(巻の一) 第六章 対決 下
一方、菊次郎は桜の大木の下で、はらはらしながら一騎打ちの様子を見守っていた。妙姫の挑発のうまさに感心し、一臣を軽くあしらう直春に感嘆し、二対一になった時は本気で心配したが、直春の強さは想像以上だった。しばらくは負けないだろう。
だが、一騎打ちでかせげる時間はあまり多くない。それに、長びけば二人が相手で休む暇のない直春の方が不利だ。しかも、敵の主力は騎馬武者だけを先行させることにしたらしい。これで彼等の来襲は予想よりもかなり早くなった。このままでは忠賢隊が戻ってくる前にここへ来てしまう可能性が高い。入れ知恵したのはあの男に違いなかった。
田鶴は先程再び真白と山に登って木に黒い旗を付けてきた。まずい状況になったので、可能な限り早く来てくれという合図だ。忠賢たちを不安がらせたくないが、彼等の到着を少しでも早くしたいと思ったのだ。杉の花を触っちゃったと、二の腕の辺りを黄色くして戻ってきた田鶴は、心配そうに直春と菊次郎を交互に見ていた。
敵の騎馬武者隊がここへ来るまでまだ少しだけ時間がある。大鬼家の本隊も一騎打ちに気を取られている。何か策を打つなら今しかない。直春は菊次郎ならこの状況を打開できるはずだと信じて時間を稼いでくれているのだ。その信頼と友情に応えなくてはならなかった。
だが、その策を思い付かないのだ。重い責任の不安と緊張が心の中でどんどん膨れ上がっていく。
「集中しよう。考えるんだ」
つい直春の方へ向いてしまう目を閉じて心を静めた。
まず、事態を整理しよう。大鬼家本隊をここへとどめることには成功している。忠賢さんたちは全力でこちらへ向かっているはずだ。だが、敵の主力の一部が南橋を越えた。もうじきここまでやってくる。砂時計は予定の時間の八の目盛りまで、まだ三つもある。
南橋を燃やし損なった時のために、敵に渡るのを諦めさせない範囲で通行を難しくしておくべきだったと菊次郎は悔やんだ。例えば、踏み板をところどころはずして虫食いのようにすれば、馬は橋を越えられないし、徒武者も渡るのに時間がかかっただろう。完全に渡れなくすれば敵は南橋へ向かうことをやめてしまって作戦が崩れるが、そのくらいの細工はできたはずだった。これは明らかに菊次郎の失策で、自分はまだ兵法家として駆け出しなのだと未熟さを痛感させられた。
だが、反省はあとでよい。今菊次郎がするべきことは敵の騎馬武者の足止めだ。忠賢たちが来る前に敵主力がここへ到達したら味方の負け。忠賢隊が先に来ればこちらの勝ちだ。
問題はその方法だった。南橋からここまでは池と急な斜面の間の狭い道で、柵でも設ければ通れなくすることは可能だが、そんな時間も道具もない。かといって後方の守備に直春隊から大勢を割いたら、目の前の敵がここぞとばかりに攻撃してくるだろう。
なんとか武者をあまり動かさずに道を塞ぐ手段はないものか。手持ちの道具だけでどうにかできないか。
そんなうまい方法が簡単に見付かるはずもないが、考え出せなければ自分たちは破滅する。
「何かないか! きっとあるはずだ!」
焦ってうなった菊次郎の耳に、「こら、だめよ!」という声が飛び込んできた。目を開けると、真白が手に持った竹の枝で舞い落ちる桜の花びらをたたくのを、田鶴がやめさせようとしている。竹の葉が顔にかかるのがいやなのだ。どうやら猿は退屈で主人と遊びたいらしいが、田鶴は一騎打ちに一喜一憂していて、そんな気分にはなれないようだ。
小猿の元気さに菊次郎は微笑んだ。そう言えばこの作戦を思い付いたのも雪姫たちと一緒に遊んだ時だったと考えて、困っている田鶴を見て天乃を思い出した。
都でも雪が降り、適雲斎先生の命令で雪合戦をしたな。そこへ武虎が来て……。あれからまだ二ヶ月もたたないのに、随分と昔のことのように感じられるなあ。
都の人々を懐かしんだ菊次郎は、突然、ひらめいた。
そうだ、あれを使えるかも知れない。
菊次郎は田鶴と小猿をじっと見つめた。
それは賭けだった。うまく行くかはやってみなければ分からない。だが、諦めないと先程直春に誓ったばかりだった。
菊次郎は空を見上げた。春らしくすっきりと晴れて澄み渡っている。日差しも空気もかなり温かく、東の山から池に向かって強い風が吹いている。今は春、東風の吹く季節だ。吼狼国付近の風は、春は東、夏は南、秋は西、冬は北から吹くのだ。桜の花びらは池へ向かって舞い、斜面では杉が無数の花で橙に染まって、その根元に沢山の草花の黄色や赤が散らばっていた。
よし。やってみよう。これが僕の精一杯だ。自分の決断に命と運命を賭けよう。
決意して立ち上がると、田鶴が振り向き、菊次郎の顔を見て笑みを浮かべた。
「思い付いたのね」
それは問いではなく確認だった。
「うん、決めた」
菊次郎は「決まった」ではなく、敢えて「決めた」と言った。
「皆さん、こちらへ来てください」
菊次郎は大声で境村の人々を呼び集めると、境池の一番東、つまり鍋のふたのつまみの先端部分にやって来た。ここは一番道幅が狭く、せいぜい五、六人が並んで歩ける程度だ。
「余兵衛さん、確か村の皆さんは鉈を持っていましたね?」
何をするのかと期待半分不安半分の顔の新しい村長は、勢いよく頷いた。
「はい。仮の橋造りや境橋の仕掛けのために全員持ってきております」
「長い縄はありますか。三十本は欲しいのですが」
田鶴が答えた。
「あるよ。橋の作業に使った残りがたくさんある」
火がついてすぐに橋の踏み板がはずれたのは、わざと重要な部分の釘を抜いてかわりに藁縄でしばって固定し、その上に油をまいておいたからだった。
「油も残っていたはずですね」
「うん。まだ樽に四つもある」
油は豊津の町で多めに買って持ってきたが、随分と余ったらしい。
「それだけあれば十分です。では、まず、全員手拭いで鼻と口を覆ってください」
村人たちは不思議そうな顔をしたが指示に従った。
「これから、皆さん百人を三つの組に分けます。一つ目の組三十人は、田鶴と一緒に杉の木に登って枝に縄を付けて垂らしてもらいます。二つ目の組四十人は、鉈で一人三本竹を切って枝を払い、全員の竹槍と一緒にどんどん道に横向きに並べてください。三つ目の組三十人は上着を脱いで袋がわりにして杉の葉を集め、道に運んで竹の上にかけていきます。道が竹と杉の葉で埋まったら、上から油をまいてください」
指示を伝えると、菊次郎は田鶴と余兵衛に告げた。
「僕は直春さんのところへ行ってきます。あとは任せます」
菊次郎の言葉に田鶴は頷き、真白を呼んで肩に乗せ、縄を持って斜面を登っていった。余兵衛と村人たちもすぐに作業に散った。それを確認すると、菊次郎は一騎打ちを見物している直春隊の方へ走っていった。
『狼達の花宴』 巻の一 境村の合戦図 その二
「そろそろ、決着を、付けようぜ」
剛臣はのどをぜえぜえ鳴らしながら槍を構えた。一臣も完全に肩で息をしていて、槍を持つ手が重そうだった。
「できるものならな。俺はまだ戦い足りないぞ」
直春もやはり顔が赤く、吐く息は荒かった。
「兄者、まだ行けるか」
一臣があえぎながら頷くと、剛臣はそばに寄って何かを耳打ちした。すぐに二人は離れ、左右から直春を囲んだ。
「挟み撃ちか。無駄なことを」
直春は笑ったが、目は油断なく両者を追っている。
「はあっ!」
「やあっ!」
大鬼家の兄弟は息を合わせて馬を走らせ、左右から同時に槍を繰り出した。直春は慌てずにまず剛臣の穂先を弾き返し、次いで一臣の槍をよけた。ところが、一臣も剛臣も馬を止めず、そのまま体当たりしてきた。
「そう来たか!」
二人に馬をぶつけられた直春は、どうにか落馬はまぬがれたが、体勢を大きく崩した。そこへ剛臣の槍が襲いかかった。
「おっと危ない」
かろうじてそれを槍の後ろの部分で弾いて逸らした直春は、槍の穂先で地面を突いて体を起こすと、剛臣の脇腹目がけて槍をぶんと振り上げた。剛臣がそれをぎりぎりで防ぐと、直春は素早く穂先を上げ、今度は上から兜をねらうと見せかけて横から左肩へ思い切りたたき付けた。
「剛臣!」
防御が間に合わず、衝撃と痛みによろめいた弟を救おうと兄が槍を突き出したが、その槍を受け止めた直春は、一臣の槍の刃の根本を左手で握ると、ぐいと引き寄せて、石突きを一臣の腹に突き込んだ。
ぐおっ、とうめき声を上げて一臣が落馬する。同時に、体勢を立て直して再び襲いかかろうとした剛臣に一臣から奪った槍を投げ付けると、直春は自分の槍を薙ぎ払うように振り回して剛臣を馬からたたき落としていた。
わあっ、と直春隊から大歓声が湧き起こった。武者たちは皆感嘆の声を上げて激しく拍手している。一方の大鬼隊は愕然として声もなかった。
直春が馬を返して戻ってくると、妙姫は満面の笑みで向かえた。
「なぜあの者たちを殺さないんですの」
「時間稼ぎが目的だからな。あまり向こうを刺激したくない」
直春は妙姫の差し出した手拭いで汗を拭きながら笑い返した。大鬼兄弟は武者たちに助け起こされて、自陣へ戻っていく。一臣は憎々しげに妙姫と直春をにらみ、剛臣は自分の敗北がまだ信じられない様子だった。
「お見事でした」
菊次郎は直春に駆け寄った。その表情を見て、直春は破顔した。
「策を思い付いたようだな」
菊次郎は頷いた。
「五十人貸してください」
「それだけでよいのか」
「はい」
「分かった」
直春はそれ以上は問わずに、そばにいた家老に命じた。
「蓮山本綱、お前の隊は今から全員、菊次郎殿の指揮下に入れ!」
「はっ!」
振り向いて返事をすると、本綱はすぐに武者を集めてやって来た。
「弓と楯を持ってきてください。それと矢をたくさん。向こうで守りについてもらいます」
「了解した。君も馬に乗れ」
四十代の家老は菊次郎の腕をとって馬に引き上げると武者たちにすぐに指示を出し、先程の仕掛けの場所へ急いだ。
「菊次郎さん、できたよ!」
戻ってみると、指示した作業は完了していた。竹を切ると言っても一人三本だし、杉の葉は木の根元を覆うほどある。問題は杉の枝に縄を付ける作業だが、縄を持たせた真白を木に登らせて飛び降りさせることを繰り返して、半分以上は田鶴が一人でやってしまったらしい。
「これからどうするの?」
馬から降りたところへ走り寄ってきた田鶴に問われて、菊次郎が説明しようとした時、南の方角から大きな雄叫びが聞こえてきた。橋を渡って先行してきた騎馬武者だ。一千五百はいる。既に一騎ずつ数えられるほどの距離に来ていた。
「どうしたらいいの? もう時間がないよ!」
青くなった田鶴にすがるような目で見つめられた菊次郎は恐怖に体が震えるのを感じたが、自分を鼓舞して告げた。
「まず、武者の皆さんは全員馬から下りてください」
本綱はすぐに十人ほどいた騎馬武者を馬から下ろした。
「では、五十人のうち、十人が槍を、もう十人が楯を持って竹の敷いてあるこちら側に道を塞ぐように横隊を作り、残り三十人は弓を持ってその後ろに並んでください」
「つまり、この竹と杉の葉を柵がわりに使おうというのだな」
本綱の言葉を菊次郎は肯定した。
「敵は恐らくこの竹を越えては来られません。ですが、念のために楯の壁と槍衾を作り、その後ろから矢で牽制します」
「我々はどうするのでしょうか」
心配そうな余兵衛に、菊次郎は安心させるように言った。
「あなた方は戦いません。五十人はここへ残って杉の葉を集め続けてください。残り半分は斜面の上へ登って枝に付けた綱を握っていてください」
田鶴が確認するように尋ねた。
「それで勝てるのね?」
「間違いなく勝てます!」
菊次郎は断言した。この作戦が絶対だという保証はないが、自分が弱気になっていて勝てるはずがない。最善を尽くそうと決めたはずだ。
「僕が皆さんを勝たせます!」
大声で言い切ると、村人や武者たちは顔を見合わせて頷き合い、それぞれの持ち場へ散っていった。
「君を信じているぞ」
本綱も自分の弓を持って、弓隊の列に加わった。菊次郎に言われて火矢を用意した田鶴は焚き火の横で指示を待っている。菊次郎は斜面を少し登って竹の仕掛けを見下ろせる場所に立った。
「来ました!」
待つほどもなく、敵の騎馬武者一千五百が道の向こうに姿を現した。狭い道幅ぎりぎりに四騎ずつ並んで駆けてくる。
竹の仕掛けの前まで来ると、先頭の集団は怪しんで止まったが、すぐに進軍を再開した。それは当然で、この五十人ほどの部隊を打ち破ればその先には大鬼家の本隊がいるのだ。このまま一気に踏みつぶして直春隊の背後を突き、大きな手柄を立てようと、命知らずの武者たちは竹の道へ突っ込んできた。
だが、下は竹が転がっている。馬が竹を踏んだら足を滑らせて骨を折ったりひっくり返ったりしてしまう。敵はさすがに速度を落として、ゆっくりと近付いてきた。
「まだか。まだ攻撃してはいけないのか」
落ち着いた風貌の本綱がいらだった声を上げた。敵は狭い道に横一列に並び、堂々と姿をさらして向かってくるから格好の的だ。弓兵たちは引き絞った弓を構えたまま、菊次郎の方をちらちらと見ている。
「まだです。我慢してください」
菊次郎は答えた。敵を近付けたくない、早く追い払いたいと思うのは当然だし、菊次郎も内心では募る恐怖と必死で戦っていたが、すがるようなまなざしに首を振り続けた。少しでも多くの敵を引きずり込みたかったのだ。
「もう半分を過ぎたよ!」
田鶴は我慢の限界という顔をしていた。
既に敵の五十騎ほどが竹の仕掛けの中に入り込み、こちらを目差して進んでくる。馬上で弓を構えている者もいる。
もう十分だろう。菊次郎が頷くと、田鶴はほっとした顔で握っていた矢を焚き火に突っ込み、先端に火をつけると、ぎりぎりと引き絞った。他に四人の武者が火矢を構えた。
「よし、今だ!」
菊次郎は敵の武者を指さして大声で叫んだ。
「火を放て!」
びゅん、という音が五つ重なって、五本の赤い火の玉が尾を引いて飛んでいき、敵の足下に突き刺さった。火は竹と杉の葉の上にまかれた油に移り、瞬く間に燃え広がって、五十騎は火に取り囲まれた。
「敵の策略だ! 気を付けろ!」
敵の武者たちは馬を止めて警戒したが、混乱はしなかった。火と言っても足下の枯れ葉が燃えているだけだ。馬は足が熱いだろうが、武者には火が届かない。
「なんだこれは。地面を燃やしてどうしようというのだ。これでは進軍を阻むことはできないぞ!」
敵の武者たちは嘲笑ったが、それはすぐに激しい咳に変わった。足下の杉の葉からもうもうと白煙が立ち上り始めたのだ。
杉の葉は煙がたくさん出ることで知られている。狼神の寺院で用いる線香には二種類あるが、煙を出すために使う方には杉の葉が練り込んであるのだ。
「目が痛い! 前が見えんぞ!」
「ごほっ、げほっ、これはたまらん!」
煙を吸い込んで咳き込む武者が続出したが、武者頭は大声で前進を命じた。
「煙が濃いのはここだけだ。火の向こうは煙がない。全員、急いで駆け抜けよ!」
煙いのはつらいが、手柄を前に後退はできない。武者たちは視界を奪われて怯える馬をどうにかなだめると、前進しようとした。
「今だ! 余兵衛さん、綱を思い切り引いてください!」
菊次郎は叫んで、合図用に持っていた長い竹槍を頭上で円を描くように大きく振り回した。
「それっ! それっ!」
すぐに斜面の上で五十人がかけ声に合わせて三十本ほどの杉の木の太い枝を揺さぶった。途端に無数の杉の花から大量の花粉が飛び散り、山を越えてくる東風に乗って眼下の騎馬武者たちに降り注いだ。
「なんだこの黄色い霧は?」
驚いた武者たちは、それを吸い込んだ途端、激しいくしゃみと咳に襲われた。
「くしゅん! なんだこれは、くしゃみが、止まらん! 鼻水が、どんどん、あふれてくるぞ!」
「目に入った! 開けていられん!」
もうもうとたちこめる白煙に目とのどをやられていたところに花粉を吸い込んだ武者たちは、むずがゆい鼻を押さえ、何度も目をこすったが、花粉や煙は甲冑では防げない。しかもここは狭い道で逃げ場がなかった。
そこへ、騎馬武者たちを更なる災厄が襲った。急に足下で轟音が響き、数頭の馬が悲鳴を上げて後ろ足で立ち上がったのだ。それが合図のように、あちらこちらで次々に爆発音が連続して起こった。
「この音は、竹か!」
中が空洞の竹は燃えると大きな音を立てて割れるのだ。武者たちはそれを知っているが、馬たちはそうではなかった。
「こらっ、大人しくしろ!」
「馬が暴れて手が付けられない! 背から落とされる!」
馬は臆病な動物で、大きな音には過敏に反応する。慣れてしまえばどのような音も平気になるが、これほど間近で連続して竹のはじける音を聞いたことのある馬がいるはずはなかった。
足下で次々に起こる激しい爆発音に震え上がった五十頭の馬は一斉に暴れ出し、次々に乗り手を振り落とした。火の中に落ちた武者たちは慌てて立ち上がろうとしたが、竹に足を取られて転ぶ者、もうもうと上がる煙に咳き込み続ける者、危うく馬に蹴られそうになる者など大混乱で、耐えきれなくなって池に飛び込む者まで出る始末だった。
「今だ! 弓隊、放て!」
菊次郎が叫ぶと、命令を待ちかねていた三十人が一斉に矢を放った。白煙で敵が見えないのでねらいは付けられないが、相手は狭い道に並んでいるのだ。適当に射れば当たる。
武者たちは次々に悲鳴やうめき声を上げて倒れ、あるいは落馬していった。涙で目が見えないところへ突然煙の中から矢が飛んでくるのだから避けようがないし、くしゃみや鼻水で防御に集中できない上、馬が暴れて手が付けられない。矢を避けようと慌てて手綱を引き絞った者たちも、矢の音に驚いた馬が跳ね回ったり竹を踏んで横転したりで背から落ち、まだ馬上にいる者はもはや数名にすぎなかった。
「ええい、やむを得ん。後退だ。全員一旦下がれ!」
武将が咳き込みながら命令し、五十騎は命令を待ちかねたように後方へ戻り始めたが、飛んでくる矢に怯え、目がよく見えず、竹に足を取られながらの退却もまた難事だった。ようやく煙の届かないところまで戻ってみると、死者こそいないものの、半数以上が矢や落馬や転倒で怪我をしていて火傷を負った者も多く、全員がくしゃみが止まらない有様で、三分の一が暴走した馬に逃げられてしまっていた。
「これでは前に進めぬ。どうしたものか」
武将は部隊をやや下がらせて防備を固めさせると、煙と矢への対策を話し合うため、後続の武将たちを呼び集めるように伝令武者に命じた。
「ふう。なんとかうまく行ったようですね」
敵が後退していくのを見て、菊次郎はほっと息を吐き、額をぬぐった。緊張で汗びっしょりになっていた。
「よく花粉なんて思い付いたね」
田鶴と本綱が斜面を登ってそばにやってきた。
「杉に花粉が多いのは知ってたけど、吸うとあんなにひどいことになるのね」
「私も初めて知りました」
本綱も頷いた。
「玉都で得た知識です」
「都で?」
田鶴は意外そうな顔をした。
「はい。僕のいた軍学塾の庭には杉の木があったんです。太助という下男がその枝を切る時に花粉を頭からかぶってしまったことがありまして」
そう言って、菊次郎は申し訳なさそうな表情になった。
「その次の年から、太助は杉の花が咲くたびにくしゃみが出るようになりましたから、あの武者たちもこれから春がつらくなるのでしょうね」
「町の中には杉があんまりないから大丈夫だよ」
田鶴は慰めた。
「普通はこんなに杉ばっかり生えてないし。ここは境村の人たちが植えたんでしょ?」
「家具の材料にするためだそうです。この山が杉ばかりだと気付いた時に、この作戦が頭に浮かびました。狭い道を煙で覆って視界を奪い、その後ろから矢を射るだけでも効果はありますが、一気に突破されたら終わりですから、それを防ぎ、敵を戦闘困難にするために、竹と花粉を使うことにしたのです」
「なるほど。貴殿の知略には感服した」
「さすが菊次郎さんだね」
本綱と田鶴がいかにも感心した風に言ったので、菊次郎は照れくさくなって、敵の方を眺めた。
「どうやら、敵は進軍を停止したようです。しばらく襲ってこないでしょう。もしまた攻めてきたら、さっきの要領で花粉と矢を浴びせてください。杉の葉や竹が燃えてなくなってしまわないように、今のうちに補充しておいた方がいいですね」
「すぐにやらせよう」
本綱の命令でそばにいた武者二人が斜面の上と下へ伝令に向かうと、菊次郎は北側へ目を移した。
「直春さんたちは大丈夫でしょうか。ちょっと様子を見てきます」
「あたしも行く」
菊次郎は田鶴を連れて斜面を下り、直春隊の方へ向かった。
直春隊は一騎打ちのあと、距離を置いて大鬼家本隊とにらみ合っていた。
直春は菊次郎を笑顔で迎え、大声で讃えた。
「あの作戦は実に見事だ。さすがは我が軍師だ」
「びっくりしました。あなたは本当に頭がよいのですね。尊敬します」
隣にいた妙姫にもほめられて、菊次郎は胸が痛みつつも、どうしようもなくうれしかった。
武者たちの顔も驚きと喜びで輝いている。当面背後を襲われる心配をしなくてよくなったことで、目の前の敵との戦いに集中できる。味方がすぐそこまで来ているのに大鬼軍が後退するとは思えないが、下がろうとしたらこちらから攻撃を仕掛けて引き止めればよく、このまま時間を稼げば勝利は間違いないと思われた。
一方、大鬼家本隊は味方の苦戦に驚いていた。息を合わせて直春隊を挟み撃ちにしようと攻撃体勢を整えていたのに、騎馬武者隊が足止めされてしまったのだ。
「うぬぬ、よくも!」
大鬼厚臣は歯ぎしりした。
「一千五百の騎馬隊が、わずか五十人程度の敵に阻まれるとは!」
一臣も言葉がなく、剛臣は唖然としていた。大鬼軍の武者は自分たちが当分孤立したままであることに気が付いて不安そうな顔になっている。
その中でただ一人、武虎だけが余裕の表情だった。さすがに煙と花粉の作戦には驚いていたが、まだ必勝の策があったのだ。
武虎は厚臣に歩み寄り、何かを耳打ちした。一瞬驚いた筆頭家老はすぐに顔をほころばせて高笑いした。
「はっはっは。皆の者、慌てることはない。我等にはまだとっておきの切り札があるのだ」
武者たちが振り返ると、厚臣は勝ち誇った顔で叫んだ。
「さあ、他倉将置殿、釜辺助倍殿、時は今ですぞ!」
おう、という声とともに一斉に向きを変えて直春たちに槍を向けたのは、先程まで一緒に戦っていた仲間の武者たちだった。他倉家と釜辺家合わせて百二十人が、敵に寝返ったのだ。
「直春公に恨みはないが、当家の存続のため、これより大鬼家にお味方致す!」
「妙姫様、申し訳ありませんが、お命頂戴つかまつります!」
二人の武将が叫ぶと、厚臣の命令が下った。
「全軍、前進! 敵は少数だ。さっさと押し潰して、あの若造を討ち取れ!」
「将置、助倍、裏切ったわね!」
妙姫の非難の声は、大鬼隊が一斉に上げた鬨の声にかき消された。
「まさか、こんなことが……!」
衝撃のあまり、菊次郎は思わず上ずった声で叫んでしまった。敵軍は合計一千六百二十人に増え、対する直春隊はわずか四百三十人になってしまったのだ。
菊次郎の策で敵軍の騎馬隊は当分動けない。だが、彼等が来なかったとしても、直春隊は四倍の敵と戦わなくてはならないのだ。砂時計の目盛りはまだ六のところだった。
菊次郎も味方が裏切る可能性を考えなかったわけではない。だが、ほぼ全軍を戦場に出さないと数にまさる大鬼軍と勝負にならなかったし、今日の敵の動きからすると菊次郎の立てた作戦を知らない様子だったので、すっかり安心していたのだ。まさか、他倉将置と釜辺助倍が内応を約束したものの本音では直春に勝ってほしかったため、作戦については知らないと口をつぐんで大鬼家に教えなかったとは、さすがの菊次郎も知るはずがなかった。
「敵は呆然としているぞ! この機をのがすな!」
一臣が勝利を確信した顔で叫んで馬の腹を蹴った。
「兄者に続け!」
剛臣も槍を構えて後を追った。一千五百の大鬼家本隊は一斉に直春隊へ向かって駆け出した。他倉・釜辺隊百二十は槍を構え、呼吸を合わせて横から攻撃する構えだった。
忠賢さんたちは間に合わなかった。もう打てる手はない。僕たちはこのまま負けてしまうのか。
菊次郎は再び絶望に捕らわれそうになったが、「しっかりしろ!」と自分を叱り付けて必死で逆転の策を考えていると、直春が険しい顔で言った。
「こうなったら、一か八か、敵陣へ切り込んで大鬼厚臣を討つしかない」
最後まで諦めずに戦うつもりらしい。妙姫と田鶴は蒼白になり、周囲の家臣たちは主君の言葉に決死の覚悟を決めたらしかった。
駄目だ。そんな無謀なまねをしても討ち取られるだけだ。何か方法はないのか!
菊次郎は頭をかきむしったが何も思い付かなかった。敵兵はもう目の前に迫り、槍を構えた直春は、突撃命令を出そうと大きく息を吸い込んだ。
その時だった。
よく知っている太い声が敵陣の背後から聞こえてきた。
「待て待て待てい! お前たちの相手は我等がするぞ!」
実佐の叫び声とともに、北の森から五百頭の馬が駆け出してきた。なぜか全ての馬に二人ずつ武者が乗っている。
「俺たちもいるぜ!」
忠賢の声が聞こえて辺りを見回すと、境池を数十艘の小舟がこちらへ向かってくるところだった。
待ちに待った味方が到着したのだ。菊次郎はうれしさのあまり泣きそうになったが、一方で彼等がこれほど早くやって来たことに驚いていた。予定より砂時計の目盛り二つ分も早い。
忠賢が舟の上で大きく手を振って叫んだ。
「橋を渡る時に気が付いたんだ。これから川下へ向かおうってのに、この舟を使わない手はないってな。徒武者九百は、馬に二人乗りで五百、四十艘の舟に十人ずつで四百だ。別働隊一千四百人、全員無事で予定より早く到着したぜ!」
忠賢はにやりと笑うと、早く岸へ着けろと、棹を操る武者に指示を出した。
菊次郎は信じられなかった。まさかこんな奇跡が起こるなんて。それこそ想定外だ。その気持ちを読み取ったのだろう。直春が言った。
「これは奇跡ではないぞ。俺たちの友情と一人一人の努力の結果だ。俺たちを信じろと言ったろう。君は一人で戦っているわけではないんだ」
直春は笑っていた。妙姫もうれしそうに微笑み、田鶴は最上の笑顔だった。菊次郎は直春に、そして妙姫と田鶴に向かって、深々と頭を下げた。
「ようやく分かりました。あなたが俺たちを信じろと言った意味が。僕は本当に愚かでした。そのことにやっと気が付きました」
「君が愚かだなんて誰も思っていないと思うがな」
直春はおかしそうな顔をし、田鶴と妙姫はびっくりしていた。
「そうだよ。何言ってるの」
「謙遜にもほどがあります」
三人が呆れたので、菊次郎もつられて笑ってしまった。
こんなに気持ちよく笑ったのは久しぶりだった。五年前のあの事件から、こんな気持ちは忘れていた。
気が付くと、菊次郎は泣いていた。目から涙がどんどんあふれてくる。どうしようもなく、泣けて泣けて仕方がなかった。
「よし、あとは任せておけ」
直春が槍を高く振り上げた。武者たちは明るい表情で若い主君を見上げている。
「みんな、聞け!」
直春は総大将として宣言した。
「忠賢殿や実佐殿の隊と大鬼の軍勢を挟み撃ちにする。ここで一気に勝負をつけるぞ。あとから来た者たちに手柄を取られるな!」
おおう、と大きな声が答えた。
「直春さん」
背中へ声をかけて他倉・釜辺隊を指さすと、直春は分かっているという顔で頷き、そちらへ向かって大声で叫んだ。
「他倉殿、釜辺殿。我等に味方する気があるならするがいい。もし敵対すれば、大鬼を倒したあとでお前たちを料理してくれる!」
武者たちがどっと笑った。
「さあ、行くぞ!」
直春が馬を走らせると、四百三十人がそれに続いた。実佐隊の騎馬武者五百と徒武者五百、舟から下りて隊列を組んでいた忠賢隊四百が、息を合わせて大鬼の本隊へ側面と背面から突撃する。他倉・釜辺の両隊も、逡巡した末、それに加わった。
合わせて一千九百五十に包囲された大鬼軍はたちまち崩れ立った。完全に勝ったと思っていたのに、あれよあれよという間に敵が増えて自分たちを上回り、駆け付けてくるはずの味方はすぐそこまで来て動けなくなってしまったのだ。これで戦意を失うなと言う方が無理だ。しかも、こちらに寝返ったはずの者たちは再度敵側に付き、移動中や一騎打ちの間に菊次郎が持たせた饅頭を食べて元気を回復した者たちが襲いかかってくるのだ。副将の兄弟二人が直春に惨敗するところを目の前で見せられた武者たちには、既に負けが決まったように見える戦いに振り絞る気力は残っていなかった。
名のある武者が数人討たれると、大鬼軍の武者たちは持ち場を放棄して逃げ出し始めた。この五年、民や反抗的な武将の弾圧といった弱い者いじめに慣れて気持ちが驕り、享楽的になった一方で、意地や根性は薄れていた者たちだ。大鬼厚臣に従っていたのも彼の下でなら優越的な立場に立てるからで、心の底からの忠誠心など初めからない。力と恐怖で他人を支配する者は、その力を失ったら終わりなのだ。類は友を呼ぶと言うが、大鬼厚臣の下には、彼のような人物に従っていられるような人間ばかりが集まっていたのだった。
戦いの決着は呆気なく付いた。大鬼家の譜代の重臣たちが倒れると主君を真剣に守ろうという者はいなくなり、武者たちに見捨てられた大鬼家の三人は直春軍に囲まれて身動きできなくなった。武虎は忠賢たちが現れると敗北を悟り、素早く馬に飛び乗って包囲が完成する前に隙間を通り抜けて逃げ出した。そこへ南橋から山を迂回して戻ってきた者たちが合流し、総勢二十一騎は葦狢街道を踵の国方面へ走り去った。
竹の仕掛けで足止めされた四千五百人のうち、平汲勢と押中勢は、大鬼家本隊の壊滅を知ると兵を引いた。もはや義理は果たしたということらしい。残りの桜舘家の家臣一千二百は降伏を申し出てきたので、妙姫と直春が彼等の罪を問わないと約束すると、喜んでやってきて膝下で忠誠を誓った。
馬から下りた直春が手柄を報告に来る武者たちに感謝の言葉をかけていると、実佐が大鬼親子を捕らえたと報告に来た。
両脇から武者に腕を拘束されて連れてこられ地面に座らされた三人に、直春は厳しい声で告げた。
「お前たちはやりすぎた。生かしてはおけぬ。自分で胸を突け」
それが吼狼国での武家の自裁の作法だった。
「誰が自刃などするか!」
剛臣は叫んだが、一臣は頷いた。
「こうなっては仕方がない。もはや抵抗はしない」
「俺は嫌だ!」
脇差しを受け取った一臣はそれを抜くと、叫ぶ弟の腹にいきなりずぶりと突き立てた。
「兄者……無念!」
「許せ」
くずおれた剛臣を受け止めて、首筋を切ってとどめを刺すと、一臣は厚臣に近付いた。
「わしも自刃などせぬ。殺せ」
一臣は頷いて父の前に膝をついて短刀を構えた。厚臣は直春を見上げて憎々しげに言った。
「直春とやら。お前も国主になればわしの考えが分かるようになろう。きれい事だけでは政はできぬ。あの世でお前たちが汚れていく様を見物するとしよう」
厚臣が目をつぶると、一臣は父の心臓を一突きにした。
父をそっと横たえた一臣が地面にあぐらをかくと、実佐が介錯を申し出た。
一臣は妙姫の顔をじっと見つめると、深々と頭を下げ、直春に言った。
「お前は仕方がないという言葉が嫌いだそうだな。そして、仲間を信じている。それは男の生き方としては称讃に値する。この合戦も諦めずに最後に見事逆転を果たした。大したものだ。実力は認めよう。だが、その生き方には無理がある。いつかきっと、思いもよらぬことで足下をすくわれ、挫折することになるだろう。自分が高潔だからといって、他の者たちも同じとは思わぬことだ。俺はあの世で、お前が失敗して滅んでいく様を見ていよう」
「何を言うの!」
言い返そうとした妙姫を制して直春が一臣に頷くと、妙姫は思い直して深くお辞儀をした。そうして、一臣が左胸に脇差しを突き立てた瞬間、実佐の刀がその背を貫いた。
三人の遺体は武者たちによって運ばれていった。一臣から取り上げた花斬丸を受け取って腰に差すと、直春は大鬼家の家宰の縄を解かせた。
「抵抗しなければ他の者は殺さぬ。恭順する者は豊津城へ来いと、大鬼家の砦へ戻って伝えろ」
家宰が平伏すると、直春は菊次郎たちを振り向いた。
「一仕事終わったな。俺たちも帰ろうか」
菊次郎は忠賢や田鶴や妙姫を見回すと、疲労の色の濃い顔に笑みを浮かべて、一緒に大きく頷いた。