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狼達の花宴 ~大軍師伝~  作者: 花和郁
巻の一 運命の出会い
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(巻の一) 第三章 境村 下

 忠賢と途中で別れた三人は、林に接している裏手から屋敷の庭に入った。表は見張りが大勢いるが、裏庭には一人しかおらず、大きな木に寄りかかってあくびをかみ殺していた。三人は頷き合って素早く庭を走り抜け、母屋の壁に張り付いた。窓から中をのぞき込んだ直春は、すぐにしゃがみ込んでささやいた。


「三人ともこの部屋にいる。手足を縛られているようだ」


 中からは若い男女の言い争う声が聞こえていた。


「いい加減、私を解放しなさい、大鬼剛臣(たけおみ)!」


 凛とした高く張りのある声は妙姫だろう。厳しく誰かを叱責しているようだった。


「うるせえ女だな。黙ってろ」


 言い返したのは剛臣(たけおみ)と呼ばれた人物らしい。十代後半くらいの若い男の声だ。実に生意気そうで人を食った口ぶりだった。大鬼厚臣には一臣(かずおみ)という十九歳の長男と、剛臣という十七歳の次男がいるとお俶に聞いたことを、菊次郎は思い出した。


「主君に対してうるさいとはなんですか!」

「わめくんじゃねえ」


 剛臣は面倒くさそうに言った。


「騒いだって無駄だぜ。しばらく助けは来ないだろうからな。もうすぐ兄貴が到着して、この場であんたに求婚する。素直に頷けば一緒に豊津城へ行って公表させるが、あんたが拒否すれば、俺たちの城へ連れていって閉じ込めることになってるんだ。あんたが結婚を渋るから、こんなことをしなくちゃならねえんだぜ」

「誰が一臣なんかと結婚するものですか。私の結婚相手は十年も前から決まっているのよ!」

「行方不明になってもう五年だ。とっくに婚約なんて解消に決まってるだろ」

「いいえ、私はまだ直秋(なおあき)様の許婚(いいなずけ)よ! 厚臣が父を殺した時にどこかへ逃げたのだもの、あなたたちがいると戻ってきにくいのでしょうけれど、きっとまだ生きていらっしゃるはずよ」


 妙姫は虜囚(りょしゅう)なのに男に迫力で負けていなかったので、菊次郎は密かに感心した。十七歳と聞いたが、田鶴と同じかそれ以上に気が強い女性らしい。


「さあ、早くこの縄を解きなさい。主君を縛るなんて死刑にされても文句は言えないわよ」

「死刑だって?」


 剛臣は耳障(みみざわ)りな声でばかにしたように笑った。


「できるものならやってみろ。家中に俺たちに逆らえるやつはいないんだ。お前の命令なんて誰も聞きやしねえ。むしろ、俺がお前を好きにできる立場なんだぜ」


 剛臣はいやらしい口調で言った。


「兄貴はまじめすぎるんだ。さっさとものにしちまえばいいものを、なかなか手を出さねえから、あいつの助言で、こうして俺がお膳立てしてやろうっていうのさ。強情でぎゃあぎゃあうるせえが、見た目はいい女なのによ」

「その足をどけて! 着物の裾をめくるのをやめなさい!」


 妙姫の声に焦りが混じった。


「貴様! 姫様に無礼なことをするな!」


 警護の武者らしい男の叫び声がしたが、腹を蹴られたらしく、苦しげに咳き込んで沈黙した。


「よく吠える女だ。兄貴はこんなののどこがいいんだか。だが、なんとしてもこいつを落とせと親父に言われたからな。兄貴はなかなかやってこねえし、こうなりゃ、あいつに言われた通り、俺がやっちまうか」


 急に剛臣の声が暗い色を帯びた。情欲に取り付かれた者の声だ。田鶴が隣で息をのんだ。


「兄貴は頭はいいがぐずだ。いくら惚れてるからって、君臣のけじめとか本人の意志を尊重するとか言って、こんな女にいつまでも頭が上がらねえとはな」


 刀を抜く音がした。


「兄貴が結婚しねえんなら、俺がしてもいい。どうせ形だけなんだからな。女なんて一回組み伏せちまえば大人しくなるのによ。どれ、少し味見をしてやろうか」

「やめて! 触らないで!」


 部屋の中で縄を切る音が聞こえた。


「腕はそのままにしておいた方がよさそうだが、足は開くようにしねえとな」


 男が近付いたらしく、あとずさろうと必死で足で土間を蹴る音がしている。


「まだなの!」


 田鶴が小声でいらだたしげに言った。直春も硬い顔だった。


「動くな! ほこりが立つだろうが」


 顔をひっぱたく音と悲鳴が聞こえた。とうとう田鶴が我慢できなくなって立ち上がった。


「待って。まだだよ」


 菊次郎が袖を引いて座らせようとした時、屋敷の前庭の方で叫び声がした。


「火事だ! 向こうで納屋(なや)が燃えているぞ!」


 大勢が走り去っていくのが分かった。

 菊次郎はほっとした。直春と忠賢が村のはずれの数ヶ所にしかけた発火装置がようやく作動したらしい。納屋で長い縄を探してその先に火をつけ、反対側の端を藁などの燃えやすいものに突っ込んでおいたのだ。武者を分散させるため、発火場所は互いに離すように頼んである。納屋を燃やすのは気が引けたが、この村の人々は妙姫をおびき寄せるのに協力したのだから、これくらいは我慢してもらおう。

 と、今度はもっと遠く、恐らく門の前辺りで騒ぎが起こった。忠賢が警備の武者を襲ったのだ。別れる前に石をたくさん拾っていたから、それを投げ付けているのだろう。命中したらしく、数人のうめき声が聞こえた。続いて、今度は重い金属が激しく刀にぶつかる音がした。きっと鎖鎌だ。あれを振り回されると、刀しか持っていない者は近付けない。充分周囲の武者を引き付けてくれるはずだ。

 案の定、表の方で人を呼び集める声がして、裏庭の木の下であくびをしていた武者が慌てて走っていった。菊次郎は直春と田鶴と頷き合って裏口へ忍びより、いきなり大きく開いた。


「そこまでだ!」


 叫ぶと同時に直春と田鶴が中に駆け込んで、手前で背を向けていた武者二人を攻撃した。

 直春は刀の一振りであっさりと一人をたたき伏せた。田鶴は振り向いた相手の顔に真白が飛び付いて視界を奪ったところへ体当たりして転ばせると、仰向けになったその股間を思い切り踏み付けて、手から刀を蹴り飛ばした。


「お前たち、何者だ」


 妙姫を壁際に追い詰めて顔をのぞき込んでいた剛臣が、体を起こして振り向いた。


「逃げた侍女を見失ったと報告があったが、城から馬廻(うままわ)りの者が駆け付けてくるには早すぎるな」


 剛臣は旅装の男女三人組に怪訝な顔をしたが、そんな姿は菊次郎の視界には入らなかった。剛臣の後ろで驚愕と安堵の表情を浮かべている妙姫に目を奪われていたのだ。

 怒りのためか、羞恥(しゅうち)のためか、上気(じょうき)した(ほほ)はほんのり赤く、白い肌が強調されていた。気の強そうな眉、黒々とした瞳、つんとした鼻が絶妙に配された美貌。長く(つや)やかな漆黒の髪に、華やかな打掛(うちかけ)姿。それらが急に菊次郎の胸を射抜き、心の奥底に飛び込んでいついてしまったのだ。全身に響くほど激しく打ち始めた心臓の鼓動と、体中の血が逆流しているような火照(ほて)りと震えを感じながら、顔を真っ赤にした菊次郎は、妙姫に見入ったまま動くのを忘れていた。


「何やってるのよ」


 田鶴が文句を言って菊次郎を押しのけ、縛られて倒れている武者の縄を切りにかかった。菊次郎は我に返り、慌ててもう一人の武者に駆け寄ったが、腰の短刀を抜きながらちらりと妙姫を盗み見て自分の心と体に起こった変調の理由を確認し、深い溜め息を吐いた。

 一方、直春は剛臣とにらみ合っていた。


「いいところを邪魔しやがって」


 大鬼剛臣は十七歳とは思えぬ太った大きな体でゆっくりと向き直ると、不機嫌そうに直春を上から下まで眺め回して、ふん、と鼻を鳴らした。構えた刀はかなりの大物だ。どうやら武術の腕前と剛力(ごうりき)が自慢らしい。

 武者の体から縄をはずして引き起こした菊次郎は、直春にささやいた。


「急いでください!」


 早く黙らせないと仲間を呼ばれるし、一人で戦っている忠賢が心配だ。


「分かっている」


 直春は剛臣をにらんだまま答えると、いきなり刀を振り上げて踏み込んだ。


「ばかめ!」


 剛臣は直春の峰打ちを軽々と受け止め、押し返そうとした。その瞬間、直春はさっと刀を右後方へ下げ、剛臣の勢いを右へ流した。


「なにっ!」


 急に抵抗がなくなって、剛臣は刀を突き出すように前につんのめった。その瞬間、直春は相手の足を払い、よろけた剛臣の背中へ、振り上げた刀を思い切りたたき込んだ。容赦のない一撃に、一臣は苦痛のうめきを上げて意識を失い、どしんと音を立てて土間にうつぶせに倒れた。


「お見事!」


 菊次郎は思わず叫んだ。助けられた武者たちも直春の腕前に目を見張っている。


「いい気味ね」


 田鶴はすぐに妙姫の背に回って縄を切った。


「間に合ってよかった。お怪我はありませんか」


 言いながら近付いた直春を、体を起こした妙姫は信じられないものを目にしたように見上げていた。


「あなたは……」

「俺は鴇戸直春と言います。お俶殿の頼みであなたを助けに来ました」

「直春様? 直秋様ではなく?」

「私はあなたの許婚ではありませんよ」


 直春は笑うと、まだ顔をじっと見つめている妙姫を引き起こした。


「走れますか」


 妙姫は頷いたが、急によろけて直春に支えられた。剛臣に抵抗して暴れた時に足首を痛めたらしい。


「この方が早いようですな」


 直春は刀を鞘に収めるとしゃがんで背を向けた。妙姫は一瞬ためらったが、すぐに体を預けて首につかまった。


「では、急いで逃げましょう」


 直春は妙姫の腰を持って立ち上がった。妙姫はその間も食い入るように直春の横顔へ視線を注いでいる。それを見て、菊次郎は激しい焦りと敗北感を覚えていた。

 もちろん、妙姫は封主家の当主で菊次郎では到底釣り合わないことは分かっている。だが、その理性の声を裏切る強い感情が菊次郎の中を暴れ回り、直春に完全に負けたと訴えて胸を(さいな)んだ。

 と、背中を、どん、とたたかれた。


「行くわよ!」


 田鶴が気の毒そうな悲しむような複雑な顔で菊次郎を見ていた。


「あ、うん」


 菊次郎は慌てて頷き、裏口を走り出た。三人と妙姫と武者二人と猿一匹は、周囲を警戒しながら裏手の川へ向かった。武者たちは顔に殴られた跡があったが、動くことに問題はないと言った。

 短い桟橋でお俶が待っていた。


「姫様!」

「お俶!」


 妙姫は直春の顔から目を離し、うれしげに侍女の名を呼んだ。

 直春と田鶴はまっすぐ舟に駆け込んだ。武者二人と小猿もそれに続いた。菊次郎はお俶を手伝って舟をつないだ縄をはずすと、舟に投げ込んで飛び乗った。


「さあ、出発だ!」


 (さお)を手にした直春が、とん、と桟橋の柱を突くと、釣り舟は動き出した。

 舟はうまく川の流れに乗り、どんどん池の方へ進んでいく。すぐに大きな橋が見えてきた。(かかと)の国へ向かう重要な街道の一部なので、小さな村にしてはかなり立派な橋だった。その橋の上で、忠賢が二十人ほどに囲まれて、欄干(らんかん)(ぎわ)に追い詰められていた。


「忠賢殿! 待たせた!」


 直春が大声で叫んだ。


「来るのが遅いぜ!」


 叫び返した忠賢は、鎖鎌を大きく振り回して周囲の武者を下がらせると、欄干を越えて舟に飛び降りてきた。


「うおっ、と」


 ぐらりと揺れた舟の上で忠賢は体勢を崩しかけたが、菊次郎と田鶴が慌てて左右から支えてなんとか水に落ちるのを防ぎ、それぞれ腰を下ろした。

 橋の上でこちらを指さして騒ぐ武者たちを置き去りにして舟は悠々と川を下り、池へ入って中心の方へ進んでいく。流れが弱くなると、直春は慣れた手付きで棹を使い出した。大鬼家の武者たちは岸辺に引き上げてある舟の方へ走っていくが、もう追い付けないだろう。田鶴がそちらへ向かってあかんべえをすると、小舟の中は笑い声でいっぱいになった。


「どうやらこのまま逃げられそうですね」

「そうだな」


 直春も笑みを浮かべて頷いたので、菊次郎はほっとした。実は作戦が成功するか、ずっとはらはらしていたのだ。だが、他の三人の働きは想像以上だった。菊次郎は足手まといだったが、舟を使うという考えがうまく行ったことには満足していた。

 と、舟の中に上品に腰を下ろしていた妙姫が、居住まいを正して礼を述べた。


「皆様、危ないところをお助けいただき、本当にありがとうございました」


 主君が四人に頭を下げると、お俶と武者二人もそれにならった。


「うまく行ってよかった。全員無事で何よりだ」


 直春の言葉に田鶴がうんうんと頷いた。


「一時はやばいかと思ったけどよ」


 忠賢は頭をかいたが、まんざらでもない気分のようだった。


「直春さんと忠賢さんは本当に強いんですね。成功したのはお二人のおかげです。もちろん、田鶴と真白も大活躍でしたが」


 菊次郎が感想を述べると、忠賢は何を言うのかという顔をし、直春が妙姫に言った。


「舟で逃げることを思い付いたのは菊次郎君なのですよ」

「そうだったのですか。ありがとうございます」


 感心した様子の妙姫に丁寧に頭を下げられて、菊次郎は顔が赤くなるのを感じた。それに気付いた忠賢が驚いた顔をすると、田鶴がつらそうに横を向いた。菊次郎は田鶴の気持ちが痛いほど分かって謝りたくなったが、そんな言葉はむなしいだけだと知っていたので、ただ妙姫に頭を下げ返した。


「それで、姫様。報酬の話なんですが」


 菊次郎と田鶴を見比べていた忠賢が、話題を変えるように言い出した。


「報酬?」


 田鶴が驚いて顔を上げた。


「人助けでお金を要求するの?」

「こっちも身を危険にさらしたんだ。相応の礼はもらいたいね。この姫君の懐は少々の金子(きんす)では痛まないさ」


 女としての同情と正義感で行動した田鶴は何を言うのかという顔だったが、直春は忠賢と同意見らしかった。


「事情を聞いて放っておけないと思ったのは確かだが、封主家の当主の危機を救ったのだ。金くらいもらってもいいだろう」

「これは失礼致しました。もちろん、十分なお金をお支払いします」


 妙姫は当然のことのように言った。深窓の姫君のように見えて、封主家の当主をしているだけに結構現実的な感覚を持っているらしい。妙姫は直春の顔をもう一度よく眺めると、何かを決意したように言った。


「皆様のご恩には大変感謝しています。実はお願いしたいこともございますので、どうか当家の別邸へおいでください。精一杯ご歓待(かんたい)申し上げます」

「姫様?」


 もの言いたげなお俶に意味ありげな目配せをすると、妙姫は武者たちに命じた。


「別邸への道を教えて差し上げて」


 武者の片方が立ち上がり、直春に東の方を指さしながら説明を始めた。その話では大分川下にあるらしい。


「別邸ってどんなところかな」


 田鶴が忠賢に尋ねた。


「封主家の別邸って言やあ、客をもてなしたり、酒宴を開いたり、当主や家族が遊んだり骨休めしたりするために作るもんだ。そりゃあ(ぜい)を尽くした建物だろうな。俺たちはご当主様を救った恩人だ。感謝の(うたげ)が待ってるだろうぜ」

「もしかして、豪華な料理が出てくるの?」

「もちろん山ほど出てくるだろうな。うまい酒も飲み放題だ」

「真白にもいい芋がもらえるかな」

「芋なんて好きなだけ食えるに決まってるだろ」

「よかったね、真白。好きなだけ食べていいって」


 期待に顔を輝かせた田鶴に猿が首を傾げ、菊次郎が思わず微笑んだ時、直春の緊張した声がその雰囲気を吹き飛ばした。


「別邸に行くのはあそこを無事に通り抜けてからだな」


 直春の視線を追って前方を見ると、池の出口にかかったやや小さな橋の上で、二十人ほどの鎧武者が弓を構えてこちらにねらいを付けていた。周辺の岸辺にも武者がいて、合わせると百五十人を超えそうだ。振り返ると、まだ遠いが五艘の小舟が追いかけてくるのが見えた。


「岸に寄れ!」


 橋の上で一人が叫び、鎧武者全員が一斉に弓を引き絞った。


「どうする。逃げられるか」


 戦場の顔に戻った忠賢が尋ねた。


「無理だな。言う通りにするほかないだろう」


 棹を突くのをやめて舟を止めた直春が答えた。この辺りは川の流れに引き込まれないぎりぎりのところだった。これ以上前に進めば橋の方へ流されてしまう。


「こちらには盾がない。あの数の矢を防ぐのは不可能だ」


 直春は泰然としていたが、さすがに口ぶりには焦りが表れていた。


「姫様を盾にすればどうだ?」


 忠賢の言葉にお俶と武者たちが顔色を変えたが、直春は首を振った。


「橋の真下を通るのだ。ねらい撃ちされる。仮に矢を防げても、隠れていては棹を使えない。速度が落ちたら接近されて舟に乗り込まれるだろう」

「どこかに上陸して逃げたらどう?」


 田鶴が提案したが、直春は首を振った。


「それも難しい。足の遅い姫君と侍女殿を連れていてはすぐに追い付かれる。向こうには馬があるしな」


 橋の周囲の木には多くの馬がつながれていた。あの武者たちは馬でここまで来たらしい。


「私が池に飛び込みましょう。その間に皆様はお逃げください」


 妙姫が船端につかまってよろめきながら立ち上がった。


「姫様、お待ちください!」


 お俶が慌てて袖をつかんで止めようとしたが、妙姫はその手を振り払った。


「この方々を巻き込むわけには参りません」

「そのお気持ちはありがたいですが、俺たちはもう充分関わっちまったから、向こうも見逃す気はないでしょうぜ。俺たちを射殺してから姫様を救助すればいいだけですしね」


 忠賢は即座に妙姫の提案を却下したが、その口調は彼にしては丁寧だった。(おとり)になると言い出した勇気を認めたらしい。もちろん、他の全員も妙姫を泳がせるつもりなどなかった。第一、妙姫は先程足首を痛めていて、今も立っているのがつらそうなのだ。


「何か方法はないのか」


 直春が言うと全員がそろって菊次郎を見たが、首を振るしかなかった。


「前にも後ろにも敵がいます。これでは逃げようがありません」


 と、そこへ、橋の上から若い男の声がかかった。


「妙姫様をこちらへ渡してもらいましょうか」

「大鬼一臣(かずおみ)……」


 相手を見て、妙姫が低い声でつぶやいた。


「舟を岸へ着けてください。抵抗しなければ手荒なことはしないと約束しましょう」


 厚臣の長男は落ち着いたよく通る声で言って、主君に目を向けた。


「妙姫様。ご無事のようで何よりです。弟があなたをお迎えにいったと聞いて急いで駆け付けて参りました。少々強引なことをしたようで、大変申し訳なく思っております。弟にはあとでよく言って聞かせますから、どうかご寛恕(かんじょ)をお願い致します。ここからは私があなたを当家の城までご案内申し上げます。父は結婚をご承知いただくまでご滞在願うと申しておりますが、私が頃合いを見てお城にお返しするよう説得致しましょう。どうせ、私たちは結婚するしかないのですから、こんなことは必要ないのです。もちろん、精一杯ご歓待申し上げますので、ご心配はいりません。さあ、陸にお上がりください」


 なだめるような口調の筆頭家老の嫡子(ちゃくし)に、妙姫は冷たく言い返した。


「急いで駆け付けてきた割には遅かったわね。私は危ういところをこの方々に救っていただいたのよ」

「ああ、そうでしたか。姫様をお助けくださったとは感謝します」


 一臣は軽く頭を下げて見せた。


「皆様は姫様の婚約者である私にとっても恩人です。鄭重におもてなしさせていただきますので、無駄な抵抗はせず、どうか舟を降りてください。我々も手荒なまねはしたくありません」


 にこやかな笑みを浮かべる一臣をにらんで、田鶴がささやいた。


「なんかあいつ嫌い。姫様の気持ちが分かった気がする」


 菊次郎も同感だった。矢でねらいながら手荒なまねはしたくないと言われても全く信用できない。直春と忠賢はどう答えるのかと妙姫を見ていたが、十七歳の姫君は急に深く息を吸い込むと、胸を張って二つ年上の一臣に向かって叫んだ。


「手荒なまねなどできるはずがないわ!」


 まさかという表情のお俶を妙姫は横目でちらりと見ると、直春の袖をつかんで大声で言った。


「一臣! この方のお顔をよくご覧なさい!」


 橋の上で一臣は首を傾げた。


「その者がどうかしたのですか。見たところただの浪人ではありませんか。姫様を助けてくれたことには感謝しますが、ここからの警護は私に任せてもらいましょう」

「あなたは主君の顔を見忘れたの?」

「主君ですと?」


 妙姫が叱り付けるように叫ぶと、意味が分からないという様子で直春に目を向けた一臣は、急に驚いた顔をしてあえぐように言った。


「あなたは、まさか……?」

「見て分からないの? この方は私の許婚、従兄(いとこ)の桜舘直秋様よ!」


 妙姫が勝ち誇ったように言った。


「顔つきに子供の頃の面影があるでしょう。私と結婚して当主になるはずだったお方が帰ってこられたのよ」

「そんなばかな……」


 一臣がうめくと、「直秋様だって……?」と 橋の上の武者たちに動揺が広がった。


「本当なのか」


 忠賢が驚いて小声で尋ねたが、直春がそちらへ目だけ向けて軽く首を振ると、なるほどという顔になった。田鶴は妙姫のはったりを悟って青ざめ、お俶や武者たちも顔がこわばっていた。菊次郎も嫌な汗が背を伝ったが、当の直春は一臣たちの反応を見てここは妙姫に任せようと腹をくくったらしく、集まる視線に堂々と顔をさらしていた。


「う、うそだ……!」


 一臣はあり得ないという顔で叫んだ。


「直秋様が生きていらっしゃるはずがない! お前は何者だ!」

「この方は直秋様よ。許婚の私が保証するわ」

「信じられません。確かに面影はありますが、別人でしょう」


 言いながらも、一臣の言葉には力がなかった。


「あなたにも分かったはず。この方は伯父直候(なおとき)公の一人息子で、そのあとを継いで当主となった父が私と婚約させた人。だからこの人と結婚するわ。私を捕らえても無駄よ」

「あなたは私の許婚です!」

「それは厚臣が勝手に言っているだけよ。あなたとは絶対に結婚しないわ」

「なぜですか。それが最もよい結果を生むのですよ」

「どこがよい結果なの? 私はあなたが嫌いなのよ」


 はっきり言い切られた一臣はさすがに苦い顔をしたが、怒鳴り返したりはせず、大人の男の余裕を(よそお)いながら、(さと)すように語りかけた。


「ですが、あなたは私の父に逆らえない。嫌でも結婚することになります。五年前の婚約などもう無効です。あなたは私の妻になるしかありません」


 妙姫は呆れたというように大きな溜め息を吐き、表情を引き締めた。


「では、聞くわ。あなたは私と結婚したいの?」

「ええ、もちろんです。父もそう望んでいます」

「厚臣の意見は聞いていないわ。あなたの考えを尋ねているのよ」

「当然、私もあなたと結婚したいですよ」

「とてもそうは思えないわ。いつあなたが私を口説いたの? いつあなたが私に求婚したの? あなたはいつも、『私たちは許婚ですから結婚しなくてはなりません』と言うばかり。とても本気とは思えないわ」


 一臣は困ったものだと言いたげに首を振った。


「あなたは桜舘家の姫君で現在はご当主様です。口説くことなどできません。それに私にも筆頭家老の嫡子(ちゃくし)という立場があります」

「立場が何だというの? あなたは弱虫で見栄っ張りだから女を口説けないだけじゃないの!」


 妙姫は明らかに年上の一臣を見下していた。


「あなたの考えは分かっているわ。まともに申し込んで断られるのが恥ずかしいのよ。この状況なら結婚を拒否はできない、強情を張っていてもどうせ女のことだからそのうち落ちるだろうと思っていたのでしょうけれど、そうはいかないわよ。自分で口説く努力もしないで何が結婚したいよ。そんな言葉に頷く女はいないわ」

「では、どうなさるとおっしゃるのですか。あなたには私と結婚する以外に道はありません。私だってそうです。父の命令には逆らえません。私たちは結婚するより仕方がないではありませんか」

「仕方がないですって!」


 妙姫は叫んだ。


「仕方がないから私と結婚するの? だからあなたが嫌いなのよ!」

「最低ね!」


 田鶴がつぶやいたので、菊次郎はぞっとして、つい自分は大丈夫かと考えてしまった。


「仕方がないから主家を簒奪(さんだつ)するの? 仕方がないから父親や弟の横暴を止めないの? 仕方がないから民に重税を科して、反抗したら武者を送って弾圧するの? それだからあなたは駄目なのよ!」


 妙姫に決め付けられて、一臣は蒼白になった。


「あなた、私のことが好きなんでしょう? 昔からそうだったわよね。だったら、はっきりとそう言ったらどうなの。あなたを幸せにします、父の横暴から桜舘家とこの国の民を守って見せますと言ったら、私はあなたを見直したでしょうね。私は桜舘家の当主として、また一人の女として、そういう方を夫にしたいの。でも、あなたにはそれが絶対に言えないのね。それでも男なの? 私はそんな相手と結婚するなんて真っ平御免だわ」

「よ、よくもそんなひどいことが言えますね」


 一臣は周囲の武者の目を気にするように左右を見て怒りに震えていたが、ぐっとこらえて虚勢を張った。


「まあ、好きにおっしゃい。いくらあなたが私を嫌おうと、どうせもうすぐ私たちは結婚するのです。父は春始節に結婚を正式に発表するつもりです。それを拒むことはあなたにはできないでしょう。あなたに味方する者はもうほとんどいないのですから」

「私は直秋様と結婚するわ」

「その男は偽物です。皆すぐにそのことに気が付くでしょう。そうなれば、大鬼家に反抗的な者たちも、私たちの結婚を承認するほかありません」

「この人は本物よ。それをみんなの前で証明してみせるわ」

「いいでしょう。では、私はその男の化けの皮をはいでみせましょう。ですが、春始節まで待つ必要はありません。今ここで手っ取り早く片を付けてしまいましょう」


 一臣は乾いた声で、ははは、と笑うと、大声で命じた。


「その舟に乗り込んで制圧し、岸に付けろ。姫様は鄭重にお連れし、他は斬れ! あの男は体を改めるから、池に落とすなよ!」


 いつの間にか、小舟五艘がすぐ後ろに迫っていた。


「さて、どうする?」


 忠賢が直春に尋ねた。


「今の姫様の演説のあとじゃ、投降すると言っても受け付けてくれないだろうぜ」


 忠賢はこぼしたが、顔は笑っていた。菊次郎も頷いた。


「一臣は自尊心をずたずたにされましたから、あれを聞いていた部外者を生かしておこうとは思わないでしょうね」


 同情するつもりはさらさらないものの、菊次郎も妙姫に恋する者の一人として、大勢の前で派手にふられた一臣の気持ちはよく分かった。あんなことを豊津の町や他の国でぺらぺらとしゃべられてはたまらないだろう。


「でも、だったらどうするの?」


 田鶴は小猿をそばに呼んで、早くも短剣に手をかけている。


「申し訳ありません。私のせいで」


 妙姫が謝った。


「つい、かっとなって思っていたことを全て言ってしまいました」

「いいえ、すかっとしましたよ!」


 田鶴が答え、忠賢は苦笑を浮かべた。


「いまさら謝られてもね。まあ、気持ちは分かるけどよ」


 忠賢さんは意外と女性にやさしいんだな、と菊次郎は思った。


「どうする。こっちから逆に斬り込んでやるか」


 忠賢の提案に、直春は少し考えて頷いた。


「狭い舟の上では戦いにくい。向こうに乗り移った方が自由に刀を振るえるな」


 菊次郎が提案した。


「では、敵の武者を水に落として追い払ったら、姫様以外は水に入り、船を盾にして橋の下をくぐりましょう。矢の届かないところへ出たら船の中に戻ります。川の流れに乗ってしまえば馬よりこちらの方が早いですから」

「よし、それで行こう」


 直春は頷くと、刀を抜いた護衛の武者たちに告げた。


「お二人は妙姫様と侍女殿をお守りしてくれ。菊次郎殿と田鶴殿はそれに協力し、敵を船に入れるな」

「分かりました」


 武芸は苦手だがやるしかない。菊次郎は覚悟を決めて、直春が置いた棹を手に取った。左手は添えるだけで強く握れないのが少し難しいが、後ろを長く取って重さの均衡を取れば、槍のようにして舟に乗り込んでくる武者を水に突き落とすことができるだろう。

 五艘の舟はどんどん近付いてくる。もう武者たち一人一人の顔がはっきり見えていた。

 振り返ると、橋の上に大鬼剛臣の巨体が見えた。意識を取り戻してここまで馬でやって来たらしい。橋にも周囲の岸辺にも大鬼家の武者が大勢いる。かなり厳しい状況だった。


「皆、準備はいいか」


 直春が低い声で尋ねた。


「いいわよ」

「いつでも行けるぜ」


 田鶴と忠賢が答え、妙姫とお俶と武者二人も頷いた。菊次郎も棹を握る手に力を入れた。


「死ぬなよ」


 直春が言うと、忠賢はにやりとした。 


「まだ城主になるって夢を実現してないからな」


 ついに敵の舟が棹一本分の距離まで来た。


「さあ、いよいよだ!」


 直春が叫んだ時、突然、岸辺で騒ぎが起こった。

 見ると、数百人の騎馬の鎧武者が林の陰を回って葦狢(あしむじな)街道に現れ、まっしぐらに池に向かって駆けてくる。その先頭にいる大男が太い声で叫んだ。


「姫様、ご無事でいらっしゃいますか!」

実佐(さねすけ)!」


 妙姫が歓声を上げた。


「お馬廻頭(うままわりがしら)豊梨(とよなし)実佐(さねすけ)様です!」


 お俶がうれしそうに直春に説明する。


「ということは味方か」


 助かった、と忠賢がつぶやいた。

 実佐は馬がつぶれそうな速さで岸辺へ向かってくる。それを見て一臣は武者を下がらせていた。剛臣は不満そうだが、さすがに主家の当主警護役率いる完全武装の精鋭三百とやり合うつもりはないらしい。


「合流しよう」


 直春の言葉で我に返った菊次郎が棹を渡すと、舟は滑るように進んでたちまち岸にたどり着いた。

 武者二人に助けられて陸に上がった妙姫は、馬廻りの者たちに囲まれて一臣の方を向いた。


「私は実佐に送ってもらいます。あなたは早くこの村を出て行きなさい」


 一臣は悔しそうだったが、実佐やその部下たちの怒りの籠もった視線を浴びて諦めたらしい。


「鄭重にお送りしようと思っていたのですが、そうおっしゃるのでしたら仕方がありません。春始節を楽しみにしていますよ」


 言い捨てて、一臣は背を向けた。二百五十人の武者がそれに従った。剛臣も直春に憎々しげな一瞥(いちべつ)を残すと、馬にまたがって去っていった。


「あの人、また仕方がないって言ったね」


 田鶴が指摘すると、舟に乗っていた八人は一斉に大笑いした。

 その様子を怪訝な顔で眺めていた実佐は、笑い声が収まると、妙姫の足下に膝を突いて頭を下げた。


「遅くなりまして申し訳ございません。ご無事で何よりです。姫様がたった四人で城をお出になったと聞いた時は生きた心地が致しませんでした。我々がお守りせねばなりませんでしたのに」


 三十代半ばの馬廻頭は、主君の無事な姿を見て(いか)つい顔に涙を浮かべていた。


「いいえ。勝手に出てきた私が愚かでした。もっと用心するべきでした。まさかこんな手に出てくるとは思わなかったのです」


 妙姫は首を振ると、実佐の手を取って立たせた。


「ところで、そちらの方々は?」


 実佐に問われて、お俶が四人を紹介していると、村の民が集まってきた。

 代表して妙姫の前に出た村長(むらおさ)は、震えながら平伏した。


「妙姫様、申し訳ございませんでした」


 村長は短い(まげ)を結った白髪(しらが)まじりの頭を地面にたたき付けるように勢いよく下げた。


「いきなり村に大鬼様の武者が大勢やってきて、妙姫様を呼び出す手紙を書け、書かなければ村を焼き払い、女たちを連れ去ると脅されまして、仕方なく言う通りに致しました。お怒りは重々承知しておりますが、他の者は関係ございませんので、どうか私一人の首でお許しください!」


 泣きながら何度も額を地面にこすり付ける村長に、妙姫はやさしく言った。


「お顔をお上げなさい。首を()ねなど致しません。あなた方に罪がないことは分かっています。私ですら大鬼家を抑えられないのですもの、村を占領されて強要されれば、村長のあなたが断れるはずがありません。こうして助かったことですし、あなたを責めはしません」

「で、では、おとがめはないのですか」


 村長は信じられないという顔で妙姫を見上げた。


「ええ、あなたもこの村も、罪は問いません」


 妙姫が答えると、民の間から歓喜の声が起こり、村長は今度は喜びの涙を流して頭を下げた。


「ありがとうございます。本当にありがとうございます」


 それを見て田鶴はほっとした顔をし、誇らしげに妙姫を仰いだ。


「よかったね」


 隣にいた菊次郎がとささやくと、田鶴はうれしそうな顔に涙さえ浮かべて頷いた。


「私の村は横暴な領主に反抗して滅ぼされたの。妙姫様みたいな封主もいると知ってうれしい」


 妙姫は武者に囲まれて微笑んでいた。あれほどの目にあったというのに、村人の罪を問わないのは実に立派だった。この方は心が正しい。ただ美しいだけではない妙姫に一層焦がれる自分を感じて、菊次郎は悲しくなった。


「俺は納得していないぞ」


 高まり熱く膨れ上がったその思いは、直春の厳しい声で急に冷やされて消えた。


「その裁きは甘すぎる。俺は村長の罪を問うべきだと思う」


 妙姫は驚いて振り向き、主君の心の広さに感動していた実佐は直春をにらんで、むっとした声で言った。


「貴様、妙姫様のご裁定に()(とな)えるつもりか」

「この村長は、(おど)されたとは言え、悪党の卑劣なたくらみに加担して妙姫様をおびき出し、拉致(らち)させようとした。その罪を問わずに流してよいはずがない」


 直春は菊次郎が初めて見る恐い顔をしていた。田鶴は呆気にとられ、忠賢は何事だと眉を上げた。


「しかし、貴様は知らぬようだが、大鬼厚臣は国内に重税を科し、反抗する村には武者を送って弾圧して黙らせてきたのだぞ。葦江国の民は皆大鬼家の武者を悪鬼のように恐れておる。この者たちが剛臣の命令に従ったのも無理からぬことなのだ。仕方なく言う通りにしたと村長も申しておったではないか」


 実佐は言ったが、直春は表情をゆるめなかった。


「この国では、民が領主を(わな)にかけて危険にさらしても、『仕方がない』で許されるのか」

「この者たちもしたくてしたことではないのですよ。私にすら大鬼家はあのように振る舞うのです」


 黙っていられなくなった妙姫が村長をかばうと、直春は言った。


「だからといって、罪がなくなるわけではない。この件をうやむやにするのは領主として間違っている。封主と領民ということを抜きにしても、この村長は人をだまして悪人に売り渡そうとしたのだ。それを許してよいのか」

「ですが……」


 青ざめた妙姫から、(ひざ)を突いたまま頭上のやりとりに冷や汗をかいている村長に直春は視線を移した。


「村長。貴様に罰を与える」


 言うなり、直春は刀を抜いた。


「待ってください!」


 菊次郎は慌てた。

 これはいつもの直春さんではない。こんな人ではなかったはずだ。どうしてこんなことを言い出したのだろう。

 強く疑問に思いながら、菊次郎は駆け寄って村長の前に立ちはだかろうとしたが、直春の鋭い視線に足がすくんでしまった。忠賢は本気で驚き、田鶴は過去の似た体験でも思い出したのか、恐怖に顔が引きつっていた。


「ひいっ、お助けください!」


 妙姫にすがろうとした村長の首に刀を突き付けて元の位置に戻らせると、直春は刀を高く構えた。


「動くなよ」

「勝手なことをするな!」


 実佐が止めようとしたが、それより早く直春は刀を振り下ろしていた。


「やめて!」


 田鶴の悲鳴が響き、菊次郎は思わず目をつむった。

 と、おおう、とどよめきが起こったので、怖々目を開けてみると、直春が刀を振り切っており、その足下に、村長の白髪(しらが)のまじった(まげ)が落ちていた。

 田鶴がほっと息を吐き、忠賢が肩の力を抜いた。


「村長よ。本来ならお前の首を落とすところだ。しかし、妙姫様は許すとおっしゃっているし、幸い皆無事だった。よって、罪を減じ、お前に剃髪(ていはつ)を命じる。村長を息子に譲って隠居せよ」


 安堵のあまり地面にくずおれた村長は、切り落とされた(まげ)を見つめると、両目から新たな涙を流し、再び平伏した。


「はい。私はあやまちを犯しました。村長を退き、今後は一村民として村のために働きたいと存じます」

「うむ。その言葉、忘れるなよ」


 直春は晴れやかに笑うと、刀を収めた。菊次郎はその笑みをまじまじと見つめて言葉がなかった。再び自分との(うつわ)の大きさの違いを感じたのだ。


「貴様、勝手なことを!」


 ただ一人腹を立てていた実佐が直春に詰め寄ると、それまで呆けたように直春の顔に見入っていた妙姫が我に返って馬廻頭を止めた。


「実佐、やめなさい」

「しかし、こやつは姫様のお裁きに口を(はさ)んだのですぞ!」

「よいのです。私が間違っていました。たとえ強制されたのだとしても、悪事は悪事なのですね」


 妙姫の言葉に、直春は頷いた。


「俺はそう思います。()むべき事情があるからと言って、全くおとがめなしは甘すぎます。恐らくこの場にいなかった他の家臣も、話を聞いてそう思うでしょう。戦狼の世の封主家の当主に必要な非情さが欠けていると言う者もいるかも知れません。特に、あなたに忠実な者たちは、大切な主君を危ない目にあわせた者たちに腹を立てて、納得しないでしょうね」

「では、私のために?」

「もちろん、それだけではありません。大事(だいじ)に至らなかったとはいえ、罪は罰するべきだと思ったのです。仕置きに口を挟んだことは申し訳ないと思いますが、見過ごせませんでした」

「いいえ、謝る必要はありません。私のあやまちを正してくださったこと、感謝致します」


 妙姫が頭を下げると、直春はうれしそうに笑った。


「あなたは公平でまっすぐな方のようですね。甘すぎると言いましたが、あなたのような心が広く慈悲深い領主を持った民は幸せだと思いますよ」


 妙姫は直春の顔をまじまじと見つめて尋ねた。


「あなたは本当に直秋様ではないのですか」

「ええ、違いますよ。この国に来たのは初めてです」

「……そうですか」


 もう一度直春の顔をじっと見上げた妙姫は、深々と頭を下げて言った。


「皆様にお願いしたいことがあります。お礼も致したく存じます。ぜひ、私の屋敷へいらしてください」


 妙姫はそのあともずっと直春の顔から目を離さなかった。

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