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狼達の花宴 ~大軍師伝~  作者: 花和郁
巻の七 守る者たち
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(巻の七 守る者たち) 第一章 不流橋

『狼達の花宴』 巻の七 吼狼国図

挿絵(By みてみん)


『狼達の花宴』 巻の七 足の国北部図

挿絵(By みてみん)


「もう四日目か」


 降臨暦三八二一年紫陽花月(あじさいづき)十二日。本陣にしている温泉宿の最上等室で、増富(ますとみ)持康(もちやす)朝餉(あさげ)(かゆ)をすすりながら、近習(きんじゅう)たちに甲冑(かっちゅう)を着せてもらっていた。


「今日こそは落としたいものだが」


 板廊下の先に見上げる丘の上には、陽光寺(ようこうじ)砦の高い城壁が朝日を後ろから浴びて黒く突き立っている。市射(いちい)孝貫(たかつら)隊と近隣の武者合わせて三千ほどが()もっていて、夜通し()かれたかがり火が明るくなっていく空に負けじと最後の光を放っていた。増富軍は包囲して攻撃を繰り返しているが、損害が増えるばかりで陥落させる目途(めど)は立っていない。


「直春の小僧が来る前にどうにかせねば」


 桜舘(さくらだて)軍は既に豊津(とよつ)城を出発しているだろう。


「こやつらを見逃すことはできぬのだ」


 昨年も槍峰国(やりみねのくに)外様(とざま)衆が直春に内通し、持康は討伐しようとして合戦に大敗、多くの領地を失った。今回はより深刻で、よりにもよって膝元(ひざもと)万羽国(よろずはのくに)の武家が寝返ったのだ。今度こそ見せしめにしないと動揺が広がりかねない。


「うまく落とす手はないか」


 こういう時に役立ちそうな家臣が思い当たらず、桜舘(さくらだて)家に去ったあの男を思い出して苦い顔をしていると、にわかに外が騒がしくなった。


「て、敵襲でございます!」


 武者が廊下を走ってきて、慌てた様子で片膝をついた。


「南から敵が襲来しました。寝ずの番をしていた者たちが応戦し、起き始めていた者たちも急いで(いくさ)支度をしております」

「敵の数は! 将は誰だ! 正確に申せ! どこから来た敵だ!」


 持康が怒鳴ると、言葉に詰まった武者にかわって落ち着いた声が答えた。


「騎馬武者一千、のぼり旗は安瀬名(あぜな)数軌(かずのり)(かち)武者一千三百から四百、こちらは小薙(こなぎ)敏廉(としかど)です」


 いつの間にか部屋の入口に護衛役の渋搗(しぶつき)為続(ためつぐ)が控えていた。既に甲冑を身に付けている。矛木(ほこぎ)権瑞(ごんずい)が付け足した。


「昨日から近くに来ていた敵の援軍ですな」


 三十八歳のこの(ほお)ひげの男は、持康が創設した護衛隊(ごえいたい)一千の副頭(ふくがしら)だ。


「二千ほどか。少ないな」

「大殿の敵ではございますまい」


 追従(ついしょう)を言った権瑞(ごんずい)をちらりと見やると、為続は主君の言葉に同意した。


「はい。矢を射かけ、油玉で我が陣地の柵を焼くだけで近付いてきません。我が軍は九千余、様子を探るための攻撃と存じます。迎撃の準備はすぐに整いますが、出陣なさいますか」


 持康は少し考え、頷いた。


「打って出る。援軍をつぶせば砦の中の連中はがっかりするだろう。敵の数が少ないうちにたたいておきたい」

「大殿ならば必ずや勝利なさいましょう」


 権瑞に為続はまた目を向けたが頭を下げた。


「かしこまりました。では、ご準備をお願いいたします」


 護衛役の視線で食事中だったことに持康は気が付き、急いで粥をかき込み茶で飲み下すと、(はし)を投げ捨てて立ち上がった。


「出陣だ! わしが先頭に立つ!」

「ははっ!」


 まわりにいた全員が低頭(ていとう)して返事をした。為続と権瑞が廊下を先導する。屋敷の門前には既に豪華な(くら)を置いた愛馬が待っていた。追ってきた近習から(かぶと)を受け取って頭を覆うと騎乗した。


「行くぞ! ついて来い!」


 おおう、と武者たちが叫び、門が開かれた。持康と近習たちが外に出ると、多くの武者が追い越して敵に向かっていく。


「敵は逃げ出しましたぞ! 大殿御自(おんみずか)らのお出ましに恐れおののいたようですな」


 権瑞の言葉通り、出撃してきたことに桜舘軍は驚いた様子で、やや逡巡(しゅんじゅん)したのち背を向けた。小薙隊は東へ、安瀬名の騎馬隊は北へ去っていこうとする。


「追え! 捕まえて食らい付け!」


 打撃を与えるつもりで出てきたのだ。()がしはしない。安瀬名隊は浮草(うきくさ)栄起(ひでおき)の騎馬隊二千に任せ、持康は護衛隊一千とその他二千を率いて小薙隊に向かった。護衛隊は新設されたばかりで初陣なので、皆気負(きお)っている。浪人から領地なしの金銭払いとはいえ正規の武者になれたのだ。


「手柄を立てればもっと出世できるぞ!」


 権瑞も彼等を盛んに鼓舞(こぶ)している。


「なかなか追い付けないな」


 小薙隊は見えなくなりそうなぎりぎりをかなりの速度で逃げていく。持康はいらいらし始め、権瑞も舌打ちした。


「どうやら軽装だったようです。肩当てなどがはずされていますな」

「妙です。まるで逃げることを前提にしていたようですが……」


 つぶやいた為続は、はっとした顔になった。


「大殿、これは陽動(ようどう)かも知れません」

「どういうことだ?」


 持康は首を傾げた。


「少数で距離を置いて矢で攻撃。追いかけると二方向へ分かれ、しかも逃げる用意がありました。となりますと、本陣から武者を引き離す策略の可能性があります」

「離してどうするのだ?」


 不思議そうな持康に、為続は顔をゆがめた。


「昨日到着した敵の援軍は三部隊、合計三千でした。もう六百、柳上(やながみ)定恭(さだゆき)の部隊が今朝の襲撃に参加しておりません」

「寝取られ男か!」


 持康は叫び、苦々しい様子になった。


「やりそうなことだな」

「噂の敵の副軍師ですか」


 権瑞の疑問を目で肯定(こうてい)して、為続は言葉を続けた。


「今頃本陣が襲われているかも知れません」

「たった六百でか? だが、あの男なら……」


 持康は未練がましく小薙隊に目を向けたが、ぐっと歯を食いしばって決断した。


「引き返そう」

「かしこまりました」


 持康は馬の手綱を引き、速度をゆるめると大声で叫んだ。


「全軍、停止!」


 すぐ後ろにいた近習が太鼓をどんどんとたたくと、武者たちはその場で立ち止まった。


「本陣へ帰るぞ!」


 持康は馬の向きを変え、道を戻り始めた。武者たちは拍子抜(ひょうしぬ)けした顔だったが太鼓の指示に従った。不満げな権瑞も反対はせず、配下を呼び集めて今来た方へ向きを変えた。

 と、逃げていたはずの小薙隊が背後から矢を射かけてきた。権瑞が敵をにらんだ。


「戻るのを邪魔するつもりのようですな」

「やはり陽動だったか!」


 持康は一千に矢で応戦させて追撃を阻ませ、二千を率いて自軍の陣地へ急いだ。


「あれは……?」


 道の先に陽光寺砦の大手門の方へ進んでいく一団があった。数十台の荷車を引いて、まわりを武者が守っている。積み荷は米俵のようで、重いためか移動はゆっくりだった。砦の中の武者も包囲陣地へ矢を注ぎ、迎え入れるために門を開こうとしている。


「兵糧を運び込むつもりだったのか! もう残り少なかったのだな」


 持康はなるほどと大きく頷き、にやりとした。


「皆の者、行くぞ! あののろまどもを蹴散らし、米を奪え!」


 言うなり馬の腹を蹴った。為続がすぐさまついていく。


「大殿に続け!」


 権瑞が叫び、武者たちが大声でわめきながら主君を囲んで走っていった。


「しまった! 戻ってくるのが早すぎる。引き離すのに失敗したか!」


 定恭(さだゆき)が馬上で振り返って慌てている。


「くっ、これは勝てないな……。やむを得ぬ。荷物は放棄しろ! 敵に渡すのは(しゃく)だから、地面に投げ捨てて火を放て!」


 定恭が大声で命じると、武者たちは顔を見合わせて迷ったが、近付く持康たちを見て米俵を支える縄を切り始めた。地面に落とし、荷車もひっくり返して油玉を投げつけていく。


「逃げろ! 森の方へ戻れ!」


 定恭は馬首を返し、南へ向かって走り出した。荷物がなくなった武者たちも急いで後を追う。


「全員殺せ! たたきのめせ!」

「手柄を立てるのは今だぞ!」


 持康は叫び、権瑞も必死に馬を飛ばしたが、細い道に荷車が横転し、米俵がばらまかれて燃え上がっている。(たきぎ)の束もあり、縄を切られて散乱し、火と煙の壁ができていた。


「ちいっ、邪魔だ!」


 荷車に突っ込みそうになった持康は慌てて馬を止めた。武者たちも障害物のせいで歩くのに苦労している。その間に定恭隊は道を折れ、林の(かげ)に入って見えなくなった。


「逃がしたか!」


 持康は悔しげに(うな)り、権瑞はいまいましげに米俵を馬上から蹴飛ばした。為続はやや遅れて到着し、落ち着いた声で指示を出した。


「火を消せ! 無事な米は回収せよ!」


 武者たちは米俵を集め、荷車を起こして積み始めた。


「思ったより燃えたものは少ないようですな。よほど慌てていたと見えますぞ」


 権瑞が言うと、持康は上機嫌に期待する様子で()うた。


「これは勝利だな? 兵糧を奪い、砦に入れさせなかったぞ?」

「もちろん、疑いなく大勝利ですな。おめでとうございます」


 権瑞は即座に祝福し、為続は一瞬迷ったが答えた。


「はい、勝利でございましょう。定恭の目論見(もくろみ)を見破り、(はば)むことができました」

「そうだ。寝取られ男は失敗した。しっぽを巻いて逃げていった。俺はあいつに勝ったのだ!」


 為続は何かを言いかけてぐっとのみ込むと、腹をくくった様子でぎこちない笑みを作った。


「大殿が引き返すご決断を素早くなさったからでございますね。これであの砦も落ちましょう。兵糧が足りず、運び込みも失敗したとなれば、降伏勧告に応じるかも知れません。今回戦った敵の援軍はほとんど無傷ですので、警戒は必要でございますが」

「それはそうだな。だが、この戦、勝利が見えたぞ!」


 力攻めで損害が増えて士気が落ち始めていたが、武者たちも元気を取り戻すだろう。何せあのお米役に勝ったのだ。すかさず権瑞が大げさに感心してみせた。


「大殿の強さが証明されましたな。名将の(あざ)やかな戦いぶりに、敵も肝を冷やしたに違いございませぬ」

「その通りだ。ざまあみろ! 裏切り者どもめ、すぐに殺してやるぞ!」


 うれしそうな持康の大声と武者たちの歓声(かんせい)の中、為続は誰にも聞かれぬようにつぶやいた。


「何かがおかしい。敵の策に乗せられているような気がする。本当に勝ったのだろうか。あいつが相手だと確信が持てないのが不愉快だ」


 定恭隊が消えていった道の方を見つめて、為続は苦い顔をしていた。



 五日後の十七日、市射(いちい)孝貫(たかつら)と定恭・数軌(かずのり)敏廉(としかど)は直春と面会していた。


「定恭殿、さすがだな。増富軍に力攻めをやめさせるとは。おかげで砦を落とされずにすんだ」


 主君に称賛(しょうさん)されて、定恭は謙遜(けんそん)した。


「菊次郎殿に頼まれたのです。持康様は単純なお方なので、だますのは難しくありませんでした」

「僕たちが到着するまで時間を稼いでほしいとお願いしただけで、方法は伝えませんでした。これは定恭さんの知恵ですよ」


 菊次郎も感嘆(かんたん)していた。


「陽光寺砦の堅固(けんご)さを増富軍はよく分かっています。兵糧が足りないのなら、これ以上犠牲(ぎせい)を出さなくても包囲と交渉で落とせると思わせたわけですね。本当は一年分の米があったのですが」


 あの砦は豊津や茅生国(ちふのくに)と外様衆のいる槍峰国をつなぐ要衝(ようしょう)で、特にしっかりと備えをしてある。付近に領地を持つ武家だけでなく、市射・錦木(にしきぎ)泉代(いずしろ)の三家老が交代で駐屯(ちゅうとん)しているくらいなのだ。


「定恭さんに勝てたことに持康公は有頂天(うちょうてん)になったでしょうから、だまされた可能性に気が付いた人がいても言い出せなかったでしょうね」

「孝貫公の交渉の引き延ばし方もなかなか見事でした」


 定恭は微笑んでいた。


「迷ったふりで条件を何度も変えて、持康様をやきもきさせていましたよ」

「目的は分かるけど、敵に兵糧を渡してしまってよかったの?」


 田鶴(たづる)は納得できないようだ。


「お米をわざと焼くなんて」

「僕たちの接近を知った持康公は撤退を急ぎ、多くの米俵を陣地に残していきましたから、上回る分を取り戻していますよ」


 菊次郎はなだめた。直冬も言った。


怪我人(けがにん)を減らすためだよ。米俵は障害物になるし、敵が興味を引かれて足を止めるはず。だから追撃を振り切ってうまく逃げられたんだよ」


「それは分かるけど……」


 直冬の奥方になっても、食べ物を粗末にするのが嫌いなのは変わらないようだった。


「とにかく、よくやってくれた」


 直春がほめた。


「砦を守りきれたのは孝貫殿の奮戦と君たち三人の協力があったからだ。素晴らしい働きだった」


 敏廉と数軌は喜色(きしょく)(あら)わにし、孝貫と定恭もまんざらではない顔だった。


「もちろん、売川(うりかわ)殿もだ」


 名を呼ばれた武将は、直春の前に片膝をついた。野外なので平伏はしない。


「売川章紹(あきつぐ)でございます。砦に迎え入れていただき、援軍にも来てくださり、心より感謝申し上げます。国主(こくしゅ)様に絶対の忠誠をお誓いいたします」

「これからよろしく頼む。あなたの一族を当家は歓迎し、必ずお守りする」


 章紹は菊次郎たちのやり取りを緊張した様子で聞いていたが、直春の言葉にほっとした表情になった。この三十四歳の武将の年の離れた妹が、今回の戦のきっかけだったのだ。


 昨年の初夏、氷茨(ひいばら)元尊(もとたか)の侵攻を撃退した直春は、再び万羽国へ出陣した。菊次郎と定恭の献策に従って三つの砦を新たに建設、武者を配置し、豊津へ連絡する鳩やのろしの施設を整えて守りを固めた。

 増富持康は寝返った外様衆の討伐と陽光寺砦や奪われた領地の奪還をねらっていたが、桜舘軍と(とざし)城のはち()()儀久(のりひさ)連携(れんけい)には隙がなく、領内に境界線が引かれるのをただ眺めているしかなかった。為続や()軍師の箱部(はこべ)守篤(もりあつ)は対抗して砦を作ることを提案、街道の交わる地点や橋などの要所に五ヶ所を新設した。


 互いの勢力圏が確定すると、直春と儀久は軍勢を引き上げた。持康も五形(いつかた)城に戻り、為続や守篤や執政(しっせい)たちと相談して、増富家の立て直しに乗り出した。

 持康がまず布告したのは新税の創設だった。貫高(かんだか)に応じて新旧外様全ての家に金銭の上納(じょうのう)を命じたのだ。大敗で低下した戦力を回復し、砦建設の費用をまかなうためだった。

 これには大きな不満の声が上がった。たび重なる敗北で、捕虜となった親族の身代金や武具の調達修理など、家臣たちの台所事情は苦しかったし、今回の戦で境界線の向こうにあった領地を失った家も少なくなかったのだ。


 また、持康は減った武者数を補うため、浪人一千を集めて直属の護衛隊を創設した。領地や利権を持たない傭兵(ようへい)のようなものだ。そういうやり方で武者を増やした封主家があると守篤が旅の商人から聞いて進言したのだ。給金はあまり多くないが、武者になれると応募者が殺到した。増富家は落ち目とはいえ六十八万貫。足の国北部の(ゆう)であり、すぐに滅ぶとは思われていなかったのだ。

 五形(いつかた)の町のはずれに隊舎を作って駐屯させたが、彼等の素行(そこう)は悪かった。この部隊のために領民の税が重くなったこともあり、町の人々にも正規の家臣たちにも嫌われていた。


 こうした状況を利用して、定恭が流言(りゅうげん)を広めた。


旧家(きゅうけ)の誰それが桜舘家に、新家(しんけ)(なにがし)は蜂ヶ音家に内応を約束した」

「複数の外様衆が共謀(きょうぼう)し、持康の死体を手土産に宇野瀬(うのせ)家に(くだ)ろうとしている」

「為続が今度は持康の側室と通じている」

「守篤は砦の工事を()()った大工から金を受け取り、五つも作らせた」


 動揺した持康に問い詰められた為続と守篤は、家臣たちから人質を取ることを(すす)め、まず自分たちが差し出した。若い娘を側室として五形城に上げるか、息子を近習として出仕(しゅっし)させ、合戦が起きても寝返らないようにしたのだ。


 売川(うりかわ)家は五千貫、増富家ではそこそこの身代(しんだい)の旧家で、陽光寺の裏手に領地を持っている。田畑の他に広い牧場があり、牛や馬を飼い、牛肉や馬具などの皮革(ひかく)製品を(あきな)っていた。

 先年父から当主の地位を受け継いだばかりの章紹(あきつぐ)は、対応に頭を悩ませた。新税には腹が立つ。陽光寺のそばに作った新しい砦のために牧場を一つ没収された恨みもある。息子は出仕させるには(おさな)すぎた。それでも、増富家はまだまだ強大で、商売の上得意(じょうとくい)なので対立したくない。いっそ桜舘家に鞍替(くらが)えすることも考えたが、領地と牧場は大河雄川(おかわ)の西岸で、東岸の陽光寺砦とは切り離されている。


 やむなく、章紹は十六歳の妹を側室として献上することにした。娘のように可愛がり、よい婿(むこ)を取らせたいと花嫁修業に(はげ)む彼女を応援していたので、話を切り出すと活発で(ほが)らかな深美(みよし)姫がみるみる顔を暗くし、持康の悪い噂の真偽(しんぎ)を不安そうに尋ねてくる様子に胸が張り裂ける思いだったが、せめてもと立派な諸道具を整えて送り出した。


 深美(みよし)姫も武家の娘なので、自分の立場と役割は分かっている。寵愛(ちょうあい)されれば兄や家臣たちが助かるだろうと、念入りに化粧し着飾って持康の前に出た。


(おもて)を上げよ」


 平伏した深美姫が、心臓が沸騰(ふっとう)しそうな気持で上目づかいに見上げると、持康は姫の顔をじろじろ眺めて、つまらなそうな表情になった。


「この娘はいらぬ。下がらせろ」

「どうしてでございますか」


 守篤が驚いて尋ねた。


「顔が気に入らぬ。醜女(しこめ)は抱く気になれぬ」


 深美姫は衝撃のあまりその場で気を失った。侍女たちに運ばれて介抱(かいほう)を受けたが、熱を出して寝込んでしまった。慌てた守篤と為続は姫を売川家に戻すべきだと進言した。


「人質として預かったのではありますが、特例を認めましょう。売川家は旧家の名門、軍需品(ぐんじゅひん)を扱っており、配慮が必要でございます」


 この噂が世に広まったら娘を差し出すのを渋る家が出かねないと恐れたのだ。


「よかろう」


 持康は「そんな娘がいたか」と思い出せない様子だったが許可した。


「熱があるようだし、騎馬武者五百人を警護に付けてやれ」


 為続はやめた方がよいと止めたが、「鄭重に扱っていることが伝わるだろう」と持康は命じた。

 女駕籠(おんなかご)(ちょう)が五百騎に守られる大行列は何事かと注目を浴び、国主に顔を嫌われた姫君の話は(またた)()に広まった。もうお嫁に行けないと深美姫は死のうとし、章紹は必死になだめて陽光寺付属の尼寺に入ることでどうにか納得させた。

 怒ったのは売川家の人々だ。取り立てて美人とは言えないが曇りのない笑顔を愛されていた姫君に対して、あまりにもむごい仕打ちだった。章紹も腹の虫が(おさ)まらず、「あんなひどい(あるじ)はいない」と知り合い数人に不満を漏らした。それが五形城に伝わったのだ。


「恩知らずめ。不器量(ぶきりょう)な娘にあれだけ親切にしてやったのに、わしを恨むとは。ちょうどよい、わしに刃向(はむ)かったらどうなるか、見せしめにしろ」


 持康は一千の軍勢を派遣し、売川家の当主を殺して家畜を奪ってこいと命じた。

 友人の急報でそれを知った章紹は、家臣に雄川(おかわ)を泳いで渡らせ、陽光寺砦に救援を求めた。駐屯していた市射孝貫は、深美姫の噂を耳にしていたので砦に受け入れることを即断し、豊津に鳩を飛ばした。

 深夜、売川家の総勢百五十人が山裏橋(やまうらばし)砦を襲撃した。橋と対岸を見張るのが役目の守備隊は、思わぬ方角からの攻撃に驚愕し、近くに隠れていた市射隊が橋を渡って駆け付けると、ろくな抵抗もできずに砦は陥落した。市射隊の援護の(もと)、売川家の人々は橋を渡って家財と共に砦に避難し、家畜は離れた牧場に隠した。


 知らせを受けて持康は激怒(げきど)、旧家の離反を捨ててはおけぬと出陣、一万の大軍で陽光寺砦を猛攻した。市射隊など籠城した三千余りは善戦し、定恭たちの来援まで持ちこたえたのだ。


「孝貫殿の判断が早かったのがよかったんです。一千の軍勢が売川殿の屋敷に到着していたら困難な事態になっていたでしょう」


 菊次郎が言うと、孝貫はにこやかに返答した。


「直春公なら救いなさいとおっしゃるに違いありませんからな」


 もっともだと皆が頷いた。実際、直春は鄭重に保護せよ、急いで駆け付けると返事を送り、ただちに軍勢を集めて出陣したのだ。


「しかしまさか、大滝(おおたき)砦を一日で落とすとは想像しませんでした」


 定恭は軍学好きの顔をしていた。


「さすがは菊次郎殿ですね」


 直春は万羽国に近い者たちに孝貫の救援を命じる一方、自分は南国街道を途中で折れて、白鷺川(しらさぎがわ)(ひざし)(うみ)から流れ出るところにある巣立(すだち)の大滝へ向かった。守篤と為続は直春が出てくると予想し、南国街道を(やく)する南備(みなみそなえ)砦に援軍を送っていたが、菊次郎は裏をかいて湖の西岸を北上しようとしたのだ。


「我々は先を急いでいる! 明日総攻撃して一気に押しつぶすぞ! 命を()しむな、時間を惜しめ!」


 滝に着くと、棉刈(わたかり)重毅(しげかつ)()(がね)のような大声で数十回も叫ばせ、九千一百の武者と小荷駄(こにだ)隊にも繰り返し(とき)の声を上げさせた。翌朝全軍で砦に接近し、組み立て式の小型投石機と手で振り回す投石ひもを使って、無数の煙玉を砦の中に投げ込んだ。


「総員突撃! 一気にぶち破れ!」

「ぶち破れ! ぶち破れ!」


 直春が叫び、全員が出せる限りの大声を上げて砦に迫ると、一気に門を破壊、砦になだれ込んだ。


「中はもぬけの殻です!」


 突入した泉代隊から報告を受けた直春は、菊次郎を振り返った。


「策が当たったな」


 この砦の守備隊は一千にすぎず、持康など主力は陽光寺砦にいて援軍はしばらく期待できなかった。九倍の相手が損害を恐れず全力で攻撃すると宣言していたところに、砦に煙が充満して戦闘が困難なほどになったのだ。守将(しゅしょう)が諦めて脱出したのは責められないだろう。そうして、たった八日で万羽国に到着したのだ。


「強引な力攻めのような多くの死傷者が出る作戦を菊次郎君が進言するはずはないがな」


 直春が笑うと定恭が頷き、諸将も笑みを浮かべた。


「それで、この先のことだ。ここをどうやって突破しようか」


 直春の視線の先には大きな川と立派な橋がある。大滝砦の陥落に驚いた持康は、直春隊に退路を断たれるのを恐れて陽光寺砦の包囲を解き、雄川(おかわ)を渡って橋を焼くと、さらに雌川(めかわ)も渡って不流橋(ふりゅうばし)の対岸に陣を()いたのだ。


「この橋を渡れば五形の町は目の前です。ここで迎え撃つようですね」


 直春たちは定恭他三隊と合流し、この川岸までやってきていた。


「この場所で合戦になるだろう。持康を撃破し、五形城へ進軍する」


 直春と菊次郎は今回の出陣で増富家を滅ぼすつもりだった。旧家の離反は大きな衝撃を与えたはずで、売川家の領地を取り戻すためにも、この機会に決着をつけたかった。


「持康公は途中の砦の守備隊を集め、南備(みなみそなえ)砦からも武者を呼び戻して数を増やしました。約一万三千七百、こちらを一千五百ほど上回ります」


 持康は橋の向こう側と左右の土手と河原に武者を配置した。ねらいは明白で、渡ってくる桜舘軍を包囲して攻撃しようというのだ。


「一度に渡れる数は少ないですので、真っ正直に橋を進めば少数の味方が多数の敵に三方から袋叩きにされます」

「もちろん、真っ正直じゃないんだろ?」


 忠賢(ただかた)がにやりとした。


「敵のねらい通りに行動してあげる義理はありませんね。そこで……」


 菊次郎は作戦を説明した。定恭はこの場にいないが、二人で相談して考えたものだ。


「なるほど。結構無茶だが、なんとか行けるだろうぜ」


 忠賢は納得したようだ。


「責任重大ですね」


 武者震いした直冬の手を田鶴がそっと握った。


「しっかりね」

「うん」


 夫婦仲は周囲がうらやむほど良好だ。田鶴は背に直冬が贈った朱色の弓と矢を背負っている。


「小荷駄隊は君に預ける。重要な任務だ。頼むぞ」

「はっ、お任せください!」


 織藤(おりふじ)昭恒(あきつね)はかしこまって一礼した。


「では、始めようか」


 直春の言葉を合図に、諸将はそれぞれの持ち場へ散っていった。



「まだ直春の小僧は渡ってこないのか」


 不流橋(ふりゅうばし)を正面に見る本陣で、持康は待ちくたびれていた。


「敵軍師はじらすのを好みます。焦ってはなりません」


 為続がなだめると、()軍師の箱部(はこべ)守篤(もりあつ)も言った。


「この大軍が待ち構えているのですから、渡るのをためらうのは頷けます。辛抱のしどころと存じます」

「大殿をよほど恐れているのですな」


 権瑞が()びた口ぶりで言った。


「かも知れん」


 疲労感の半分が、どんな奇抜な手で来るか分からない相手への恐れのせいであることを、持康は自覚していない。


「桜舘軍が移動しています!」


 物見の武者が走ってきて報告した。


「どこへだ? どのくらいの数だ?」


 持康はけだるそうに尋ねた。


「上流と下流へそれぞれ数千、土手の下の林の裏を進んでいるようです」


 木が邪魔ではっきり見えないが、旗や槍の数からすると三千ずつはいそうだという。


「どこへ行くのですかな」


 よその土地から来た権瑞はこの辺りの地勢(ちせい)に詳しくない。


「川上と川下……?」


 つぶやいて、為続がはっとした顔になった。


「恐らく浅瀬です。浅瀬で渡河(とか)するつもりなのです」

「そんなものがあるのか」


 持康は驚いた。


「はい。橋があるので地元の者しか使いませんが、水位が胸までの場所が上流下流両方にございます。やや距離があり、上流は橋から一刻、下流は二刻以上かかります」


 為続は子供の頃雌川(めかわ)のほとりでよく遊んだらしい。


「橋で迎え撃つ作戦は失敗したのか」


 持康は不安そうな顔になった。


「重い鎧を着た武者は浮かないから、橋を渡るしかないと言ったではないか」


 雌川は同じく(ひざし)(うみ)から流れ出る雄川と比べると水が少なく幅も狭い。それでも、長屋を三つ並べたくらいの水面を同程度の広さの河原が両側から挟んでいる。水深も比較的浅いこの橋の付近でさえ、大人の頭がすっかり隠れるくらいある。騎馬武者でも渡るのは難しいだろう。


「まさか浅瀬の位置を知っている者がいるとは思いませんでした。売川の連中かも知れませんな」


 為続は意外そうだった。


水底(みなそこ)に石を積み上げただけの場所で、人一人がようやく通れるほどの幅です。すれ違うのさえ難しく、大勢を渡すならやはりこの橋でしょう」


 不流橋は石垣で補強された楕円形(だえんけい)橋脚(きょうきゃく)五つに木製の橋桁(はしげた)を渡した立派な造りで、荷車が二台並んで通れる幅がある。


「この橋は当家と五形の町衆の誇りでございます」


 雌川の湖からの流出口は下は狭いが上が広くなっていて、雪どけや大雨で水位が上がると突然大量の水が流れ下る。橋をかけてもすぐに壊れてしまう暴れ川だったが、数代前の増富家当主が商人たちの協力を得て頑丈な橋を作ったのだ。


「浅瀬に迂回させた軍勢で、我が軍の側面を突くつもりかも知れません」

「それはまずいではないか!」


 持康がつい大声を出すと、守篤が冷静に指摘した。


「見方を変えれば、敵は軍勢を分散させたわけです。橋の周辺の敵は減ったはずです」

「ならば、こちらから渡っていって斬り込むか!」


 持康は腰を浮かせかけたが、為続は賛成しなかった。


「それが敵の(わな)かも知れません。不用意に動くべきではないでしょう」

「では、浅瀬に向かった敵はどうする」

「こちらも部隊を派遣して防がせましょう。橋の前に三方包囲陣を()いていれば、数が多少減っても渡ってくる敵を十分打ち破れます」


 持康が側面へ迂回されることを恐れていると察して、為続は進言した。


「こちらの数が減ったのを見て桜舘軍がこの陣に突っ込んでくれば、我が軍の勝利です」

「それはよいな」


 持康はほっとした顔になり、本陣にいる武将二人に命じた。


矢之根(やのね)壮克(たかかつ)面高(おもだか)求紀(もとのり)、それぞれ二千五百を率いて浅瀬へ向かえ。決して渡らせるな」


 二人は頭を下げて本陣を出ていった。自分の配下を連れて離れていく。


「少し多すぎる気もするが」


 見送りながら為続がつぶやくと、守篤がささやいた。


「あれくらいいないと渡られてしまうかも知れません」

「そうですな」


 一万三千七百の三分の一がこの場を離れたが、雌川を越えられる可能性はなくしておきたい。五形の町へ攻め込まれたら増富家の威信は地に落ちる。民の支持を失いかねないし、離反する家臣が出るかも知れない。


「当家が滅んだら我々は終わりです」


 為続は硬い顔でこぶしを握った。多くの家臣は桜舘家に仕えるだろうが、定恭にひどい仕打ちをした二人を直春は受け入れないだろう。


「俺はただ、家業を守りたいだけなんですよ」


 守篤はよく分かると頷いた。


「私も生き延びたいだけです」


 直春が非道(ひどう)を憎み()(あつ)い立派な人物であることが、彼等を追い詰めていた。



 面高(おもだか)求紀(もとのり)は二刻ほど歩いて下流の浅瀬にやってきた。


「案内がいなければ分からないようなところだな」


 看板もなく、道ができているわけでもない。知った上で眺めてもただの河原と水面に見える。


「だが、間違いないようだ。もうすぐここに来るはずだ」


 急いだかいあって、桜舘軍を追い抜いて先に到着することができた。


「よし、お前たち、向こう岸へ行って敵の様子を見てこい」


 求紀の命令で徒武者十人が土手を()り、胸までつかって縦一列で渡っていった。河原に出ると川沿いの林に身を隠しながら、橋の方角へ進んでいく。

 求紀は二千五百を呼び集め、整列させた。紫陽花月(あじさいづき)半ばの太陽はじりじりと照り付け、長い行軍に皆汗だくだった。


「何とか間に合ったな」


 渡ってくる敵を迎え撃つ陣を作り終わった頃、対岸にいた十人が戻ってきた。随分を慌てている様子で、急いで川を横切り、走って土手を登ってきた。


「ご苦労だった。何を見てきた?」


 求紀がねぎらって尋ねると、武者は体から水をしたたらせながら荒い息で報告した。


偽兵(ぎへい)です!」

「なに?」

「対岸の敵は全て小荷駄隊でした。年若い者ばかりで、旗や隊列など軍勢を(よそお)っていましたが、槍に見えた輝くものは木の棒の先に結んだ包丁や脇差(わきざし)です。鎧は予備のものらしく、着ていない者も多く、明らかに正規の武者ではありません!」

「つまり、敵に引っかけられたのか!」


 求紀は数回(まばた)きをして、ようやく事態を理解した。


「こちらの兵力を分散させるつもりか! 大殿が危ない!」


 軍勢の方を振り向いて叫んだ。


「すぐに橋に引き返すぞ! 早足だ!」


 言うなり、馬に飛び乗って先頭に立った。


「また歩いて二刻はかかる。勝負がつく前に戻らなければ。間に合ってくれ!」


 まんまと戦場から遠ざけられた。自分がいない間に合戦が終わってしまったら間抜けなことこの上ない。命じたのは持康と軍師二人だが、自分も笑われるだろう。

 求紀は再び(ひたい)に浮かび出した汗をぬぐいながら馬を歩かせ続けた。



 その一刻ほど前、上流の浅瀬に到着した矢之根(やのね)壮克(たかかつ)は、やはり迎撃の陣を布きつつ対岸の様子を探らせていた。


「なにっ、敵の半数は小荷駄隊だと?」


 戻ってきた物見の武者の報告に壮克(たかかつ)は目をむいた。


(はか)られたか。もしや下流も同じか」


 舌打ちして、確認のために問い返した。


「しかし、半分は本物の騎馬隊なのだな?」

「はい。数は二千ほど。約三千の徒武者は小荷駄隊が偽装したものでしたが、騎馬隊は正規の武者で、青い(よろい)(かぶと)の武将が率いておりました」

青峰(あおみね)忠賢か」


 壮克は考える顔になった。


「小荷駄隊はこちらの武者を分散させるおとりに違いないが、ここで引き返せば青峰隊を渡河させてしまうな」


 騎馬隊なら素早く川を渡れるし、短時間で橋のそばの本陣まで駆けていける。


「橋の方の様子が気になるが、ここにとどまるしかないか」


 騎馬隊の渡河に備えよと指示して対岸の様子を注視していると、小荷駄隊らしい甲冑を着ていない若者が十人ほど土手を越えて河原に出てきた。何かを(かつ)いだまま水に入っていく。浅瀬ではなく川の中にだ。


「あれはいかだか?」


 木を並べて縄で縛り合わせたものに、青峰隊の旗を立ててある。人が乗るには小さかった。


「遊びとも思えないが……。何かの合図か?」


 十人はいかだを水に浮かべて下流へ流すと、旗が倒れないか心配そうに見送り、また岸に上がって土手の向こうに消えていった。


「一体どんな意味があったのだ? 騎馬隊はじっとしているようだが、ここまで何をしに来たのか。馬に草を食わせるためではあるまい」


 壮克はさらに警戒を厳重にさせたが、対岸の桜舘軍にしばらく動きはなかった。


「ようやく出てきたな。いなくなったかと思ったぞ」


 待つことに飽きて武者たちがいらいらし始めた頃、再び小荷駄隊が河原に下りてきた。多数の荷車を引いている。


「今度は三千人全てか。何をするつもりだ?」


 やっと事態が動くかと壮克は内心ほっとしたが、すぐに不審(ふしん)と不安でいっぱいになった。


「川の神への(そな)え物か? いや、まさかな。何かねらいがあるのか……?」


 小荷駄隊は次々に水に入ると、草をばらまき始めた。両手に抱えたものを全て水に投じると、荷車に走って戻り、積んである草の束を持ってきて、縄をほどいてぶちまける。三千人がひたすらそれを繰り返している。荷車五百台に満載されていた草が、水面を覆ってどんどん下流へ流されていった。


「あんなことをして何になるのだ? 敵の大軍師の策か。それとも定恭殿か。ううむ、分からぬ」


 唸っているのは壮克だけではない。武者たちも一様に興味と困惑の混じり合った表情を浮かべて川を見つめていた。小荷駄隊を攻撃するのは大神(おおかみ)様の教えに反するし、川へ入っていけば騎馬隊が出てくるに違いなく、それが敵のねらいかも知れないので見守るしかなかったのだ。


「て、敵襲!」

「なにっ!」


 小荷駄隊の行動をぼんやり眺めていた壮克隊を、突然石の雨が襲った。


「どこからの攻撃だ? これは河原の石か!」


 武者たちが驚愕して騒ぐところへ、背後で大きな(とき)の声が上がった。


「敵はお尻をさらしているぞ! 突撃せよ!」

「この声は定恭殿か!」


 慌てて振り返ると、緑の鎧を着た徒武者六百が、投石ひもを腰に戻し、槍を握って駆けてくる。


「しまった、背後に回られた! いつの間にこちらの岸に渡ったのだ!」


 後方を警戒せよと叫んだが、既に遅かった。柳上(やながみ)隊は一糸乱れぬ動きで矢之根(やのね)隊に迫り、槍を突き込んだ。


「くっ、こんなにそばに来るまで気付かぬとは! 敵の小荷駄隊に気を取られていたせいだ!」


 悔しかったがそれどころではない。急いで態勢を立て直そうとした時、川の方で先程を上回る大きな鬨の声が聞こえた。


「行くぞ、野郎ども! 遅れるんじゃないぞ!」


 向こう岸の土手を騎馬隊が駆け下りてくる。先頭は青い鎧の武将だ。一気に河原を走り、浅瀬に飛び込むと速度を落とさずに渡りきり、矢之根隊に突っ込んできた。


「敵将はこの時を待っていたのか!」


 忠賢に続いて騎馬武者が次々に川を越え、斬り込み、突き崩した。


「前と後ろ、どちらと戦えばよいのですか! ご指示を!」


 矢之根隊は混乱し、集合や冷静を呼びかける武者(がしら)の必死の声は全く届いていない。


「これはもう駄目だ。全員、いったん離脱せよ!」


 猛将と評される壮克だが、引き時はわきまえていた。こうなっては手の打ちようがない。壊滅を避けるには逃げるしかなかった。完全に策にはめられた。敵の軍師たちの恐ろしさはよく分かっていたはずなのに。


「逃げろ! 逃げろ! ついて来い!」


 壮克は川から離れる方向に馬を走らせ、大声で叫び続けた。大殿が心配だが、今は生き延びるだけで精一杯だ。追撃を振り切れたら武者をまとめて戦場に戻ってくればよい。

 二千五百の徒武者は悲鳴を上げて我先にと走り、川べりからいなくなった。


「うまくいったな」


 笛を吹かせ、武者たちに追撃をやめて集まるように指示すると、忠賢は定恭に近付いた。


「意外な行動をすれば不思議に思って注目し、周囲への警戒がゆるくなる、か。お前の言った通りになったな」

「思った以上にうまく行き、ほっとしました」


 定恭は微笑んだ。六百人は夜の間に浅瀬を渡って石を拾い、近くの森に隠れていたのだ。


「それに、奇襲と挟撃はおまけです」

「菊次郎の策はここからが本番だな。あの敵は草をまいた理由が分からなかったみたいだぜ。気付いてたらあっちへは逃げないだろ」

「そろそろ始まっているでしょうね」

「俺も向かうぜ。おいしいところを持ってかれないうちにな」


 忠賢はにやりとすると、馬首を返した。


「じゃあな」

「こちらも移動します」

「おう。成功を祈るぜ」


 忠賢は馬上で手を振ると、槍を天に突き上げた。


「野郎ども、次の獲物を狩りにいくぞ!」


 おおう、と勝利に勢い付いた騎馬武者たちが大声で答え、二千一百の騎馬隊は川下へ走り出した。


「あちらは菊次郎殿に任せて、我々は予定の地点へ進出しましょう」


 定恭も武者をまとめると、忠賢とは違う方へ道を進んでいった。



『狼達の花宴』 巻の七 不流橋の合戦図

挿絵(By みてみん)


「合図のいかだです!」


 楡本(にれもと)友茂(ともしげ)が振り向いた。目のよい柏火(かしわび)光風(みつかぜ)が見付けて指さしたのを知らせたのだ。川を青峰隊の旗が漂ってくる。


「では、始めましょうか」


 菊次郎は直春にもらった黒い軍配を帯から抜いた。不流橋は河原と水を越えて両岸の土手の上を結んでいる。付近で一番の高所である橋の前で川を見張っていたのだ。


「お願いします!」


 軍配を大きく振ると、橋の左側、つまり上流の方でこちらを見ていた小薙敏廉が麾下(きか)の一千四百に命じた。


「燃やせ!」


 広い河原に用意されていた多数の焚火に火がつけられた。煙の出やすい草をたくさん混ぜてあり、たちまち辺りが白くなる。もくもくと立ち上った煙は、初夏の風に乗って川や橋の方へ流れていった。


投擲(とうてき)開始!」


 菊次郎が指示すると、橋の前に陣取る錦木(にしきぎ)仲宣(なかのぶ)隊の武者たちが投石ひもで煙玉と油玉を対岸に大量に投げ始めた。土手の上の組み立て式の投石機も同じものをばらまいた。


「河原にいた敵武者が土手に上がっていくね。草に火がついたんだ。燃え広がっていくよ」


 笹町(ささまち)則理(のりまさ)は対岸の河原が煙と火で覆われていくのをじっと見つめている。


「増富軍にほとんど損害はないみたいだね」

「それでいいんですよ。敵が河原からいなくなり、川面(かわも)が見えなくなれば」


 蕨里(わらびさと)安民(やすたみ)が確認するように視線を向けたので、菊次郎はその通りと頷いた。


「敵は橋を警戒しているようです」


 楡本(にれもと)友茂(ともしげ)が言った。増富軍の武者たちは槍や盾を構えて緊張し、間を伝令らしい武者が走り回っている。


「煙にまぎれて渡ってくると思っているんだろうね」


 笹町(ささまち)則理(のりまさ)は愉快そうな口ぶりだ。


「そんなに菊次郎様は単純ではありません」


 蕨里(わらびさと)安民(やすたみ)の言葉に柏火(かしわび)光風(みつかぜ)が無言で同意を示した。


「でも、期待には(こた)えてあげましょうか」


 菊次郎の合図で、錦木(にしきぎ)仲宣(なかのぶ)隊が鬨の声を上げ始めた。おう、おう、おおう、と、こぶしを振り上げながら声をそろえて叫んでいる。小薙敏廉隊も加わり、さらに激しくなる。やがて、増富軍も張り合うように一層大きな声で叫び返してきた。


「敵の注意は声を上げる部隊に向いています。そろそろいいでしょう」


 安民(やすたみ)が竹の横笛を吹くと、両軍の雄叫(おたけ)びが(とどろ)く中、上流側の土手から三十人の男と荷車三台が現れ、河原に下りてきた。男のたちは下帯一枚で、五人が馬五頭を連れて川に入っていった。馬たちの腰に結ばれた(わら)の縄はすぐ後ろで一本の太い(つな)を引っ張っていて、水際(みずぎわ)の荷車から男たちが続きをどんどん繰り出している。


「売川衆のお手並みを拝見しましょう」


 武者として働く時以外は牧場で馬や牛を追いかけているので、慣れた様子で馬を歩かせて川の中ほどへ進んでいく。足が付かなくなると男たちと馬は泳ぎ始めた。太い綱には一定の間隔で短く切った丸太の浮きが縛り付けてあり、沈まないようになっている。


「対岸から狙われないでしょうか」


 友茂(ともしげ)は心配そうだ。


「裸で武装していないことは明らかですから、小荷駄隊と思われて攻撃されないと思います。たった五人ですし。向こうからあの人たちの姿がはっきり見えていればの話ですが」


 鬨の声と煙玉の投擲は続いている。対岸の燃えている草とこちらの河原の焚火も煙を吐き出し続けていた。水から出ているのは頭だけだし、土手の上からねらっても矢は当たらないだろう。


「火と煙で河原には下りられません。まずは様子を見て、こちらの目的が分かってから、必要なら綱を切りにいこうと考えていると思います」

「でしたら、うまく行きますね」


 友茂は顔を明るくして、男たちを見守った。


「大分流されたね」

「でも、たどり着きました」


 則理(のりまさ)安民(やすたみ)安堵(あんど)の息を吐いた。上流の離れたところから川に入ったのに、流れがあるので橋の手前ぎりぎりで対岸に到達した。不流橋には五本の橋脚があるが、対岸の一番奥の柱の石垣を回って橋の下流側に出ると、菊次郎たちの方へ戻ってくる。男と馬がこちらの河原に上がると、待ち構えていた男たちが綱に群がり、ぐいぐいと引っ張り始めた。ぴんと張った綱と丸太の列を裸の十人ほどが支えながら泳ぎ、先頭の丸太が対岸の一番奥の橋脚に達すると、男たちは綱をこちらの岸の最も手前の柱に(しば)り付けた。


「できたようです。間に合いましたね」


 友茂(ともしげ)が言った時、上流から大量の草が流れてきた。男の一人が大きな笛を吹くと、川の中で綱につかまっていた男たちが、丸太の下の結び目をほどいた。


「丸太の浮きを付けた魚()り用の(あみ)ですか」

「二枚重ねにし、川の幅だけつなげて長くしてありますよ」


 ばらりと広がり川底に届いた大きな網に、無数の草がどんどんからみ付いていく。目の細かな網はたちまち草で覆われて橋に張り付き、緑色の(せき)ができ上がった。


「水位が上がっていくよ!」

「こちらは下がっていますよ!」


 則理(のりまさ)安民(やすたみ)が興奮して報告した。橋を境に上流側はせき止められて水面が上昇し、下流側はわずかに下降した。網なので大部分が通り抜けてしまうが、それでも下流側は水が減ったのだ。本来水は対岸の二番目の橋脚からこちらの二番目までだが、一番奥から一番手前まで、丸太の列と同じ幅に水面が広がっている。網の堰で道を塞がれた魚たちが水の上で飛び跳ねていた。


「今だ、行くぞ! 川を渡って突撃せよ!」


 直春の声が響き、合図の鐘が激しくたたかれた。()かすような連打の音に大きな鬨の声が応じ、下流側の土手の背後から隠れていた桜舘軍が姿を現した。しばらく前に上流と下流へ向かった部隊が小荷駄隊のおとりだと気付かれないように、増富軍から見えない位置にいたのだ。


「一番槍はもらいますよ! 進め、進め!」


 水しぶきを上げて真っ先に川に馬を乗り入れたのは直冬だ。


「あたしも行くよ!」


 武者と二人で馬にまたがった田鶴がすぐ後ろをぴったりとついていき、向こう岸の敵部隊へ朱色の矢を次々に放っている。


「騎馬隊が遅れるわけには行かないな!」


 錦木(にしきぎ)仲載(なかとし)と安瀬名数軌が騎馬武者を引き連れて川に飛び込んだ。


「我々も続くぞ!」


 直春が叫び、武者たちは我先にと対岸を目指した。


「あ、慌てるな! 水位は武者の頭より高い! 簡単に渡れるはずが……、水からあごが出ているだと!」


 下流側を守っていた敵の武者一千がうろたえている。


「石が飛んでくるぞ! 気を付けろ!」


 渡河の支援に泉代隊が対岸へ石の雨を降らせた。小薙敏廉隊も上流側から下流側の河原へ移動して投石ひもを振るう。煙で標的は見えないが、増富軍が動揺して少しでも対応が遅れれば十分意味がある。


「矢だ! 矢で迎え撃て! 早くしろ!」


 増富軍の武将が声をからして武者たちに指示している。


「煙でねらいが付けづらく……、ああ、もうこっちの河原に上がってきた!」


 真っ先に仲載(なかとし)と数軌の騎馬隊が、続いて直冬の徒武者隊が、対岸にたどり着いて土手を駆け(のぼ)っていく。直冬隊は正面から、騎馬隊は側面へ回って敵を圧迫する。


「応援を呼べ! 大殿に知らせるんだ!」


 煙で視界が悪く、上流側を守る部隊や持康の本陣は何が起こったか見えていなかった。伝令を受けて慌てて部隊を向かわせた時には、既に桜舘軍の大部分が渡河を終えていた。


「敵は混乱している! 一気に攻めろ!」


 直冬が馬上で武者を鼓舞し、田鶴が敵の武者頭を次々に馬から射落としている。泉代隊と小薙隊も投石をやめて渡河し、攻撃に加わった。


「数はこっちが上だ! 敵に立て直す余裕を与えるな!」


 二つの浅瀬に武者を分けた増富軍は七千二百、桜舘軍は一万近い。しかも奇襲に成功した方と驚愕した方だ。勢いは始めから直春たちにあった。


「待たせたな! 俺たちもいるぜ!」


 そこへ上流から忠賢の騎馬隊が駆け付けてきた。


「稼ぐのは今だぞ! 蹴散らしてやれ!」


 それを見て菊次郎のそばにいた錦木仲宣の徒武者一千が橋に突入、一気に駆け抜けて攻撃に加わると、形勢は決定的になった。


「げ、迎撃せよ!」


 持康はしきりにわめいていたが、長い時間ではなかった。


「城へ後退だ! 馬廻(うままわり)衆、俺を守れ!」


 持康が諦めて逃走すると、その情報はたちまち増富軍全体に伝わった。


「大殿が逃げたぞ!」

「合戦は負けだ!」

「もう五形城に逃げ込むしかない!」


 増富軍は総崩れになった。


「逃がすな! 持康を捕まえろ! 褒美は思いのままだぞ!」

「ここで徹底的にたたくのだ! 城へ入らせるな!」


 桜舘家の諸将はすかさず指示を出した。潰走(かいそう)を始めた増富軍を、桜舘軍は容赦(ようしゃ)なく追撃した。


「そろそろいいでしょう」


 菊次郎は対岸にじっと目を()らしていた。戦闘の邪魔にならないように河原の焚火を小荷駄隊に消させたので、うっすらと様子は見えていたのだ。


「売川衆に合図を」


 安民がぴい、ぴいと笛を鳴らすと、上流側に移動していた男たちが綱を引き始めた。草がたくさんからんでずっしりと重くなった網の堰が、少しずつ横にずれて河原に引き上げられていく。対岸のはじからあふれた水が激しく流れ出し、次第に水位が戻っていった。


「橋を壊すわけには行きませんからね」


 水の圧力はものすごい。洪水のように勢いよく押し寄せるわけではないが、石垣の橋脚といえど崩れるかも知れない。こちらの岸には菊次郎たちの他、草を運ぶため小荷駄隊が下ろしていった兵糧などが残っている。五形の商人たちはこの橋に思い入れがあるので、これから攻める場所の住人の心象を悪くすることは避けたい。


「あの(あみ)はもう駄目かも知れませんが、漁師たちに返してあげましょう。新しいものを作る費用とその間の生活に十分な金額は支払いましたが」


 ちなみに大量の草は、束ねて持ってきたら買い取ると近隣の民に伝えたらたちまち集まった。ただの草が金になるのだから皆目の色が変わっていた。


「売川の方々はさすがですね」


 網を引き上げるのにも馬を使っている。牧場で主に育てているのは農耕や荷運びに使う馬で軍馬ではないそうだが、馬を上手に働かせる技術は大したものだ。先程網を張った時も、実に息の合った仕事ぶりだった。


「この戦に勝てなかったら、彼等が一番困るからね」


 則理は言ったが、感心しているのは同じらしい。


「僕たちは対岸の戦闘が終了したあと、上流下流の小荷駄隊が戻ってくるのを待って一緒に橋を渡ります」


 そう言ったところへ、橋のはるか向こうで鬨の声が聞こえた。


「定恭さんですね。奇襲が成功したようです」


 上流の浅瀬を離れた柳上隊は、橋から五形城へ向かう道の脇の森に隠れていたのだ。


「持康公を討てるとよいですが、運次第ですね」


 柳上隊は六百にすぎない。定恭の采配は見事なものだが、確実に持康をねらうには少なすぎる。


「しかし、ここに到着する頃には戦は終わっていますので」


 忠賢隊は騎馬なので駆け付けられたが、徒武者では一刻ほどかかる。先回りして伏兵する方が可能性があったのだ。


「密かに渡河して隠れているには少数の方がよかったのもあるのですが」


 事前に対岸にいたのは定恭隊だけだ。不意をつくとはいえ正面から川を渡って強襲(きょうしゅう)する作戦だったので、できるだけ多くの武者を橋のそばに集めたかった。さらにおとりを使って増富軍を分散させ、正面の敵武者の数を減らしたのだ。


「大勝利だ! 見事な戦いぶりだった! みんな、よくやってくれた!」


 直春が白馬の上で愛用の槍を高く掲げている。それを見上げる直冬や忠賢、泉代成明・仲載・敏廉ら諸将も、まわりを囲む武者たちも、皆勝利の喜びに顔を輝かせていた。


「さあ、五形の町へ進軍だ! 増富家を今度こそ滅ぼすぞ!」


 わき起こった巨大な同意の雄叫びがおだやかさを取り戻した川面(かわも)に反射し、水辺の鳥たちが一斉にばたばたと音を立てて飛び立った。



 戦場を離脱した持康たちは、二千ほどを連れて五形城を目指していた。


「待っていたぞ! 矢を放て!」


 突然森の中から攻撃されて、増富軍の馬廻衆は大混乱になった。


「お城には行かせないぞ!」


 森を飛び出した定恭隊は、半数が道を塞ぐように前から迫り、半数が持康隊の側面に槍を突き込んだ。


「奇襲だ!」

「あの旗は柳上隊だぞ! 敵の副軍師だ!」

「罠にはまった! もう終わりだ!」


 先回りされ、しかも相手が定恭と知って、増富軍は動揺した。そこへ桜舘軍の騎馬隊が駆け付けてきた。


「持康公を探せ!」

「敵の大将を討つのだ!」


 自分が狙われていると知って持康は焦り、馬で逃げ回った。


「ひいっ! 俺を助けろ!」

「大殿をお守りしろ!」


 権瑞は必死で主君を追いかけた。護衛隊で馬に乗っているのは自分だけなので、仲間はどんどん遅れていった。


「これはやばいか」


 歴戦の権瑞も死を覚悟したが、思わぬ援軍が現れた。


「大殿はご無事か!」


 矢之根(やのね)壮克(たかかつ)隊だった。上流で一度は潰走(かいそう)したが、武者をまとめて駆け付けてきたのだ。さらに、面高(おもだか)求紀(もとのり)隊も加わった。対岸の桜舘軍が小荷駄隊と知って引き返す途中、物見を幾度も出して戦況を把握、橋へは向かわずに五形の町を守ろうとこの道へ来たのだ。

 合わせて五千の援軍だ。桜舘軍も橋の方からどんどんやってくる。逃げてくる増富家の武者もたくさんいる。大混戦になった。


「今だ!」


 持康は無暗(むやみ)に走り回るのをやめ、衝突する両軍の隙間を()って抜け出し、五形の町へ向かった。為続や守篤、権瑞と護衛隊三百人ほどが慌ててついていった。


「敵の大将が逃げていくぞ!」


 持康をずっと探していた定恭は、五形の方向を見張らせていたので脱出に気が付き、自隊を呼び集めて後を追った。


「弓を手に持て! 馬を射よ!」


 定恭は徒武者たちをいったん止まらせ、ねらいをつけさせた。


「放て!」


 矢の雨は護衛隊を多数負傷させ、持康の馬にもかすった。


「ご無事ですか!」


 権瑞は落馬した持康に駆け寄って助け起こした。地面に強く打ち付けたらしく、左腕をさすって悪態(あくたい)()いている。なんとか別な馬の背に押し上げ、手綱を握らせた。


「怪我したやつは置いていけ」


 権瑞は無事な者たちと再び進み出した。急ぎたかったが、持康が馬上でふらふらして速度を出せず、定恭隊との距離は縮んでいった。青峰隊も持康がいないことを知って追いかけてきた。


「とにかく町に逃げ込め! 門を閉めれば時間が稼げる!」


 権瑞は武者たちを励ましたが、口先だけの気休めだった。五形の町は空堀と土塀に囲まれていて立派な門があるが、盗人(ぬすびと)を入れないためのもので軍勢を防げるものではない。増富家は強大だったので、この町に敵が攻めてくることは数百年なかったのだ。

 とはいえ、町に入れば一息つける。皆必死に足を動かしたが、もうすぐ門というところでとうとう追い付かれた。


「持康、待ちやがれ!」

「逃がすな! 追え! 追え!」


 青峰隊も途中で脱落者が多く出て随分数が減っていたが、敵の大将を見付けて意気(いき)が上がっている。中でも忠賢の武勇はすさまじく、立ち塞がる護衛隊の武者を次々に突き伏せながら門に迫ってきた。


「こ、殺される!」


 持康たちは町の門の中にかろうじて駆け込んだ。


「門を閉じろ!」


 叫んだが、実行する前に青峰隊が突入してきた。たちまち門の前と大通りが戦場に変わった。

 持康は恐怖で真っ青になった。速度を上げようと激しく腹を蹴っても、いつもの名馬と違い、武者から奪った馬はとうに疲れきっていてとぼとぼ歩くだけだ。


「これはまずい!」


 焦った持康は荒い息とからからの口で権瑞にわめいた。


「ここに残って敵を足止めしろ! 俺はまだ死にたくない!」

「ご命令うけたまわりました」


 権瑞は答えた。


「ですが、うしろの敵はこちらの数倍、勝ち目は薄いですぞ」

「壁を作れ! 火を放て! どんな手を使っても構わん! 道を塞ぐのだ!」


 叫ぶと持康は城の方へ行ってしまった。守篤も命じた。


「ここで迎え撃ち、しばらく敵を通すな。大殿が入城されるまででよい。方法は任せるが、できるだけ町を壊さぬようにせよ」


 護衛隊の(かしら)は守篤だ。新参者の権瑞に一千を預けることになるので、名目上そうなっている。ならず者だった連中が多い部隊の頭を新家や旧家の重臣は引き受けたがらず、持康が守篤を任じたのだ。


「こういう時のためのお前たちだ。武者にしていただいたご恩をお返ししろ。すぐに味方がやってくる」


 守篤と為続は五十人の武者を連れて持康を追っていった。


「迎え撃てったってなあ」


 権瑞は辺りを見回して肩をすくめた。残ったのは百五十人ほど。半数以上が青峰隊と戦闘中だ。


「そうだ。大殿が言ってた通りにするか」


 権瑞はにやりとし、配下に指示した。


「近くの店から荷車やら机やら炭俵やら、とにかくでかいものを持ってこい! 道にばらまくんだ!」


 陽光寺砦で定恭が使った作戦を思い出したのだ。


「足元を悪くしたら火をつけろ! 急げ!」


 護衛隊の武者たちはすぐに動き出した。


「大殿のご命令だ! 必要なものをもらっていくぞ!」


 付近の店に押し入り、抵抗する店主を武器で脅したり殴り付けたりして店の備品や売り物をかっぱらい、道に引っ張り出してくる。放り投げ、倒し、積み上げると、店のかまどから奪ってきた火のついた(まき)を投げ込んだ。すぐに白煙が上がり、数ヶ所から起こった炎はみるみる広がった。


「その辺の店も燃やせ。その方が追ってきにくくなる」


 よそ者が多い護衛隊は町に愛着などない。元はごろつきなので暴力や破壊にも抵抗がない。火のついた木切れを大通りの両側の建物にどんどん投げ込んでいった。


「ちいっ、火事だと! 火を放ちやがったな!」


 忠賢は大通りを覆う煙を見て舌打ちした。


「手の空いてる者は火を消せ!」


 命じながら身を()らし、飛んできた茶碗をよけた。


(つぶて)のつもりかよ!」

「はずしたか。この調子でどんどん投げろ!」


 権瑞たちは火の壁を盾にして、店から持ってきたものや矢で攻撃した。炎に突っ込むわけにもいかず、青峰隊が矢で応戦していると、定恭隊が町に入ってきた。


「ここは引き受けます。脇道へ回ってください」

「分かった」


 忠賢はくるりと背を向けて、いったん門の前に戻ると騎馬隊を左右に分けた。


「もう役目は果たしただろう。ずらかるぞ」


 権瑞は青峰隊のねらいに気が付き、撤収しろと近くの者たちに大声で叫ばせた。付近の店や脇の路地にも火をばらまきながら後退する。


「これで追ってこられないだろう」


 火災が広がっていくのを満足げに眺めて、権瑞は武者たちを連れて城に向かった。



「すまぬ。町を燃やしてしまった」


 挨拶(あいさつ)にきた五形の町の顔役(かおやく)たちに、直春は頭を下げて謝罪した。


「被害を出したくなかったのだが」


 五形の町に到着した直春は火災に驚愕し、すぐさま手分けして消火に当たらせ、自分も水桶(みずおけ)を運んで手伝った。


「いいえ、国主様の責任ではございません」


 町衆(まちしゅう)(おさ)である大商人は悲しげに首を振った。


「火を放ったのは護衛隊です。持康公の命令と聞きました」

「民を守るのが封主と武者の仕事だ。(しいた)げる者に統治する資格はない」


 直春は強い口調で言い切った。菊次郎や田鶴たちも頷いた。


「正気とは思えないぜ。自分の町だろ」


 忠賢も心底怒っていた。消火しようとする騎馬武者を護衛隊は攻撃して邪魔をした。定恭隊が到着すると敵は逃げていったが追撃どころではなかった。


「大火にならなかったのは皆様のおかげでございます。心より感謝申し上げます」


 町衆たちは丁寧に頭を下げた。忠賢や定恭は町の人々と協力して消火に当たり、避難する者たちを誘導したのだ。


「少ないが見舞金だ。焼け出された人々に食事の支援もする」

「ありがとうございます」


 顔役たちは驚いた顔をし、さらに深く頭を下げた。軍資金の提供を求められると思っていたのに、もらうことになったのだから。


「増富家を滅ぼしたら再建の相談をしたい」

「はい。できるだけ早くその時が来ることを願っております」


(おさ)の大商人は(うれ)いを帯びた表情で重い溜め息を吐いた。


「持康公には愛想(あいそ)が尽きました。増富家にはご恩がありますが、もう誰も味方しようとしないでしょう」


 持康に悪い噂はたくさんあったが、批判を表立って口にする者はこれまでいなかった。大増富家の当主なので遠慮があったし、(まつりごと)を行っていたのは執政二人や側近たちなので、大きな失政はなかった。新旧両家に実務を任せて上に乗っかるのが増富家当主の伝統なのだ。

 しかし、町に放火された衝撃は大きかった。商家に押し入って品物や備品を勝手に持ち出して燃やした上に、護衛隊の一部は金品を強奪していった。守ってくれるはずが逆のことをされたのだ。商人たちが怒ったのは当然だった。


「お役に立てることがございましたら、何でもお申し付けください。これはこの町の者全員の気持ちでございます」


 一方、桜舘軍は戦闘を中止して消火に当たった。あとから駆け付けてきた部隊も加わり、直春自身が指揮をとった結果、予想されたより燃えた建物は少なかった。それでも門の周辺の三十軒ほどが被害を受けた。


「皆、国主様に大変感謝しております。すぐにでもご領地にしていただきたいと口々に申しております」


 直春が名君という噂は五形でも知られていたが、民を救うために武者たちが働くのを()の当たりにして衝撃を受けた者が多かったようだ。それに、五形の目の前と言ってよい不流橋で大勝利したのを多くの民が目撃していた。


「落城はそう遠くないと菊次郎君は言っている」

「本格的に秋が来る前に終わるでしょう」


 菊次郎は断言し、顔役たちはこの方が噂の大軍師様かと目を向けた。


「持康公はやってはならないことをしました。増富家は終わりです」


 菊次郎がこれから城内で起きることを説明すると、商人たちは納得した様子になった。


「町にこれ以上被害を出さないように努力します」

「俺も約束しよう」


 直春も言った。


「皆に伝えましょう。きっと安心することでしょう」


 顔役たちはほっとした様子で幾度もお辞儀をして帰っていった。


「さて、最後の仕上げだな」

「はい。こういうのは定恭さんが得意ですね。伝手(つて)もありますし」

「かしこまりました」


 副軍師は頷き、五形城の方を目を細めて見やった。



 不流橋で大敗した増富軍は五形城に撤退して籠城した。留守の武者と合わせて約八千が城内にいたが、誰の目にも勝利の見込みはなかった。

 城を包囲した桜舘軍は長期戦の構えだった。火事の件で町衆の支持を得て、兵糧などの購入に不自由はない。直春は町や武者にできるだけ被害を出さずに陥落させるつもりらしかった。

 持康が当てにしていた成安家は、直春が北へ出陣すると御使島(みつかいじま)に大軍を送り込んだ。鮮見(あざみ)家をたたくつもりのようだ。葦江国(あしえのくに)や茅生国には少なくない武者が残っているので、仮に豊津城を攻めたとしても、すぐに落とすことはできないだろう。


 北の槍峰国にも増富家の武者はいるが、そちらも動けそうにない。蜂ヶ音儀久が直春から要請を受けて野司(のづかさ)城に攻め寄せたのだ。

 儀久は城を囲むだけで攻撃はしなかった。五形城が落ちればこちらも開城すると考えているらしい。野司城の武者は三千、蜂ヶ音軍は五千五百、無理をする必要はない。五形城へ救援に行かせないだけで桜舘家に恩を売れるし報酬も要求できる。あわよくばこの城も手に入れようと、様々な謀略(ぼうりゃく)をしかけてはいるようだ。

 要するに、五形城に援軍が来る見込みはなく、桜舘軍が撤退に追い込まれる状況も起こりそうになかったのだ。


「酒だ! 酒を持ってこい!」


 城に戻った持康は絶望的な状況を知ると、奥向きに籠もり、評定に出てこなくなった。朝から酔っ払い、人質として差し出させた家臣の娘を次々に寝所に呼んで手を付けた。毎日相手を変え、拒否した者や逃げようとした者には激しい暴行を加えた。娘を返してほしいと訴えた家臣もいたが、引き籠もってしまった持康は耳を塞いで聞こうとしなかった。


 こうした状況はすぐに人々の知るところとなり、家臣の離反が相次いだ。夜のうちに城を出て桜舘軍に投降してしまうのだ。

 始めは旧家の者たちだった。彼等は増富家が来る前からこの地に住んでおり、多くは商売をしていて五形商人ともつながっていた。城下に店を持っている者も多く、放火は許せることではなかった。増富家への忠誠より商売の特権や領地を守ることが優先で、主君を変えることにためらいはなかった。

 城内には少なかったが外様衆も気持ちは同じだった。離反する者が増えると、新家にも主君を見限る者が現れた。


 そこに定恭が手を伸ばした。売川家の縁者などを使って内通の意思のある者を探し、脱出の手引きをした。

 執政たちは脱走者が出たことを隠そうとしたが、その日のうちに知れ渡る有り様だった。包囲下で敵が攻めてくる気配もなく、噂話に(きょう)じる時間はたっぷりあったのだ。


「なにっ、守篤が逃げようとしただと?」


 為続の毎日の報告に無関心だった持康も、その知らせには激怒した。護衛隊の頭である守篤は放火の件で風当たりが強く、身の危険を感じるほどだった。落城すれば桜舘軍にどんな罰を受けるか分からないと、家族を連れ財産を持って行方をくらまそうとしたのだ。


「不忠者め! わしを裏切ったらどうなるか、皆に見せてやれ!」


 権瑞によって守篤と家族は城の広場に引き出された。持康にはいつくばって慈悲(じひ)()うたが、吼狼国(くろうこく)では滅多に行われない斬首の刑にされ、遺体はその場にさらされた。

 これは逆効果で、城内の雰囲気はさらに悪化し、いなくなる数は増加した。執政二人は遂に降伏を進言したが、持康は激高(げきこう)して拒絶し、彼等が本丸御殿に入ることを禁じた。


「そろそろ潮時(しおどき)だな。ずらかるか」


 名実(めいじつ)(とも)に護衛隊の頭となった権瑞は、城を出たい者から金をとって手助けしたり、奥向きに押し入って侍女に手を出したり、いなくなった家臣が置いていった金品を盗んだりと好き放題に振る舞っていたが、いよいよ落城が近いと察し、自分も脱出することにした。


「あの門を開けるぞ。その前に報酬をもらわないとな」


 包囲されて二ヶ月が()った蓮月(はすづき)二十日の未明、権瑞は百人で金蔵に押し入り、小判や増富家秘蔵の宝物を奪うと、周辺に火を放った。人々が集まって消火する間に城門を襲撃、守備の武者を殺した。


「あばよ。うまい仕事だったぜ」


 権瑞は旅商人の格好に盗んだ品を隠し持ち、仲間と共に都の方へ姿を消した。

 夜が明け、それが知れ渡って城内が騒然とする中、持康はいつものように女を両脇に抱えて眠っていた。


「大殿、ご覚悟!」


 突然、(ふすま)が開いて鎧武者がなだれ込み、女たちは悲鳴を上げて逃げ去った。持康は裸のまま布団にうつぶせに押し付けられ、背中に槍を向けられた。


「お命、頂戴いたす! 投降の手土産にさせていただく!」

「ま、待て! まだ死にたくない! 俺は何も悪いことはしていないぞ!」


 それが持康の最後の言葉だった。同じ頃、定恭と通じていた者たちが桜舘軍を引き込んでいた。多くの者は抵抗せずに降伏し、城は陥落した。


「こんなことを俺が喜ぶと思うか!」


 持康の遺体と対面して、直春は怒った。


「この者たちを投獄せよ! 主君を殺すとは何事か!」


 彼等の領地と特権を没収することを直春はその場で宣言した。


「諦めて降伏するなら黙って手を上げればよい。反逆は問題が全く別だ!」


 直春がこれほど不快さを露わにするのは珍しかった。


「あほな野郎どもだぜ」


 忠賢は顔をしかめていた。


「お殿様は昔、家臣の裏切りで故郷を失ってるって知らないのかよ」

「そういう経験がなくても、自分が助かるために主君を殺す人を当家に迎える気にはなれません」


 菊次郎もその処置に反対しなかった。


「今まで持康公を(いさ)めず家を傾けるのを放置しておいて、危なくなると罪を全部着せようとしたのですから」

「またやりそうですよね」

「持康は大嫌いだけど、気分悪いよ」


 直冬と田鶴も言った。


「まっ、とにかく、これで増富家との戦は終わったな。あんたもご苦労さん」


 忠賢にねぎらわれた定恭は複雑な顔だった。


「こうなる予感はありましたが。哀れなお方でした」


 定恭は目をつむって遺体に手を合わせると、菊次郎に向き直った。


「次はいよいよ成安家ですね」

「はい。強敵です」


 一年前まで最も敵対したくない封主(ほうしゅ)家だった。しかし、増富領を併合すれば桜舘家も百五十万貫を超える。とうとうあの大封主家と戦える実力を得たのだ。


「準備にしばらくかかるでしょう。増富領の仕置きと降伏した者たちの処遇の決定、論功行賞(ろんこうこうしょう)もしなければなりません。でも、南下を始めるのはそう遠い先ではないでしょうね」

「いよいよあのじいさんと戦うのか。わくわくするねえ」

「忠賢さんは勇気がありますね。僕は恐ろしいですよ」


 脳裏(のうり)に浮かぶのは失脚した元連署(れんしょ)眼鏡(めがね)男ではない。戦歴五十年近い成安家の宿将(しゅくしょう)沖里(おきざと)是正(これまさ)(あかがね)色に日焼けした(いか)つい面差(おもざ)しだった。

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