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狼達の花宴 ~大軍師伝~  作者: 花和郁
巻の七 守る者たち
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(巻の七) 第四章 灯村 下

「なにっ! 崇殿が負けたじゃと!」


 北門での敗北の知らせが届いたのは半刻ほどのちのことだった。


「みずから買って出た役目を果たせず命からがら逃亡とは! なんと情けない! じゃが、まずいことになりましたな」


 杭名種縄は政敵の失敗を一瞬喜んだが、緒戦に続いて味方が破れたことに思い至って顔をしかめ、主君の表情を上目づかいでうかがった。


「典古は失敗したか」


 宗龍は衝撃を受けていた。出陣したのは二回目、敗北したのは初めてなのだ。動揺して当然だ。


「どうすればよい。種縄、是正……」


 連署と宿将に尋ねようとして、声がかすれていることに気が付き、近習に腕を伸ばした。竹筒に入った水でのどをうるおし、言い直す。


「作戦が狂った。立て直しが必要だな。対応策を述べよ」


 種縄は既に考えていたらしく、うやうやしく頭を下げて申し上げた。


「崇隊が持ち場を離れましたので、北門の封鎖が解かれました。そこから直春めが逃亡するかも知れませぬ。一隊を派遣して再び門を封鎖する必要がございます」

「確かにな」


 宗龍は頷いた。直春を灯村に閉じ込めて討ち取るという作戦の根本が狂ってしまう。


「誰に行かせるか」


 本陣に詰める諸将を見渡すと、種縄が宗速を推薦した。


「北門へは丘を越え、雪原を進まねばなりませぬ。騎馬隊なら足が早く、直春めが脱出する前に門にたどり着けましょう」


 種縄としては、他の重臣に手柄を立てられるより宗速に任せる方がよい。武将として戦うことを好み、(まつりごと)や勢力争いに関心が薄いからだ。


「崇殿を破った敵の援軍が北門へ戻ってきましても、宗速様ならば討ち破るか足止めして村に入るのを阻止してくださるでしょう。室岡に隠れていた桜舘軍は騎馬隊でしたので、徒武者を派遣するより適任と存じます」

「なるほど」


 宗龍は叔父をそばに呼んだ。


雪辱(せつじょく)の機会を与える。奮闘せよ」

「ありがたき幸せ」


 宗速は喜んで命令を受けた。ここで活躍すれば緒戦の敗北は帳消しにできる。負傷者を墨浦に戻したので三千騎に減っているが、戦力としては十分だ。宗速は種縄に感謝の視線を送ると、すぐさま部隊を率いて本陣を離れた。街道を東にやや戻って、北へ湯丘を登っていく。


「これで北門はよかろう。問題はここ、灯原だな」


 宗龍は桜舘軍の二つの陣地へ目を向けた。宗愷隊は氷の張った田んぼに阻まれて、直春が立っている雪壁に近付けずにいる。幽縄隊も三角菱の掘り出しに手間取っているようだ。


「叔父上は騎馬隊だ。門の封鎖は任せられるが、破壊して村に攻め込むことは期待できぬ。もともとの作戦でも、こちらの二つの陣地を破って東門から村へ入ることになっておった。だが、苦戦しておるな」


 眉を寄せて尋ねた。


「敵は数分の一。なぜ突破できぬのだ」


 視線を向けられて、是正は答えた。


「あの雪壁、中に(しん)があるようです」

「というと」

「恐らく、太い木の棒を地面に打ち込み、柵のように組んで縛り、板を打ち付けた上に、雪をかぶせて押し固めてあるのですな。ただの雪ならもっともろいはずです」

「投石を浴びせても崩れぬわけだな。敵には周到な準備があったのか」


 宗龍は唸った。


「そんな丈夫な壁をあの長さ、しかも一夜で作るとは」

「村人が手伝ったに違いございませぬ」


 種縄がいまいましげに言った。


「武者が夜通し作業をしたのなら、疲れきって戦にならぬはず。民が田に水を張り、逆茂木を作って配置し、空堀を掘ったのでしょうな」

「民がか。そうなのか」


 意外そうに顔を向けた主君に、是正は首を縦に振った。


「戦いにも協力しておるようです。矢や石を配ったり、負傷した武者を運んで手当したりする姿が見えますな。村から上がる煙は恐らく煮炊(にた)きのもの、食事の支度(したく)と配布もでしょうな。湯丘から時々上がる煙も民のしておることでございましょう」


 湯丘には高温の湯が湧き出る池があるが、その湯煙ではあるまい。海の向こうの御使島(みつかいじま)から墨浦へ連なるのろし台の一つを、桜舘軍のために使っているのだ。成安軍の動きや援軍の到着を村に知らせているに違いない。


「無駄なことを」


 種縄は吐き捨てるように言った。


「この武者数の差、さっさと諦めて降伏すれば被害も少なく、楽になりますのにな」

「ならば、言ってやるか」


 宗龍はよい考えだと思ったようだ。


「直春を差し出して投降せよと。それで戦は終わるのではないか」


 主君の期待するまなざしに、是正は首を振った。


「決して応じますまい。力尽きて倒れるまで、民は手伝い続けるでしょうな」

「なぜだ。こちらは数で圧倒的。典古は破れたが、それでも倍以上だ。この本陣にはまだ戦っておらぬ元気な武者が五千あまり残っておる。攻めにくい地形ではあるが、敵に勝ち目はなかろう」


 宗龍は首を傾げた。


「村人も徹夜の準備で疲れておるはずだ。我が大軍を見て、なぜ逃げず、手伝いを続けるのか」

「大切なものを守るためでございます」


 是正は答えた。


立明(たちあかし)家は村から食料を無理矢理奪おうとし、抵抗した者たちに暴力を振るい、家や蔵に火を放ったと聞いております。ここ数年の凶作で減っていたたくわえを奪われたら、食べるものがありませぬ。家を失ったら、この雪の中、暮らしていけませぬ。村人たちは自分と家族が生き延びるために、立明(たちあかし)家に逆らったのです。相手は武者、死を覚悟しての抵抗だったに違いございませぬ。村を捨てて逃げ出せば殺されはしませぬが、田畑と住み家と財産を失っては、この冬を越せるか分かりませぬ。そこに直春公は現れ、立明(たちあかし)家を追い払って彼等を救い、村を守るために戦ってくれようとしております。村人たちが感謝し、自分たち自身のためにも全力で協力するのは当然でございます」


 宗龍は目を見張っていた。


「民は当家の巨大さと御屋形様のお力を恐れております。直春公の援軍を得ても、戦場になれば村や田畑は荒れ、矢や石が飛びかう中、死や怪我の恐れもございます。負ければ厳しい罰が待っております。それでも、自分の家に乱暴な者たちが押し入ってきて荒らし回り、妻や子や娘が危険にさらされたら、戦うしかないのでございます。御屋形様なら、相手が強く、勝ち目が薄いからと、諦めるのでございますか」

「妻子を守るため、か……」

「さようでございます」


 是正は沈痛な表情だった。


「彼等はただ、これまでと変わらぬ暮らしを続けたいだけなのでございます。家族や故郷(ふるさと)、ささやかな幸せを失わないために、立ち上がらざるを得なかったのです。彼等を戦場に引き出したのは当家です。その我々が、親切顔で、抵抗は無駄だからやめなさいと忠告して、はたして耳を貸すでしょうか。わしは非常に無礼なやりようだと考えますな」


 宗龍はしばらく呼吸を止め、やがて大きな溜め息を吐くと、独り言のように言った。


「そうか。あの者たちはそのために戦っておるのか。戦とはそういうものなのだな。出陣前にそなたが止めた理由が分かった」


 胴を包む暖かさを確かめるように腹を撫で、一瞬()いるように顔をうつむけたが、すぐに胸を張り直した。


「だが、わしも負けられぬ。始めてしまった以上、勝つしかない。手はゆるめぬぞ」


 固く握ったこぶしがかすかに震えていた。


「お下知(げち)に従います」


 是正は頭を下げた。この戦に勝っても負けても、成安家は吼狼国中の民に憎まれ、長い時間をかけて築いてきた信頼を失うだろう。それでも戦うしかないのだ。


「今さら外聞(がいぶん)を気にしても意味がないということか」


 しばらく考えて、宗龍は是正に確認した。


「とにかく、勝つためには直春を討たねばならぬ。そうだな?」

「はい。それができれば勝ちでございます」


 宿将が肯定すると、宗龍はごくりとつばを飲み込み、提案した。


「こういう策はどうだ」


 恐い師範に話しかける弟子のようだった。


「直春は民を守るために戦っておると言ったな。ならば、村人を捕まえて、直春が降伏しなければその者たちを殺すと言ってはどうか」

「御屋形様!」


 種縄が目をむいた。是正はゆっくりと首を振った。


「捕まえるには村に入らねばなりませぬ。それができたらもう人質は不要でございます」

「ならば、火を放って桜舘軍ごと村を焼き払ってはどうか。追い出せるかも知れぬ。今は冬、北風の季節ゆえ、室岡や北門付近の森に火をつければ燃え広がるのではないか」

「御屋形様は探題、大封主ですぞ! 当家に逆らった者たちとはいえ、足の国の武家や領主の手本となるべきお方がそのようなことをなさるのは……」


 尻つぼみになった種縄の言葉に、是正の冷静な声がかぶさった。


「木々にも家々にも雪が積もっておりますので延焼は期待できませぬな」


 そうでなければ昨日のうちに村の建物はほとんど焼けてしまっているはずだ。


「そうか……」


 宗龍は口を閉ざしてあごに手を当てたが、すぐに顔を明るくし 直春の姿が見える陣地を閉じた扇子(せんす)の先端でさした。


「増富家との戦で桜舘軍は毒の煙を使ったと聞いた。雪の壁の向こうにそれを投げ込んではどうか」

「油玉がございませぬ。あれは信家が発明した桜舘家独特の武器です。馬酔木(あせび)の葉も雪に埋まって見付けるのが大変ですな」

「ううむ」


 宗龍は嘆息(たんそく)して肩を落とし、命じた。


「では、是正、策を立てよ」


 無駄な力が抜けて落ち着いた声に戻っていた。


「あの雪壁を突破する方法はないか。お主なら策があろう」


 宿将は即答せず、主君の顔をじっと見つめてから口を開いた。


「やはり村へ攻め込むおつもりでございますか」

「そうだ。あまり時間はかけられぬ。墨浦が心配だ」


 この戦を早く終わらせて城に帰りたい気持ちが口調に表れていた。妻子のために戦っているという話を聞いて、菫と次安丸が恋しくなったのかも知れない。


「でしたら、方法はございます」


 あまり乗り気でない様子だったが、是正は進言した。


「まず、二つの陣地のうち、宗愷様の担当なさっておる方を突破するのは困難と考えます」


 理由は単純だった。


「あそこには二千近い敵武者がおり、直春公自ら指揮をとっております。雪壁に接近できたとしても、相当激しい抵抗を受けましょう。一方、幽縄殿の前の敵は恐らく六百か七百、壁に取り付いてしまえば突破は難しくございませぬ。そこで、宗愷様の方で攻勢を強め、南側に援軍を送れないようにした上で、幽縄殿の隊で一気に壁を越えるのがよかろうと存じます」

「ふむ。その方法は」


 宗龍は身を乗り出した。


「氷の田んぼの方は、板に釘をたくさん打ち込んで突き出させたものを並べてつなげ、通路を作れば歩けましょうな。幽縄殿の隊は、三角菱の場所ではなく、空堀を渡ればよろしいのです」

「そんなやり方があるのか。さすがは当家の宿将だな」


 詳細を聞いて宗龍は感心したが、是正は浮かぬ顔だった。


「この程度の策、信家が思い付かぬとは思えませぬ。対策を用意しておる可能性がございます。また、板で通路を作るには、本陣を囲う塀にするはずだった板を使わねばなりませぬ。正面側は足りましょうが、後方を守る建材がなくなります」


 空堀と木の柵で本陣を囲う作業はまだ続いている。


「それは心配しすぎじゃ」


 種縄が口を挟んだ。


「後方が襲われるなどありえぬじゃろう。よい案じゃとわしは思うぞ。御屋形様、ご許可をいただけましょうか」


 案を出したのは是正だが、実行し、壁を越えて直春を追い詰めるのは自分の息子の幽縄の隊だ。こんなうまい話に乗らない手はない。失敗したら作戦が悪かったと是正に責任を押しつけるつもりなのだ。


「よかろう。やってみて敵に対策があれば別な方法を考えればよい」


 宗龍は頷いた。


「すぐに宗愷と幽縄に知らせよ。小荷駄隊に本陣の工事をいったんやめさせ、板に釘を打たせよ」


 作業が始まり、成安軍の本陣は活気づいた。伝令が何度も行き来し、宗愷隊と幽縄隊は攻撃をやめて少し後退し、武者たちに休息をとらせた。


「準備ができましたぞ」


 種縄が報告した。


「では、攻撃を再開せよ!」


 宗龍が開いた扇子を前に突き出すと、宗愷隊が声をそろえて鬨を作り、前進を始めた。一千の弓武者が矢を雪壁に降らせ、桜舘軍が顔を出せないようにする。盾武者と板を運ぶ者たちが組になり、凍った田んぼに板を縦につなげて並べていく。突き出た釘が氷に食い込み、ややたわんで歩きにくいが滑らない細い道が田んぼの上に少しずつ伸びていった。逆茂木を避けて幾度も曲がりながら、十本の板の道は雪壁に次第に迫った。


「近付けるな! 矢を絶やすな!」


 直春が叫び、先端に板を置いていく武者たちに攻撃が集中した。板の道の上からも雪壁に向かって矢が射返される。

 昨夜は雪が降った田んぼの上に、今日は矢と石が降りそそぎ、雪の白が泥の茶と血の赤に染まっていった。


 一方、真中岩の南側では、幽縄隊の武者たちが空堀の両脇の三角菱のまかれた場所に再び接近し、盾の陰でほじくり出す作業を始めていた。桜舘軍は作業を邪魔しようと矢や石を浴びせてくる。


「そろそろよかろう」


 北側の様子を見に行かせた武者の報告を受け、幽縄が顔を向けると、巣早博以は頷いた。


「直春公の目は宗愷様に向いております。こちらの敵も堀の左右のはしに集まりました。頃合いと存じます」

「よし、策を実行せよ!」


 幽縄は腰の刀を抜いて、頭上で大きく振り回した。すると、本陣の前に並んでいた二百人の武者が、おうと答えて腰をかがめた。雪に手を突っ込み、丸めて転がしていく。


「わしはやったことがないが、みるみる大きくなるのじゃな」


 始めは手に握れるほどだった雪玉は、転がされるたびにまわりの雪をくっつけて育ち、やがて人の背丈を越えた。それを十人ほどで力を合わせて何とか動かし、空堀の方へ転がしていく。


「て、敵を止めろ! 近付けさせるな!」


 織藤昭恒が叫んでいるが、ここの桜舘軍は数が少ない。三角菱をほじくりながら前進してくる者たちを抑えるだけで手一杯で、空堀の前にいる武者は百人程度のようだ。矢や石は雪玉に当たり、その陰にいる武者たちには届かない。


「そうれっ!」


 最後は二十人が顔を真っ赤にし、声をそろえて押して、見上げるような巨大な雪玉を空堀に落とした。墜落の衝撃で割れたが、堀の深さが半分になった。そこに別な雪玉が落とされる。


「ほ、堀が埋まっていく!」


 二十を超える巨大な雪玉を飲み込んだ空堀は、もはや地面と変わらぬ浅さになっていた。


「突撃せよ! 一気に壁をのり越えろ!」


 雪壁は三角菱の前が高くなっていて、空堀の前はやや低かった。そこに雪玉を踏んで一千人が殺到した。


「む、無理だ! 後退! 後退せよ!」


 織藤昭恒は絶望の声を上げ、真っ先に逃げ出した。桜舘軍の武者たちは持ち場を離れ、昭恒を追いかけていく。


「敵は逃げ出したぞ! 全員、かかれ!」


 幽縄隊の武者は勢い付き、次々に雪壁を越えて陣地の中に乗り込んだ。


「我々も参りましょう」


 博以に(うなが)され、幽縄自身も雪玉を渡って壁の向こう側に降り立った。


「敵は村へ行ったようじゃな。すぐに追撃するのじゃ」


 敵の態勢が整う前に門を破り、村に一番乗りしてやろうと意気込んだが、武者の答えは予想と違っていた。


「織藤隊は東門の方へは行かず、北へ逃げました」

「どういうことじゃ」


 幽縄が首を傾げると、博以が推測を述べた。


「直春公と合流しようとしたのですな」


 灯原は真中岩の先で幅が急に狭くなる。南の陣地から東へ行けば村の門の前の細い回廊へ入り、北へ行けば岩の北側の陣地の裏手へ出る。

「なるほど。愚かじゃな」


 幽縄は嘲笑う顔になった。


「我等がこの道を塞いでしまえば、村には行けなくなるのじゃぞ。直春めはもう逃げ場がなかろう。南に我等、東は雪壁と宗愷様の隊、北は崖じゃ」

「手柄を立てる絶好の機会ですな」


 博以の声もはずんでいた。勝利を確信しているのだ。


「よし、直春隊の背後に迫るぞ! 包囲して、敵の大将を討ち取るのじゃ!」


 おおう、と三千の武者は雄叫びを上げ、幽縄を守るように固まって前進を再開した。


「いないじゃと? どういうことじゃ?」


 北側の雪壁の背後に、直春と昭恒の姿はなかった。合わせて二千五百ほどいたはずの桜舘家の武者もいない。かわりに宗愷隊が続々と雪壁を越えてきていた。


「探すのじゃ!」


 命じたところへ武者頭の一人が報告に来た。


「敵は西にある引込池(ひきこみいけ)に入ったようです」

「池じゃと?」

「凍っていて立ち入れるようです」

「氷の上を歩いて逃げたのかえ!」

「田螺川から水を引き込んだ溜池だそうです。案内役の立明(たちあかし)家の武者は、奥に引っ込んでいるのが名前の由来かも知れないと申しております」

「そんなことはどうでもよい」


 幽縄は鼻を鳴らした。


「直春は間違いなく中におるのじゃな」

「はい。奥の方に進んでいく多数の武者を見ました。ご指示を頂くべく中へは入らず、手前で止まっております」


 幽縄は池に向かった。確かに水が凍り、上に雪が積もっていた。多数の武者の足跡がある。池は奥に向かって三角形のように幅が狭くなり、両側から迫った崖の間に細い谷間が続いている。


「あの先はどうなっておるのじゃ?」

「ここから見えるのは池のほんの一部で、奥の本体部分は墨浦城の(くるわ)一つ分ほどの広さがあるそうです。周囲は大人の背の数倍はある切り立った崖で、よじ登るのは困難だと申しております」

「ならば、逃げ道はないのじゃな」


 幽縄は博以と相談し、宗愷に伝令を送った。一緒に攻めようと誘ったのだ。


「追い詰められた(にわとり)は猫の鼻をつつくという言葉もあるじゃろう。我が隊は三千、敵は合わせて二千五百ほど。味方は多い方がよいのじゃ」


 必死の抵抗が予想されるので、こちらも数をそろえることにしたのだ。世子は初陣、手柄を分け合った方が宗龍親子の覚えはよいだろう。合わせて八千なら敵の二倍以上、直春を討ち漏らすことはないはずだ。


「我等が奥に進むゆえ、宗愷様は一千とここに残っていただきます」


 自らやってきた宗愷に提案すると、進所(すすど)悦哉(えっさい)が中へ入ることに反対した。


「この入口を封じれば敵は出て来られない。抑えの武者だけ置いて村へ向かってはどうか」


 幽縄や博以たちに視線を向けられた宗愷は、迷ったようだが積極策を支持した。


「父上は早く戦を終わらせて墨浦に帰りたいとお考えだ。直春公を討てばこの戦は終わる。村を占領しても、敵の軍勢と総大将が健在なら武者の多くはお城へ戻れない。ここは攻め入って一気に決着を付けるべきだろう」


 やや小さな声で付け加えた。


「敵は逃げ場がなくこちらが有利なのだ。父上に手柄を報告したい」


 菫の産んだ男児に次安丸という名を宗龍が付けた時、次の成安家の当主という意味ではないかと噂になった。その疑いは晴れるどころかますます濃くなっている。

 宗愷の同意が得られたので、幽縄は武者頭たちに突入の準備をさせ、部隊を順番に並ばせた。物見を出して敵の動きをうかがわせると、谷間の出口付近に武者はいないという。


「念のために聞くが、氷は十分厚いのじゃな」

「引込池は冬になると凍結し、氷に穴を開けて小魚釣りができるとか。一ヶ所に大勢が集まらなければ大丈夫だろうとのことです」

「ならばよい。進入を始めるのじゃ」


 武者たちが盾を構えて慎重に奥へ歩いていく。


「なるほど、氷は厚く、しっかりしておるな。雪が積もっておるから焦らなければ滑らずに歩けるようじゃ」


 谷間に入ると両側が崖で薄暗かったが、すぐ先が明るい。


「細くなっている部分はごく短いのじゃな」

「最後に雪壁のようなものがありますな」


 出口に(つつみ)のように腰の高さまで雪が積んであった。うっすらと水が溜まっていて足が冷たい。


「足止めのつもりじゃろうか」

「ここで防衛しようとしたのでしょうか。出た瞬間、三方から攻撃されるかも知れませぬ」


 警戒しながら堤を踏み越えて成安軍は慎重に中に入っていった。


「敵がおらぬな」

「見えませんな」


 池の本体部分は霧に覆われていた。奥に行くほど濃いらしく、反対の崖の下部が見えない。


「敵はあの霧の中か。隠れたつもりじゃろうか」

「攻撃してこぬのなら都合がよいですな。素早く武者を入れて隊列を作らせましょう」


 張った氷は霧の下だがぐるりと囲む崖の上部は見えているので、池全体の大きさは分かった。七千が充分入れるだろう。

 まずは幽縄隊三千が、続いて進所(すすど)悦哉(えっさい)が率いる宗愷隊四千が次々に谷間を出て氷の上で整列し、左右の崖に沿って広がって並んでいった。それを見ているのかいないのか、矢の一本すら飛んでこない。


「我々も加わろう」


 宗愷がやってきた。


「追い詰めた敵を包囲して討ち取るだけなのだろう。協力する」


 自分の手で武勲(ぶくん)を上げたいらしい。追い返すこともできないので、幽縄は頭を下げて受け入れた。


「万が一の時のため、出口のそばを動かないでくださいませ」


 念を押し、護衛の一千にしっかりと守らせて、幽縄のそばに床几(しょうぎ)を用意させた。


「準備はできたようじゃな。霧の中に入って攻撃するぞ。御屋形様がお待ちなのじゃ」


 幽縄は命じた。


「さっさと直春を討ち取って墨浦に帰ろうぞ! 全体、前進!」


 高く掲げた刀を振り下ろして正面に向けた。七千の成安軍は互いに速度を合わせながら、慎重に霧の中へ入っていった。盾を構えた中央の部隊と槍を前に向けた崖ぎわの左右両翼で、押し包むようにゆっくりと敵へ迫っていく。


「おかしいのじゃ」


 出口の前で全体を眺めていた幽縄は、思わずつぶやいた。


「全く抵抗がないようですな」


 博以も不思議がっている。


「どうかしたのか」


 宗愷が不安そうな顔になった。


「いったん止まらせて物見を出しましょう」


 七千の軍勢は池のちょうど真ん中辺りで横に長く伸びたまま停止した。

 さほど待つことなく、軍勢の中で話し声が聞こえ、数人の武者が幽縄たちの方へやってきた。氷と雪の上なので、足を滑らせないように走らずに早足だった。


「敵がいません!」


 中央をまっすぐ進んだ物見武者が報告した。崖伝いに左右から奥へ向かった武者たちも同じことを言った。


「この池にはいないじゃと? 敵はどこへ消えたのじゃ!」


 驚く幽縄に中央の物見が言った。


「崖を登ったと思われます」

「どうやってじゃ?」


 幽縄は周囲を見回した。大人の背の四倍はある切り立った崖だ。まるで大きな洗濯桶(せんたくおけ)のような場所なのだ。


「はしごでも使ったというのかえ? この高い崖を鎧武者が二千五百人登るのじゃぞ!」


 崖は内側がややえぐれているので木や竹のはしごを立てかけるのは難しい。かといって、ゆれて不安定な縄ばしごでそれだけの人数が登りきれるほどの時間を敵に与えてはいないはずだ。


「階段を使ったようです」


 物見は答えた。


「ようですとはどういうことじゃ?」


 階段があるならそう言えばよい。


「崖の下に雪を積み上げて固めて段にしたらしいものを発見しました。恐らくそこから登ったと思われます」

「らしいものとは何じゃ。要するに階段があったのじゃな。ならばそこから追跡するのじゃ。村に逃げ込んだかも知れぬ」

「追跡は不可能です。とけかかっておりましたので」

「とけておるじゃと?」


 幽縄は首を傾げた。雪こそやんで晴れているが、気温は低い。まだ朝が終わろうという時間で、この地形では、日の光が崖の下までなかなか差し込んでこない。


「もう元の高さの半分ほどになっております。表面が水で覆われて非常に滑りそうでもありまして……」

「どうしてそんなに早く?」


 博以も疑問を口にしたが、武者の答える声は、より大きな鬨の声にかき消された。


「どこからじゃ!」

「崖の上のようです!」


 博以が幽縄に指で上方を示した時、どさどさという大きな音が窪地(くぼち)になった池に轟き渡った。


雪崩(なだれ)かえ!」

「いえ、わざと雪玉を落としているようです!」


 左右両端の崖の上から、真下にいる成安軍に大量の雪の塊がどすんどすんと落ちてきた。


「まるで空堀を埋めた時のようじゃな。一体何が起こっておるのじゃ」

「これは待ち伏せです! 攻撃されているのです!」


 雪だけでなく、こぶし大の石もたくさん飛んできた。


「敵の罠にはまったというのかえ……?」


 幽縄と博以が見上げた空は、いつの間にか多数の桜舘家の旗で囲まれていた。


『狼達の花宴』  巻の七 灯村の合戦図 その三

挿絵(By みてみん)


「大量の雪に驚いて、敵は池の中央に逃げていきます!」


 楡本(にれもと)友茂(ともしげ)が叫んだ。蕨里(わらびさと)安民(やすたみ)はおだやかな声だ。


「出口付近にいた敵の武将たちも、大きな雪玉と石をたくさん落とされて、池の中ほどに走っていきました」

「出口は確保しておきたいところだけど、急に背後から襲われたら、とりあえず味方の方へ行くしかないよね」


 笹町(ささまち)則理(のりまさ)の皮肉っぽい口調に、柏火(かしわび)光風(みつかぜ)が無言で頷いた。


「武将が池の外へ逃げちゃったら命令する人がいなくなっちゃうもんね。菊次郎さんはそれでもよかったみたいだけど」


 小猿を肩に乗せた田鶴は微笑んで大軍師を見つめていた。


「では、次の段階へ進みます」


 菊次郎は軍配を高く掲げ、体の前に大きな輪を描くように動かした。


「流量が増えました!」


 友茂の言葉がなくてもそれは確認できた。池の最奥部の崖の下から、だだだだと大量の水が氷をたたく音が聞こえ出したからだ。


「まるで滝だね」


 則理が腕組みをして言った。


「むしろ洪水でしょう」


 安民は感心している。


「ただの洪水じゃない」


 光風がぼそりとつぶやいた。視線の先には、崖の上まで達するほど盛り上がった霧。雲が湧き出てくるようだ。


「そうですね。一番近いのは打たせ湯でしょうか」


 愉快そうに言ったのは織藤昭恒だ。


「まさか、温泉とは思わなかったでしょうな」


 彼と七百人は氷と雪で作った階段を駆け上がって崖の上に広がり、菊次郎率いる一千や村人と協力して、このしかけを発動させた。


「湯丘の上には湯の池があるし、灯村は温泉場として有名だよね。想像しなかったのかな」


 則理は人の悪い笑みを浮かべている。安民は感心した様子だった。


「よく一晩でここまで湯を引けましたね」

「湯の川は村の湯治場に流すためにあとから掘ったもので、もともとは湯は引込池に落ちていたみたいですよ」


 友茂が言うと、昭恒が笑った。


「湯の滝ですか。あんな感じだったんでしょうな」

「僧侶の修行にぴったりだね」


 則理の冗談に田鶴が顔をしかめた。


「菜っ葉がたちまちゆで上がる熱湯だよ。浴びたら大火傷(やけど)するよ」


 湯治場を村の中にして長い水路を作ったのは、流れている途中に湯を冷ますのも理由だ。それでも湯船に入れる前に田螺川(たにしがわ)の水と混ぜなければならないほど、池の湯は熱いのだ。


「雪の階段があっという間にとけちゃったの見てたでしょ」


 言った田鶴の視線を菊次郎は受け止めた。


「もう崖を登ることはできません。出口の前も雪玉で塞ぎました。そろそろ湯もたまってきたでしょう」


 始めの頃、湯気は滝がある奥の方を覆っていたが、大量の湯を流したことで池全体に広がっていた。とりわけ池の中心部が濃い。そこに湯が集まるように、まわりに雪で低い堤を作っておいたのだ。


「さあ、仕上げをしましょうか」


 菊次郎は隣に並ぶ投石機十台を見上げた。

 池の氷は厚く丈夫だが、八千人が中心部にぎっしりと集まった。温泉の湯もそこへ流れていく。氷はたまった湯と鎧武者の重さにきしみ、熱でとかされて薄くなる。


「投擲せよ!」


 大軍師の(あかし)の黒い漆塗りの軍配を振るった。

 組み合わされた木材がぎしぎしときしみ、ぶんと空気を切る音を立てて投石機が回転した。角をとがらせた大きく重い岩が十個飛んでいく。池の向こう側の崖の上にも同数の機械があり、同じく池の真ん中へ大岩を投げ込む。岩が氷の表面に傷をつけ、中心部にさらに重みが加わった。


「全力で攻撃せよ!」


 大きな鐘が耳が痛くなるほど強く鳴らされた。織藤隊七百と菊次郎に預けられた一千が一斉に矢を放ち、石を投げ込んだ。


「敵の攻撃だ!」

「ど、どこからだ!」

「盾を頭上に掲げろ! 上から飛んでくるぞ!」


 成安軍は一瞬で大混乱に陥った。八千人が騒ぎ出し、動き出し、氷の上を走り回った。

 その激しく巨大な振動が地震のように池全体に伝わると、分厚い氷もついに耐えられる限界を越えた。


「し、沈む? 氷にひびが! 下は水だぞ!」


 一人の絶叫が池の窪地の壁に反響し、人々がはっとして足元を見つめた瞬間、めりめりと巨大なものが折れ曲がるような音が複数からみ合って響き渡り、氷が砕けた。


「逃げろ! のみ込まれるぞ!」


 最初の十人が水の中に消えると、人々は焦り、その場から離れようと一斉に走り出した。彼等の背を追いかけるように裂け目はみるみる成長し、捕らえた者たちを次々に引きずり込んでいった。

 割れた氷が岩や武者の重みで垂直に突き立ち、上にのせているものをはね飛ばし、すべり落とす。無数の水しぶきが立て続けに水面を(かざ)り、おぼれる武者たちの悲鳴が重なり合って、無茶苦茶に吹き鳴らした楽器のように人々の恐怖をさらにかき立てる。騒ぎと氷の動きにあおられた霧が爆発のように高くふくれ上がり、白い波になって池全体に広がっていく。米を盛った皿をひっくり返したごとく、氷上の八千の武者は強制的に水中に投げ込まれ、凍る直前の肌を刺すような冷たさに頭までずぶぬれになって、さらなる絶叫を響かせた。


「氷がどんどん割れていきますね。暴れなければあんなに広がらないでしょうに」


 友茂がぞっとしたように身を震わせた。

 成安軍の武者たちは必死に氷の上にはい上がろうとしているが、まわりの氷が割れ、他の武者を巻き込んでまた水に落下していく。鎧が重く、着物も水を吸ってふくらみ、(のぼ)れない者も多いようだ。湯がいくらかまざったとはいえ、水の冷たさで体が思うように動かないのかも知れない。


「大勢死ぬかな」


 田鶴がつぶやき、自分の体を両腕で抱えるようにした。


「たぶん、おぼれる人はそんなにいないと思います。あの池は首が出る程度の深さなんです。冬は水位が下がるそうです」


 菊次郎は答えたが、全体が冷静になるまでに沈んでしまう武者もいるだろう。人は慌てると(ひざ)程度の深さの水でも溺死(できし)するのだから。


「池の出口に向かう者たちもいるね」


 則理が指さした。水に落ちずにすんだ者たちが出口へ殺到していた。


「外へ出ようと雪を掘っているよ」


 崖から落とされた雪玉で出口は塞がれているが、必死で雪をかき分けて狭い谷間に入り込もうとしている。崖の上から走る者たちに石を投げているが、慌てさせるのが目的で、当たらなくてもよい。出た先の氷の上に三角菱をまいたので、多くの者が足に怪我をすることになるだろう。


「あれはもう、軍勢とは言えませんね。ただ逃げているだけです」


 安民に光風が首の動きで同意を示した。


「とにかく、作戦成功ですな」


 昭恒がわざと明るい声を出した。


「敵軍の主力は崩壊し、戦闘不能になりました。国主様にお伝えしましょう」

「合図をお願いします」


 菊次郎は振り向いて頼んだ。眼下の光景に震えていた村人五人が頷き合い、手に持っていた火種をのろしのしかけに近付けた。もくもくと茶色い煙が天に立ちのぼると、東門の方から大勢の男たちの歓声が聞こえてきた。直春隊一千九百は氷の階段を上がると、湯の池から水路をたどって温泉場に向かったのだ。榊橋文尚と安瀬名数軌の両騎馬隊もいる。緒戦の林と室岡の伏兵のあと、村に入って馬を休ませながら東門を守っていたのだ。


「あとは直春さんに任せましょう」


 阿鼻叫喚(あびきょうかん)のありさまと絶え間なく響く悲鳴に目を戻すと、菊次郎はまわりに気付かれないように小さな溜め息をこぼした。


『狼達の花宴』  巻の七 灯村の合戦図 その四

挿絵(By みてみん)


「幽縄殿に続いて、宗愷様まで池の奥に入っていったとは」


 伝令の報告を聞いて、宿将は眉をひそめた。


進所(すすど)殿が付いておりながら、何という愚かなまねを」

「是正、どうした」


 宗龍が驚いたように尋ねた。


「敵を出口のない場所に追い込んだのだぞ。確実に直春を討ち取れるではないか」


 是正は首を振った。


「恐らくそうはなりますまい。お味方は敗北したかも知れませぬ」

「なぜじゃ。敵は半数以下じゃぞ。あがいても味方の勝ちはゆるがぬはずじゃ!」


 種縄は息子が失敗したと言われて気分を害したのが半分、不安になったのが半分の顔をした。


「直春さえ討ち取ればこの戦は勝利じゃ。やつが中におるのじゃから、突入するのは当然じゃろう」

「それが信家のねらいでしょうな」


 是正は重い口調だった。


「出口のない場所になど、普通は逃げ込みませぬ。真中岩の南側の陣地が危うくなったなら、直春公は北側の陣地を放棄して村に逃げ込み、東門で迎え撃てばよいだけのこと。敢えて池に逃げ込んだのは何か理由がありましょう。もしかすると、わざと南側の陣地の武者を少なくして突破させ、池におびきよせたのかも知れませぬ」

「そんなばかな……」


「まわりが崖ということは、登ってしまえば上から囲む形で攻撃できますな。罠を張るのに絶好の場所ですぞ。直春公の姿をわざと見せて我が軍を誘い込んだのですな」

「たわごとじゃ! そんな作戦をたった一晩で考えて準備したというのかえ! ありえぬことじゃ!」

「いきなり突入せず、物見を出して、直春公がおるか、逃げ場が本当にないかを確かめ、使者を送って降伏を(すす)めるべきでしたな。罠の可能性があれば、谷間を雪で埋めるなり入口の外の氷を割るなりして出てこられなくし、抑えの武者を置いて、残りで村に攻め入ることもできたはずです。功を焦ったのですな」


 是正は溜め息を吐いて進言した。


「御屋形様、わしに二千四百をお与えください」

「どうするのだ」

「池の入口を塞がれれば、宗愷様と幽縄殿の八千は閉じ込められます。典古殿の五千は離散し、宗速様は北門におります。今、灯原に当家の武者はこの本陣の五千四百しかおりませぬ。わしが信家なら、御屋形様をねらってここを急襲いたします」


 宗龍は息をのんだ。


「信家はこれまでも幾度(いくど)か本陣や総大将を奇襲して勝っております。氷茨殿もそれで負けましたな。わしの読みがはずれて、池に追い詰められた直春公が討たれればよろしいが、当たった場合の備えを致しとうございます」


 宗龍は本陣を見回し、少し考えたが許可した。


「よかろう。連れていけ」

「ありがとうございます」


 是正は一礼し、息子を手招きした。


「正維、一千を任せる。岩の南側の陣地へ(おもむ)き、空堀に田螺川の水を引き入れよ。三角菱がある場所を少し掘ればよいだけだ。敵が御屋形様の方へ来るのを防ぐのだ」

「かしこまりました」

「わしは一千四百で北側の陣地へ行き、凍り付いた田んぼに敷いてある板を集めて太い道を作り、味方の退路と村への進撃路を確保する。最悪、池の前にいる敵を蹴散らさねばならぬかも知れぬ」

「お気を付けください」

「お前もな」


 是正は息子に信頼のまなざしを向け、二人で天幕を出ていった。



「敵は大軍師の策にはまった! 主力は壊滅するだろう!」


 直春は槍を高く掲げて叫んだ。


「今こそ、民を(しいた)げる暴虐(ぼうぎゃく)な者たちに鉄槌(てっつい)(くだ)す時だ!」


 槍を前方に向けて馬の腹を蹴った。


「打って出るぞ! ついて来い!」


 直春が駆け出すと、おおう、と一斉に鬨の声を上げて武者たちが続いた。東門を出て田螺川に沿った狭い回廊を抜け、灯原に入る。


「村と退路は守りますぞ」


 安瀬名数軌の騎馬隊一千一百が引込池に向かう。逃げてくる成安家の武者を村へつながる回廊に入らせないのが役割だ。直春隊一千九百と榊橋文尚の騎馬隊一千は南側の陣地へ向かった。手前で停止して物見を出すと、空堀に水が引き込んであると報告があった。


「雪が水でとけています。歩いて渡るのは不可能です」

「敵にも先が見える者がいるようだ。沖里公だろうか」


 堀はすっかり水に覆われていた。雪の塊が多数浮いていて底は見えず、足を踏み入れるのは危険だ。


「対岸に敵はいるか」

「堀を川とつなげたあと移動したようです。北側の、始め我々が守っていた陣地の前にいます」


 堀の前、直春たちのいる側には雪壁があり、身を隠しながら上から矢で狙える。一方、対岸の成安軍の側には遮蔽物(しゃへいぶつ)がない。幽縄隊が数分の一の織藤隊に苦戦した理由の一つだ。空堀に水を張って渡れなくしたので南側は警戒をゆるめ、北側を通る街道上で池から逃げてくる武者が本陣へ向かうのを支援するつもりのようだ。


「ならば、できるな。すぐ作業にかかれ」


 徒武者たちは槍を置き、騎馬隊が運んでいたすきを受け取った。雪壁を突き崩して木材をむき出しにし、縄でしばってある木の板をはずしていく。


「よし、並べよ」


 三十枚の赤い印の付いた板を掘り出すと、真中岩に沿った部分の雪壁をすきで壊し始めた。空堀に雪をどんどん投げ込み、地面の茶色が見えると、そこに板を並べていく。板の裏側は木の無加工の枝を打ち付けてあり、武者の足や馬の蹄鉄(ていてつ)が雪で滑らないようになっている。さほど待つことなく、三角菱の上に板の道ができあがった。


「前進! 目指すは敵の本陣だ!」


 直春は真っ先に馬を歩ませ、軽快に板の上を渡って対岸に達した。


「て、敵だ! 直春公だ!」


 気付いた成安軍が騒いでいる。


「親父殿に知らせよ。迎撃するぞ!」


 直春と同じ年頃の若い武将が武者を引き連れて駆けてくる。数は一千ほどだ。


「あののぼり旗は沖里家。息子の正維殿か。菊次郎君の策に気付いたのはさすが宿将だが、突破させてもらう。ねらいは宗龍公だからな」


 素早く隊列を整えた直春が徒武者隊に前進を命じ、文尚の騎馬隊が左右から正維隊に襲いかかる。


「一気に打ち破るぞ!」


 三方から三倍の相手に攻撃されて、正維隊はたちまち劣勢に陥った。好機と見て直春が突撃を命じようとした時、左手の方角で武者の雄叫びが聞こえた。


「敵がまだいたのか」


 首を向けて唸った。


「沖里公か! 側面を突かれそうだな」


 直春は一瞬考えて指示した。


「文尚の騎馬隊を下がらせろ。沖里公に備えるのだ」


 やがて是正の八百が現れた。六百を池からの退路の確保に残し、それ以外の武者で救援に来たのだ。


「やはり、うまいな」


 直春は舌を巻いた。直春たちは合わせて二千九百、一千八百の沖里隊を上回るが、是正の的確な指示と、それに素早く反応する正維の連係の前に、猛攻を続けても崩せないでいた。是正自身が徒武者一千で直春隊を食い止めつつ、弓を持たせた三百と正維の騎馬武者五百を効果的に使って、文尚の騎馬隊をあしらっている。文尚の次の行動を読み、向かってくる鼻先に矢を射込んで勢いを()いで、槍衾(やりぶすま)と正維の騎馬隊で追い返すのだ。


「宿将の名はだてではないか」


 沖里隊は動きが機敏で乱れがなく、戦意も高い。薬藻国からついてきた武者たちは是正を信じているのだ。正維や武者頭たちも疑問を抱かず即座に命令に従う。桜舘軍も直春を信じているが、名将に率いられた軍勢の強さを直春は実感していた。


「むざむざ敵を逃がしてしまうのか」


 髪が濡れ、鎧からしずくが垂れる武者たちが、沖里隊の後方で街道を走っていく。その数はだんだん増えつつあった。多くの武者が水から上がり、池の出口を抜けてきているのだ。


不甲斐(ふがい)ない。菊次郎君が作ってくれたせっかくの勝機を(いっ)するのか!」


 直春が歯ぎしりした時、沖里隊の動きが変わった。


「下がっていく? 武者が動揺しているようだ。何が起こったのだ?」


 直春は馬上で戦場全体を見回し、成安軍の本陣の後方を見やって目を大きく見開いた。



「是正の見立て通りだったな」


 宗龍はつぶやいた。ずぶ濡れの武者が街道を点々と本陣に向かってくる。どう見ても敗残の姿で、足に怪我をしている者も多そうだ。


「宗愷と幽縄は負けたようだな。このあとどうすればよい」


 蒼白になっている種縄に、宗龍は問いかけた。隠そうとしていたが、声がわずかに震えていた。


「本陣の武者は三千だけだ。わしの身は安全なのか。ここから勝てるのか」


 心の籠もった腹巻をしていても、足元から背中へ寒気が駆けのぼるようだ。


「か、勝てますぞ」


 とりあえずそう答えて、種縄は必死に続ける言葉を探している。灯村への出陣を勧めたのは種縄だ。敗北すれば責任を問われるのだ。典古も北門で負けて逃走したので連署の交代はなさそうなのが、彼にとっては救いかも知れない。


「是正殿が直春めの軍勢を足止めしております。本陣が攻め込まれることはありますまい」


 早口に言った連署は、そうだ、と思い付いた顔をした。


「本陣から二千を是正殿の援護に向かわせましょう。敵の大将が陣地の奥からすぐそこに出て来ておるのです。討ち取る好機でございます。武者の数で上回れば、直春ごとき、当家の宿将殿の敵ではございませぬ」


 是正に手柄を立てさせることになるが、この戦に負けるよりはよほどましだ。勝ちさえすれば、多くのことはどうにかなるのだ。


「池から戻ってきた武者たちも、多くは濡れただけでございます。小荷駄隊が積んできた予備の武具を渡して本陣を守らせれば、御屋形様の御身(おんみ)は心配ございませぬ」


 たどりついた者たちをねぎらって火の前に誘う声が陣内から聞こえている。


「諦めるのはまだ(はよ)うございます。この戦に勝てば当家は随分と有利になるのでございます。どうせ、宇野瀬家相手には籠城する予定でございました。敵が撤退し、我等が反攻の戦を始める頃には、武者たちの怪我も()えておることでしょう」


 なんとか筋の通ったことを言えたと種縄はほっとした顔をした。それを横目で見る宗龍は半信半疑の様子だったが、この連署は実戦経験もあるし、是正は頼りになるので、一応は納得したようだった。


「では、その通りにせよ」

「はい。まずは戻ってきた者たちを集めて仮の部隊を作り、守備を交代させます。それから二千を行かせましょう」

「あまり時間はないぞ。二千まとめずとも、少しずつでも送ってはどうかと思うが」

「そ、そうでございますな。すぐに致しましょう」


 宗龍が具体的な軍勢の動きを提案したことに、種縄は仰天したようだが、逆らわなかった。本陣にいた武将の一人を呼び、指示を伝えようとした時、天幕の外で大きな声と馬のいななきが響いた。


「で、伝令! 緊急のお知らせでございます!」


 武者が一人汗だくで駆けてきて、宗龍の前で雪に片膝をついた。


「どうした。申せ」


 人々が注目し、種縄が促すと、武者は頭を下げて荒い息で報告した。


「桜舘軍の新手です。旗印は泉代成明、数は二千。街道を北門方向へ向かってきておりましたが、途中で湯丘に登り始めました」


 典古隊や宗速隊が越えていった山道を灯原に向かって進んできているというのだ。


「半刻程でこの本陣の背後に現れると思われます」


 しんと静まり返った天幕の中、一人の武将の漏らした言葉が全員の耳に届いた。


「退路を断つつもりか」


 人々の顔から血の気が引いた。


「何とかならぬのか」


 状況を理解した宗龍が連署に対応策を求めた。


「い、一千で背後を固めましょうぞ。この本陣は板の塀と空堀で囲われております。簡単には攻め込めませぬ。是正殿に送るのは一千になってしまいますが、宿将殿ならきっと勝ってくれますぞ」

「凍った田んぼに板を敷くために、本陣の後部は塀がございませんぞ。連署様がそうお命じになったのではありませんか」


 武将の一人が指摘した。木の柵は作ったが、塀に比べると防御効果は下がる。


「それでも、そう簡単に敗れはせぬはずじゃ。ここにおるのは御屋形様をお守りする馬廻りの精鋭たちじゃぞ」


 種縄は反射的に言い返して、はっと気付いた顔になった。


「そうですぞ。こちらも湯丘に登り、途中に守備の陣を布けばよいのです。細い山道なら敵が二千いても戦えるのは先頭の一百程度。こちらは五百もいれば敵を足止めできましょう」


 よい考えだと一人で頷き、宗龍を振り返った。


「御屋形様、よろしいですかな。すぐに指示を致しま……」

「あ、あの煙は何だ!」


 種縄の言葉の途中で武将の一人が叫んだ。


「わしの発言をさえぎるとは。連署であるぞ!」


 追い詰められ、ようやくよい案が出せたと思ったのに邪魔されたのだ。種縄が不快さを露わにして武将をにらむと、彼も、宗龍も、本陣の全員が空を見上げて口を大きく開いていた。


「いったい何事じゃ? 煙とかなんとか申しておったが……」


 自分もそちらを見て種縄は絶句した。東の空が黒く染まっていた。焚火や一軒程度の火事ではない。数十軒、いや城が一つ燃えているくらいの煙がいか墨をまいたように広がっている。


「お城の方角か」


 煙の意味を悟って、種縄はあごをがくんと落とした。


「宇野瀬軍に墨浦が襲われている」


 最初に空を指さした武将のうわごとのような声は、妙に大きく辺りに響いた。


「ば、ばかな! 墨浦に着くのは早くとも夕刻と聞いておる。攻撃開始は明日以降じゃったはず。じゃからわしはこの出陣を提案したのじゃぞ!」

「願空ですな。それしかありえませぬ。どのような方法を使ったか知りませぬが」


 この言葉は武将たちを納得させると同時に、気持ちを暗くさせた。是正ですら長年苦戦してきた相手。こたびの戦でも正維をだまして薬藻国を奪い、水軍を罠にはめて子群(こむら)湾で壊滅させた男だ。


「どうすればよい。どうすればよいのだ!」


 宗龍は立ち上がって連署に近付いた。墨浦にいる菫と次安丸が心配なのだ。これまで遊興(ゆうきょう)にふけって(まつりごと)戦狼(せんろう)の世の現実に向かい合ってこなかった男が、最も大切なものを失う恐怖に襲われている。


「種縄! 答えよ! どうにかせよ!」


 肩をつかんで揺さぶられたが、種縄は何も言えなかった。


「どうにかできぬのか。どうなのだ! 何か言え!」


 重ねて問いかけても、返事がないと分かると、宗龍は呆然とした様子になった。


「そうか」


 何かを確かめるように腹を撫でると、宗龍はかすれた言葉をこぼした。


「撤退しよう」


 武将たちがぎょっとしたように主を見つめ、苦い顔で互いを見やった。


「城に戻る」

「ですが……」


 種縄は言いかけてつばをのみこみ、もう少し大きな声で続けた。


「御屋形様がここを去られれば、この戦は負けてしまいますぞ」

「それは分かっておる。だが、他にどうしろというのだ!」


 宗龍は叫んだ。


「城が落とされたら当家は終りだ。直春を討つより、墨浦を守る方が大事だ」

「それは……、しかし……」


 種縄がうまい反論を思い付けずに口ごもると、我慢できなくなったのか、武将の一人が口を挟んだ。


「お待ちください!」


 武将は(いきどお)りを露わにしていた。


「失礼は承知で申し上げますが、あの煙は本当にお城からなのですか。墨浦が燃えているとは限りませぬ。敵の罠かも知れませぬぞ」


 他の武将も言った。


「墨浦には一万一千がおります。簡単に城壁を突破されるはずはございませぬ」


 宗龍は諦めた様子で首を振った。


「だが、あの煙は墨浦のそばだ。願空が来たのだ。違うか、種縄」

「わしにもそう見えますが……」


 背を丸めた連署は一回り小さくなったように見えた。


「ということだ」


 宗龍は床几から立ち上がった。


「墨浦に戻るぞ。撤退だ」

「ですが、御屋形様……」


 武将はまだ食い下がろうとしたが、宗龍は首を振って黙らせた。


(すで)にこの戦は勝ち目が薄くなっていた。今から是正に一千を与えても、必ず勝てる保証はない。勝てたとしても、そのあと村に入って敵の武者を掃討(そうとう)し、山道を越えてきている泉代隊と北門にいる小薙隊を追い払わねばならぬ。墨浦に帰るのは夕刻になろう」


 宗龍の口調は抑揚(よくよう)が欠けてひどく平板だったが、それがかえって彼の失望を印象付けた。


「ここまでの戦闘で多くの者が死傷し、池に行った者の多くが武器や鎧を失った。墨浦を守り願空を追い払う戦力として当てになるのは、この本陣の者たちと、沖里隊だけだ。その中からさらに村に事後処理の武者を残すのでは、城に連れて帰れるのはいかほどか」


 宗龍は止められなくなったように早口でしゃべり続けた。


「だめだ。これ以上武者を失えぬ。村を攻める間は墨浦が無事だという前提が崩れた。この戦を続けられなくなったのだ」


 まだ納得できぬ顔の武将に宗龍は冷ややかに言い放った。


「この出陣を許可したのは、墨浦を守りきれる可能性が高くなると言われたからだ。城を危険にさらしては本末転倒ではないか」


 総大将は扇子(せんす)を広げて前に突き出した。


「全軍、墨浦へ帰還する。是正と北門の宗速にも知らせよ」


 目の前の武将に命令した。


「そなたに五百を預ける。湯丘の山道を封鎖し、我々と是正が撤退する時間を稼げ」


 別な武将に目を移した。


「そなたは一千五百を率いて是正の援護に向かえ。彼の指示に従って沖里隊の撤退を支援し、桜舘軍が我々を追撃できぬようにせよ」


 本陣を見渡した。


「他の者は墨浦に戻るぞ。すぐに取りかかれ」

「ははっ」


 種縄が頭を下げると、他の者たちも従った。


「菫……、次安丸……」


 宗龍はもう一度墨浦の方を見やって空を覆う黒い(とばり)に眉を寄せ、腹を数回撫でると、表情を引き締め直して見事な駿馬(しゅんめ)の背にまたがった。


『狼達の花宴』  巻の七 灯村の合戦図 その五

挿絵(By みてみん)


「逃がしたか」


 村に戻ってきた騎馬隊の報告を聞いて、直春が珍しく残念そうな顔をした。


「こちらは敵の半分の数、徹夜で慌てて準備した戦いです。十分な戦果ですよ」


 菊次郎はなぐさめた。


「それは分かっているが、悔しくてな」


 宗龍を討ち取れなかったからではない。是正にしてやられたことだ。


「さすがは沖里公でしたね」


 東の空が黒く染まった時点で、宿将は撤退命令を予想していたようだ。伝令を走らせて息子や武者頭たちに指示を伝え、援護の一千五百が近付いてくると、一緒に挟撃するような動きを見せた。警戒した直春隊が一部を新手に向けようとして、戦いながら隊列を動かすという困難な行動を始めると、いきなり三角菱を投げ込んだのだ。


「雪の中から掘り出したものを正維殿に回収させていたのだな。こちらの武器を利用されてしまった」


 驚く直春隊に、文尚隊をねらっていたはずの弓隊がくるりと向きを変えて斉射、そこに息を合わせて一千五百が側面から殺到し、是正隊も突撃した。さしもの直春も対応しきれず部隊は動揺、一部が文尚隊になだれ込んで混乱を広げ、総崩れになった。それを追撃すると見せかけて、是正はさっと武者をまとめ、直春たちに背を向けて早足で去っていった。


「こちらが立て直して追いかけても先に陣地内に入れると読みきっていましたね」


 直春が何とか隊列を整え、池から丘を下りて駆け付けた菊次郎や織藤隊と合流して敵の本陣に迫ると、既に成安軍は撤退していた。しかも、湯丘の崖から田螺川まで伸びる本陣の板塀に放火し、使わなかった木材や荷車など燃えるものを全て空堀に投げ込んであり、投擲用の石や壊れた武器や鎧などが多数街道と付近の雪の中にばらまかれていた。

 消火と安全な通路の確保に時間を取られ、追いかけるのが遅れた。途中の道にも雪や倒木で障害物を作ってあったり、鎧を武者に見えるように並べてあったりした。それでも文尚隊と安瀬名隊を差し向けたが、是正の伏兵に奇襲されて蹴散らされ、成安軍は墨浦城に逃げ込んでしまった。


「追撃を見事に封じられましたね。そこまで考えてあの塀と空堀を作っていたようです」

「成明殿も足止めされたしな」


 湯丘の山道は雪を崩して埋めて通れなくされ、本陣の背後に回って退路を断つことはできなかった。怪我をして逃げ遅れた捕虜から是正の献策だったと聞いている。


「でも、敵を怯えさせ、撤退を促す効果はあったと思います。決め手となったのは願空の策でしたが」

「昨日村に向かう時に使者を送ったが、急いで来てくれたようだ。昼前に墨浦に到着するとはな」

「恐らく馬に乗った武者だけでしょう。お城が危ないと思わせてほしいと伝えたのですが、巧妙なやり方でした。大城壁の手前に焚火を多数並べ、黒煙の出る松の木を大量に燃やしたに違いありません。武者を一人も傷付けずに宗龍公の戦意をくじき、当家に恩を売るなんて」

「君と願空の見事な連携(れんけい)だな」

「素直に喜べないですね」


 菊次郎は苦笑した。


「やはり恐ろしい人物です」

「それは逆じゃない?」


 田鶴は少し違う見方だった。


「成安軍が引いたのは池で負けたからだよね。菊次郎さんの作戦があったから勝てたんだと思う」


 昭恒も同感という顔だった。


「願空の策だけでは、不安に思わせることはできても撤退に至ったかは分かりません。主力がぼろぼろになって元気な武者が少なかったから、諦めたんだと思いますよ」


 安瀬名数軌と文尚も言った。


「当家と成安家が激突して兵力を減らし合ってくれればよいと思っていたのでは」

「数倍の武者を(よう)し、是正公がいたのに敗北したのです。成安軍の撤退を知って願空は驚いたかも知れませんな」

「分かってはいるのですが、かなり危うかったので……」


 戦いの最後、本陣を急襲する計画を見抜かれて阻まれたことに、菊次郎は衝撃を受けていた。池での役割が終わり、織藤隊を連れて駆け付けた時、直春隊は既に崩壊していたのだ。成安軍に撤退命令が出ていなければ、直春たちは水で埋まった空堀に追い詰められて、最悪の結果もあり得た。


「この戦に沖里公が出てくると予想し、充分警戒したつもりでしたが、最後に逆転されそうになりました。思い上がっていたのかも知れません。沖里公も願空も、話に聞く以上に恐ろしい相手でした」


 一晩で考えた作戦がうまく行って本当によかった。一人で成し遂げたことではない。


「当家のみんなはもちろん、村の人たちの協力があってこそ勝てたと思います」

「そうだな。彼等は本当によく働いてくれた」


 直春は頷き、文尚と昭恒も称賛(しょうさん)した。


「見事に暴虐な領主を追い払いましたな」

「彼等も立派な勇者ですね」

「勇者か……」


 直春が顔を曇らせた。


「彼等はそう呼ばれたかったわけではない」


 口調には抑えきれない怒りがにじんでいた。


「村の人々は、ただ平穏な日々を過ごしたかっただけだ。朝起きて田畑へ行き、へとへとになって帰ってくる。苦労が多くて変化に(とぼ)しい、そんなありふれた生活を、続けたかっただけなのだ。成安家はそれを理不尽な暴力で壊し、踏みにじろうとした。だから彼等は立ち上がった。俺たちに協力するしかなかったのだ」


 田鶴が無言で頷いた。山奥の小さな村の出身だからよく分かるのだろう。


「俺は誓おう。彼等が勇者にならなくてすむ世の中にすると。民を二度と戦場に引き出したくない。英雄とは、武器を取って敵を殺した者に使う言葉ではないようにしたいのだ。貧民の救済とか、故郷(ふるさと)への貢献(こうけん)とか、価値ある文物(ぶんぶつ)を生み出したとか、そういう人のことをさす言葉であってほしい。時間はかかるかも知れないが、実現してみせる。そうなった時にしか、本当の泰平の世はやってこないからだ」

「僕も全力で手伝います」


 民が武器を持たずにすむようにした者こそが英雄だと強く思う。


「あたしも賛成」


 田鶴は涙ぐんでいる。


「我等も気持ちは同じですぞ」


 武将たちもうれしそうだ。


「今日はその第一歩だな」


 肩をやさしくたたかれて菊次郎が見上げると、主君にして友人の男は、頭上に輝く真昼の太陽のように晴れやかに笑っていた。


「俺たちは守りきったのだ。村も、民も、正道(せいどう)も」


 民を守るのが封主と武者の仕事だと直春は以前言った。肩の上の指がさす先で、村人たちが涙を流して抱き合い、女たちが笑顔で武者たちに炊き出しの雑炊(ぞうすい)を配っている。


「君たちも俺も役目を果たしたのだ。喜ぼう」


 田鶴たちがそろって頷いた。つられて菊次郎の頬もゆるんだ。


「はい。勝ててよかったです」


 真っ白に染まった周囲の丘に明るい声がこだましている。ほっとした途端、腹が鳴り、忘れていた空腹が急に意識された。


「俺たちも食いに行こう」


 直春が笑って誘った。田鶴たちもついていく。

 今日も大切な人たちに囲まれて安心して食事を頂ける。なんとかこの大切な時間を守りきれたんだ。

 追い付いて隣を歩きながら、菊次郎の心は大神(おおかみ)様への感謝の気持ちでいっぱいになっていた。

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