01:レインバード邸のアリシア・クロウ
アリシア・クロウはミドル州のレインバード邸に住むクロウ家の一人娘だった。
父は大地主として知られるヘンリー・クロウ。ヘンリーは若い時分に、同じく紳士階級でしかもかなりの財産家の家柄から妻を娶り、その夫人との間には一人息子をもうけていた。釣合のとれた家柄と、そして何よりも持参金の多さで選んだ先妻との夫婦仲は、ヘンリーの我儘な性格の割には悪くはなかった。正確に言えば悪くなる前に、不幸なことに幼い一人息子を残し、夫人は亡くなってしまったのだ。
おかげでヘンリーの中で前妻は慎ましく愛らしく、そして哀れな女としての印象を留めることになった。
とはいえ、至極自分勝手なヘンリー・クロウは同時に、妻がいない男やもめとしての自分がすっかり気に入ってしまった。後継ぎである息子はいる。新しい妻など迎えたら、あの哀れな女に申し訳ない。そんな言い訳をして、彼は先祖代々の財産と妻の残した財産を食い潰しながら何不自由のない生活を満喫することとなる。
息子の教育は乳母に任せ、長じてからは寄宿舎付の学校にやってしまった。自身もそんな風に育てられたヘンリーがことさら冷たいという訳ではなかったが、息子への情愛が強いとは、残念ながら言えなかった。
さて、そんなヘンリーではあったが、老齢に差し掛かると、さすがに身辺が寂しくなってきた。前妻への義理も十分果たしたとして、再婚する決意を固めたのである。
今度は家格や資産ではなく、はっきりと見た目の好みで選んだ妻は大きな商家の娘だった。
名をアンナといい、彼女がアリシア・クロウの生みの母である。
「何もあんな年上の男の後妻に収まることはない」
多くの人間が諫言したが、アンナは若い娘特有のおかしな母性本能からくる使命感にかられてしまった。この老人にさしかかった男は自分を必要としている。もし純粋に男自体に惚れていたら、いくら年を経て丸くなったとはいえ、それでも我の強いヘンリーにあそこまでは尽くせなかっただろう。
そのような愛情で結ばれた夫婦だったが、それでも、結婚当初はうまくいっていた。
だが、アンナは次第に大きな不利に気づくことになった。ヘンリー・クロウは無能な地主であり、折角の土地を活用しきっていなかった。農地は今風の改良もされず、そこからの上がりは昔よりも減っているくらいだ。羽振りが良いように見えていたのは、あったらあっただけ使ってしまう浪費癖がなせる技で、レインバード邸には借金こそないが、およそ貯蓄らしきものは見当たらない。ただ、亡き先妻の財産のみが守られ、運用されていたがそれはアンナには全く関与することが出来ないもので、いずれすっかり息子のヨアン・クロウに相続されるものだった。
さらに悪いことにヘンリーの財産は全て男子のみが相続するように手続きされており、この財政状況ではアンナには勿論、アリシアにもお情け程度の分け前しか得ることが出来ないことになっていたのだ。
レインバード邸唯一の相続人であり、アリシア・クロウの異母兄・ヨアン・クロウは半ば、父に見捨てられたように育てられた。亡き母との思い出がほとんどない彼は、父の再婚に関しても、特に反対はしなかった。学校の長期休みの時や卒業してからは王都にあるクロウ家の持家で過ごしていたが、ごく稀に家に帰ってきた。帰ってきたかったからではなく、そうしなければならないという義務感というか、思い込みからである。ヨアンという男は、まるで父親が自身に対して与えた分しか情を持ち合わせてないような人間であり、それに加え難しい問題も簡単な事柄すらも深く考えることが嫌いだった。そこで世間一般の常識を大事にした。それさえ守っていれば、彼は何も思い煩うことはないという寸法であるからだ。
アンナや幼い妹・アリシアへの態度は親しみはなかったが、決して悪くもないという態度である。アンナが季節のものを贈れば、執事を通してだがお礼の手紙と品が返ってくる。
親子の情愛はほとんど感じられないが、世間一般が大事にすべきだと思っている物事には無感動に倣うという義理の息子・ヨアンの性格を知るにつれ、アンナはたとえヘンリーが亡くなったとしても、自分たち親子が無一文でこの館を追い出されることはないと高をくくっていた。
けれども、ヨアン・クロウが嫁を連れて戻ってきた時、その考えは大きく不安の方向に舵をきった。ヨアンの妻・キャロラインは紳士階級の出身ではあったが、実家の経済は困窮し、自身はどこかの家で家庭教師をしていたという。ヘンリーは当初、難色を示したが、いざ会ってみると、大変に美しく愛想の良い女性であることが分かり、すっかり許す気分になってしまった。ヨアン一家はヘンリー一家とは共に暮らさず、王都の方の家でほとんどの時を過ごしたが、二人の間に息子が生まれると、しょちゅうこちらに帰ってくるようになった。
それに対し、アンナはすぐに辟易するようになる。
とにかくアンナとキャロラインは合わなかった。表面上では非常に人の良さそうなキャロラインは実際は冷たく利己的で計算高い女であり、これぞと思った人間に取り入ることが上手だった。我儘で注目されることが大好きなヘンリーにはおべっかを使い、考えることを億劫がるヨアンにそれとなく答えを与える。ヨアンにとってキャロラインは日々の思考という煩わしいことから解放してくれる最高の女性であり、着る服から食べる物、友人関係に至るまで、妻のいいなりとなっていた。それは決して夫を良い方向に導くものではなく、ただただ、キャロライン自身の利益のために費やされた。
対して、彼女に有益でないと判断されたものには冷たかった。レインバード邸でいえば、アンナとアリシアである。
キャロラインは没落したとはいえ、自身が立派な家柄の出と信じ、商家出身のアンナをことあるごとにあからさまに貶めた。年を重ねすっかり弱って来たヘンリーは、アンナの力にはならず、キャロラインの若く華やかな美しさと愛想の良さ、そして、孫息子のジョセフの愛らしさに目を細めるばかりであった。
「ああ、あの哀れな母親にも見せてあげたい。息子がこんな美しい嫁を得て、立派な孫まで生まれた。
さぞや喜ぶことだろう」
これまで無視されてきた息子は父親の態度にも「孫が出来た祖父というのは、そういうものだろう」程度の感想しか抱かなかったが、妻のキャロラインがしきりに、「お義父さまはお寂しいのだわ。こう言ってはなんだけど、お義母さまではとても満足のいく話相手になれるとは思えませんもの。私たちが側にいて支えてあげなくては」と言うので、「そういうものか」とそのうちすっかり、居を王都から移してしまった。
アンナはアリシアに向かって不満と疑惑を述べた。
「あの人、どういうつもりなのかしら? どう考えてもこんな田舎よりも王都の水の方が性に合いそうなのに」
「きっとジョセフの為よ。王都よりもミドル州の方が教育にも健康に良いはずだもの」
「キャロラインがたとえ腹を痛めた息子であろうが、自分以外の為に行動するとはとても思えないわ。
なにかよからぬことを考えているか、よからぬことをして王都にいられなくなったのかのどちらかに決まっていますよ」
レインバード邸での長い生活の間に、アンナはすっかり愚痴っぽく、猜疑心の強い性格になってしまい、不満は娘のアリシアに向かって吐き出されることになった。またいつものことだわ、と聞き流したアリシアだったが、彼女の母親の言う事は結果的に両方当たっていた。
とりあえず、レインバード邸に住み着いたキャロラインはすっかり女主人の顔をして、万事が万事、取り仕切るようになり、老人の耳元でアリシアを貶め、ジョセフの賢さを吹聴し続けるようになった。
「ほうら、私の思った通りだわ!」
アンナがキャロラインに憤慨している間に、アリシアはそろそろ社交界に披露されてもおかしくない十五歳になった。俄然、張り切ったアンナはヘンリーに頼んだ。
「あなた、アリシアを王都に連れて行って、社交界でお披露目をさせないと。そして、相応しい男性と結婚させなければ」
アンナにとって、アリシアは希望だった。男の子ではないので、クロウ家の財産を相続することは出来ないが、レインバード邸のヘンリー・クロウの娘という立場ならば、立派な男性と縁付ける可能性は高い。娘が立派な家に嫁げば、アンナの虚栄心は満足されるし、キャロラインに対してもこれまでのように虐げられたりはしない。おまけに、もしかの時は生活の援助もしてもらえる。
「もうそんな年になったのか……しかし、王都は遠いし、寒い。人混みの中で朝まで舞踏会などとは、おいぼれには辛いな」
「そんな!」
可愛い一人娘の晴れ舞台だというのに、あまりに情のないヘンリーの態度にアンナは卒倒しそうなほど失望した。うちの可愛い娘をこんな田舎で埋もれさせてもいいというのだろうか? それは絶対にいけない。
社交界シーズンが来るたびに、アンナは気を揉み、何度もヘンリーをせっついた。
ヨアンはシーズン毎に持ち出されるこの問題にうんざりしていた。しかし、世間的には年頃の娘は社交界に披露され、よき結婚相手を見つけるものだ。行き遅れた娘や財産のない娘は働きに出なくてはいけないだろうが、淑女たるアリシアがその名誉を保ったまま出来る職といえば、この国では上中流階級か富裕階級の子どもを相手にする家庭教師しかない。
彼の妻は元・家庭教師であったが、キャロラインは特別に心もちの美しい、利発な女性であったからこそ、クロウ家の嫡子たる自分と結婚出来たのであって、アリシアがそうできるとは思えなかった。キャロラインから聞かされる話では、彼の妹はあまり出来が良いとは言えないらしい。こんなに早く社交界に出しては本人が恥をかくだけでなく、クロウ家の仮名にも泥が塗られるという。
アリシアの社交界への顔見世を陰で妨害しているキャロラインの心情は、簡単に言えば嫉妬である。自らの美貌を自負していても、すでに子どもを一人生み、年を取った。アリシアは際立って美しい訳ではないが、若さからくる瑞々しい愛らしさがあった。異母兄に似てあまり物事を深く考えず、うかつなまでの衝動性があったが、取りようによっては素直で感受性が豊かであると変換される。あんな人生を舐めているようなお嬢さまが自分よりも社交界で注目を浴び、上手い具合に条件の良い男と結婚でもしようものなら、想像しただけで屈辱で夜も眠れない有様だった。
だが、そろそろヨアンも世間一般の常識に照らし合わせ、妹を王都の社交界に連れて行かなければならないだろうと言うようになった。そうなると、キャロラインでもヨアンの考えを覆すのは難しかった。
しぶしぶだったが、あくまでも主導権はキャロラインが握った。
「お義父さま、ご心配には及びませんわ。アリシアは私たち夫婦が責任をもって預かります」
満面の笑みでそうキャロラインに宣言されたアンナは戸惑った。アリシアをこの夫婦に預ける? とんでもない! ヨアンはともかくキャロラインなんて信用できない。
自分も王都に出向き、アリシアに付き添うとアンナはヘンリーに訴えたが、ヘンリーはそれをにべもなく却下した。
「ヨアンもいない。キャロラインもいない。ジョセフもアリシアもいなくなるのに、お前まで私の側を離れるなどとんでもないことだ。
このおいぼれを一人、置いていくなんて、お前はなんて冷たい女なのだろう。
ああ、これがあの哀れな女だったら、そんなことはしなかった。あれは情の深い女だった」
ヘンリーの中で短い付き合いの前妻の記憶は美化されてしまい、健康や経済を思ってヘンリーにさまざまな忠告をするアンナを疎ましく思う気持ちが強くなるばかりだった。
アンナは憤ったが、こうなってしまってはもうどうしようもなかった。これ以上、ヘンリーの機嫌を損なえば、僅かながら残される予定の年金の額すら減らされてしまいそうだ。すっかりヨアン一家の虜になってしまったヘンリーは、アンナの分もアリシアの分の財産も、残さずジョセフに渡してしまいそうほどの溺愛ぶりだった。また、キャロラインがうまいこと、それをそそのかそうとしている。
キャロラインは自分が使う分を十分残そうと、当然のようにアリシアが社交界に挑む衣装代も節約した。
キャロラインのドレスを手直ししたものを渡されたアリシアはさすがに落ち込んだ。アンナが常々、レインバード邸の財政状況に関して、ヘンリーに小言を言い、家令や家政婦長、財産管理人と話し合っているのは知っていたが、初の社交界である。贅沢と言われようが、ドレスに対して娘らしい憧れを持っても、許されるはずだ。
それが義姉のお古だなんて!
意気消沈したものの、アリシアの若い気持ちはすぐに前向きになった。確かにお古ではあるが、決して流行おくれではない。キャロラインは散財家でつねに流行の最先端を追い求めている。今、ようやくキャロラインのお古のドレスが世間一般の女子に浸透しているといっても過言ではない。何よりも、自分によく似合うではないか! きっと舞踏会で目立つに違いない。たとえ隣に華やかというには下品なまでに派手な義姉がいようとも、だ。