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狼達の花宴 ~大軍師伝~  作者: 花和郁
巻の一 運命の出会い
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(巻の一) 第五章 春始節

 遂に降臨暦三八一五年の桜月(さくらづき)一日がやってきた。

 あれからもひどく寒い日が数日おきにあり、何度か雪が降った。お俶によると、葦江国の春はこの数度の降雪のあとに急にやってくるらしい。

 実際、東から葦江国を見下ろす大長峰(おおながね)山脈はまだ真っ白だというのに、豊津(とよつ)城の無数の桜は皆満開で、この中郭(なかくるわ)御殿の前の広い庭にも多くの薄紅の花が咲き誇っている。新たな一年が始まる春始節の祝宴にふさわしい上天気だった。


 三百畳敷きの大広間には桜舘家の主立った家臣二百人が集まっていた。奥の一段高くなった畳の中央に、豪華な晴れ着を着た妙姫が当主だけが座れる赤い座布団にぴんと腰を伸ばして正座し、やや離れて左手に雪姫と元服する虎千代丸がいる。下段には家臣たちが中央に通路を開ける形で居並び、筆頭家老の大鬼家の三人は最前列にいた。菊次郎、忠賢、田鶴と真白も、妙姫の希望で最も下座に席を与えられ、周囲の家臣たちの何者だという不審のまなざしを浴びていた。

 型通りの新年の挨拶がすむと、まず虎千代丸の元服の儀式が行われた。直垂姿の虎千代丸が姉の前に進み出て烏帽子(えぼし)をかぶった頭を下げると、妙姫は立派で重そうな太刀(たち)を抜いて弟の頭上でゆっくりと大の字を描き、再び鞘に収めて弟に与えた。本来は花斬丸(はなきりまる)という伝家の太刀を使うのだとお俶は言っていたが、五年前の大鬼の謀反(むほん)以来、行方不明なのだそうだ。

 刀を押し頂いて腰に差した虎千代丸は、右側の豪華な白牙大神(しらきばおおかみ)の祭壇と左側の先祖の位牌に丁寧に頭を下げた。そして、立ち上がって家臣たちの方を向くと、正面の壁に彫られた四角に囲まれた桜の家紋を背にした凛々しい姿に大きな拍手が湧き起こった。

 段前に立った次席家老の槻岡(つきおか)良弘(よしひろ)が、手にした紙を広げて大書された虎千代丸の新しい名を披露した。幼名を使うのは今日までなのだ。紙には直冬(なおふゆ)と書かれていた。


「大人になった弟をよろしくお願いします」


 妙姫と直冬がそろって頭を下げると、家臣一同は平伏した。 


「では、続きまして、妙姫様よりお話があります」


 司会役の家老、蓮山(はすやま)本綱(もとつな)が告げると、妙姫が立ち上がった。家臣たちは何事かと主君へ注目した。


「本日は、私の結婚と新しい当主について、皆にお知らせします」


 妙姫は大広間の入口の両脇に立つ武者へ声をかけた。


「桜舘直秋様をここへ」


 沸き起こった三種類のざわめきを聞いて、菊次郎は勢力を分析した。冷ややかな反応をしたのは約半数で、恐らく大鬼家の息がかかっている者たちだ。逆に期待するような表情の者は四分の一ほどだった。つまり、この件を打ち明けることのできた信用のおける家臣はやはり少なかったということだ。残りの者は直春の存在を知らなかったらしく、本気で驚いていた。

 後ろの襖が左右に開いて直春が現れた。直垂で正装している。(まげ)をきちんと結い、烏帽子(えぼし)をかぶって堂々と立つ姿は、とても今日十九になったばかりとは思えぬ貫禄があった。

 直春は広間を見渡すと、家臣たちの中央に開いた道を静かに歩み始めた。その威風に気圧(けお)されたのか、行方不明だった主家の御曹司(おんぞうし)を見上げていた家臣たちは、直春がそばを通るとはっとして慌てて頭を下げていった。雪姫と直冬もお辞儀をして従兄を迎えた。

 自分の横に直春が並んで立つと、妙姫は一同に告げた。


「五年の間行方知れずだった直秋様がつい先日、無事にこの国へ戻ってこられました。よって、私は父が決めた通り直秋様と結婚し、この方に当主の地位を譲ります」

「長いこと留守にして皆に心配をかけた。これからまたよろしく頼む」


 妙姫と直春の宣言に、家臣たちの反応は真っ二つに別れた。一部は感激して直春を見上げ、中には涙ぐんでいる者さえいたが、半数以上は困惑し、あるいは冷笑を浮かべて大鬼厚臣の顔色をうかがっていた。

 と、ごほん、と大きなわざとらしい(せき)の音が響いた。


「お待ちくだされ」


 厚臣が口を開くと、家臣たちは一斉に筆頭家老に畏怖のまなざしを向けた。


「その者は本当に直秋様ですかな」


 厚臣はしわだらけの顔をゆがめ、深く暗いまなざしで直春をじろりとにらんだ。


「確かに面影はあるようですが、急に現れたことには疑念を禁じ得ませぬ。偽物かも知れませぬぞ」

「控えなさい!」


 妙姫がぴしゃりと言った。


「主君となる相手になんという物言いですか!」

「しかし、もう行方知れずになって五年余り、生きていらっしゃらない可能性も高い。その男が本物だという証拠を見せていただきましょうか」

「よかろう」


 答えたのは直春だった。


「俺が直秋だと証明すればよいのだろう。何でも問うがよい」


 家臣たちは三人のやり取りを息をのんで見守っている。自信に満ちた直春の様子に菊次郎は感嘆したが、同時に体が震え出しそうなほど冷や冷やしていた。あのはったりのうまさと肝っ玉の太さは天性のものだが、もしばれたら本人も仲間の自分たちも殺されるのだ。田鶴も膝の上の小猿の頭を撫でながら不安そうに直春と厚臣を見比べている。忠賢は見たところは平然として口笛でも吹きそうな様子だが、広間を見回すまなざしは鋭かった。


「では、私が発問役を務めよう」


 一臣が進み出た。初めからそのつもりで準備していたらしい。直春は頷いてその場へ腰を下ろし、中央の通路にあぐらをかいた一臣と向かい合った。妙姫も自分の座布団へ戻った。


「では、桜舘家の親族や家臣たちの名をおっしゃっていただこう。直秋様なら当然ご存じのはずですな」


 一臣は一応は丁寧な口調で居並ぶ家臣たちを示した。


「よかろう。久しぶりに会う者も多い故、記憶の曖昧(あいまい)な部分もあるが、ほとんどは答えられるだろう」


 直春は頷いて、初めて会った家老たちの名をあやまたずに告げていった。妙姫とお俶が主要な家臣の姓名と家紋をたたき込んだ結果だ。新年を祝う宴に来る者は皆正装して紋付きの直垂を着ている。だから、胸元を見て容貌から年齢を推測すれば名は分かるのだ。直春は自分の家臣になる者たちだからと熱心に覚えていた。一臣は次々に名を当てていく直春に驚いていたが、視線からその方法に気が付いて悔しげな顔になり、やはり悟った他の家臣たちはおかしそうな顔をしていた。


「次に、この国のことをいくつか問わせていただきましょう。まず、葦江国の五つの郡の名をおっしゃってください」


 一臣は河川や山や主な町の名、そこを領地とする家臣や封主家を尋ねていったが、これも直春はすらすらと答えた。自分の国の地理や情勢を頭に入れておくのは当然のことだからだ。


「では、この五年の間、どこで何をしていたのか話してください」


 この問いも予想通りで、菊次郎は安心していた。直春は基本的に自身の体験をそのまま語り、都合の悪いところを省略することになっている。それならあとで問われて矛盾を起こすことはないし、そもそもその話が本当かどうか確かめるすべがないのだ。一臣もそれは分かっていたようだが、直春がどういう人物か知りたいと思ったらしい。

 剣と槍の腕を頼りに用心棒をしながら国中をめぐり歩いていたと聞いて家臣たちは驚き、遠い地方の情勢や珍しい体験に興味(しん)(しん)に耳を傾けた。直春はなかなか話し上手で、菊次郎たちの知らない逸話もあったのでとても面白かった。忠賢や田鶴も楽しんでいたし、妙姫は目を輝かせて恋人の冒険譚に聞き入っていた。


「剣一本でとおっしゃるが、本当にそれほどの腕でいらっしゃるのですか。ぜひ、我々にも見せていただきたいものです。直秋様は確か槍の方がお得意だったと記憶しておりますが」


 知識ではぼろを出さないと見た一臣が手をたたくと、庭に槍を持った一人の武者が稽古用の胴覆いを付けた姿で表れた。直春の武勇が大したことがないと分かれば家臣たちの支持を集められないだろうと思って用意していたらしい。広間のざわめきからその人物が大鬼家で一番の槍の名手の荒森(あらもり)滝兵衛(たきべえ)と知って菊次郎と田鶴は心配になったが、忠賢は相手を見て、ふん、と鼻を鳴らしたので、どうやら大丈夫らしいとほっとした。


「よかろう。相手をしよう」


 恋人を信じながらもやや不安そうな妙姫に安心させるように頷くと、直春は立ち上がって板廊下へ出た。お俶に(そで)(たすき)にかけてもらって胴覆いを付けた直春は庭に()り、渡された十文字型の穂先の槍を数度しごいて手触りを確かめると、滝兵衛と庭の中央で向かい合った。


「始め!」


 一臣が叫ぶと、荒森滝兵衛はいきなり突進し、気合いの声を上げて直春の首目がけて槍を突き出した。だが、直春はそれをかろうじて槍の柄で受け、右に逸らした。

 滝兵衛の勢いと穂先の速さに菊次郎はどきりとし、見守る家臣たちからもどよめきが起こった。槍が稽古用でなく本物なのを見た時から疑っていたが、やはり滝兵衛は厚臣に相手を殺すか大怪我をさせろと命じられているらしい。

 突きを防がれたことに滝兵衛は一瞬驚いたが、すぐに体勢を立て直してさらに攻撃を続けた。さすがに槍の名手らしく、目にも止まらぬ速さで胸へ、腹へ、首元へと、次々に鋭い突きを繰り出していく。それを直春はよけ、あるいは槍で払いのけるが、防戦一方で形勢は不利に見えた。直春は次第に下がり、広い庭の奥の満開の桜の方へ追い詰められていった。


「まずいね」


 田鶴は胸に小猿をぎゅっと抱き締めてはらはらしている。すぐ後ろが大きな木でもう逃げ場がない。直春が勝負を受けたのは勝てる自信があるからだと分かっていたが、菊次郎もさすがにまずいと思った。妙姫を見ると、あくまでも直春を信じる様子を崩していないものの、やはり表情が硬かった。雪姫はあまりこういう試合を見たことがないのか興味深げに目を見張り、直冬は恐ろしくてとても見ていられないが目を離せないという矛盾した気持ちが顔にはっきりと出ていた。

 このままでは負けてしまう。直春さんは一体どうするつもりだろうとどきどきしていると、滝兵衛は勝ち誇った顔でにやりと笑い、「やあっ!」と叫んで全身の力で槍を直春の胴へ突き込んだ。

 刺さった、と思ったが、直春は左へ動いていた。滝兵衛は予期していたとばかり、槍を素早く引き、再び勢いよく突き出した。直春は必死でそれもなんとか受け流し、槍の穂先は木と直春の間を抜けて後ろまで飛び出した。直春は息が上がりかけていて、表情を見ればもうよけ続けるのも限界なのは明らかだった。次の突きでやられてしまうだろうと菊次郎は感じ、ぞっとした。


「ちいっ、往生際の悪い!」


 滝兵衛もそう思ったらしい。舌打ちし、槍をもう一度引き戻そうとした。

 その瞬間、直春は右へ跳んだ。右脇腹と木との間に槍を挟んで動きを止めたのだ。そして、十文字の刃が引っかかって槍が戻せず慌てる滝兵衛の胴へ、「たあっ!」と叫びながら左から自分の槍を全力でたたき付けた。


「ぐわっ!」


 うめいて滝兵衛はよろめいた。当たったのは刃ではなく柄の部分だが、それでも相当な衝撃だったはずだ。滝兵衛が体勢を崩した瞬間、直春はくるりと槍を回転させて石突きを前にすると、それを相手の胴覆いへ思い切り突き込んだ。

 滝兵衛は槍を握ったまま後ろへ飛ばされ、尻餅をつくように倒れて気絶した。


「勝者、直秋様!」


 判定役の武者が声を上げると、広間は歓声であふれた。唖然(あぜん)としていた一臣が気が付いて、「木を使って相手の槍を封じるなど反則だ!」と叫んだが、耳を貸す者はいなかった。今は戦狼(せんろう)()、武器を使った勝負は競技や遊びではなく、勝つか負けるか、生きるか死ぬかが全てだ。今の戦いで直春は相手を倒して生き残った。それが重要だったのだ。

 胴着をはずした直春は、賞讃の拍手の中を広間へ戻ってきた。妙姫は直春に改めて惚れ直したように、(うる)んだ熱いまなざしで恋人を迎えていた。


「さあ、これでもう、この方の当主としての資質に疑問のある方はいないでしょう」


 妙姫が座を見回すと、家臣の多くが頷いた。先程のやり取りで直春の聡明さはよく分かったし、武術に()けていることも確かめた。容貌(ようぼう)精悍(せいかん)で男らしい一方やさしげでもあって武者にも女子供にも好かれそうだし、所作(しょさ)はどこへ出しても恥ずかしくないくらい立派で堂々としている。軍勢の指揮能力だけは戦場に出てみないと分からないが、これまでのところ、直春は十六万貫の封主家の当主に必要な条件を十分に満たしていると言えた。


「では、私は予定通り直秋様と結婚します。婚儀は五日後に行う予定です」


 妙姫は満足そうに微笑んでいる。一臣は悔しそうだがもう言い返す言葉がないらしい。菊次郎はもっと荒れるだろうと予想していたので拍子抜けした気分だった。田鶴はあからさまにほっとし、忠賢も表情をゆるめていた。

 と、その時、ずっと黙っていた大鬼厚臣が口を開いた。


「妙姫様は、その男が本物の直秋様だとおっしゃるのですな」

「もちろんです」


 それはもう証明したではないかという顔の妙姫に、厚臣は主君への敬意の感じられぬ小ばかにしたような口調で尋ねた。


「では、花斬丸(はなきりまる)はどこにあるのですかな」

「どういうことかしら」


 妙姫は相手の口ぶりよりも、言葉の内容に驚いたらしかった。


「直秋様は五年前のあの騒動の夜、花斬丸(はなきりまる)を帯びておいでだったと記憶しております。ですから、その者が本当に直秋様でいらっしゃるのなら花斬丸をお持ちのはずですな。それを見せていただきましょう」


 妙姫は困惑を隠さなかった。


「確かに花斬丸は父の死の時にどこかに持ち出されてそれきり見付かっていませんが、直秋様が持っていらっしゃったとは限りませんよ」

「いいや、あの時直秋様は確かに花斬丸をお持ちでしたぞ」


 厚臣は確信に満ちた口調で言った。


「あの菊見の宴では皆正装しておりました。十三で元服をすまされていた直秋様に直慶(なおよし)様が花斬丸をお預けになったので、腰に帯びておいででした」

「ですが、帰って来られた時、直秋様はお持ちではいらっしゃいませんでした。あなたの勘違いではありませんか」


 妙姫はどうやら記憶違いで押し通すつもりらしい。


「わしはしっかりと覚えておりますぞ」

「ないものはないのです。残念ですが、花斬丸は行方知れずです。それ以上のことは分かりません」


 妙姫はなぜ厚臣が伝家の太刀にそこまでこだわるのか不思議そうな口ぶりだったが、はっとして急に青ざめた。菊次郎もその理由に気が付き、直春や忠賢を見ると、やはり表情が硬かった。家臣たちもざわめいている。


「妙姫様がどうでもお認めくださらぬのでしたら致し方ありませぬ。その男が偽物である証拠をお見せ致しましょう」

「まさか! 父上、おやめください!」


 一臣が慌てて止めようとしたが、厚臣は広間の入口の襖へ向かって声をかけた。


「あの男をここへ」


 すると、襖がするりと開いて、一人の男が一振りの太刀を捧げ持って現れた。


「お前は!」


 菊次郎は思わず叫んでいた。直春や忠賢たちの問うような視線を感じつつも、男から目を離せなかった。今はこの場にふさわしく立派な直垂をまとっていたが、間違いなく、五年前に菊次郎の家族を殺し、一ヶ月半前に適雲斎の軍学塾に現れた男だった。


「この者は赤潟(あかがた)武虎(たけとら)と申しまして、朧燈国(おぼろひのくに)から来て、わしのところに滞在しております」


 大封主家の本城がある国の名を聞いて家臣たちはぎょっとした。


「この男が宇野瀬(うのせ)家から面白い刀を預かって参りました。どうぞご覧ください」

「その刀は……」


 妙姫は驚愕を露わにして、武虎が全員に見えるよう両手で高く(かか)げた豪華な太刀を見つめていた。白塗りの(さや)に白い(つか)城塞(たて)を表す菱形で囲まれた桜の家紋が金の蒔絵(まきえ)で浮き上がり、金具の部分にも金が使われたその刀は間違いなく花斬丸だった。受け取った厚臣が抜いてかざすと、刃には曇り一つなく、舞い落ちた桜の花びらが真っ二つになったという伝説も頷ける輝きを放っていた。


「なぜ、宇野瀬家がそれを持っているのですか!」


 答えは分かっているだろうに妙姫が声を震わせて尋ねると、厚臣は厚い唇を薄い笑みに歪めた。


「直秋様は北へ逃げようとして隣国の平汲(ひらぐみ)家に捕まり、朧燈国(おぼろひのくに)に送られて、牢内で命を落としたと聞き及んでおります。もう五年も前のことだそうですぞ」


 厚臣の笑みを見て、菊次郎は直秋の処刑を要請したのは厚臣だと確信した。妙姫もそれを悟ったらしく、恐ろしい悪鬼を見るような顔で筆頭家老をにらんでいた。


「宇野瀬家が妙姫様との結婚と当主就任を諦めて一臣にその地位を譲るように迫ったところ、直秋様は拒んだそうでしてな」

「あなたが直秋様を殺させたのね! 主君である私の父を弑逆(しいぎゃく)した上に、跡継ぎの命まで奪うなんて!」


 妙姫の絶叫に厚臣は眉一つ動かさなかった。その程度の非難に動じるような弱い心はとうに捨て去っていたからだ。

 今は戦狼の世、強い者が弱い者を力で支配する世の中だ。そういう時代に生まれた以上、自分の命や家を守れなかった者は弱者であり敗者だというのが厚臣の考えだった。

 その戦いに負けるつもりは厚臣には毛頭(もうとう)なかった。どんな手を使っても生き残り、勝利をつかむ。その覚悟を決めて、主君を暗殺したのだ。

 一旦力を手に入れたら、最後まで守り続けなければならない。力を失った瞬間に厚臣の命は終わるだろう。だからこそ、厚臣は宇野瀬家に卑屈なまでに仕え、武虎のような者も使い、武者に民を弾圧させることをためらわなかったのだ。

 妙姫などたまたま封主家の嫡流(ちゃくりゅう)に生まれただけのくちばしの黄色い小娘だ。反抗したところで大したことはできまい。自分を倒せるのは自分以上の力を持つ者だけだ。圧政や簒奪(さんだつ)に反対し、裏切りを批判するのなら、それを実力で正してみろ。力を守り利用するのに自分のやり方よりもすぐれた方法があるならやってみせろ。それが厚臣という人物であった。


「さあ、その男が偽物であることは皆も分かったはず。それでも妙姫様はその男と結婚するとおっしゃるのですかな。諦めて、大人しくわしの息子と結婚してくださいますな」


 厚臣は勝利を確信した笑みを浮かべていた。口調は丁寧だったがこれは脅迫だった。妙姫は蒼白(そうはく)になって家臣たちを見回したが、誰も厚臣の罪を糾弾(きゅうだん)しようとはしなかった。心中はともかく、厚臣の怒りを買っては生きていられないからだ。雪姫は素直に驚きを表し、直冬は悔しげに顔を(ゆが)めていた。

 菊次郎はどうしようかと必死で考えたが、うまい策を思い付けなかった。

 と、突然、忠賢が末座から大きな声を上げた。


「おい、妙姫様の婿殿。もう下手な芝居はやめて、本当のことを言っちゃえよ」


 田鶴が驚いて隣の男の顔を見上げ、家臣たちが一斉に振り向いた。


「そうだな。これ以上直秋様のふりをしても意味がないな」


 直春がいつもの口調に戻って答えた。がらりと変わった態度に家臣たちが今度は妙姫の隣の男に注目する。直春はにやりと笑うと、堂々と言ってのけた。


「俺の名は鴇戸(ときと)直春。ただの浪人だ」

「お待ちください!」


 妙姫が止めようとして、相手のまなざしに口をつぐんだ。予定と違うと言いたげな妙姫に大丈夫だと頷くと、直春は声を張り上げた。


「俺は直秋様ではない。たったの一ヶ月前、初めてこの国へやって来た」


 浪人だと、とざわめきが起こったが、忠賢はそれを打ち消すような大声でさらに言った。


「だが、その名前も本名じゃねえだろう。お前、昔は封主家の若様だったと言ってたな。どこの封主家なんだ?」


 それを聞いて、中央の通路の中程に座っていた豊梨実佐が身を乗り出し、怒鳴るような声で尋ねた。


「封主家のご出身ですと? まことでございますか!」

「恐らくは名家(めいか)の出でいらっしゃいましょう。よほど厳しく行儀作法を(しつ)けられたものとお見受け致します」


 庭側の板廊下にいたお俶がやはりという顔で言った。当主教育の間に気が付いていたらしい。


「乾杯の時の所作(しょさ)は、武家の中でも相当上流のお家のお作法ですわ」

「あなたの目は誤魔化せませんか」


 苦笑した直春は、妙姫と頷き合うと、(りん)とした声で言った。


「分かった。もう七年も使っていない名だが、ここで披露しよう。俺の昔の名前は虹関(にじぜき)龍吉郎(りゅうきちろう)と言う」

「虹関? まさか、あの虹関家でございますか!」


 実佐が驚いたのも無理はない。虹関とは、(くび)(くに)から(からす)(くに)まで、吼狼国(くろうこく)に九つある州のうち、背の国十一ヶ国の武家の監督を安鎮(あんちん)総武(そうぶ)大狼将(だいろうしょう)高桐(たかぎり)家から命じられていた探題(たんだい)家の姓だったからだ。しかも、始祖(しそ)公家(くげ)の一家の血脈に連なる名門中の名門で、その歴史は高桐家より古い。桜舘家は虹関家から古くに別れた分家の一つなのだ。


「そこの跡取り息子だったのだが、鶴平(つるひら)城が陥落し、父の代で家は滅んだ。俺が十二の時のことだ」

「虹関家嫡流(ちゃくりゅう)世子(せいし)って、まじかよ!」


 さすがに忠賢も声がひっくり返っていた。実佐とお俶は絶句し、大鬼一臣は仰天し、家臣たちは目を極限まで見開いていた。菊次郎も声を失い、田鶴でさえ「その封主家は聞いたことある」と珍獣を目にしたような顔をしていた。


「証拠はこの脇差だ。虹鶴(こうかく)と言う。十代前の当主が高桐総狼将(そうろうしょう)家から拝領した名品で、虹関家の家宝だ」


 腰から抜いて高く掲げてみせた脇差しの鞘には、虹の家紋の下で鶴が羽を広げた絵柄が蒔絵(まきえ)で描かれていた。以前宿屋で見た時、名工の手になるものらしい精巧な細工に菊次郎も驚いたが、まさか伝説の名脇差だとはさすがに気付かなかった。


「どうしてあなたが流浪することになったのか、皆に話していただけますか」


 妙姫が高貴な相手への礼をとると、直春は頷いて、自分が家族と故郷を失ったいきさつを語った。

 思わぬ告白に広間が静まり返ると、参ったな、と言いながら忠賢が頭をかき、短くまとめて確認した。


「つまり、お前は本物の名門の御曹司(おんぞうし)なんだな」

「ああ。もう昔のことで誇るつもりは全くないが、それが事実だ」


 直春は肯定した。


「俺と直秋殿の容貌(ようぼう)に似たところがあるのも思い当たることがある。俺の母は遠い本家筋に当たる公家の夏雲(なつくも)家から輿入(こしい)れしてきた。聞けば、こちらの先々代、つまり直秋殿の父君の直候(なおとき)公も同じ家から奥方を迎えたそうだ。恐らくだが、両者は姉妹だったのではないかと思う」

「す、すごいことですぞ、これは!」


 名宝中の名宝とされる高名な脇差を感嘆のまなざしで仰いでいた実佐が大声で叫んだ。


「わしも直春様は良いお家のお生まれだろうと想像はしておりましたが、まさか探題家のご嫡子(ちゃくし)でいらっしゃったとは! これは大鬼一臣など相手になりませぬぞ!」

「そうですわ。これなら誰も文句は言えません!」


 お俶も興奮した声だった。


「大鬼家は桜舘家の分家の一つで葦江国では名門ですが、虹関家の前ではかすんでしまいます!」


 家臣たちもざわめき始め、広間は騒がしくなった。だが、妙姫はそれが耳に入らないように、注がれる視線を昂然(こうぜん)と胸を張って受け止めている直春の横顔を、食い入るように見つめていた。


「虹関家の出だと! それがどうした!」


 突然、大鬼厚臣が叫んで立ち上がった。


「そんな刀など証拠にならぬ! それに、たとえ血統がよかろうと、今はただの浪人ではないか! 何の力もない者よりも、一臣の方がよほど婿にふさわしい。なにより、我が大鬼家には宇野瀬家がついておる。その力の前では一人の若造になどさしたる価値はない!」


 厚臣は中央の通路で(ほう)けている一臣を叱り付けた。


「しっかりせい! お前は妙姫と結婚してこの国の国主(こくしゅ)となるのだぞ! 俺こそがお前の夫になるのだとはっきり言ってやれ!」


 その言葉で一臣は我に返り、辺りを見回して注目されていることに気が付くと、覚悟を決めた顔で立ち上がった。


「妙姫様。私はあなたがなびいてくれることを期待してお待ちしておりましたが、もうこうなっては遠慮は致しません。あなたを奪って無理矢理にでも私の妻にします。その男より、力を持っている私の方が、結局はあなたのためにも桜舘家のためにもよい婿です。さあ、こちらへいらっしゃい。私と婚儀を挙げましょう。もう準備は整っております」


 春始節で妙姫との結婚を発表する予定だと聞いていたが、やはり本気だったらしい。一臣は妙姫に歩み寄って、逃げようとする姫の手をつかもうとした。


「触らないで!」


 妙姫は一臣の手をぴしゃりとはじくと、直春の左腕にしがみついた。


「あなたとは結婚したくないと言ったはずよ!」

「往生際が悪いですね。でも、あなたは私の妻になるより仕方がないのです」

「仕方がないなんてことはこの世には滅多にないわ。そんなことばかり言っているからあなたは駄目なのよ!」


 直春の顔を愛おしげに見上げた妙姫はきっぱりと言った。


「それに私はもうこの人の妻よ」

「どういうことです?」


 怪訝(けげん)な表情になった一臣に、妙姫は言い放った。


「私はもうこの人のものになったのよ」


 意味が分かると一臣は顔を赤くし、次いで青くした。


「こ、この、あばずれが!」

「それが()れている女に言う言葉なの!」


 妙姫が言い返すと、一臣は刀を(さや)から引き抜いて叫んだ。


「もう我慢できません。あなたもその男もまとめて殺します!」

「そうはさせぬ」


 直春は妙姫をかばうように後ろに下げ、自分も刀を抜いて身構えた。

 菊次郎は田鶴や真白と直春のそばへ駆け付けた。既に忠賢は直春の左にいて刀を構えている。実佐は直春の右にいた。一方、大鬼親子のまわりにも味方する家臣たちが集まり始めていた。

 大広間は二つの勢力に別れた。


「こんなやつら、たたき斬ってやる!」


 大鬼剛臣が巨体に怒りをみなぎらせて言った。境村で直春に気絶させられたことをまだ(うら)んでいるらしい。だが、武虎が止めた。


「いや、ここは一旦引くべきだ。この城内ではすぐに馬廻(うままわ)りが駆け付けてくる」

「そうだな。今は引こう」


 厚臣が刀を下ろし、主君に呼び捨てで声をかけた。


「妙姫。今までお前を生かしてきたが、もはやその必要はなくなったようだ。こうなっては結婚などという遠回りな手段はやめだ。お前を殺し、葦江国を我が手に収める。数日以内にこの城を落とし、そんな男を選んだことを後悔させてやるから、首を洗って待っておれ」

「絶対後悔なんてしないわ。直春様こそ私の運命の夫よ」


 妙姫は言い切った。


「私ももうあなたに遠慮はしない。あなたたちを排除して、この国を私たちの手に取り戻すわ」

「ふん。やれるものならな」


 鼻で笑うと、厚臣は背を向けて大広間を出て行った。憎々しげに、しかし悲しげに妙姫をにらんでいた一臣と、直春を殺してやると息巻いていた剛臣も渋々父に続き、大鬼家に味方する家臣たちがぞろぞろとついていった。


「ふう、さっきはすかっとしたぜ!」


 大鬼派がいなくなると、忠賢が警戒を解いて妙姫に言った。


「すごい啖呵(たんか)だったな。その気の強さを(ぎょ)すのは並の男には無理だな」

「直春様は並ではないわ」

「確かにそうだ」


 忠賢はにやりとし、田鶴がうれしそうに言った。


「私もすっきりした!」


 小猿が同意するようにうきゃっと叫び、家臣たちから大きな笑い声が起こったが、菊次郎は笑う気にはなれなかった。


「緊張しているのか」


 直春に問われて、菊次郎は頷いた。いよいよ戦が始まるのだ。


「菊次郎さんには期待しています」


 事態がはっきりして気持ちがむしろ楽になったらしい妙姫に花のような笑顔で言われて、菊次郎はますます気が重くなった。

 もちろん、勝つために全力を尽くすつもりだ。だが、相手には赤潟(あかがた)武虎がいるのだ。

 果たして自分はあの男に勝てるのか。それとも五年前の惨劇を繰り返すのか。心の底に広がっていく恐怖と必死で戦う菊次郎に、励ますようなまなざしを直春は向けていた。

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