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狼達の花宴 ~大軍師伝~  作者: 花和郁
巻の一 運命の出会い
6/66

(巻の一) 第四章 戦雲

「直春様。どうか私の夫になってください」


 夕刻に桜舘家の別邸に到着した一行は、案内された豪華な浴室で旅の(あか)を落とすと大広間に集まった。客を招いて(うたげ)などを行う広い座敷には既に山海の珍味のご馳走が用意されており、大きな鍋に猪肉(ししにく)と野菜の煮込みがおいしそうな味噌の香りを漂わせていた。

 この広間は百畳もあり、四人と妙姫、お俶、豊梨(とよなし)実佐(さねすけ)の七人で使うには広すぎたが、妙姫は敢えてここを選んだらしい。というのは、広間のある棟は独立した建物になっていて周囲が広い庭なので、母屋とつながる渡り廊下と庭を警護の武者が見張っていれば、盗み聞きを防ぐことができるからだ。難点は広すぎて火鉢をたくさん置いてもかなり寒いことで、「この館の者は信用できるはずですが、どこに大鬼家の間者がいるか分かりませんので」と妙姫は謝っていた。

 女中たちが下がっていくと、妙姫は全員に手ずから酒を注いで回り、改めて礼を述べて皆の無事を祝う言葉で乾杯した。そして、いきなり直春の前に進み出て手を突いて頭を下げたのだった。


「ええっ! 夫?」


 田鶴が叫んでこちらを見たので、菊次郎は思わず顔を(そむ)けてしまった。境村にいた時から妙姫の意図は分かっていたので驚きはないが、耳ではっきりと聞くとやはり胸が痛み、そんな表情を田鶴に見られたくなかったのだ。


「これって、夫のふりをしてほしいってことだよね。直春さんは直秋って人じゃないんでしょう?」


 田鶴が忠賢に確認した。


「もちろん形だけだな。春始節で直春を桜舘直秋だと言って披露して、家臣たちをだますのを手伝ってくれってことだ。婚約者が戻ってきたことにして、一臣に結婚を諦めさせるのさ。何せ相手は妙姫様の従兄(いとこ)だ。家臣の大鬼家では対抗できないだろうな」


 菊次郎も説明した。


「妙姫様は桜舘家のご当主様なんだ。もし直春さんと本当に結婚したら、この国は直春さんのものになってしまうじゃないか。それでは意味がない。妙姫様はとにかく目の前の一臣との結婚を避けたいんだ。そのために結婚したことにするだけだよ」


 だが、二人の話を聞いても、田鶴はよく分からないという顔をしていた。


「つまり、本当に結婚するわけじゃないのね?」

「妙姫様は一臣と結婚できないと家臣たちに思わせることが目的だから、本当に夫婦になる必要はないんだ。でも、婚礼の儀式だけはしてみせることになるだろうね。でないとみんな納得しないと思うな」


 ようやく、なるほど、と頷いた田鶴は、直春に向かって言った。


「じゃあ、あたしは反対」

「どうして?」


 菊次郎が驚くと、田鶴は答えた。


「二人が本当に好き合っているんなら応援するけど、ふりなんて駄目」

「そういう問題じゃねえんだ」


 忠賢が子供には難しすぎたかという顔になり、菊次郎も同じことを思った。


「このままでは妙姫様は一臣と結婚させられてしまう。そうなればこの国は完全に大鬼家のものになり、今だって相当横暴な厚臣がどんなひどい(まつりごと)を行うか分からない。今日のことではっきりしたけど、大鬼家は民のことなんて考えていない。この国の民を守るには、一臣との結婚はなんとしても防がなければならないんだ。それに、妙姫様は一臣が嫌いなんだし」

「それは分かるけど、夫婦のふりなんておかしいよ。絶対無理だって」


 田鶴は言い張った。


「結婚するってことは家族になるってことなのよ。ふりだけなんてうまく行かないよ」

「大丈夫さ。一緒には住まないんだからな」


 忠賢はお俶にもう何杯目か知れない酒を注いでもらいながら言った。


「どうせ形だけなんだ。生活は別々でいい。最初の三ヶ月くらいは一緒の(やかた)にいた方がいいだろうが、その先はそれぞれ自由に過ごせばいいさ」

「でも、子供は?」


 これには菊次郎が答えた。


「それは、妙姫様が本当に好きな人の子供を産めばいいんじゃないかな。その相手が直春さんでももちろんいいし、他の人でも家臣たちにばれなければいいんだ」


 その相手が僕でないことだけは確かだけど……。

 菊次郎は心の中で溜め息を吐いた。


「そんなの汚いよ……」


 田鶴は不満そうだった。仲の良い夫婦や温かい家庭に思い入れがあるらしい。それもきっと、暴虐な領主に滅ぼされたという故郷の村と関係があるのだろう。


「直春さんはそれでいいの?」


 黙って酒を飲みながら三人のやり取りを聞いていた直春は、目の前で答えを待っている妙姫をちらりと見ると、赤い杯の中身をくいっとあおって首を振った。


「よくない。結婚のまねごとなど断る」


 やはりそうか、と思って忠賢に目を向けると、こちらも予想通りという顔で見返してきた。


「貴様、姫様に頭を下げさせておいて断るつもりか!」


 実佐が叫んだ。


「ふりとは言え、名門桜舘家の当主になれるのだぞ! 感謝するべきではないか!」

「しいっ、お声が大きいですよ」


 指を口に当てたお俶も直春を説得した。


「わたくしは最初反対でした。直秋様の生死がはっきりしないのに偽物を用意するなど言語道断です。本物の直秋様をお捜しするべきでしょう。ですが、一臣様に向かって姫様がああおっしゃってしまった以上、引き受けていただくほかないと存じます。もしこれで本当は直秋様ではなかったと皆が知ったら、大鬼家は今まで以上に勢い付いて結婚を迫るでしょう。そうなってはもはや断り切れません」

「その時は私が自死します」


 妙姫が言ったので、菊次郎たちはぎょっとした。


「一臣と結婚できる年齢の私がいなくなるしかありません。そうしなければ、この国は大鬼家のものになってしまいます」

「それは脅しですか」


 直春が静かな口調で尋ねた。


「いいえ、本心です」


 妙姫は思い詰めた口ぶりだった。


「あんな男の妻には絶対になりたくありません」

「ならば国を捨てて逃げればよいではありませんか」

「私はこの国の民と桜舘家を守らなくてはなりません。逃げるわけにはいかないのです」


 妙姫はもう一度頭を下げた。


「お願いです。引き受けてください。もうあなたにおすがりするしかないのです。直秋様を演じていただく期間は長くて数年です。その間に本物の直秋様を捜し、見付からなくても成人した虎千代丸に家督を譲ります。もちろん、滞在中は歓待させていただきますし、終わったら謝礼もお支払いします」

「つまり、贅沢(ぜいたく)し放題ってわけだな」


 忠賢が茶化(ちゃか)すように言ったが、妙姫は真顔で頷いた。


「はい、財力が許す範囲なら構いません。どうか協力してください」

「嫌です」


 直春の返事はにべもなかった。


「俺には目標があります。そのために諸国を旅しているのです。この国でのんびりしている時間はありません」

「目標とはなんですか」


 直春は妙姫の顔へ目だけを向けて言った。


「天下統一です」

「適当なことを言うな!」


 実佐が怒鳴った。妙姫は絶句している。


「俺は真剣ですよ」

「何をばかなことを!」


 実佐は本気で怒り出した。


「お前には始めから選択権はない! これは当家の存亡に関わる問題なのだぞ。お前の意見など聞く必要はないのだ!」

「実佐!」


 警護頭を黙らせた妙姫はもう一度頭を下げた。


「どうかお願いします。この通りです」


 お俶も主人にならったが、直春は首を縦には振らなかった。菊次郎はそうだろうと思っていたし、直春の決意の固さを知っている忠賢も同意見のようだった。田鶴も理由は違うが偽装結婚に賛成する気はないらしい。

 直春はきっぱりと言った。


「何と言われようとお断りします。俺には俺の生き方があります」

「しかし、こうするより仕方がないのだ。他に方法がないのだからな」


 ああ、その言葉を言っては、と菊次郎は思ったが、案の定、直春は冷ややかに言い返した。


「お忘れのようですが、これは桜舘家の問題で、俺には本来関係がないことです。たまたまお俶殿を助けた縁で妙姫様を救うことになりましたが、俺たちはもう充分にこの国のために働いたはずです」

「では、葦江国の民をお見捨てになるおつもりですか」


 妙姫が尋ねると、直春は苦い顔になった。


「それを考えると俺も心が痛みます。なんとかしたいと思いますし、それには協力を惜しみません。ですが、飾り物になって何年も無駄にするのは御免です。俺の目標はもっと大きいのです。もし、本当に結婚してこの国の領主になってくれとおっしゃるのでしたら考えますがね」

「ばかな! どこの馬の骨とも分からん者を当主にできるものか!」


 実佐はもう完全に頭に血が上っている。それを一瞥(いちべつ)して、直春は急にまじめな顔になった。


「それにですね、妙姫様」


 直春は姫君の目を正面から見つめて深い声で言った。


「あなたは今日大鬼一臣に向かって、嫌いな相手と仕方がないから結婚することなどあり得ないと言ったはずです。そのあなたが、俺には他に方法がなく、民のためには仕方がないから、形だけとはいえ望まぬ結婚をしてくれと頼むのですか。仕方がないから俺の目標よりもあなた方の都合を優先しろとおっしゃるのですか。仕方がないからと民や家臣に自分たちの要求を強制する、そういう(まつりごと)をあなたはしているのですか。俺ならそんな領主は願い下げです。そして、そんなあなたとはまねごとでも結婚したくありませんね。俺は仕方がないという言葉が大嫌いなんです」


 田鶴は息をのみ、忠賢も杯を運ぶ手を止めて二人を見比べていた。菊次郎もさすがに言いすぎではないかと思ったが、妙姫の気持ちも直春の思いも痛いほど分かって、何も言えなかった。


「貴様!」


 とうとう実佐はそばの刀に手を伸ばした。


「やめなさい!」


 妙姫が叫んだ。蒼白になった姫君は、胸を片手で押さえて大きな呼吸を一回すると、深く頭を下げて静かな声で言った。


「直春様のお考えはよく分かりました。無茶をお願いして申し訳ありませんでした。もうこの話はやめましょう」


 顔を上げた妙姫はいつもの微笑みを浮かべていた。


「いずれにしても、今夜はここに泊まっていってください。皆様には大変なご恩がありますから歓待させていただきます。さあ、猪汁(ししじる)が冷めないうちにお召し上がりください。料理もお酒もまだまだありますので遠慮は無用です」

「おお、そりゃあ楽しみだ。お言葉通り遠慮はしねえから、どんどん持ってきてくれ」


 忠賢がわざと滑稽な声を出してお俶に椀を突き出すと、直春も表情をゆるめた。


「ありがたくご馳走になりましょう」


 田鶴は胸を撫で下ろし、菊次郎もほっとした。

 直春さんがああ言うのは当たり前だ。それがあの人の進む道なのだ。だけど、僕はこの国に残るのだから、できるだけ妙姫様の力になろう。困っている人々を助けるために働こうと僧侶になることを選んだはずだ。なんとか大鬼家の横暴を止める方法を考えよう。

 直春は決して妙姫を嫌っているわけでも、駄目な領主と思っているわけでもないことを、菊次郎は分かっていた。妙姫のまっすぐな気質は惚れた欲目を抜きにしても好ましい。きっとよい領主なのだろうと感じていた。また、直春たちにもすっきりと心残りなくこの国を旅立ってほしかった。

 菊次郎が考え込むと、それに気付いた直春と忠賢は視線を交わし、田鶴は真白に芋の皮をむいてやりながら頬をゆるめ、期待する顔をした。一方、妙姫も客たちの杯に酒を注ぎながら時々物思いに沈み、何かを確かめるように直春の横顔を見つめていた。



 その夜、ご馳走をたらふく食べた忠賢と菊次郎は、用意された部屋で並んで布団に横になった。

 部屋は十畳以上あったが、案内されたのは二人だけだった。女の田鶴の別室は分かるが、直春も別な棟に泊まることになったらしい。


「なぜ直春さんだけ違う部屋なんでしょうか」


 菊次郎は不思議に思ったが、忠賢は興味なさそうだった。


「あいつは姫様の許婚ってことになってるから待遇が違うんだろう。きっと今頃最高のもてなしを受けているさ」


 忠賢は答えて、さっさと眠る体勢に入った。菊次郎も布団に入って大鬼家への対策を考え始めたが、旅と今日一日の様々な出来事の疲労ですぐにまぶたが重くなり、たちまち眠りに落ちていった。


 一方、別室に案内された直春は、昔若様だった頃以来の温かく柔らかな布団に包まれて眠ろうと努力していたが、なかなか寝付かれずにいた。理由は今後のことだ。妙姫の依頼は断ったが、このまま見捨てて去るのはいやだったので、どうするかを考えていたのだ。だが、うまい解決策は思い付けなかった。

 一番簡単なのは大鬼厚臣と二人の息子を斬ることだが、実行は不可能だろう。第一、暗殺という発想が好みではなかった。となると、彼等を妙姫に従わせるしかないのだが、その方法が分からない。


「やはり菊次郎君の知恵を借りるしかないか」


 どうしても結論はそこへ行くのだが、全てをあの少年に頼りたくはなかった。自分にも何かできるはずだ。それに、菊次郎は「恐いのです」と言った。彼は自分の才能を自覚しながら信じ切れないでいる。幼い頃の体験とまだ十五という年齢を考えると無理もないことだが、直春にはもどかしかった。


「どうしたら菊次郎君の能力をもっと引き出してやれるだろうか」


 それができれば桜舘家の問題も解決できるような気がした。


「俺が天下統一を志したのはなんのためだ。この土地の民の苦しみを放置することはできない」


 荷物の中から虹と鶴が描かれた脇差(わきざし)を取り出し、鞘から抜いてじっと眺めた。


「お前は俺の親友だ!」


 十二歳の直春は近習頭に言った。勇気を出して、顔を赤くして。


「心からの友達を親友と言うんだそうだ。今朝婆やに聞いた」


 彼はやさしく微笑んだ。


「家臣の身でおこがましいことですが、わたくしも心の奥ではそう思っておりました」

「おこがましくなんかない! ずっと親友だぞ!」

「はい」


 武芸と学問に秀でた彼を信頼し尊敬していた。しかし、その日の夜、彼の父親が城を占拠し、目の前で虹関(にじぜき)家の当主だった父と弟を殺した。必死で裏山を逃げて、追いかけてきた彼と斬り合い、実力がはるかに上の相手にかろうじて勝利して、ようやく逃げ切ったのだ。


「あれ以来、俺は心底信じられる相手を求めてきた。菊次郎君は過去に深く傷付いている。誰かを本気で信じることは難しい。たとえそれが自分自身であっても。その不安や恐怖を俺はよく分かっているはずだ。何がしてやれるだろうか」 


 暗闇の中でも、探題(たんだい)家の家宝だった名刀の刃はほのかに白く輝いていた。

 と、(ふすま)をそっとたたく音がした。


「誰ですか」


 声をかけると事があった。


「妙です」


 直春が慌てて体を起こすと、襖がすっと開いて、真っ白な寝間着姿の妙姫が入ってきた。

 男の寝所になんという格好でと思ったが、とにかく布団から出ようとすると、妙姫はそれを手で制し、灯火を持って直春のそばにやってきた。


「お願いがあって参りました」


 手が届きそうなところに座った妙姫は、直春に向かって手を突いて深々と頭を下げた。


「どうか私の夫になってください」


 直春は困った。


「それはお断りしたはずです」


 妙姫は首を振り、上目遣いに直春の顔を見上げた。その頬が小さな灯火のほのかな明かりの中でさえはっきりと赤く染まっているのを発見して、直春はどきりとした。

 直春とて若い男だ。妙姫のような美女とこのような時間に寝間着姿で二人きりというのは胸が沸騰(ふっとう)しそうになる。それを無理に抑えていると、妙姫はさらに体を近付けてきた。


「どうか、私の夫になってください」


 同じ言葉を繰り返した妙姫は、身を乗り出すようにして付け加えた。


「偽装ではなく、あなたを真実の夫としたいのです」


 直春は驚き、眉を上げると問い返した。


「つまり、本当に結婚したいとおっしゃるのですか」


 妙姫は真剣な表情で頷いた。長い黒髪が白い着物の上をさらさらと流れ、背後の襖で妙姫のぼんやりとした影が大きく揺らめいた。


「私の正式な夫になり、桜舘家の当主になってください」


 直春は今度こそ心底びっくりした。さすがに返事ができないでいると、妙姫は視線を横へはずして言った。


「私と結婚するのはお嫌ですか」


 その声が震えていることに気が付いた直春は、十七の妙姫がこの部屋へ来るのにどれほどの勇気を振り絞ったかを察し、不誠実な答えはできないと思った。


「俺こそお聞きしたいですね。本当に俺が夫でよいのですか。俺を領主にすることにためらいはないのですか」

「ありません」


 妙姫は言い切った。


「今日一日のあなたの言動から、領主にふさわしいお方と判断しました。あなたは聡明で決断力があり、武術にすぐれ、正義感にあふれ、お心が広く、しかもおやさしくていらっしゃいます。特に、村長の髷を切った裁きには驚かされました。悪は悪、事情があるからと許すことはできない。これは非常に厳しい考え方です。人は弱いもの、多くの民に当てはめようとすれば耐えられぬ者が出るでしょう。ですから、あの裁きが全ての場合で正しいとは私は思いません。ですが、先程の宴でおっしゃいましたね。自分は仕方がないという言葉が大嫌いなのだと。それを聞いて、この方は厳しく自分を(りっ)し、怠惰(たいだ)やいい加減さや不誠実であることを自分に許さないのだと分かりました。そういうお方にこそ、葦江国の民と武者を()べていただきたいと私は思います」


 妙姫の高い声はかすれてささやくようになっていた。


「それに、目的は天下統一とおっしゃいました」


 妙姫は期待する口ぶりで尋ねた。


「本気なのですね」


 直春は深く頷いた。


「本気です」

「そのお言葉を聞いて確信致しました。やはりあなたはただ者ではありません」


 妙姫はうれしげに頬をゆるめた。


「あなたに仕方がなければ民や家臣をだますのかと問われた時、自分が大鬼家の横暴を止めることで頭がいっぱいで、他の人々のことを考えていなかったことに気が付きました。それでは、言い訳ばかりして自分を正当化し、結局は民に苦しみを押し付けている一臣と同類です。それに比べて直春様は、私の目に映らない多くのことを見ていらっしゃいます。あなたの(うつわ)が自分より格段に大きいことを悟った時、この人ならこの国を救ってくれるに違いないと感じました。天下統一さえ成し遂げてしまうかも知れないと思いました」


 直春は妙姫が自分のどこにそこまでの可能性を見てくれたのか分からなかったが、自分を信じてくれたこと、信じ続けようと決意したことはよく分かった。


「自分があなたを信じたいと思っていることに気が付いて驚きましたが、全てをあなたに賭けたらどうなるだろうかと考えました。私は戦うあなたを助け、一緒にこの国を救い、あなたが天下を統一した時に隣にいるのです。その想像は私をわくわくさせました。そんな夢を見せてくれる殿方はあなた以外にいないと思いました。そう思った瞬間、あなたが(いと)おしくなりました」


 妙姫の顔はますます赤かったが、喜びに満ちていた。


「私の夫になってください。いいえ、私を妻にしてください。あなたにどこまでもついていきます。その証拠に、ここへこうして一人でやって参りました」


 そう言うと、妙姫は帯に手をかけた。寝間着を脱ごうとしていることを悟った直春はその手をつかんで止めようとしたが、その手の上から、妙姫はさらに手を重ねた。


「私を受け止めてください」


 二人の距離は互いの息が感じられるほど近かった。直春は自分を見上げる妙姫の美しい顔をまじまじと見つめ、疑いようのない恋情と真剣な思いを見付けて胸が熱くなった。

 この姫君は本気だ。本気で俺を夫にし、全てを預けてどこまでもついてくると言っているのだ。

 妙姫の瞳のひたむきさは、恋情と友情の違いはあっても、自分がかつてあの近習頭に向け、また向けてほしいと願っていたものと同じだと直春は思った。

 直春は家宝の脇差に目を落とした。俺があの男を無条件で信じていたように、この人も自分を信じてくれている。それを裏切り拒否しては、あの男が自分にしたのと同じことを俺がこの姫君にすることになる。それは、人を信じ、また信じられたいという願いを自分で否定することではないか。全てを(ささ)げてこれだけ純粋に俺を信じると宣言する人を拒絶して、一体誰を信じるというのだ。

 これは断れない。俺の負けだ。

 そう思った瞬間、直春はうれしくなった。そして、自分もまた妙姫に恋したことを悟った。女として、妻として、また一人の人間としての妙姫に、直春は惚れたのだ。黙っている自分に不安そうな様子を見せながらなおも信じようとしている妙姫を、直春はこの上なく愛おしく思い、決心して口を開いた。


「俺は桜舘直秋ではないぞ。よいのか」

「はい。あなたがどんな身分の出でもかまいません」


 妙姫は即答した。


「俺は平和な時代を目差して、吼狼国を統一すべくどんどん戦を起こすぞ。その覚悟はあるか」

「はい。どこまでもついていきます」

「俺はお前だけの夫ではいられない。多くの家臣や領民たちのものになるぞ。それでもかまわないのだな」

「はい。そんなあなたをお支えします」


 直春は大きく頷き、締めくくりの問いを口にした。


「最後にもう一つだけ尋ねる。仕方なく俺を選んだのではないのだな」


 直春の言葉に、妙姫は華やかに微笑んだ。


「はい。仕方なくではありません。あなただから結婚したいのです。あなたでなくてはいやなのです」


 直春は満足した。自然と笑みが浮かんでいた。


「では、俺の答えを言おう」


 言うなり、妙姫の腕をつかみ、自分の胸へ抱き寄せた。


「俺は妙を妻としよう。仕方がないからではなく、心からお前を望んで」

「はい。あなたならそう言ってくれると信じていました」


 妙姫の目から涙が一筋伝った。そのしずくを頬に感じた直春は、感動に震えながら妙姫と口づけを交わし、寝間着の帯に手を伸ばした。この儀式が終わったら、自分の素性とこれまでの日々を語ろうと、直春は心に決めていた。



 翌日の昼過ぎ、菊次郎は桜舘家別邸の大広間の前の板廊下で、板の端に座って足を垂らし、両手を後ろについてぼんやりしていた。

 もう桃月(ももづき)に入ったというのに昨日は午後から急に寒くなって夜中に雪が降ったので、大きな池のある庭は白く染まっている。空気はしんしんと冷えて空はどんよりと曇り、今にもまた降り出しそうだったが、そんな中菊次郎が外に出ていたのは頭を冷やしたかったからだった。


「はあ……」


 白い大きな溜め息を吐いて、菊次郎は苦笑した。我ながら気が抜けている。情けないと思うが体に力が入らない。


「これが失恋というものか……」


 胸の奥に開いた暗く甘い穴のようなものを着物の上から撫でて、菊次郎はまた溜め息を吐いた。

 今朝やや遅れて起きてきた直春と妙姫は、再び大広間に昨日の七人を集めると、結婚することにしたと告げた。その時の妙姫のうれしげな様子と直春に向ける色っぽく信頼しきったまなざしを見れば、昨夜何があったのかは歴然としていたので、菊次郎は驚きと衝撃で声も出なかった。田鶴でさえしばらくしてそれを悟って真っ赤になっていたくらいだから、妙姫が偽装でなく正式に結婚して直春を当主に迎えたいと言い出しても、いまさら反対する者はいなかった。

 さすがに実佐は初めこそ妙姫の発表に顔を青くしたり赤くしたりしていたが、主君の本気を悟ると無粋(ぶすい)なことは言わなかった。その意外なほどの物分かりのよさを田鶴に指摘された実佐は当然という顔をした。


「わしは妙姫様をお守りし、なさることを手助け申し上げるのが仕事だ。主の決めたことならどんなことだろうと従う。妙姫様がこの方を当主に据えるとおっしゃるのなら、わしも直春様に家臣として尽くすだけだ」


 そう胸を張って言い切ったが、感心した直春にほめられて複雑な顔をしていた。

 そして、直春と妙姫の二人は話し合った結果だと言って、しばらく直秋になりすます作戦を続けることを提案した。


「これは大鬼家を嫌いながら恐れて反抗できない者たちを味方に引き込むのがねらいだ。まずは直秋と名乗って俺の実力を見せる。それから正体を明かし、家臣たちに当主として承認を求める。それまでは家臣たちをだますことになるが、俺の当主としての能力を見て判断してもらうことにした。一介の浪人では候補にすらなれないからな。それに、たとえ本物の直秋であっても、戦狼の世を生き抜く実力がなければ当主としてやっていけないだろう」

「皆、直春様なら喜んで当主にお迎えしたいと言うに決まっています」


 妙姫は自信があるようだった。


「俺たちの第一目標は大鬼家による簒奪を防ぎ、妙を守ることだ。そして、機会を見て大鬼親子を排除し、俺たちの手に桜舘家の実権を取り戻す。それが終わって初めて天下統一に動き出せる」

「やはりそれが最終的なねらいなんだな」


 この中で唯一直春と妙姫がこうなることを予想していたらしい忠賢が言った。


「ああ、妙も応援してくれるそうだ」

「なるほど、似合いの夫婦だな。うらやましいぜ」


 忠賢はからかうような口ぶりだった。


「もし直秋様が見付かったらどうするのですか」


 意地悪な質問だと思いつつ菊次郎は尋ねた。


「直春様が当主を続ければよいと思います」


 妙姫は少し寂しげだが迷いはない様子だった。


「直秋様はやさしい方でしたがやや線が細く、あまり荒事に向いておいでではなかったのです。きっと喜んで直春様を承認なさるでしょう」

「もし、どうしても当主になりたいと言い出したら、俺は譲ってもよいと思っている。天下統一ができるのなら、臣下の立場でもかまわないからな。だが、実際のところはその時になってみなければ分からない」


 正直な答えだと菊次郎は思った。


「では、妙姫様を支持している人たちは、直春さんの当主就任に反対はしないんですね」


 妙姫が頷き、実佐も「それは間違いない」と言った。


「でも、直春さんに封主家の若様のふりなんてできるの?」


 田鶴が怪しむように言うと、妙姫がお俶へ目を向けた。


「それも考えてあります。これから直春様には封主家の当主を演じるための特訓を受けていただきます」


 既に話を聞いて準備していたらしく、お俶はやる気満々だった。


(まつりごと)、軍事、礼儀作法など、上流武家としての教養を幅広く身に付けていただき、姫様の夫にふさわしい殿方に仕上げてみせます」

「お前も大変だな」


 直春を見てにやにやする忠賢を、お俶がすかさずと叱り付けた。


「ご当主様になんという口のきき方ですか!」

「いや、そのままでかまわん」

「それでは君臣のけじめがつきません!」


 もう指導は始まっているらしい。


「俺はこいつの家臣じゃないんだがね」


 忠賢は辟易(へきえき)した(てい)で言って、直春に尋ねた。


「で、俺たちは何をすればいいんだ」

(いくさ)の準備だな」


 直春の言葉に菊次郎はびくりとして顔を上げたが、忠賢は驚かなかった。


「やはり戦になるのか」


 菊次郎もそれを危惧(きぐ)していたのだ。


「避けたいが、可能性は低くない」


 直春は表情を引き締めて説明した。


「俺たちは春始節で結婚を発表する。だが、大鬼家は納得しないだろう。俺が偽物だと(あば)くと言っていたからな。むしろ、向こうはその日に妙と一臣の婚儀の日取りを発表するつもりらしい。となれば一悶着(ひともんちゃく)ある。俺たちはできるだけ多くの家臣から承認を受けることを目差すが、最悪戦になるな」


 なるほど、と実佐が考える顔になった。


「では、味方に付きそうな者たちに事前に声をかけておく必要がありそうですな」

「できるだけ味方は多い方がよい。その数を見て厚臣が諦めてくれるならそれが最もよいからな」


 直春の口調からはあまり期待していないことが感じられたが、それは当然だった。大鬼家は五万貫、桜舘家の領域の三分の一近くを有しているし、百四十万貫の大封主家が後ろ盾なのだ。宇野瀬(うのせ)家は桜舘家が離反すれば長斜峰(なはすね)半島西部で最大の同盟国を失って、足の国での勢力を大きく減退させることになる。なんとしても阻止しようとするだろう。虎千代丸(とらちよまる)へ家督を譲る件でなかなか賛成者を増やせなかったのはこのためなのだ。


「恐らく敵はこちらの数倍だ。どれだけの家臣を味方に引き込めるかにもよるが、間違いなく敵の方が多いだろう。菊次郎君にはそれを打ち破る作戦を考えてもらいたい」


 直春は年下の少年へ信頼のまなざしを向けた。


「もちろん俺も考える。だが、ここは菊次郎君の知恵が必要だ。ぜひ軍師役を頼みたい」


 菊次郎は驚いて断ろうとしたが、他の六人に注目されていることに気が付いた。


「これは君にしかできないことだ」

「しかし……」

「君は兵法家の弟子なのだろう」


 兵法家という言葉に反応した妙姫に、適雲斎の代理としてこの国へ来たことを話すと、姫君は目を見張った。大鬼家を排除する方法を相談しようと使者を送ったが、都で殺したと厚臣にほのめかされて諦めていたらしい。お俶と実佐も菊次郎に対する見方を改めたらしく、向ける視線が急に大人に対するものになった。


「菊次郎君がためらう気持ちは理解できる。だが、ここで尻込みしていては駄目だ」


 (はげ)ますように直春は言った。


「君は五年前の事件以来、自分を責めてきた。それは無理もないことだと思う。だが、自分を責めるだけでは何も解決しないし、前に進めない。君はその経験を乗り越えて自信を取り戻し、新しい一歩を踏み出さなくてはいけない。これはそのための試練なんだ」


 直春の口調はやさしかったが有無(うむ)を言わさぬ迫力があった。


「この戦いの結果にはこの国の民の運命と、我々の命がかかっている。それを救うために君は必死で頭を絞ってほしい」


 直春は敢えて責任の重さを自覚させるような言い方をした。


「逃げるな。言い訳をするな。この戦は君自身にとっても重要な戦いなんだ」

「でも、僕は……」

「拒否は許さない。君は敵を打ち破る作戦を必ず考え出せ。俺たちは君に賭けているんだ」


 俺たちという言葉で妙姫を見ると、姫君も強いまなざしで見つめ返してきた。


「私は都へつかわした者の帰還を首を長くして待っていました。当家一の名将と言われた適雲斎殿が代理に選んだのなら、私もあなたを信じましょう」


 まわりへ目を向けると、皆真剣な顔で頷いた。

 この人たちは僕に命を預けるつもりなんだ。こんな僕に。

 巨大な責任の重圧と恐怖、そして期待されることの喜びに、菊次郎は身震いした。

 みんな、僕を信じてくれている。だから、僕も、みんなと自分を信じなくてはいけないんだ。

 天下を統一すると誓った直春、一国一城の主を目差す忠賢、自分を旅の道連れに選んだ田鶴、直春に全てを委ねた妙姫、主君の判断に忠実な実佐とお俶、皆自分自身を信じていて、その自信で菊次郎も信じてくれるというのだ。

 僕もそれを見習わなくてはいけない。いつまでも逃げていてはいけない。僕が成功すれば多くの人が救われる。昨夜、この国の民のために妙姫様に協力すると決意したじゃないか。平和な世の中を求める思いは、僕だって直春さんに負けないはずだ。

 菊次郎はごくりとのどを動かした。そして、震える手を固く握り、背筋を伸ばすと、かすれた声で返事をした。


「が、頑張って考えてみます」

「よし」


 直春は頬をゆるめた。


「君ならそう言うと信じていたぞ」


 妙姫も微笑んで頷き、忠賢は菊次郎の背中をばしんとたたいた。


「お前ならできるさ」


 田鶴はうれしげで、実佐とお俶も笑顔だった。

 菊次郎は不安と興奮に胸の鼓動が激しく響くのを感じながら、彼等のこの顔を決して忘れまいと思った。


 そうして、直春が妙姫たちと当主修行に去っていくと、菊次郎は実佐に豊津城近辺の地図を貸してもらって作戦を考え始めたが、なかなかうまい考えは浮かばなかった。


「作戦と言っても、敵の兵数も分からないのにどうやって立てればいいんだろう。大体、大鬼領から豊津城までの間には、揺帆国(ゆれほのくに)のような関所も迎撃に有利な地形もないんだ。どうやって多数の敵を相手にすればよいのやら……」


 ただでさえ難問なのに、失恋の悲しみで心が落ち着かず、全く考えに集中できない。庭の池を眺めながら菊次郎がもう何度目か知れぬ溜め息を吐いた時、廊下を歩いてくる軽い足音が聞こえた。

 建物の角を曲がって現れたのは、田鶴よりやや幼い少女だった。随分と肌の色が白い。着物が上等なものなので、恐らく桜舘家の一族だろうと思われた。


「こんにちは」


 少女が頭を下げたので、菊次郎は慌てて同じ言葉で挨拶を返した。


「あなたはここで何をしているの?」


 妙姫を幼くしたような美しい少女は尋ねた。まだ十一、二歳にしてはしっかりした口調だ。


「考え事をしていたのです」


 答えると、少女は首を傾げた。


「考え事? 難しいことなの?」

「ええ、とっても難しいことです」

「ふうん」


 少女は菊次郎の顔をじっと見つめた。


「あなたは誰?」


 問われて菊次郎は気が付き、板廊下に正座すると手を付いて頭を下げた。


銀沢(かなさわ)菊次郎と申します」

「きくじろうさん……」


 少女は考えるようにこちらを見ながら口の中で繰り返した。


「あなたのお名前はなんとおっしゃるのですか」


 菊次郎が尋ねた時、角の向こうから板廊下をばたばたと走る足音が聞こえてきた。


姉様(ねえさま)(ゆき)姉様!」


 現れたのは少女よりさらに一つ二つ年下の男の子だった。


「こんなところにいたのですか。探しましたよ」


 男の子は雪と呼ばれた少女の袖をつかんで引っ張った。


「寒いところに出ては駄目です。風邪を引きます」

虎千代丸(とらちよまる)、人前で何です。まずはこの方にご挨拶なさい」


 少女は姉さん風を吹かせると、菊次郎にお辞儀をした。


「私は雪と申します」


 そして、弟の頭を押さえた。


「ほら、あなたも」

「ぼ、僕は桜舘虎千代丸です」


 少年は不満そうに、しかしきちんと頭を下げた。

 つまり、この少年たちは妙姫の妹と弟らしい。年齢を尋ねると、十二と十一だと言った。

 挨拶がすむと、少年はすぐに姉に向き直った。


「雪姉様、勝手に外へ出ては駄目ではありませんか。こんな寒い日に歩き回って熱を出したらどうしますか」


 菊次郎はお俶に、妙姫には病弱な妹がいてこの別邸で養生していると聞いたことを思い出した。弟は姉を案じて追いかけてきたのだ。


「大丈夫よ。これを羽織ってきたもの」


 雪姫は厚手の上着の袖をひらひらと振ってみせたが、虎千代丸は納得しなかった。


「そうやって無理をすると、また妙姉様に心配をかけますよ」


 この春元服する妙姫の弟は随分心配性らしい。口ぶりからすると結構()かん()のようだが、封主家の跡取りなのだから、家臣たちはむしろ喜ぶに違いない。


「雪姫様は何をしにこちらへいらしたのですか」


 どうやら二人の部屋は母屋にあるらしい。わざわざこの大広間まで来た理由を菊次郎が尋ねると、雪姫はにっこりした。


「雪を見に来たの」

「雪ですか」

「私の名前だから」


 頷いた少女から天乃を連想した菊次郎は、雪合戦を懐かしく思い出した。


「何をしてるの」


 と、そこへ田鶴がやってきた。どうやら暇を持て余して屋敷の中を散歩していたらしい。肩に真白が乗っている。


「猿?」


 雪姫は目を輝かして駆け寄った。


「姉上、危険です!」


 虎千代丸は止めようとしたが、雪姫は気にしなかった。


「名前は何と言うの?」


 田鶴の問うような視線に菊次郎が姉弟(きょうだい)を紹介すると、少女は安心したらしく、真白を肩から下ろして二人と遊ばせてやった。

 すぐに頭を撫でたり手を取って握手したりする姉に比べて、虎千代丸は初め気味悪がっていたが、好奇心に負けて怖々と手を伸ばし、大丈夫と分かるとかわいがり始めた。

 田鶴は子供が好きらしく、二人を見守る表情はやさしかった。自分と同じく失恋の悲しみの中にいるはずの田鶴が微笑みを浮かべているのを見て、菊次郎は少しだけほっとした。

 しばらく待ってから、すっかり猿が気に入ったらしい雪姫に、菊次郎は声をかけた。


「ところで、雪姫様は雪を見にいらっしゃったということでしたが」

「あら、そうだったわ」


 すっかり忘れていたという顔で雪姫が手をぱちんとたたくと、真白が驚いて主人に飛び付いたので虎千代丸がぎょっとして跳びすさり、姫君はいかにも楽しそうな笑い声を上げた。


「雪人形を作りに来たの」


 雪姫は菊次郎に言って庭を指さした。


「この雪では大きいのは難しいですよ」


 積もった雪の深さは足首まで来ない。


「小さいのでいいの」


 雪姫は握り飯を作るような手真似をした。


「お姉様と新しいお兄様にあげようと思って」


 どうやら直春と結婚することを妙姫が話したらしい。妙姫たちの両親は既に亡いので家族はこの妹弟(きょうだい)だけなのだろうが、まだ幼い二人にきちんと説明に行くあたりは妙姫らしい誠実さだった。


「雪人形を二個作って並べるの」


 菊次郎は田鶴と顔を見合わせた。


「雪は冷たいですよ」


 虎千代丸も主張した。


「姉上、僕がかわりに作ります!」


「自分でやりたいの」


 雪姫は言い張ったので一緒に行って手伝うことにした。体の弱い雪姫をあまり長く外に出しておけないから、早くすませてしまおうと思ったのだ。


「こっちよ」


 雪姫は庭に降りて置いてあった草履を履き、先頭を歩いていく。心配そうな虎千代丸がそれに続き、田鶴と真白、最後に菊次郎がついていった。

 雪姫はどんどん木立の間を進んでいく。この庭はかなり広く木も大きいので、初めての菊次郎はどこを歩いているのかよく分からなかった。池を迂回しているらしいが、結構歩いた気がする。

 心配になって声をかけようとした時、雪姫が言った。


「ここよ」


 そこは木立が途切れて低いつつじが植えられた小さな広場だった。池をはさんで先程雪姫たちと出会った場所の反対側で、花が咲けば向こうからは水に映ってきれいだろう。雪姫のお目当ては常緑のつつじの葉の上の新雪で、早速すくって集めていた。


「あら、あなたも作るの?」


 真白が地面の雪を丸めて転がしていた。

「あたしがしてるのを見て覚えたの」


 田鶴が説明したので、菊次郎は真白の賢さに感心した。雪姫は驚いて目を見張っていたが、すぐに自分も地面の雪を転がし始めた。すると虎千代丸もやりたくなったらしく、姉が心配だからという顔をしながら手伝い出した。

 雪を集めている姉弟が転んだり水に落ちたりしないように気を付けながら、菊次郎は庭を見渡した。池は奥にはそれほど大きくなくて大広間がすぐそこに見えるが、左右に長いのでここまでは随分遠回りだった。


「近そうなのに結構距離があるんだね」

「うん。池を泳げばすぐなのに歩くと遠いの。花が咲いた時、このつつじの蜜を吸いに来ようとすると止められるのよ。だから、いつもはあっちから見ているだけで何もできないの」

「雪姉様ははしゃぐとすぐに熱を出すからです。ここに来てはいけませんといつも言っているでしょう」


 虎千代丸は侍女の口ぶりを真似た。


「では、侍女に見付かる前に戻りましょう。雪が手の上で溶けないように、葉っぱにのせた方がいいですね……」


 そう言いかけた菊次郎は、突然、池を凝視(ぎょうし)して固まった。敵を迎え撃つ作戦を思い付いたのだ。この池はある場所によく似ている。あそこなら大軍を打ち破れるかも知れない。


「どうしたの?」


 姉弟で作った大きな玉の上に真白の作った雪玉をのっけて歓声を上げていた雪姫が菊次郎を見上げた。虎千代丸も怪訝な顔をしている。


「しっ!」


 田鶴が小声で口の前に指を立てた。少女は考え込んだ菊次郎をしばらく見守っていたが、やがてこぶし大の雪玉を四つ手の上の大きな葉にのせた二人を連れて、静かにその場をあとにした。


「あれっ?」


 降り出した雪に菊次郎が我に返った時には、既に三人は大広間の前にいた。


「待ってくれ! すぐ行くから!」


 叫んで手を振り、慌てて追いかけて走り出した菊次郎は、雪姫が風邪を引かないかと心配しながらも、足取りは軽かった。

 もう少し考える必要があるが、既に作戦の概略(がいりゃく)は頭の中にできあがっていた。菊次郎は姉弟を妙姫のところに連れて行ったら、恐らくそこにいる直春と、どこかの部屋で酒を飲んでいるに違いない忠賢に、この作戦を話して意見を聞こうと思った。

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