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狼達の花宴 ~大軍師伝~  作者: 花和郁
巻の一 運命の出会い
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(巻の一) 第六章 対決 上

 春始節の騒動のあと、大広間に残って直春と妙姫に味方を申し出た家臣は約八十名だった。

 これは妙姫や実佐の予想よりやや多かった。厚臣が直秋を殺したことを知って(いきどお)った者たちが残ってくれたのだ。それでも、彼等の知行地と桜舘家直轄領を合わせて七万貫、兵力は二千一百人にすぎない。一方、大鬼方は大鬼領五万貫とその他四万貫の計九万貫で、二千七百人とこちらよりやや多い。その上、大鬼家の背後には宇野瀬家百四十万貫がいる。葦江国の他の二つの封主家も宇野瀬家に従っているから、援軍が出てくるに違いなかった。


 直春と妙姫は大広間に残った者たちと主従の(ちぎ)りを結び、絶対の忠誠の誓いを受けると、菊次郎たち三人を皆に紹介し、早速軍議を開始した。

 まず、直春は大門国(おおとのくに)成安(なりやす)家に同盟締結(ていけつ)の使者を派遣することを提案し、承認された。これは菊次郎や忠賢、妙姫や実佐と相談して決めたことだった。

 もし戦いに勝利しても、大鬼一族を排除して独立すれば、宇野瀬家は激怒して大軍を送ってくるだろう。それに対抗するには他の大封主家の後援が不可欠だ。近隣では北に増富(ますとみ)家七十万貫、南に成安家一百八十万貫があるが、成安家を選ぶという直春の言葉に家臣たちから反対意見は出なかった。


 成安家と宇野瀬家は(かかと)の国方面で国境を接している上、長斜峰(なはすね)半島の覇権をめぐって長年争ってきたため犬猿の仲だ。かつて桜舘家は成安家の庇護(ひご)下にあって足の国の攻略に協力していたが、大鬼厚臣と手を結んだ宇野瀬家が葦江国を手中に収めたことで、成安家は頭を抑えられた格好になって北上を(はば)まれていた。ここで直春が服属を申し出れば歓迎されることは間違いなく、成安領の半空国(なかぞらのくに)とは南で境を接しているから、何かあれば援軍を送ってくれるだろう。

 一方、増富(ますとみ)家との間には宇野瀬家方の諸侯の領地が割り込むように挟まっていて軍勢の行き来が難しい。なにより、成安家と宇野瀬家という百万貫を超えるこの地域の二大封主家を両方とも敵に回すのは賢い選択とは言えなかった。今後のことを考えれば成安家とは手を結んでおくべきだという直春の言葉に、家臣たちも賛成したのだった。

 使者に選ばれた次席家老の槻岡(つきおか)良弘(よしひろ)は、緊張した面持ちで重大な使命を引き受けたが、五十過ぎの半白(はんぱく)の頭を上げると尋ねた。


「旅立つ前に、どのようにして大鬼家を打ち破るおつもりかお聞かせください。成安家を説得するために必要でございます」


 直春は「もっともなことだ」と頷き、菊次郎に説明するように言った。一斉に注目されて菊次郎は緊張したが、用意していた地図を開き、作戦の流れを詳しく語った。

 聞き終えた家臣たちは皆、ううむ、とうなって黙り込んでしまった。菊次郎はまさか反対なのかと背筋が寒くなったが、やがて彼等は顔を見合わせると、そろって安堵の表情を浮かべた。良弘も破顔した。


「なるほど、この作戦でしたら間違いなく勝てましょう。成安家も納得するに違いございません」


 良弘はご武運をお祈り致しますと直春と妙姫に挨拶をして、ただちに出発するべく広間をあとにした。

 残りの者は菊次郎の案をもとに役割分担や部隊の編成などを決めると、戦支度のためにそれぞれの領地へ帰っていった。



 春始節の夜に自領に戻った大鬼厚臣は、翌日配下の武者一千五百の全てを率いて北上し、葦狢(あしむじな)街道へ出た。

 大鬼軍は街道沿いの大きな村で味方する桜舘家の家臣一千二百を陣に加え、援軍要請をした宇野瀬家方の平汲(ひらぐみ)家七万貫と押中(おしなか)家五万貫の軍勢の到着を待った。夕方になって両家合わせて三千三百が合流すると、総勢六千となった大鬼軍は、その村で一晩を過ごし、三日の朝、豊津城を目指して進軍を開始した。

 だが、境村まで来たところで桜舘軍一千四百に行く手を塞がれ、境池のほとりで対峙(たいじ)することになった。


 桜舘軍は川が池に流れ込むところで境橋を背に陣を()いて、大鬼軍を村に入れない構えだった。この橋は以前忠賢が菊次郎たちの小舟に飛び乗ったところで、左手北側の広い森と右手南側の境池の間を葦狢(あしむじな)街道が東西にまっすぐ走っている。平地が狭く大軍を展開できないため、少数でも守りやすいと思ったらしい。

 もっとも、池の反対側、川が池を流れ出るところにも、南橋というやや小さな橋がある。一臣が妙姫を捕らえようと弓を向けた場所だ。境池は西を底にしたふた付きの鍋のような形をしていて、つかむための二つの取っ手の位置にそれぞれの橋があるのだ。だから、大鬼軍は街道から南に()れて、杉の生えた斜面と池の間の細い道を進んでいけば、南橋から村に入ることは可能だった。とはいえ、この大きな池をぐるりと回って再び街道に戻るには、随分と時間がかかることは間違いない。


『狼達の花宴』 巻の一 境村の合戦図 その一

挿絵(By みてみん)


 正午前、街道上で向かい合った両軍は、それぞれ早めの昼食を腰の握り飯で済ませると、槍を構えて戦闘隊形をとった。

 先に動いたのは総勢六千の大鬼軍だった。桜舘軍一千四百の四倍の数を頼んで攻勢に出たのだ。池を大回りはせず、ここで決着を付けようということらしい。


「敵は少ないぞ。一気に押しつぶせ!」


 武将が叫び、武者たちが声と槍先をそろえて前進していく。


「ひるむな! 突き返せ!」


 桜舘軍も必死で槍を振るって敵を押し戻そうとする。

 合わせて七千を超える武者たちの雄叫(おたけ)びと怒号(どごう)が辺りの山々に響き渡った。激しい剣戟(けんげき)の音に混じって、傷付き倒れていく者たちの悲鳴が切れ切れに聞こえては消えていった。

 大鬼家はこの合戦に勝てば桜舘家にかわって葦江国の国主(こくしゅ)となる。手柄を立てた武将や武者の加増は間違いなく、運をつかむ機会だったが、もし破れて直春の時代になれば出世の道は閉ざされてしまう。一方、妙姫に味方した側は大鬼家の横暴に怒っているし、ここで負けたら滅ぼされる。両軍とも必勝の闘志を燃やした激しい戦いは、森と池に挟まれた狭い場所では大鬼軍が全軍を展開できずに決め手を欠いたこともあり、互角のように思われた。

 だが、勝負は大方の予想よりも早く付いた。やはり数の差が大きすぎたのだ。大鬼軍は武者をたびたび交代させて元気な新手をどんどん投入したのに対し、桜舘軍は休む暇がなかった。疲れがたまった武者たちは次第に動きが鈍くなって闘志が減退し、逃げ腰になっていった。だが、後方で見事な馬にまたがって戦を見守っている総大将は、無言で軍配を振るって押せ押せと命じるだけで対策を講じなかった。

 とうとう、桜舘軍の勢いが尽きる時が来た。一人の武将が自隊の武者たちを休息させようと後退命令を出したのをきっかけに隊列が崩れ、一部の者たちが逃げ始めたのだ。


「待て! 引くな! 持ち場へ戻れ!」


 武将たちは慌てて叫んだが既に遅かった。武者たちは次々に橋を渡り、対岸へ消えていく。武将たちはどうしたものかと指示を求めて馬上の総大将へ目を向けた。

 ところが、武者たちを叱咤(しった)して止めるはずの総大将が、いきなり馬首を返して逃げ出したのだ。

 これには敵も味方も呆気(あっけ)にとられた。総大将が逃げるということは、この合戦は負けたと認めたに等しい。もはや勝利は望めないと知った武者たちは戦うのをやめ、恐怖に駆られて持ち場を放棄し橋へ走った。それまで踏みとどまっていた者たちまで頑張るのがばかばかしくなり、命を無駄にすることはないとそろって敵に背を向けた。

 大鬼家の武将たちがこの好機を見逃すはずはなかった。


「それ、追撃だ! 一気に追い散らし、息の根を止めろ!」


 大鬼軍の武者たちは勇躍し、一斉に駆け出した。手柄を立てるのは追撃の時が最もたやすい。敵の武者や武将を追いかけて抵抗力を奪い、鎧の腹から太い帯をはぎ取るのだ。帯は色で身分を、縫い取られた家紋で家名を表し、裏地には個人名を記す決まりになっている。吼狼国の鎧は着物のように前合わせなので、帯を取られると腹がむき出しになるし、左右に広がって動きにくくなる。従って、敵の帯を奪うことは相手を無力化したことになり、討ち取ったのと同じ扱いとされた。吼狼国の武者たちは奪った帯の数を手柄の証しとするのが古くからの習わしなのだ。武将級以上の者は別だが、下級武者は追い詰められたら帯を差し出す者が少なくなかった。

 一本でも多くの帯を手に入れようと、大鬼軍の武者たちは走り出した。雑兵(ぞうひょう)に用はない、名のある勇者や武将を討ってくれんと、武者たちは目を血走らせて境橋に殺到したので、狭い橋の上は大混雑し、中には押されて川に落ちる者まで出る騒ぎになった。

 その混乱の間に、既に全軍が橋を渡り終えていた桜舘軍一千四百は総大将を先頭に全力で逃走し、葦狢街道を豊津の町の方へ向かっていた。なんとか橋を越えた大鬼軍は同じ隊の仲間を呼び集めながら、逃がしてなるものかと敗走する桜舘軍を追っていった。



「兄者、橋が空いた。俺たちも向かおうぜ!」


 馬に飛び乗った剛臣が一臣に声をかけた。

 大木家の親子三人は後方の見晴らしのよい場所で床机(しょうぎ)に座り、護衛の武者に囲まれて督戦(とくせん)していた。手柄を援軍や他の者に譲って、大鬼家の本隊一千五百は戦闘に加わっていなかったのだ。だが、剛臣は追撃に移った味方を見て我慢できなくなったらしい。


「敵のざまを見ろ。総大将の腰抜けぶりが伝染したみたいに一目散に逃げていくぜ。早く追わねえと倒す敵がいなくなっちまう」


 武芸自慢で弱い者をいたぶるのが大好きな剛臣は、その手で大勢の武者を(ほふ)りたいらしい。剛臣が帯を奪っても意味がないので本当に殺すつもりなのだ。


「確かにそうだな。我々も行くか」


 一臣は気の抜けた顔で返事をし、腰の花斬丸に目を落とした。一臣はさほど武芸は得意ではないが、宇野瀬家に依頼された戦に何度も出ているから、戦場の空気も追撃のうまみも知っていた。だが、敵のあまりのもろさに戦意を()がれていたのだ。


「やれやれ。鴇戸(ときと)直春はこの程度の男だったのか。真っ先に逃げ出すとは呆れて言葉もない」


 妙姫があれほど惚れ込んでいる男だからどれほどの器量なのかと用心していたのだが、肩すかしを食らった気分だった。恋しい姫を奪った相手を決して許すまいと思い、捕まえたら散々いたぶり、苦しめて殺してやろう息巻いて出陣してきたというのに、憎み呪っていた自分がばかみたいではないか。


「だが、これでもう妙姫様に味方する者はいないだろう。あんな腰抜けを夫に選んで自分から身を任せるような女を、当主に(いただ)きたいと考える武者はいないだろうからな」


 そんな女に恋していた自分を恥ずかしく、悔しく、また悲しく思いながら、一臣は従者から槍を受け取って自分の馬の方へ行こうとしたが、そこへ制止の声がかかった。


「いや、待て。用心した方がいい」


 赤潟(あかがた)武虎(たけとら)はいつもの冷酷そうな笑みを収めて珍しく(けわ)しい顔をしていた。


「なぜだ。今こそ戦果拡大の時ではないか」


 一臣が尋ねると、武虎は不愉快そうにその美貌を(ゆが)めた。


「どうも嫌な予感がする。敵がもろすぎる」

「あれが演技だというのか」


 桜舘軍は対岸の街道をものすごい速さで逃げていく。


「とてもそうは思えないな。それに、どこかで体勢を整えようとしても、この先は城まで平地が続き、この川のように防御に適した地形はない。四倍の大軍にかなうはずがあるまい」

「だが、敵にはあいつがいる」


 認めたくないのか、武虎の口調は苦々しげだった。


「腰抜けの直春にいまさら何ができる」


 一臣が侮蔑(ぶべつ)も露わに恋敵(こいがたき)の名前を口にすると、武虎は首を振った。


「いや、違う。あの死に損ないの小僧のことだ」

「どういう意味だ」


 首を傾げた一臣に、武虎は哀れみのまなざしを向けた。


「この村で会ったと聞いたが、お前はあいつの才を見抜けなかったのか。まあ、無理もないな」

「何が言いたい」


 一臣はむっとした顔をしたが、武虎はそれを無視して言葉を続けた。


「それに、敵は七万貫の二千一百のはず。一千四百は少なすぎる。残りがどこかに隠れているのかも知れん」

「街道の先に伏兵がいるということか。そんなことのできる場所はなかったと思うが」 


 疑わしげな表情の一臣を、剛臣がしびれを切らして()かした。


「兄者、早くしてくれ。このままでは敵に逃げられてしまう」

「まあ、待て。父上にもご意見をうかがってみよう」


 兄者はすぐに父上の指示を仰ごうとする。自分で判断しろよ。そう言いたげな弟をわざと無視して、一臣が後ろで床机に腰掛けている父を振り向くと、武虎が総大将に近付いて進言した。


「我が軍は数では圧倒的だ。全軍を追撃に出す必要はない。念のため、直属の者はそばに残した方がいい」


 厚臣は少し考えたが頷いて、「ええい、もう待てん。俺は行くぞ」と馬の腹を蹴ろうとした次男を止めた。


「待て、剛臣。我等はもう少しここで様子を見よう」

「なぜだ、父上。もう勝負は付いたではないか」

「この者の申す通り、確かに敵がもろすぎる。用心するに越したことはない。それに、お前が武者どもと手柄を競ってどうする。こういう時は家臣に譲るものだ」


 不満そうな剛臣を叱って下馬させた厚臣は、床机から立ち上がると、すでに橋の向こうにいる味方に一旦停止して隊列を組み直せと命じるため、伝令武者を呼び寄せた。

 その時だった。


「あれは何だ!」


 武者たちの叫び声に前方を見ると、北の森の端、橋のこちら側の川岸に、十三歳くらいの少女が一人弓を構えて立っていた。矢の先には火がついている。火矢だ。

 少女はざわめく武者たちをちらりと見ると、弓をぎりりと引き絞り、ひょうと放った。火矢は流星のように赤い尾を引きながらゆるい()を描いて視界を横切り、境橋の欄干(らんかん)にずぶりと突き刺さった。その途端、爆発するように火が激しく燃え上がり、瞬く間に炎が橋全体を包み込んだ。


「なにっ!」


 大鬼親子は、もうもうと黒煙を上げて燃え盛る境橋に愕然とした。


「火の回りが早すぎる。油が塗ってあったな」

「なんだと? まさか(わな)か!」


 武虎の言葉に一臣が目を見張った時、轟音(ごうおん)とともに橋の踏み板が全て崩れ落ちた。簡単に橋が壊れるはずがないので、何か仕掛けがしてあったに違いない。もはやあの橋を渡れないことは明らかだった。先程の少女は森の中に逃げ込んだらしく、既に姿がなかった。


「孤立したな」


 武虎がつぶやくと同時に、左手の林で山を揺るがすような雄叫びが起こり、桜の家紋の旗を掲げた武者の一団が飛び出してきた。その先頭で大きな白馬にまたがっているのは、白地に金や赤をあしらった立派な甲冑(かっちゅう)姿の直春だった。


「くっ、小癪(こしゃく)なまねを!」


 一臣はすぐに迎撃体勢を取れと指示を出したが、その時には敵は目の前まで迫っていた。

 たちまち激しい戦いが始まった。約六百の直春隊は数では一千五百の大鬼家本隊の三分の一だが、奇襲の効果もあって互角以上に戦っている。大鬼隊は本陣を守るので精一杯の有様だった。


「このままでは本陣の中まで攻め込まれるぞ!」


 一臣がうろたえると、武虎が舌打ちして言った。


「この程度で騒ぐな。敵は少数だ。慌てなければ充分に勝ち目はある」

「だが、味方と引き離されてしまったのだぞ! 境川は幅が広く、深くて流れも早い。鎧武者が渡るのはとても無理だ!」

「問題ない。合流する方法はある」


 武虎が嫌味なほど落ち着き払った口調で言うと、厚臣が悔しげな顔に脂汗(あぶらあせ)を浮かべて尋ねた。


「どうすればよいのだ。もったいぶらずにさっさと言わぬか」

「南橋を使えばいい」


 武虎は池の出口にある小さな橋を指さした。


「防戦しながら少しずつ南へ移動して南橋へ出るのだ。対岸の味方にも、追撃をやめ、池を回って南橋へ来いと伝える。味方と合流すればこちらは圧倒的に数が多い。こんな小勢はすぐに蹴散らせる」

「なるほど。それしかなさそうだな」


 厚臣は頷き、本陣を守護しつつ池の端の細い道を通って南橋へ向かえと命じると、自分も馬にまたがった。

 大鬼隊が動き出すと、直春隊も道の入口の方へ少しずつ後退し始めた。幅の狭い道に(せん)をするように壁を作り、南橋へ行かせないつもりなのだ。それを察した武虎は、自分の部下二十人のうちの十五人に、南橋へ可能な限りの速さで向かえと命じた。


「橋を燃やされる前に占拠(せんきょ)しろ。配置されている武者は少ないだろうからたやすいはずだ」


 南橋まで壊されては完全に孤立する。そうなる前に橋を確保する必要があった。

 黒づくめの着物に頬被(ほおかむ)りといういつもの装束の部下たちは、首領に頭を下げると連れていた馬に飛び乗って去っていった。それを見送る武虎は、今日は赤い上衣(じょうい)(はかま)に胴当てと籠手(こて)を着けた武将風の(よそおい)だった。


「間に合えばよいが」


 武虎は自分も馬にまたがったが、戦う敵味方の武者たちを眺めて首を傾げた。


「しかし、あの小僧はこの小勢(こぜい)で大鬼家の本隊に勝てると本気で思ったのか。奇襲したとは言え、こちらが守りに徹して体勢を立て直し、主力と合流すれば、不利な状況に陥るのは向こうだ。それが分からぬとも思えん。それに、連中の動きは我等を討つことよりも、合流を阻止することが目的のように見える。ねらいは一体何だ」


 武虎は馬を歩かせながら、敵の軍師である菊次郎が何を(たくら)んでいるのかを考え始めた。



 一方、逃げていく桜舘軍を追いかけていた者たちは、背後で橋が燃え上がったことに仰天した。武将たちはまんまと厚臣と引き離されたことに気が付き、配下の武者を呼び戻すと集まって対応を協議した。話し合いでは功を急ぐ武将たちが声高(こわだか)に積極論を唱え、このまま追撃を続ければよいと言う者と、一気に豊津城を目差そうと言う者が対立したが、結局は一旦厚臣たちと合流するべきという意見が通った。

 桜舘家の家臣たちの大部分は宇野瀬家を恐れて厚臣に従っているだけで、内心では彼等の横暴を快く思っていなかった。だから、同じ家中の仲間と争うのは気が乗らない者も多く、追撃を控えて敵に時間を与えることに賛成した。妙姫や直春たちが勝利は難しいと悟って城に入らず、どこかへ逃げてくれるならそれが一番よいと考えたのだ。自分たちの城を平汲(ひらぐみ)家や押中(おしなか)家の者たちに落とされるのも嫌だった。平汲(ひらぐみ)可済(よしなり)押中(おしなか)建之(たけゆき)にしても、宇野瀬家に大鬼家を助けよと命じられているから仕方なく出陣してきただけで、家老にすぎない厚臣の指揮下で必死に働く気にはなれなかった。それに、厚臣の吝嗇(りんしょく)は有名なので、あまり利益の分け前は期待できないと考えていた。


 先程は手柄を立てる絶好の機会と張り切り、戦場に立った武者の(さが)として逃げる敵を夢中で追いかけたが、総大将の見ていないところで頑張っても仕方がない。まずは大鬼家本隊と連絡をとって合流点を決めようと話がまとまったところへ、橋の様子を見に行かせた者が、大鬼家本隊が襲われていることと、南橋へ来いという厚臣の指示を伝えてきた。

 武将たちは驚き、すぐに移動を開始した。大将である大鬼家の三人が討たれては全ての武功が無駄になってしまう。主君の妙姫に刃向かって大鬼家に味方した者たちにとってはもっと深刻だった。厚臣にはなんとしても勝ってもらわねばならず、こんなところで死なれては困るのだ。

 幸い、逃げていった桜舘軍は戻ってくる様子がなかったので、背後を襲われる心配はなさそうだった。だが、境池は大きく、二つの橋はふた付きの鍋の形の取っ手の位置に()かっているから、境橋を西へ渡ったこの辺りから南橋へは鍋の底を大回りすることになってかなりの距離がある。大鬼家の三人が無事なうちになんとしても合流しなければと、武将たちは武者たちを急かしながら、対岸で行われている戦いに目を凝らしていた。



「間に合うと思う?」


 一本だけぽつんと立っている満開の桜の大木の幹に手を当てて戦場を見回しながら、田鶴が小声で尋ねた。

 ここは池の東のほとりの土が盛り上がった場所で、鍋のふたのつまみの付け根に当たる。隣では妙姫が、桜館家に伝わる当主の鎧を着て馬で走り回る直春に賛嘆のまなざしを向けていた。


「そのはずだけど……」


 菊次郎がかすれた声で返事をすると、そこに不安を聞き取ったのか、妙姫が夫から目を離して、大声で断言した。


「大丈夫です。きっと間に合います」


 そして、顔を寄せてささやいた。


「しっかりなさい。あなたが不安になってどうします。この作戦を考えたのはあなたでしょう。私たちはまわりから見られているのですよ」


 そう言って視線で示す先には約百人の境村の男衆がいる。隠居した父にかわって村長(むらおさ)となった余兵衛(よへえ)は、村や父を罰しなかった妙姫と直春に感謝し、大鬼家との戦いに必要な作業に助力を求めたところ全面的な協力を申し出てきたのだ。だが、村人の武装は竹槍と鍋の蓋で作った盾だけで鎧もなかったので、直春と菊次郎は戦闘には参加させないことにし、境橋を燃やす仕掛けの準備などに働いてもらった。それが終わったら安全な場所へ逃げるように言ったのだが、村と合戦の行方が気になるからと、彼等はここに残って直春隊と一緒に林に隠れていた。


「武将は戦場では常に自信満々でいないと、配下が不安になって戦に集中できなくなりますよ」


 妙姫に姉のような口調で言われるまでもなく菊次郎にもそれくらい分かっていたが、膝の震えを抑えることは難しく、座り込まないでいるのがやっとの有様だった。菊次郎は初陣だし、戦場を見守っていると、自分が立てた作戦に大勢の人の命がかかっていることを実感させられるのだ。

 山の(ふもと)の林に伏せていた六百人の武者は、菊次郎たちと五人の護衛以外は全て大鬼隊と戦っている。

 形勢は今のところ五分五分だった。大鬼家本隊を奇襲したあと、次第に下がって池と急な斜面の間の狭い道へ逃げ込み、南橋へ向かおうとする敵を阻む形で隊列を組んで防戦しているからだ。池は岸のそばでもかなり深いし、この杉林の山は坂がきつい上に杉の葉が積もっていて滑りやすく、重い鎧を着た武者が動き回るのは不可能に近いので、敵は側面や背後に回り込んでの挟撃という数の優位を生かす戦法をとれないのだ。大鬼家の本隊が追撃に加わらず、一千五百をまるまる相手にすることになったのは誤算だったが、直春たちは槍衾(やりぶすま)を作って守りを固め、弓で敵を混乱させて、十分以上にうまく戦っていた。


 だが、時間がたてば次第に苦しくなることははっきりしていた。三倍の数がいる敵は仲間を休ませることが可能なのに、こちらはそれができないからだ。いずれ武者たちに限界が来る。

 しかも、悪いことに南橋を押さえられてしまった。南橋には武者を五人配置して敵が迫ってきたら焼き落とすように命じておいたのだが、黒ずくめの格好をした騎馬の十五人ほどの敵兵が、直春隊が道を完全に封鎖する前に隙間を突破し、菊次郎たちの前を駆け過ぎていって橋を奪ったのだ。

 池の反対側では、敵軍の主力四千五百がじりじりと南橋へ迫っている。あの軍勢が橋を渡ってこちらへ来てしまったら万事休すだ。前に大鬼隊、右手は杉の生えた急な斜面、左手は境池だ。前後から挟み撃ちにされたら、この六百人は全滅するだろう。橋へ武者を送って取り返したいところだが、こちらの兵力はぎりぎりで余力はないし、迫ってくる敵の主力より先に橋に着いて武虎の仲間を追い散らし、焼き落とすのはかなり難しいと思われた。


 早く来てくれ。

 菊次郎は敵軍の背の向こうの森を眺めてもう何度目とも知れぬ溜め息を吐き、足元に置いてある大きな砂時計を見た。

 味方の主力の一千四百は敵軍を振り切ったあと、街道をはずれて北の森に入り、境川を渡ってここへ駆け付けてくることになっている。

 菊次郎はこの二日で四十艘の小舟を豊津港や川沿いの村々から集め、北の森の中で境川に橋を二本架けさせた。舟を横に並べて縄で縛り合わせ、上に板を敷いて馬が通れるようにしただけの仮の橋だ。きちんとした橋にしなかったのは、境村の人々に春先の冷たい水に入って川底に(くい)を打てと命じたくはなかったし、そもそもそうするには時間が足りなかったこともあるが、万一敵がついてきてしまった時のために渡ったあとで壊せるようにしたのだ。壊すと言っても、民の生活を支える道具である船はあとで返さないといけないから、橋を固定する(ひも)の豊津側を切ってこちら側の河原に引き上げるのだ。軍議では舟があるならそれで渡ればよいと言う者もいたが、小舟で何度も往復するのは時間がかかるし、実佐率いる馬廻衆など合わせて五百頭もいる馬を渡すのは相当な骨だと説得して、橋を架けることを承知させた。

 予定通り、川向こうの敵軍は追撃を諦めて池を大回りし始めた。直春を演じていた忠賢は、今頃森の中を全力で境川の仮の橋へ向かっているだろう。昨日歩いて計ったところでは、境橋からここまで、この砂時計で八の目盛りまでの時間がかかることが分かっているが、まだ二を超えたばかりだ。

 仮の橋はやや上流にあって境橋付近からは見えないので敵軍に悟られる可能性は低いが、菊次郎は心配だった。敵にはあの男がいるのだ。かつて菊次郎の作戦を逆手(さかて)に取って封主家を一つ滅ぼした悪鬼が。


 直春さんたちの奇襲の意味を、あの男は見抜いてしまうだろうか。

 大鬼家の本隊をこの狭い道に引き込んで足止めし、主力との合流を阻止する。それがこの作戦の肝だった。

 橋の前に武者の多くを並べて立ち塞がり戦って逃げ出せば、敵はこちらの主力だと思って恐らくほぼ全軍で追いかけてくる。手柄を焦る必要がない大鬼家の本隊は最後に橋を渡るだろうから、その直前に橋を焼いて敵を分断し、孤立させた厚臣らを少数で奇襲する。そして、反撃されて苦戦しているように見せかけて後退し、池沿いの細い道へ敵を引きずり込む。直春隊を池を迂回してくる敵主力と挟撃できると思わせて大鬼家本隊を引き留めておいて、敵主力到着の直前に南橋を落として来援を不可能にする。そこへ、仮の橋を渡った忠賢隊が北の森を川伝いに戻ってきて大鬼家本隊の背後を襲い、狭い道で包囲して厚臣ら三人を討ち取るというのが菊次郎の計画だった。

 敵をただ分断するだけなら、橋を二つとも燃やしてしまえばよかった。敢えて南橋を残したのは、敵に合流できる可能性を示して橋に向かって進ませるためだ。敵の主力が忠賢隊への追撃をやめ、大鬼家本隊も味方に近付こうと南を目差してこそ、この作戦は成立するのだ。

 菊次郎は奇襲部隊だけで大鬼家本隊に勝てるとは思っていなかった。厚臣は用心深いから本陣のまわりには多くの武者がいるだろう。彼等が抵抗している間に逃げられたらお終いだ。完全に包囲して逃げ場をなくし、確実に三人を討ち取る必要があったのだ。

 もし直春隊の役目がここに彼等をとどめておくことだと悟られたら、この作戦は崩壊する。というのも、大鬼家本隊は戦わずに下がることもできるからだ。境橋付近はやや開けていて草地があるが、葦狢街道を少し戻れば四、五人が並んで通るのがやっとの狭い場所が続く。そこへ退いて守りを固められたら、数に劣る味方には打つ手がないのだ。


 急いでください。忠賢さん。

 心の中で祈り、直春さんも頑張ってと、つい騎馬姿に手を合わせそうになって、これでは死者に対するみたいだと苦笑すると、田鶴が呆れた顔をした。肩に乗った真白も主人を真似て大げさに顔をしかめている。

 北の森に隠れていた田鶴は、境橋に火矢を放ったあと、山の中を通って大鬼軍を迂回し、先程ここまで戻ってきた。途中、斜面を登ってこの山で一番高い木のてっぺんに小猿を使って赤い旗を結び付けたのは菊次郎にも見えていた。直春隊が攻撃を開始したことを知らせる合図だ。忠賢たちは今頃あれを見てこちらへ急いでいることだろう。

 この急な斜面を楽々と登れることと言い、短刀が使えることと言い、田鶴は一体どういう育てられ方をしたのだろうと思う。桜舘家の別邸で披露した弓の腕前は、直春と忠賢が感嘆するほどのものだった。

 田鶴は短い着物から(ひじ)(すね)を出している。今日は日差しが温かく、春らしい強い風も寒く感じないとは言え元気なことだ。真白は飼い主の頭にぴったりとくっついて、手に持った小さな竹の枝を振っている。時折頭上から落ちてくる桜の花びらをたたこうとしているらしい。

 杉ばかりの山の中で、この桜の木の周囲だけ竹林になっている。余兵衛によると、かつて山火事で広い範囲が焼けたことがあり、その跡に当時の村長が家屋や家具のために杉を、漁具(ぎょぐ)や竹の子のために竹を植えさせたのだと言っていた。村人たちの竹槍もきっとここで切り出したのだろう。

 そんなことを考えていると、数人の叫び声が聞こえ、一人の武者が両脇を仲間に支えられて運ばれてきた。すぐに医師が鎧を脱がせて治療にかかる。似たような光景はあちらこちらで見られた。


「そろそろまずそうね」


 戦場を眺めて田鶴が言った。

 確かに、直春隊は息切れしかかっていた。疲労で武者たちの動きが鈍っているのがここからでも分かるし、負傷者も増えている。直春は先頭に立って奮戦しているが、敵に集中的にねらわれて苦しそうだ。逆に大鬼隊は味方が南橋に迫っているのを見て力を得たらしく、武者たちの表情が勝利を確信したものになっている。

 菊次郎の計画では、この狭い道へ入れば武者を疲れさせずに負けない戦いができるはずだった。ここなら正面の敵だけに集中すればよいし、敵は挟み撃ちが完成するまで全力で攻撃してこないと思ったのだ。だが、予想したより皆の疲労がたまるのが早い。それに、敵が背後へ近付いてくるのを知りながら戦うのがこれほど不安なものとは知らなかった。


 これでは忠賢さんたちが戻ってくる前に負けてしまうかも知れない。武芸ができない僕は、武者たちの体力を読み誤ったのではないか。

 直春は菊次郎の作戦案を聞いて、「大丈夫だ。味方が戻ってくるまで持たせてみせる」と言い切ったが、三倍の敵との戦いは想像以上に厳しいものだった。

 僕の作戦は机上の空論だったのだろうか。いや、忠賢さんや実佐さんも、他の人たちも、みんな賛成してくれたじゃないか。それに、もう始まってしまったんだ。いまさら弱気になってどうする。みんなを信じるしかない。

 同じ気持ちらしい妙姫と目を合わせると、菊次郎は不安そうな村人たちに「大丈夫、勝てますよ」と微笑もうとした。その時だった。

 急に敵軍の動きが変わった。下がって隊列を整え始めたのだ。直春たちも一旦(ほこ)を収め、やはり下がって陣形を立て直している。休息したいのだろう。

 やがて、敵が後退し始めた。追撃に備えながら、少しずつ葦狢街道の方へ戻っていく。


「まさか」


 菊次郎は蒼白になった。慌てて敵の本陣へ目を向けると、大鬼厚臣のそばで赤潟武虎が勝ち誇った顔でこちらを眺めていた。

 間違いない。武虎は菊次郎の作戦を見抜いたのだ。忠賢たちは間に合わなかった。

 僕は失敗したんだ!

 菊次郎は目の前が真っ暗になった。

 これで大鬼家の本隊を倒すことは不可能になった。三倍の敵に狭い道に立て籠もって守りを固められたらどうしようもない。そこへ敵の主力が南橋を渡って押し寄せてくるだろう。忠賢隊と合流できても、仮の橋は壊してきているはずだから退路がない。北の森へうまく逃げ込めたとしても、次の橋まで相当あるから、こちらが大回りしている間に大鬼軍は悠々と南橋を渡って豊津城へ向かい、陥落させるだろう。城には老いた武者を中心に百名しか残していないのだ。そうなっては、もはや降伏するか、成安家領内へでも逃亡するしかない。仮に敵より早く城に入ることができたとしても、この兵力差の上、城の構造を熟知している者たちが相手では勝利できる可能性は低かった。この合戦で大鬼家の三人を討ち取る以外に、妙姫と直春が生き延びる道はなかったのだ。

 今度も僕は間違ってしまった! 非現実的な作戦と甘い読みのせいでまた大勢が死んでしまう! 妙姫様と直春さんをこの手で殺してしまうんだ!


「僕はなんて愚かなんだ!」


 菊次郎は頭を抱えて悲鳴のような叫び声を上げた。五年前の記憶がまざまざと蘇り、あの絶望が押し寄せてきて激しい嵐のように心の中で荒れ狂った。


「敵に武虎がいると分かっていたはずだ。なのに相手の実力を過小評価してしまった!」


 南橋を押さえられたのも、大鬼軍の本隊が追撃に加わらなかったのも、あの男の助言に違いないと菊次郎は確信していた。


「僕はあの男には勝てないんだ! またあの男に全てを奪われるんだ!」

「どうしたの。落ち着いて。落ち着いてよ!」


 急に錯乱(さくらん)して叫び出した菊次郎に田鶴は目を見張り、慌ててなだめようとした。だが、菊次郎は頭を抱えて泣きながら花びらの散らばった地面を転げ回って抵抗し、意味不明なことをわめき続けた。


「どうしよう。菊次郎さんがおかしくなっちゃった」


 田鶴が泣きそうな顔をすると、驚いて振り返っていた妙姫は覚悟を決めた顔になり、菊次郎に近付いて(えり)をつかんで引き起こした。


「しっかりなさい!」


 揺さぶられて菊次郎は暴れるのをやめ、涙のたまった目で妙姫を見上げた。


「あなたはこの合戦の作戦を立てた軍師なのですよ。最後まで状況を見守りなさい!」


 菊次郎は力なく目を背けた。


「もう負けは確定です。武虎に作戦を全て見抜かれてしまいました」

「私たちはまだ負けていません! 勝つ方法を考えなさい!」

「こうなってはもうどうしようもありません! 僕たちは死ぬんです! もうお終いなんですよ!」

「どうしようもないなんて言っては駄目です!」


 妙姫は厳しい声で叱った。


「最後まで戦いなさい! あなたは私たちに、武者たちに、この国の民たちに責任があるのですよ!」


 妙姫は思い切り頬をひっぱたいた。ぱしん、という大きな音に、二人を見比べておろおろしていた田鶴が思わず目をつぶった。


「こんなところで死んではいけません! 決して諦めてはなりませんよ!」


 その言葉に菊次郎ははっとした。五年前の記憶が(よみがえ)ったのだ。

 あの時、お(はま)も同じことを言って僕をひっぱたいたっけ。

 妙姫は悔し涙を浮かべていた。満開の桜を背に、その姿は凛々(りり)しく、そして美しかった。

 自分はこの人を殺してしまう。直春さんや、忠賢さんや、田鶴や、ここにいる村人たち、巻き込まれた全員が死んでしまうんだ。それは僕のせいなんだ。

 菊次郎は妙姫の美貌に見入りながら、自分の無力さと愚かさに一層の涙を流した。


「大丈夫か」


 そこへ直春が駆け付けてきた。馬から飛び降りると、荒い息で短い坂を駆け上がり、菊次郎の横に膝を付いた。


「悲鳴が聞こえたから飛んできた。何があった。敵の撤退のせいか」


 妙姫が頷くと、直春は全てを察した顔になった。

 直春は少し考えたが、妙姫が手を放すと、地面に座り込んでいる菊次郎に語りかけた。


「以前から言おう言おうと思っていたことを、今ここで話す」


 直春は深いまなざしで菊次郎を見つめていた。


「五年前、君は自分を賢いと思って得意になり、失策を犯した。そのために、家族など大勢が死んだ。そう言っていたな。だが、それは本当に君のせいなのか」


 当然ですと言い返そうとした菊次郎を、直春は手で制した。


「俺は君の失敗を否定しているわけではない。君は間違えた。それは事実だ。だが、関所が破られ、故郷の町が陥落した一番の責任は、菊次郎君ではなく、君の策を採用した定橋(さだはし)教邦(のりくに)が負うべきだと俺は思う」


 直春の表情は真剣だったが、口調はやさしかった。


「確かに君の読みは浅かった。商売を他店に奪われる焦り。家臣が次々に討たれていく中、降伏せざるを得なかった関所の守将の悔しさ。見殺しにされたと知った時の怒り。それを戦場や店の経営の現実を知らない菊次郎君は想像できなかった。だが、十歳の子供の考えに、他人の感情への配慮や、大人が利益を求め保身を(はか)る時のずるさへの洞察(どうさつ)が欠けていても不思議はない。そこはまわりの大人が経験と知識で補うべきだった。その上で、君の意見のすぐれたところを生かせばそんなことにはならなかったはずだ。それに気が付かず、子供の献策を鵜のみにして失敗し、君に責任を押し付けた定橋家の当主には大いに問題がある」


 菊次郎は目を見開いた。そういう見方をしたことはなかったからだ。


「君が自分の浅知恵を悔いるのは分かる。それは必要なことだろう。だが、自分ばかりを責めてはいけない。失敗は繰り返さなければいい」


 直春は菊次郎の片手を取り、両手で固く握った。


「五年前、君には君の長所と短所を理解して、よい部分を伸ばし、足りない部分を指摘したり補ったりしてくれる仲間がいなかった。だが、今は俺がいる。忠賢殿がいる。田鶴殿も妙もいる。君はもう一人ではない。一人で全ての責任を背負う必要はないんだ」


 直春は笑った。自信と友情にあふれた笑みだった。


「俺たちを信じろ。俺は君を信じている。君ならこの状況をどうにかできるとな。君の足りないところは俺たちが補ってやる。全力で応援するし、助けが必要なら遠慮なく言え。いくらでも力を貸してやる。それが仲間というものだろう。俺たちは助け合って旅を続けてきたではないか。湯山の宿屋で示したあの知恵をまた見せてくれ」

「直春さん……」

「前に言ったろう。俺たちは君に賭けていると。俺は裏切るのも裏切られるのも嫌いだから、信じる相手は慎重に選ぶ。その俺が、君には間違いなく信じるだけの価値があると思ったのだ。だから、君も自分を信じろ」


 気が付くと、菊次郎は泣いていた。先程までとはまるで違う、心の(うみ)を全て洗い流すようなきれいな涙が、あとからあとからあふれて止まらなかった。横を見ると、田鶴が涙をぬぐいながら大きく頷いていて、妙姫も心から微笑んでいた。

 菊次郎は目の前の若い男の精悍(せいかん)な顔をつくづくと眺めた。

 直春さんは仕方がないという言葉が大嫌いだと言っていた。仕方がない、どうしようもないとは決して言わない人なんだ。それはきっと、そういう言葉が、努力を放棄し、前進や成功の可能性を自ら捨て去る言い訳だからに違いない。その意志の強さが、天下統一という壮大な夢を諦めず、実現しようする行動力を生み出しているんだろう。

 それに比べて僕はどうだ。まだ結果が出たわけでもないのに全てを諦め、放り出そうとした。それでは駄目だ。駄目なんだ。命は失ったらお終いだ。ここで僕が諦めたら、多くの人に絶望と死を()いることになるんだ。

 直春さんを殺してはいけない。妙姫様を、この国の民を、見捨ててはいけない。

 菊次郎は心の底からそう思った。

 菊次郎は頑張って微笑み返そうとした。すると、自然に頬が笑みを作った。

 僕はまだ笑える。まだ僕は終わっていないんだ。

 直春たち三人の笑みが応えるように大きくなった。

 とにかく、この状況をどうにかしよう。全てはそれからだ。

 決意すると、菊次郎は背筋を伸ばし、胸を張って直春を見上げた。


「僕は諦めません。なんとか打開策を考えてみます」


 力を込めて言うと、直春は「いい顔だ」と笑い、立ち上がった。


「では、俺は君が考えをまとめるまで時間を稼ぐとしよう」


 直春は砂時計を見て四の目盛りを超えていることを確認すると、坂を下りてひらりと馬にまたがった。


「お待ちください」


 妙姫が立ち上がってあとを追った。


「私も参ります」

「分かった。来い」


 直春は腕を伸ばし、妙姫を馬上に引き上げた。


「姫様!」


 慌てる護衛の武者たちに妙姫は「大丈夫よ」と言うと、菊次郎に「信じています」と頷いて、直春と共に敵軍の方へ去っていった。


「一体どうするつもりかしら」


 田鶴がこちらを見たが、菊次郎にも分からなかった。


「一臣、どこにいる!」


 敵軍に向かって一騎、馬を走らせた直春は、隊列を組んで後退していく大鬼軍に向かって叫んだ。


「俺と勝負しろ!」


 菊次郎は驚いたが、同時に「うまい!」と思った。一騎打ちに持ち込んで引き止めようというのだ。


「お前に武将としての誇りと意地があるのなら、ここに来て俺と一対一で戦え!」

「何をばかなことを」


 父や弟と共に周囲を守られながら移動していた馬上の一臣は、武者たちの注目を浴びて不愉快そうに顔をしかめ、吐き捨てるように言った。


「なぜこの局面で一騎打ちなどせねばならない。もはや勝負は付いたも同然だ。一武者としての勇を示したところで、何もよいことなどないではないか」

「その通りだ。相手にする必要はない」


 厚臣は直春への侮蔑を隠そうともしなかった。


「とても総大将の行動とは思えぬ。このままでは負けは確定ゆえ、自分の武勇でなんとかしようと思ったのだろうが、封主家の当主が務まる器量でないことを自ら証明したな。さあ、武虎殿の助言通り、さっさと街道の奥へ入ってしまうぞ」

「ならば、俺が行こう!」


 剛臣が舌なめずりをして言ったが、厚臣は次男を叱り付けた。


「愚か者めが。向こうのねらいが分からぬか。ここへ敵の主力が戻ってくるまで我等を引き止めようという腹に決まっておる。少しは戦場全体のことを考えぬか」


 武虎が「その通りだ」と頷くと剛臣は不満そうな顔をしたが、父を恐れていたので黙り込んだ。


「では、早くここを退()きましょう。もはや敵には我等にしかけるほどの元気は残っておらぬ様子。だからあのような姑息(こそく)な手を使うのでしょう。守りを固めていれば、勝利は我等のものです」


 一臣が首を戻し、馬の手綱を操ろうとした時、後ろから妙姫の声がかかった。


「この卑怯者! 敵を前にして逃げ出すのですか!」

「なにっ?」


 一臣は勢いよく振り向いた。


「直春様は正々堂々と一騎打ちを申し込まれたのに、それを断るなど、それでも吼狼国武家ですか! やはり直春様を夫に選んでよかったですわ。あなたのような弱虫は直春様とは到底比べられません」

「なんだと! 言わせておけばひどいことをぺらぺらと!」


 さすがに腹に据えかねたらしい。一臣は馬を戻して言い返そうとしたが、隣にいた武虎が(いさ)めた。


「待て。こんな安い挑発に乗るな。向こうはこちらをこの場所にとどめておきたいのだ」

「分かっている。分かっているが、このような屈辱を受けて黙っておれるか!」

「落ち着け、一臣。この程度の言葉に耐えられぬようでは、封主家を継ぐことなどできぬぞ」

「しかし、父上! ……くっ、仕方ありませんな」


 一臣は握り締めていたこぶしを下ろしてうなだれ、再び馬を進めようとしたが、そこへまた妙姫が叫んだ。


「みんな、あれをご覧なさい。直春様に勝てる自信がないのを厚臣のせいにして誤魔化しているわ。あの年になってまだ父親の言いなりとは情けないこと。きっとまた、どうせ勝てないに決まっているから、戦っても仕方がないとでも考えているのでしょう。でも、本当は単に勇気がないだけですわ。さあ、みんな、あの臆病者を笑いましょう。それ!」


 主君の言葉に合わせて、直春隊六百人が一斉に大声で笑い始めた。初めは無理をしている風だった笑い声はたちまち大きくなり、心底愉快そうな大合唱になった。


「もう我慢できません!」


 一臣は槍を構えて馬首を返した。


「待て、やめろ。この一騎打ちには意味がない。まんまと敵に策に落ちるのか」


 武虎が馬を寄せて止めようとしたが、一臣はそれを槍で追い払った。


「ここまで言われて引き下がれば、俺は他の家臣たちから当主と認めてもらえなくなる!」


 一臣は一騎で自軍を離れた。厚臣は苦虫を噛みつぶしたような顔をしていたが、もはや止めようとはしなかった。


「愚かな。みすみす敵の策に乗るとは、自ら負けを呼び込むようなものだ」


 武虎はつぶやくと、そばに控える仲間に、旗信号で橋を守る者たちに山を迂回して戻ってこいと伝えろと命じた。四千五百の軍勢は橋に差しかかろうとしている。これ以上仲間を置いておく必要はなかった。


「橋までこちらの主力の連中が来たら、騎馬隊だけ先行させるように言え。(かち)武者はあとから来させればよいとな」


 六百の敵を倒すのに四千五百の全軍は必要ないのだ。武虎の部下は頷いて池の方へ駆けていった。

 一方、直春は妙姫を馬から降ろしていた。


「ふう、どうやら相手が乗ってくれたようだな。あなたのおかげだ」


 直春が笑うと、妙姫は微笑み返して「ご武運をお祈りしています」と言い、武者たちの方へ戻っていった。

 直春と一臣はやや下がった両軍の間に馬で乗り出し、距離を置いて向かい合った。


「行くぞ! それっ!」


 一臣は槍を構えると、全力で馬を飛ばした。

 直春の腕前は春始節で分かっている。勝ち目は薄いだろう。だが、それでも一臣は負けるわけにはいかなかった。半分は妙姫を取られた怒りと恨み、半分は男としての価値で劣っていたとは認めたくない意地だった。それに、これは一人の女をめぐる男同士の争いであると同時に、どちらが封主家の当主にふさわしいかをはっきりさせる戦いでもあったのだ。


「やあっ!」


 一臣は走る馬の速度にのせて渾身(こんしん)の力で一撃を繰り出したが、直春はやすやすとはじき返した。


「まだまだっ!」


 すれ違うとすぐに馬首を返して、一臣は再び突進した。だが、またも直春に受け流されてしまう。と、直春は槍をぐるりと回して突き込んだ。一臣がかろうじてよけると、すぐさま直春が第二撃を繰り出した。一臣はそれをかいくぐって一旦距離を置くと、再び直春に迫っていった。


「手加減しているな」


 武虎は腹立たしげにつぶやいた。直春は一臣を馬から突き落とせたのにしなかったのだ。


「やはり時間稼ぎか。となると、敵の本隊はまだしばらく来ない。その前にこちらの主力が到着すれば勝ちだな」


 少し前、東の山の高い木に赤い旗がひるがえったのを見て、武虎はそれが逃げていった桜舘家の主力部隊への合図だと気が付いた。よく見ると、池のほとりの桜の下にあの小僧の姿があって、北の森を不安そうに見つめている。菊次郎の作戦を悟った武虎は、厚臣に一時後退を進言したのだ。

 その厚臣は、武虎のやや前方で、不機嫌そうな顔で長男と直春の一騎打ちを眺めていた。敵の計画が分かっているのにみすみす挑発に乗り、将たるものが一介の武者のような戦いをしていることに腹を立てているのだろう。

 武虎は雇い主の宇野瀬当主から、なんとしても桜舘家を大鬼一族に継がせよと命じられている。そこで一臣を妙姫と結婚させようと考えたが、一臣はぐずぐずしていて一向に口説き落とそうとしなかった。

 すると、それをよいことに妙姫は家督を弟に譲るべく家臣を味方に引き込み始めた。都の元家臣に助言を求めて送った使者を追いかけていって殺しても、まだ諦めなかった。

 春始節が迫る中、業を煮やして剛臣に妙姫を誘拐しろとけしかけたが、肝心なところで直春や菊次郎たちに邪魔をされ、話を聞いた一臣は妙姫に手を出すどころか助けようと駆け付けた。その結果この合戦になったのだが、またもや一臣の無用な見栄のために決まりかけていた勝負を引き延ばされている。


 さっさと一臣を殺してしまえ、と武虎は思った。

 あの男は到底封主家当主の(うつわ)ではない。妙姫との結婚は(おど)すでも力ずくでもやりようはあったはずなのに、嫌われることを恐れて動けなかった。この一騎打ちも、自分で無駄だと言ったくせに結局始めてしまった。優柔不断ですぐに決意が揺らぐところがあいつの最大の欠点だ。あれでは宇野瀬家に忠誠を尽くすと言われても信用できない。本人は本気で言ったつもりでも、不利な状況に置かれたら途端に覚悟がぐら付き、実行をためらうだろう。

 きまじめで権力者に従順だから宇野瀬家にとって都合がよいと思っていたが、ここまで愚かでは使いにくい。前進して利益を獲得することよりも自尊心を守る方が優先で、傷付くことを恐れてひたすら現状を維持しようとするような者に、家臣を率いて戦っていくことなどできはしない。これなら剛臣に継がせた方がよほどましだ。宇野瀬家にとっては誰が当主であろうと、自家に忠実で意のままに動かせればかまわないのだ。

 その意味では欲深くずるがしこい厚臣は操りやすい男だった。力こそ全てと信じているがゆえに、弱者はいたぶるが強者には逆らわない。厚臣にとって得なこと、しないと損することを教えてやれば、迷わず動く。非道なこともためらわない決断力と行動力は、武虎の好みに合っていた。

 幸い、妙姫を生かしておくことは命令に含まれていない。一臣が死に、妙姫と直春を殺したら、雪姫を剛臣の妻にしよう。剛臣は単純で戦好きだから、宇野瀬家のよい手駒になるだろう。

 武虎がそんなことを考えているとは知らない一臣は、必死で槍を振るって食らい付いているが、直春は悠々とあしらっていた。

 見かねたのか、剛臣が加勢に出てきた。


「兄者には任せておけぬ。俺がやる!」

「下がれ剛臣! 邪魔をするな!」


 息を切らしながら一臣は弟を叱ったが、剛臣はせせら笑った。


「兄者の腕ではいつまでたっても鎧にかすらせることすらできんぜ」


 言いながら、直春に槍で突きかかる。


「俺はかまわない。二人まとめて相手してやろう」


 直春もさすがに額に汗が光っていたが、余裕の表情で言い放つと、剛臣に槍を向けた。


「その自信打ち砕いてやるぜ。一ヶ月前の恨み、ここで晴らしてくれる!」

「お前の腕でできるかな。さあ、かかってこい!」


 まだまだ長引きそうな勝負から、武虎は対岸へ視線を移した。主力の四千五百人は南橋に到着し、騎馬隊が別れて先行しようとしていた。


「そろそろ奥の手を使う頃合いか。できるだけ効果的に使わねばな」


 武虎は直春隊を眺めてにやりとした。

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