずにいると、ライアンがそれに目を留めてやってきてくれた。
ああ、助かった。
いまやアリシアの中でライアンはヒーローであった。すっかり崇拝の目で自分を見る少女に困惑の色を出しながらも、ライアンは親切に話しかけた。
「どうしたのですか? 折角なのだから、他の方とダンスを楽しんだらいかがですか?」
何も一人の男しか踊ってはいけないという法律はない。
そう言うライアンに、アリシアは涙目で自らの窮状を訴えた。
「キャロラインがいないの。お兄さまも。
一体、どうやって家に帰ればいいの?」
王都のではなく、ミドル州のレインバート邸に帰りたい。
そんなアリシアを痛ましい顔でしばらく見つめたライアンは、今度は恐る恐るその手を取った。
「分かりました。私に任せて下さい」
ダンスに誘われた時と同じように、アリシアはライアンの言うなりについていった。それが淑女として正しいのかどうかは分からないが、今や、彼女の知り合いという存在はライアン・ソーン以外はいないのも確かなのだ。
ライアンは態度も行動も立派な紳士だった。彼は出来うる限り、彼女の名誉を傷つけないように行動した。アリシアはライアンの知人だという人々の輪に連れて行った。
そこには美しい衣装を身に着けた夫人たちが集まっている。
「ウェスト夫人」
「あらまぁ、ミスター・ソーン。相変わらずいい男っぷりで。今晩は珍しく女性と踊ったと聞きましたが、ついにご夫人を迎える気になりましたの?」
ウエスト夫人と呼ばれた女性が、ライアンをからかうような口ぶりで答えたが、ライアンは表情を変えなかった。
「実はこのお嬢さんの付き添いの夫人が、気分が悪くなって先に帰ってしまったのです。すぐに馬車が戻ってくる予定なのですが、今度はこちらのお嬢さんの気分が悪くなったようで、一刻も早く家に帰りたい、と。
もし、馬車が空いているのでしたら、乗せていっては下さいませんか。そろそろドーソン夫人がお帰りの頃合いと思いましたが」
ライアンはさらりとアリシアの置かれた嘘の事情を説明した。それを聞いた夫人の集合は口々にアリシアのことを心配して、椅子をすすめ、気付け薬を嗅がせ、お茶を勧め、なにくれとなく世話をしてくれた。
「初めての社交界ですもの緊張したのね」
「それに加え、この人混み! 私もそろそろお暇したいのに、主人ときたらカードゲームに夢中で、あと一勝しないと帰らないって」
「あら、それではいつまでたっても帰れませんわね」
「そうなのよ~!」
「まぁ。おほほほほほほほ」
思わぬ親切にアリシアは夫人たちに感謝し、ここに連れてきてくれたライアンにも同様の感情を向けようとした。しかし、ライアンはいつの間にか姿を消していた。再び不安になったアリシアだったが、ドーソン夫人と呼ばれるやせ細ってまるでドレスに着られているような女性が、きちんとした夫人であり、身を預けてもまったく心配なことなどないことを知り、馬車に同席させてもらうことにした。
ドーソン夫人は小柄で細かったが、決して陰気な性質ではなかった。むしろその反対で、その身体にどこにそんな気力があるのは分からないほど、とにかく陽気でおしゃべりだった。ライアンとのたった二曲ではあるが、彼女の社交界初日の全ての想い出ともいえる出来事をゆっくりと噛み締めたいアリシアにその余裕を与えない。
どこの出身か、今日の感想はどうだったか、亡くなった主人の話、家族の話。後半は主にドーソン夫人の話に終始したので、アリシアは礼儀正しく相槌を打ち、求められる同意を与えることに専念することにした。
「人が集まる場所は好きだけど、あまり長くはいないようにしているの。だって、こんなおしゃべりなおばあさんが若い男女の間にいたら、みんな行儀よくするばかりでしょう? 若い人はもっと自由にふるまわないとね。
なのにミスター・ソーンはちっとも! 若い娘さんも最近はすっかり諦め気味だったのよ。
あなたは二曲も踊ったんですって? 素晴らしいわ。その調子で、彼に影響力を与えられればいいわね」
答えに困ったアリシアだったが、王都にクロウ家が持つ邸宅の前に馬車が付いたとの知らせを受け、返事をしないで済んだことに感謝した。アリシア自体はライアンに対し好意を持っていたが、それを公にするのははしたないと思ったのだ。
ドーソン夫人も特に答えを期待していた訳ではなく、馬車が止まると、気さくにもほどがあろうに自らクロウ家の執事を呼び出し、令嬢の帰宅を告げた。
執事は大いに狼狽し、ドーソン夫人に何度も礼を述べた。
妻のキャロラインからアリシアが先に帰ってしまったと聞かされていたヨアンの驚きは執事以上だった。執事から渡されたドーソン夫人の名刺にますます慌てる。
「あのドーソン夫人に手間をかけるなんて」
後日、どうお礼を述べてから謝罪するか、なんてことを考えるだけで面倒くささのあまりヨアンは頭痛がしてきた。
「姿が見えないからてっきり先に帰ってしまったのかと。キャロラインはアリシアがあまり楽しんでいない様子だったから、勝手に帰ったんだと言っていたんだ」
たとえそうだとしても、一体、お金もなく、土地勘もなく、初めて王都にやってきた少女が一人で帰ったりするものか。もしもライアンが助けてくれなかったら、自分はどんな目にあっていたか想像するとアリシアは血の気が引く思いだった。
彼女は当然の権利でもって異母兄に対し怒りを覚えたが、ヨアンに怒っても仕方が無いことは分かっていた。ヨアンはキャロラインの判断力と決断力を崇拝し、何事もその言いなりなのだ。
頼りのない異母兄を前に、アリシアはそれでも愁傷に心配と迷惑をかけたことを詫び、今後は決してこんな真似はしないと誓った。これで舞踏会に連れていってもらえなくなったら困るからだ。
アリシアは、こちらは乙女の権利としてライアンにもう一度会いたいと望んでいた。
しかし、ドーソン夫人には何度も会うこととなったが、そのシーズン中、ライアンと会うことは二度となかった。
「仕方が無いわ。ミスター・ソーンは最近、大変な資産のある家を継いだの。
アークライト州のブルーム邸よ、ご存知?
私たちよりももうちょっと格上の方々とお付き合いしないといけないの。
この間は、きっとウエスト夫人や私に挨拶に来てくれたのね。律儀な子だから」
ライアンが姿を見せないことを何気なく聞いたアリシアはドーソン夫人からそういう答えを得た。ドーソン夫人は、アリシアはライアンにすっかりお熱なのだと分かっていた。なので、ライアンにも自身の主催する舞踏会や集まりに声を掛けてはいたが、良い返事は返ってこなかった。
キャロラインは義妹の付き添いを半ば放棄していたが、ほとんどの催しは人の集まる所が大好きなドーソン夫人か、同じくらい大好きなウエスト夫人が居合わせていたので、アリシアが困ることはまったくなかった。そして、ライアンの情報は、本人ではなく、もっぱら、彼女たちから得ることになった。
「ドーソン夫人はミスター・ソーンとは昔からの知り合いなのですか?」
「子どもの頃からの知り合いなのよ。
私の住むハートヒル邸と、彼の家族が住んでいたローズウッド邸はお隣同士だったの。ウエスト夫人も私を訪ねてよく遊びにきているから知っているわ。
小さい頃からとっても賢くて可愛い子だった。ソーン家の本家のご当主が若くして亡くなったのは不幸なことだけど、あの子が跡を継いだのは良かったことだわ。
そのせいで、一部の人間があの子を死神だなんだって言うけど、ソーン家の先代がなくなったのは、あの子のせいじゃありません。
大きな財産を継ぐと、口さがない連中がいろいろ言うものなのよ。信じてはいけませんよ、アリシア」
「そんなこと! 露ほども信じませんわ!」
ライアン・ソーンはちょっとばかり陰鬱そうで、若い娘たちへの愛想が悪いくせに、その財産目当てに注目されているものだから、敵視している人間が多くいることをアリシアは知った。でも、自分にはそんなそぶりはまったくない。
それが自分が特別だから、とうぬぼれた気持ちになることを責めることは出来ないだろう。確かに、ライアンは彼女に対し、他の女性とは違う態度を一度は見せたのだ。そう、一度は……。
「あら、見てごらんなさいよ、ミス・クロウ。ウエスト夫人がいらしてよ。
新しくお茶を頼みましょう。彼女、この間、出来たばかりのお店に行って、とても素敵なリボンを手に入れたって。今日、見せてくれる約束なの。
ミス・クロウも見たいわよね。女の子はリボンが大好きですものね。ああ、あなたのその帽子に合うリボンがあればいいのに。正直、そのリボンの色ときたら! なんたって、そんな派手な色を選んじゃったの? いいえ、分かってますわ。キャロラインは趣味は悪くはないけど、それがミス・クロウに似合うかは別なことを知らないのね」
ドーソン夫人の手招きに、ウエスト夫人がご機嫌な様子で応えた。
そうして、アリシアはドーソン夫人やウエスト夫人といったご夫人方との友好を深めることで初めての社交界シーズンの日々は費やしていった。