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白魔

白魔3

作者: 星水晶

「白魔」「白魔2」を先に読んでください。

 雪崩に巻き込まれて山から落ちてから、一度も変化することがなかったのに、なぜ今自然と雪狼の姿形になっているんだろう。山の霊気のせいか。だとしたら、下界の人間の村で変化しなかったことは、ほんとうに幸運だった。もし変化することがわかったら、ルーネは亜人の奴隷ではなく、見世物のばけものとして売り飛ばされていたにちがいない。

 銀白色の巨大な雪狼はルーネを口にぶらさげたまま、かなり高いところまで一気にかけのぼってきた。もうこのあたりは、人跡未踏の雪狼氏族の国だ。岩蔭のやわらかい吹き溜まりに、ルーネはそっとおろされた。人間に邪魔されないここで食べられるのかな、とルーネはぼんやり目をとじたまま思った。

 白魔はいけにえを食べるそうだから。

 雪狼氏族の成人は狩をして生き物を屠り、その肉を食べる。子どもだったルーネは木の実や草の実や菜園の生り物を食べていただけだったけど。

 先の見えない奴隷の暮らしはルーネをすり減らし、子どもの頃の記憶も失くしていった。もういっそここで終わりにしたい。生きているのに疲れてしまった。忌避されあざけられひとでなしの扱いを受け、いつも殴られ蹴られ罵倒され、いつもおなかがすいたまま、なま傷のたえない手足を縮めて眠るのは終わりにしたい。

 ここはいやなにおいがしない。空気はつめたくてもとても澄みきって甘い。

 吹き溜まりにおとされたまま、ルーネは目をとじてじっと動かなかった。


 何か大きくて温かい、でも悲しいにおいのするものがルーネをかぎまわっているのに気付いた。はじめはそっとなま温かい鼻がかすめていくだけだったが、だんだん強くおしつけてきた。大きな生き物はひっきりなしに「クンクン、キュンキュン」鼻声で鳴き、ルーネの耳や首やおなかに鼻面をこすりつけて前足でルーネをゆさぶる。抵抗なんてするつもりないから、ひとおもいにぱくっと食べればいいのに。ルーネはそっと目をあけた。目の前に吸い込まれそうな蒼い目。


「ルーネ、帰ってきてくれた。キルンって呼んで。キルン、ただいまって言って」


 蒼い目はみるみる涙でいっぱいになった。ルーネは驚いた。


「ね、ずっとずっと探したんだよ。もうどこにも行かないで」


 白魔と恐れられた魔物はキルンだったんだ。キルンは雪狼氏族の一員で昔はルーネの守役だった。ルーネはぼんやり思い出した。そうだった。あいかわらず大きくて強くてきれいな銀色だ。雪狼氏族の狩るのは鳥獣だけ。氏族同士で共喰いなどしない。つまりは白魔キルンはルーネを食べない。

 まだ終わらないんだ。

 ルーネはほうっと息をはいた。栄養不足で発育不全の上に、傷だらけで左手も失った。ほっておいてももうそんなに長くはもたなかっただろう。最後に山にもどれてよかったと思うべきなのかもしれない。少なくとも、もう痛いことはない。

 ルーネはもぞもぞ動いて吹き溜まりにすわりこんだ。キルンはせわしなくまわりをぐるぐる回ってルーネのにおいをかぎ、とうとう左の前肢が欠けているのを見つけた。突然周囲の空気がぞっくり変わるほどの魔力の重圧に、ルーネは力なくぺしゃんこになった。

 キルンはギラギラと恐ろしい目で歯がみすると、天に向けて吠えた。


 しばらくすると、あちこちから雪狼氏族が集まってきた。キルンの吠え声はそれほど大きかったらしい。みんなキルンを遠巻きにして様子をうかがっているようだ。どうしたんだろう。誰も声をかけてこない。キルンの方も氏族の姿を認めるとすぐに姿勢を低くした。吹き溜まりにぺしゃんこになっているルーネの上にのしかかり、おなかの下にルーネを押し込む。全身の筋肉が緊張して、四肢すべて爪が露出している。きしむような牙鳴りの威嚇音、いやこれはもう威嚇ではなく攻撃の前兆だ。ちょっとしたきっかけがあれば、キルンは氏族を攻撃する。


どうして


 ルーネは片手でキルンの堅いおなかを叩いたが、キルンは気づくこともなかった。完全に攻撃態勢に入ってしまっている。同族殺しは禁忌だ。たとえ優秀な一員であるキルンでも、氏族から殺される。


「キルンや、ルーネが帰ってきたのかね」


 年老いた声がする。これは、長老の声だ。わずかに覚えているよりずっと力のない声。長老も年をとったのだな、とルーネは思った。でも、生きていた。知ってるひとがいた。ルーネはだんだん、今の状態が夢ではないのだな、と思えてきた。人間の村での暮らしは、悲しくてみじめすぎて、悪い夢の中のようにぼんやりしていたから。


「キルンや、ルーネを見せておくれ」


 長老の声に攻撃態勢から威嚇にもどったキルンは、再三の呼びかけにやっと体をずらした。吹き溜まりにおしつけられていたルーネは、ふらつきながら体をおこした。ずいぶん毛並みがみすぼらしくなっていたが、たしかに長老だった。介添えの手にささえられて杖をついている。長老はキルンをとりまく氏族の輪から数歩近づいて、でもキルンの手のとどかないところに立って、ルーネを見つめた。


「生きていたのだねぇ。よく帰ってきてくれたね。おかえり、ルーネ」


 ルーネは長老からよく見えるように大きくこっくりした。長老は注意深くキルンから距離をとっている。キルンはたぶん危険な状態なのだろう。ルーネのうしろにぴったりついているキルンの体がビクビク痙攣している。筋肉は極度の緊張を保ったまま。これは、キルンが長老も攻撃対象としている、ということだ。一触即発。たぶんその引き金はルーネなのだろう。どうしてこんなことになっているのか、ぜんぜんわからないけれど。

 だって、ルーネは雪崩で死んだのだ。雪狼氏族はみんなそう思っていただろう。雪崩は自然の摂理。あるいは異端を排除する天の配剤だったのかもしれない。そう思うものがいても不思議じゃない。預かり子を不可抗力で失った気の毒なキルンに同情こそすれ。そう、キルンは次の子を預かればよかったのだ。氏族の掟ではそう定められている。

 氏族の輪がざわめいて一画が破れ、いきなりひとりの女の人が飛び出してきた。長老が立っているのとは別の方向だ。薄いクリーム色の体毛をぴったりねかせてまっすぐ駆け寄ってくる。そのあとを数歩遅れて白毛の男の人が続く。

 あぶない!とっさにルーネは前に出て女の人の体を止めた。同時にルーネの耳もとで重く鋭い牙鳴りがし、強い顎がばっくりと咬みあわされた。悲鳴が空気を切り裂き、二本の腕がうしろからルーネを抱きしめた。ルーネが止めなければ、女の人はキルンに咬み裂かれていただろう。ルーネがもうすこし大きければ、キルンの顎はルーネの頭を咬みつぶしていたかもしれない。


「いや!いや!だめっ!」


 キルンの腕はぎゅっとルーネを押えこむとぶるぶる震えた。震えているのは腕だけではなかった。


「ルーネにさわるな!ルーネをとるものは殺す!」


 クリーム色の女の人はへたりと腰を抜かし、遅れて追いついた白毛の男の人がその肩を支えた。


「ルーネ。お、おかあさんよ」


 ルーネは黙って何度もうなずいた。母親だった。ルーネを覚えていてくれたのだ。会いにきてくれた。もうそれだけで十分だ。後ろにいるのが父親だろう。もっと下がって。まだその距離では危険だ。父親が母親をかかえて数歩下がる。キルンの腕からこわばりがとれる。


「会いたかった。よく生きててくれたね」


 母親はぼろぼろ涙を落としてほほえんだ。父親は苦虫を噛み潰したような顔をしてルーネをにらんでいる。あいかわらず、母親を苦しめるルーネをよくは思ってくれないのだな、とルーネは思っていた。その父親の背中から、小さなクリーム色の頭がのぞいている。ああ、次の子どもを持ったんだ。ルーネは寂しいような安心したような気持ちで息をついた。母親と同じ毛色の子どもは、さぞかしかわいがられて大きくなることだろう。父親は母親が大好きなのだから。


「おまえは、おまえは返事もしないのか。おかあさんがこんなに一生懸命話しかけているのに」


 父親がルーネを責めた。ここでキルンを刺激するような言葉はやめてほしい。父親ではキルンに太刀打ちできないだろうから。

 ルーネは父親に目をむけると口を開けてみせた。口を動かしても出てくるのは息の音だけ。ルーネは声を出せないのだ。それをわかってもらおうと何度も口を開けて指さした。左手は雪崩に呑まれて落ちていく途中でもぎ取られたらしい。でも声は人間に奪われた。人間に拾われて、体の傷が少しましになった時、ルーネは逃げだそうとしたのだ。そこをつかまって棒で何度も殴られて、気をうしなったところで首輪をつけられた。首輪はどうしてもとれなかった。何年もそのままで、首輪はルーネののどをつぶしてしまった。

 キルンの手がルーネの開いた口を撫で、そのまま頬からのどにふれた。首輪は今もルーネののどに食い込んで、首の周りの皮膚は赤むけて厚いかさぶたとなり、体毛も抜け落ちている。キルンは短い悲鳴を何度も上げた。ルーネの前に膝をつくとあごをもちあげて首輪をとろうとかきむしった。

 遠巻きにしている雪狼氏族の中にも悲鳴があがった。母親は目をみひらいて手をさしのべた。


「キルン、だめじゃ。ルーネが痛がっておる」


 長老の声が響いた。氏族の輪がざわめいてまたひとり白い毛の男が足を踏み出した。


「キルン、俺だよ。セスだ。わかるだろ。俺、治療師になったんだ。おまえの大事な預かり子を診せてくれないか」


 セスはキルンの友だちだったはずだ。何度か見たことがある。でも、キルンはセスにも牙をむいた。


「な、俺たち友だちだったよな。その子を連れて、いっしょに木の実を取りに行ったこともあっただろ。まてよ!そんなにかきむしっちゃだめだって!俺が、そのクソいまいましい輪っかをとってやるから」


 セスはできるだけおだやかな口調でキルンに話しかけた。ずっと目を見つめたまま、何度も何度もなだめるように。


「おまえはその子をしっかり抱いててくれよ。暴れないようにな。顎の下じゃなくて首のうしろから、輪っかを切ろう。ちょっとずつ、その子の傷にさわらないように切るから」


 セスは静かに時間をかけてキルンに近づき、手に持った氷雪の刃を見せた。ルーネはキルンを見上げ、セスの方に首を傾けた。長老はセスがキルンの横に立つと雪狼氏族に手をふった。みんなは輪をといて静かに離れていった。残ったのは、キルンとルーネ、セス、長老とその介添えだけだった。ルーネの両親もほかの氏族にうながされて家にもどっていった。

 セスは慎重に鋭い刃で首輪を切っていき、時間をかけて首輪がはずれた時、ルーネはせきこんで雪の上に血を吐いた。キルンは叫び声をあげるとセスにつかみかかった。その手をルーネの片手がとめる。ルーネはキルンに何度も首をふった。長年のどをしめつけてきた首輪がはずれて、いきなり血流がもどったので、のどの中の古い傷口からちょっぴり血が出ただけなのだ。


「よくがんばったなぁ、ちびさん。ちょっとのどを診せてくれよ」


 セスは首の回りを調べ、ルーネの口を開けさせてのどの中を診た。それから、なくした左手の先を調べ、何度も眉をしかめた。ルーネの体はぼろぼろだった。骨こそ折れてはいなかったが、体中古い傷や新しい傷におおわれ、打撲痕が硬いしこりとなっていた。たぶん人型をとれば皮膚も瘢痕におおわれているだろう。それをキルンが見たら、おそらく「山崩し」が起きる。下界の人間の村は滅びるだろう。


「長老、去年東の山にできた熱い湧水を、キルンとルーネにやってくれないか。あれは傷にきくんだ」


 セスが長老に頼むと、長老はすぐにうなずいた。


「よしよし、あの湧水は飲めんからの。誰も使わんだろうからかまわんよ」

「キルン、今から教える薬草を束ねてその湧水にひたしてな。その湯にルーネを入れてやれよ。あたためて、よくさすってやってくれ。ほら、ここみたいに硬くなってるところを、そっともんでやってな。傷跡によく効く軟膏があるから、あとで持ってくるよ。湯から出たらそいつをよくすりこんでな。いいな、毎日根気よくだぞ。それで、滋養のあるうまいものを少しずつ食べさせて、あたたかくして、ゆっくり寝かしてやれよ。ちびさんはちょっとばかりやせすぎだからな」


 キルンはセスをにらむと、ルーネののどの赤むけをせっせとなめはじめた。


 セスが届けてくれた薬草の束を浸した温泉につかって、軟膏をぬってもらって、あたたかい家でおなかいっぱいごはんを食べて、キルンの冬毛にうもれるように抱かれて眠る。安穏で充足して、ちょっと前のことが信じられないほど天国のような毎日だった。うとうとしていると、キルンの手が手足をさすり、血行の悪い足先がちょっとでも冷えていると、キルンのぶ厚い冬毛の中に押し込まれる。寝がえりをうつとすぐ両手が伸びてきて抱き込まれる。起きた時には、干した果物や蜜づけの果物、香ばしく炒った木の実、堅焼きの小麦のビスケットを食べさせられる。キルンの家の貯蔵部屋にはおいしい保存食がぎっしりだった。燻製の干し肉や魚の干物はキルンだけが食べ、ルーネは食べなかったが。


 でも、どうしてこうなってしまったのだろう。ルーネはふっと目がさめるといぶかしく思った。昔だってキルンは厳しい守役だった。ルーネが小さかった一年目の冬でさえ、同じ部屋で寝たことはない。蜜づけの果物なんて見たこともない。そしてなにより、ルーネはもう守役の必要な子どもではないはずだ。たしかに発育不全で体も不自由だけれど、雪崩からもう何年もたっている。キルンの時間はあの雪崩の冬で止まってしまったのだろうか。預かり子を助けられなかった罪悪感?責任感?

 なによりも、どうしてキルンは白魔になどなってしまったのだろう。

 ずいぶん落ち着いたように見えて、今でも、不用意に他人が近づくとすぐに攻撃態勢になる。威嚇ではなく本気で牙をむく。


「ルーネ?」


 キルンの眠そうな声に、ルーネは目を閉じて眠ったふりをする。ルーネは発育不全で子どもの体でも、キルンはもう青年期を脱して大人になっている。ときどき苦しそうな悲しそうな声で鳴いている。たぶんこの冬が明けて春になって夏がくれば、キルンがルーネを預かるはずだった時間が終る。三年よりずっと長くかかってしまったけど、長老は聞いてくれるだろう。


「キルンを伴侶にしたいかね」


 ルーネは「いいえ」と答えるんだ。そしてキルンは自由になれる。もう白魔になる必要もなくなる。できれば友だちになれるといいけど。守役を無事果たしたのだから、キルンは成人した雪狼氏族の中で伴侶を見つけることができる。ルーネは一生守役に名乗り出ることはないから、伴侶なしの半人前で終わるけれど。こんな灰色の毛で片手がなくて声も出なくても、キルンが教えてくれた生きていく技術を使ってなんとか生きていける。

 人間の村で、もう生きていたくないと何度も思ったけど、生きていてよかったのかもしれない。下界で死ぬよりずっと、今は幸せだ。


「ルーネ、眠ってる。ちっちゃいふわふわ」


 このごろキルンはルーネが眠っていると耳もとで話しかける。必ずルーネが眠っているのを確かめてからだ。きっと聞いてはいけないことばなんだろう。ルーネは目がさめていても眠ったふりをする。


「馬鹿で哀れなキルンは運命が見えなかったの」

「苦しくて悲しくてつらくて、胸が裂けそう」

「どうかどうかお願いだから」


 キルンはきゅうっとルーネを抱きしめると、なんどもなんども頭に頬ずりする。キルンがそんなに強く願うことってなんだろう。できればかなうといい。そんなに苦しくて悲しくてつらいことなら、なくなるといい。キルンは白魔なんかになっちゃいけない。もっと自由で幸せになってほしい。


 冬があけて春が来た。雪も解け始め、あちこちに土が顔を出し、木々はやわらかいみどりの芽をつけ、小さい草の芽が地面を覆い、小さい花が咲く。凍っていた川は楽しそうに流れ、また水汲みができるようになる。鳥や獣は野山をかけめぐる。雪解けの雪庇に気をつけて、まだ氷片の浮かぶ川にも、冬ごもりから目覚めたばかりの腹ぺこな大型獣にも気をつけて。でも春はいつだって心を躍らせる季節。

 春が終れば、キルンは自由になれる。

 このごろキルンはそわそわしている。冬中毎日入っていた温泉に行くときも、なんだかこれまでとちがう。まっすぐ目をあわそうとすると目をそらしてしまう。

 硬くなったところをもんだり、軟膏を塗ったりするつごうで、温泉には人型ではいっている。雪狼の姿形では毛並みが濡れてしまうばかりだから。あんなに赤むけになっていた首も今はちゃんと新しい皮がはっている。痕は残るだろうとセスにも言われた。もつれて固まっていた髪も、さすがにひどいところは切ってしまったけど、今は毎日きれいに洗ってとかしているのでさらさらだ。もっとも灰色の髪色はどうしようもない。体も少しは大きくなったようだ。魔力が体の中を循環しているのを感じる。ルーネはもうだいじょうぶ。

 キルンもむやみに攻撃態勢をとらないようになってきた。それはすごく大切なこと。ちょっとだけなら離れることができるようになった。今もセスが来て、むこうで春用の新しい軟膏の説明をしている。


「ルーネ」


 木の陰から長老が手招きしているのを見て、ルーネはにっこりした。キルンから見えないようにかくれているらしい。長老はお茶目だ。春になってあたたかくなったので、長老も体調がいいようだ。介添えはいなくて杖だけついている。


「なに?」

「キルンにはないしょで、話があるのじゃが」


 そうそう、声が出るようになったのだ。かすれた小さな声だけど。初めて声がもどった時「キルン」と呼んだら、どうしてかキルンは泣いてしまった。山にもどれた時、最初に「キルンって呼んで」と言ってたから呼んだのに。

 長老のいる木の陰に行って、となりにすわりこむ。


「ルーネはキルンをどう思う」

「感謝」


 長老は頭をかかえこんだ。


「それは、伴侶には望まない、ということじゃろうか」


 ルーネは真剣な顔で何度もうなずいた。声がもどってもまだ自由には話せない。のどが痛むし、ことばも思うように出ない。


「キルンもう自由に。ルーネだいじょうぶ」

「ルーネや、キルンがどうして白魔になってしまったか、知っているかね」


 ルーネは驚いて首を横に振った。どうして白魔になってしまったか、とても疑問に思っていたから。そしてキルンにはとうてい聞けなかったから。


「キルンは絶望のあまり心が壊れてしまったのじゃ」

「魔に堕ちるとはそういうことじゃ」

「今はかろうじて正気でいるのじゃが」


 長老はルーネをじっと見つめて頭をさげた。


「どうかキルンを救ってはもらえんかな」

「『苦しくて悲しくてつらくて、胸が裂けそう』って」


 長老は首をかしげた。ルーネはうつむいてちょっとふるえる口元をかくした。このことはキルンの秘密だから、長老に話してはいけないのかもしれないけど。


「冬、言ってた」

「ああ」


 長老はうなずいた。


「キルンは厳しい守役だったそうじゃな。セスやほかのものにも聞いた」

「預かり子を伴侶にさせないつもりだったのじゃろう」

「じゃがのう」

「キルンはあの雪崩の日、自分の運命を見てしまったのじゃよ」

「そしてそれを失って心が壊れてしもうた」


 長老はもう一度ふかぶかと頭をさげた。


「キルンは自分から頼むことはできんじゃろう」

「どうかキルンを伴侶にのぞんでやってくれまいか」


 ルーネはびっくりして思わず立ち上がった。耳をおさえて何も聞かなかったことにしたい。足が逃げ出したがってふるえた。ルーネは激しく首をふった。長老はキルンを縛りつけようとしている。ルーネを助けられなかった罪悪感に。だめだめ!それはだめだ。


「みなキルンをなぐさめた。雪崩はひとの力ではどうにもできんからの」

「はじめは誰も気づかなかったのじゃ」

「残りの冬、キルンがおまえの寝部屋にとじこもっていたことも」

「春が来て、やっとみな気づいた。キルンは山の中をルーネを探し歩いていたのじゃ」

「木のうろや土の穴におまえを探して、こっそり名前を呼ぶのを、みな聞いた」

「次に雪が降る頃、キルンの心はこなごなに壊れてしまっていたのじゃ」


 長老はルーネの残った手をそっと叩いた。なだめるように。


「ルーネや、どうかキルンのそばにいてやってくれんかのう」

「この次おまえを失っては、キルンは二度と正気になることがないじゃろう」


「ルーネ!!」


 疾風がルーネの横を駆け抜けた。怒りと悲しみと圧倒的な魔力におしひしがれ、長老は倒れた。巨大な白魔は長老にのしかかり、のどを咬みちぎろうとしていた。


「だめだめ!やめて!」

「ルーネをとるもの、殺す!」


 ルーネは必死でキルンの首にだきついた。長老を咬み殺させないように。セスもあわててキルンを止めようとしたが、とうてい力ではかなわなかった。セスは弾き飛ばされて地面に体をうちつけた。


「キルン!キルン!ルーネ見て」


 片手しかないのでうまくキルンの首を自分にむけることができない。ルーネは恐ろしさにぼろぼろ涙を流した。大きな声を無理にだしたので、ルーネはせきこんだ。キルンはやっとぎらつく目を長老からはずしてせきこむルーネを見た。


「キルンの、胸痛いお願い、なに?」


「お願いは」


 キルンは一瞬で人型にかわるとルーネを抱きしめた。


「お願い、ルーネ」

「キルンなんでもするから」

「お願いだから、どうか」

「キルンをおいていかないで。どこにもいかないで」

「ずっと、ルーネといっしょに」


 ルーネはキルンの銀色の頭をなでた。初めてだった。


「うん、いいよ」

「ずっといっしょにいる」

「キルンが白魔にならないように」


 その夏、ルーネとキルンは伴侶になった。







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