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狼達の花宴 ~大軍師伝~  作者: 花和郁
巻の一 運命の出会い
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(巻の一) 第三章 境村 上

「では、忠賢さんがわざわざ御使島(みつかいじま)まで行って鮮見(あざみ)家に仕官するのは、あそこはまわりに敵対する大きな封主家がなくて安定しているからなんですか」


 南国街道を歩きながら菊次郎が思わず聞き返すと、忠賢は大まじめに頷いた。


「ああ、そうだ。あの封主家なら安心して仕えられる」


 そして、皮肉っぽい調子で付け加えた。


「また主家が滅んだら困るからな」


 湯山を発って九日目、四人の旅は順調だった。

 都を出る時は梅月(うめづき)だった暦も、今日から桃月(ももづき)に入る。左手に壁のように連なっている大長峰(おおながね)山脈の峰々はまだ真っ白だが、晴れた午後の日差しは南国らしく温かかった。もう旅も終わりだなと思った菊次郎は、直春と忠賢を道連れに加えて本当によかったと、近付く別れを悲しむ自分に驚いていた。


 実を言えば、菊次郎は始め、心強い連れができたことは喜んだものの、自分や田鶴が大人の男の足についていけるか心配した。だが、旅慣れた二人は、長い距離を歩く時は無理に急ぐと足を痛めてあとがつらくなると言って、散歩でもするようなのんびりした速度で歩いてくれた。しかも、見るからに腕の立ちそうな武家二人と一緒だと盗賊を恐れる必要がなく、ならず者にからまれたり、宿代や食事代に法外な値を吹っかけられたりすることもなかった。となると、全国八街道の一つである南国街道は整備されていて歩きやすく、特に期日に追われている者もいなかったから、至って気楽な旅になった。

 四人は長い道中ずっとしゃべりながら歩いたので、今ではすっかり打ち解けていた。小猿とも仲良くなり、餌のやり方も覚えた。田鶴と真白は大きな町に寄るたびに客を集めて芸を披露したが、何度見ても面白かったし、直春と忠賢という用心棒がいるので揉め事は起きなかった。


 そうして、予定通りの日数で三ヶ国を通過し、四人は昨日葦江国(あしえのくに)に入った。今日の夕方には菊次郎の目的地である豊津(とよつ)の町に着くはずだ。せっかく仲良くなったのに残念だと思った菊次郎は、今後また会う可能性があるのか知りたくなり、今まで触れなかった個人的なことを尋ねてみた。すると、「どうして鮮見家に仕官しようと思ったのですか」という問いに、忠賢は「あそこは身代が大きくて滅亡しそうにないからさ」と答えたのだった。


国主(こくしゅ)どころか、探題(たんだい)でその地域の武家の(かしら)だった家でさえ、滅んじまうご時世だぜ。数年前もどこかの探題家が滅んだろ」

()(くに)虹関(にじぜき)家だな」


 直春はその地方の出身だと以前言っていた。


「そうそう、その虹関家だ。確か公家(くげ)が先祖とかで、昔の当主が高桐(たかぎり)総狼将(そうろうしょう)家から刀だか槍だかをもらったっていう」

「『虹鶴(こうかく)』という脇差(わきざし)のことだろう。天下様(てんかさま)の危機を救って拝領したそうだ。虹関家は始祖(しそ)五家の一つの夏雲(なつくも)家が起源と言われている」


 軍学や歴史に興味がある者なら誰でも知っていることだ。


「そんな超名門が、もうないんだぜ」


 戦狼(せんろう)()が始まって百四十年。かつては三百を超える群雄(ぐんゆう)が全国に割拠(かっきょ)していたが、今も生き残っているのは半数以下だ。


「まあ、確かに、仕えている家が滅んだら困りますけど」


 菊次郎がいまいち納得できないという顔をすると、二人の間にいた田鶴はくすりと笑い、大人ぶった口調で言った。


「当然じゃない。主家が滅んだら(ろく)がもらえなくなるし、死んじゃうかも知れないのよ」


 すると、猿の真白も主人のまねをして、少女の肩の後ろの荷物に座ったまま胸を反らして威張るような格好をした。菊次郎は微笑んだが、なおも首を傾げた。


「それはそうだけど、よほど弱い小さな封主家に仕えない限り、そうそう滅ぶことはないよ。重臣はともかく一介の武者は危なくなったら逃げればいいんだし」


 菊次郎は田鶴にはもう丁寧語を使わなくなっていた。妹のような年齢だからかも知れないが、天乃ともまた違う感覚だ。そんなことを思いながら、菊次郎は少女の向こうにいる忠賢に言った。


「それに、もしまた仕官先を探すことになっても、武芸にすぐれた忠賢さんならすぐに雇ってもらえるのではありませんか」


 菊次郎は密かに忠賢は相当腕が立つに違いないと思っていた。直春もかなりの腕前だろう。この二人には様々な厳しい状況を生き抜いてきた者だけが持つ自信と勘が備わっているように感じるのだ。


「第一、なぜ鮮見家なんですか。鮮見家は大きいと言っても貫高は三十万貫程度、もっと領地の広い家が他にたくさんあります。この足の国では先日領内を通ってきた増富(ますとみ)家七十万貫、大長峰(おおながね)山脈の向こうの(かかと)(くに)では福値(ふくあたい)家六十万貫や宇野瀬(うのせ)家百五十万貫、全国を見れば都の蟹坂(かにさか)家五十万貫や()(くに)報徳院(ほうとくいん)家百三十万貫など大封主家は少なくありません。その中でも、安定しているということなら直春さんが向かう墨浦(すみうら)成安(なりやす)家百八十万貫が一番でしょう。それなのに、なぜ鮮見家なんですか」

「安定してるだけじゃ駄目なんだよ」


 忠賢は歩きながら言った。


「勢いのある家がいいんだ。俺の夢は一国一城の(あるじ)だからな」

「封主になりたいの?」


 田鶴が驚いた。


「ああ、そうだ」


 忠賢は頷いたが顔は笑っていた。


「俺は出世して自分の城を持ちたいんだ。それには主家が成長してくれないとな。鮮見家は今の当主になってから七年で置杖国(おきえのくに)を統一し、今は揺帆国(ゆれほのくに)に盛んに戦をしかけて切り取りにかかってる。あの国の残り二家は必死で抵抗してるが、滅ぼされるのは時間の問題だろう。そうなれば、また二十万貫ほど領地が増えることになる。今行けば、活躍次第で俺にも運が向いてくるかも知れないじゃないか」


 忠賢の口調は軽かったので田鶴は本気と思わなかったようだが、菊次郎は言葉の裏に出世にかける執念のようなものを感じて浪人の横顔をまじまじと見つめた。すると、忠賢は菊次郎へ目だけを向けてにやりとし、さらに言った。


「成安家は確かに大きいが、動きが鈍いんだよ。吼狼国一の実力を持ち、天下をねらえると言われながら、なかなか積極的な行動に出ようとしないだろ。戦がないと手柄は立てられない。譜代(ふだい)の重臣が大勢いて出世は難しそうだしな。新参者を城主にしてくれそうには見えないのさ」

「普通はお城なんかもらえないよ。あたしもうるさい上役がいっぱいいるのは嫌だけど」


 田鶴は完全に冗談だと思って返しているが、菊次郎は本気だと確信して、野望の実現のためにわざわざ御使島まで(おもむ)く行動力に感心した。


「でも、それならなぜ第一条件に安定を挙げるんですか。出世のためには勢いの方が重要でしょう?」


 菊次郎が尋ねると、忠賢はまじめな顔になった。


「元気があっても基盤が弱い家じゃ駄目なのさ。俺は疫病神(やくびょうがみ)らしいからな」

「どういうことですか」


 思わぬ言葉に菊次郎が聞き返すと、忠賢は答えた。


「俺は今まで三つの封主家に仕えたことがあるんだ」


 忠賢は青い空を見上げた。


「でも、みんな数年で滅んじまった。七年で三家だぜ。仕える時にはそんなに危なそうには見えなかったんだが、没落する時はあっという間だな。大きな戦で負けた途端、勢いを失って防戦一方になり、あれよあれよという間に攻め込まれて城が陥落しちまうんだ。確かにどれもあまり大きくない封主家だったが、三つも続くと自分のせいのように思えてきてな」

「そんなことを気にする必要はないさ。俺はむしろ誇ってよいことだと思うがな」


 忠賢の向こう側を歩いていた直春が言ったが、菊次郎も同感だった。主家を失ってもすぐに新しい封主家に仕えることができるのは、忠賢の能力の高さの証明だ。まだ二十二なのにそれだけの評価を受けてきたのはすごいことなのだ。


「必死で戦っても主家が滅んだら全て無駄になっちまう。だから、今度は滅びない家に仕官したいのさ」


 そう話をまとめると、忠賢は菊次郎を意味ありげに見た。それに背中を押されて勇気を出し、宿を出る時からずっと気になっていたことを直春に尋ねてみることにした。


「では、直春さんの偵察は何が目的なんですか」


 湯山の温泉場でははぐらかされたのでまた教えてくれないかと思ったが、直春はちょっと首を傾げると、あっさりと答えた。


「俺は天下が早く統一されることを望んでいるんだ」


 菊次郎が怪訝(けげん)な顔をすると、直春は笑った。


「信じてもらえないかも知れないが、俺はとある封主家の出でな。子供の頃は若様なんて呼ばれていた。だが、六年前、家臣の裏切りで家は滅びた」


 封主家の出身と聞いて田鶴はまたも疑う表情になったが、忠賢は驚いたように隣を歩く男の顔を眺めた。


「俺には兄と慕っていた近習頭がいた。武芸と学問の師で、常に忠実でやさしかった。俺はその男を心から信じ、尊敬していた。だが、その男の父の筆頭家老が敵に寝返り、城に武者を引き入れた。俺は近習頭と必死で戦って倒し、城を逃げ出して流浪することになったのだ」


 直春は寂しげに笑っていた。


「俺は全力で故郷から遠ざかりながら、馬上でわんわん泣いた。信じていたあの男にだまされたことが悔しかった。敵対し、戦って傷付けなければならなかったことが悲しかった。そして、知りたいと思った。何があの男と父親を裏切らせたのか、なぜ俺の家族は殺されなくてはならなかったのか、その理由をだ。どうしても納得できなかったんだな。それから全国を旅して生きるために働きながら長いこと考えたが、結局別れ際にあの男が言ったことが答えだと思った。『それは今が戦狼(せんろう)()だからだ』、とね」


 直春は何を思い出したのか、腰の刀に手を当てた。


「人を殺すことは許されない。裏切りも人としてしてはならない。なのに、今日もこの国では戦が起こり、多くの武者や民が死に、裏切りや謀反(むほん)が起こっている。誰もそれを止めようとしない」


 直春はまるで自分に聞かせるように、遠くを見るまなざしで言葉を続けた。


「俺は人を信じたい。だまされるのは嫌いだ。俺が裏切るのも(いや)なんだ。だが、誰も賛成してくれない。こんな時代では仕方がない。死にたくなければ人を信じるな。皆、口をそろえてそう言うんだ。だから、俺は思った。戦狼の世を終わらせるしかない、と」


 田鶴も直春の本気を感じたらしく、黙って耳を傾けていた。


「とはいえ、戦をやめようと説得して回ったところで意味がないのは分かっている。となれば、誰かが実力でこの国を統一するしかない。だが、本気でそれを考えている者はいないらしい。唯一俺の城を落としたやつだけは、家督を継いだ時から天下統一を口にし、積極的に戦を起こして領地を広げているが、そいつは勝つためには手段を選ばず、暗殺やだまし討ちも辞さない男なので味方はしたくない。

 だから、俺は自分がやるしかないと思った。俺が天下を統一し、平和で人々が安心して暮らせる世の中を作ろうと決めたんだ。だが、俺は一介の浪人だ。城もなく、家臣もいない。そこで、天下統一の可能性がありそうな封主家に仕えて手助けすることにした。どこがよいのか調べるために国中を回っているが、西は大体見たので、今度は大封主家が多い長斜峰半島を調べようと思い、手始めに成安家の本拠地を目指しているのさ」


 直春は口を閉じると立ち止まって他の三人へ目を向けたが、菊次郎はそのまなざしを感じながら何も言えなかった。自分との器量のあまりの違いに衝撃を受けていたのだ。

 僕は戦を憎み、避けてきた。軍学塾を継ぐのを断ったのも、もう戦には関わりたくなかったからだ。だが、それは逃げではなかったか。

 今後も戦乱は続き、僕のように家族を殺され家を失う者はまだまだたくさん出るだろう。それはどうしようもないから、せめて贖罪(しょくざい)として貧民の救済をしようと僕は考えた。しかし、三つしか年が違わないこの人は、自分の手で戦狼の世を終わらせようと本気で決意して動いている。僕はそれを無謀だと笑えるのか。同じように戦乱のためにつらい経験をしたはずなのに、僕にはそんな考えは思い浮かびさえしなかった。僕はこの人の足下にも及ばないのではないだろうか。


「天下統一ねえ……」


 思わず立ちつくした菊次郎の横で、同じく足を止めていた忠賢がつぶやいた。顔が強張(こわば)っている。そのまま行こうとした田鶴は振り返って、男三人の様子にとまどっていた。

 と、忠賢が急に大声で笑い出した。ばかにした風にではなく、自嘲するような声だった。


「本気かよ。本当に天下統一を考えてるのかよ」

「正真正銘、本気だ」


 直春が答えると、忠賢は相手を上から下まで値踏みするように眺めて頭をかいた。


「正直最初はどんな阿呆かと思ったが、本気とは恐れ入った。呆れた奴だな。まったく、上には上がいるぜ」


 忠賢は楽しそうな口ぶりだった。


「俺もかなり無謀な夢を見てるつもりだったんだが、こんな奴がいたとはね。いや、お前には到底かなわないぜ」


 忠賢が笑うと、直春も笑みを浮かべた。


「まあ、普通は阿呆と思うだろうな。何人かに話したが、全員腹をかかえて笑ったよ。でも、君たちはばかにしないんだな」

「ばかにだなんて、そんなこと……。すみません」


 菊次郎は自分が信じられないものを見るような顔をしていたことに気が付いて、慌てて謝った。


「いや、謝る必要はない。君たちの反応を見て、話してよかったと思う」


 言葉通り、直春は気持ちのよい笑顔だった。


「でも、そんなの不可能じゃない? あたしも平和になってほしいと思うけど」


 田鶴は直春の言葉に感銘を受けた二人の気持ちが理解できないという顔をしていた。


「難しかったら諦めるの?」

「だって仕方ないじゃない」


 菊次郎に向かって田鶴が口をとがらせると、猿も同じ顔をしたが、忠賢は笑わなかった。


「その言葉を言わないところが、こいつのすごいところなんだよな」

「ええ、本当に。『仕方がない』で諦めず、実現する方法を探して行動に移す。なかなかできることではありません」


 菊次郎が頷くと、直春は照れ臭そうにした。


「そんなに立派なものではないさ。現実にはまだ仕官すらしていないのだからな。それに、俺が手を貸したからといって、その封主家が本当に天下を統一できるとは限らない。俺にそれだけの実力があるのかも分からないしな」


 直春は言ったが、それなりの自信はあるのだろうと菊次郎は思った。剣や槍の腕前は相当のものだろうし、この男は見栄(みば)えがするので、鎧を着せて大きな馬に乗せれば見た目だけは名将の出来上がりだ。人柄も鷹揚(おうよう)()()がいいから、部下には好かれるだろう。


「まあ、そうよね。簡単に天下が統一できれば、とっくに誰かがしているだろうし」


 田鶴も直春には一目置いているが、あまりまじめには言葉を聞いていなかった。


「それより、菊次郎さんは葦江国に着いたらどうするの? 行く目的は何?」


 いきなり問われて、直春を眺めて感慨にふけっていた菊次郎はびっくりした。見ると、口調は何気なかったのに、田鶴の表情は真剣で不安と期待が入り混じっている。菊次郎は困ったなと思ったが、他にしようがないので正直に答えた。


「僧侶になるつもりだよ」

「そうりょ? どういうこと?」


 田鶴は不思議そうな顔をした。意味が分からなかったらしい。


「出家して寺院に入り、大神様(おおかみさま)祭官(さいかん)になろうと思っているんだ。その前にすませなくてはいけない用事があるけど」

「しゅ、出家?」


 叫ぶと、田鶴は目を見開いて固まってしまった。それを気の毒そうに横目で見た忠賢が、確認するように尋ねた。


「じゃあ、結婚はしないんだな」

「もちろんしませんよ。だって、祭官ですよ」


 菊次郎が答えて田鶴を見ると、少女ははっと気が付いてうつむいた。涙を浮かべて唇をぎゅっと結び、体を硬直させて握ったこぶしを振るわせていたが、くるりと背を向けた。


「さ、先に行くわね」


 早口に言って、道を勢いよく走っていってしまった。肩から飛び降りた真白が慌てて追っていく。


「おやおや」


 自分も再び歩き始めた忠賢は、隣に並んだ菊次郎を責めるような目で見た。


「お前、案外残酷なんだな」

「そう言われましても……」


 これで田鶴の気持ちははっきりしたが、菊次郎には応えるつもりはなかった。彼女のことを嫌いではないが、自分の進む道は変えたくない。第一、田鶴はまだ十三だ。今後いくらでもよい出会いがありそうではないか。そう思ったが、忠賢はお前の考えは聞かなくても分かるという顔だった。


「青いねえ。そんなに(かたく)なに拒絶するなよ。相手は本気なんだ。思いを受け止めてやればいいじゃないか。今はまだ子供だが、あと数年もすればきっといい女になるぜ。その年で出家希望かよ。宿屋の捕り物もあったし、結構賢そうな奴だと思ってたんだが、ちょっと失望したな」

「僕にだって出家を希望するちゃんとした理由があるんです」

「どんな理由があるってんだよ。失恋でもして世をはかなんだのか」

「違います。寺院の貧民救済事業を手伝うつもりなんです。昔つらい体験をしたから、その罪を償いたいんです!」


 からかうような口ぶりにさすがにむっとして言い返すと、それまで黙っていた直春が言葉を(はさ)んだ。


「その体験を聞かせてもらってもよいか」


 直春はおだやかだが真剣な口調だった。


「君のことが知りたいのだ」


 菊次郎は忠賢と顔を見合わせると、「はい」と頷いた。二人の密かな野望を聞いたのだから、自分も話すべきだろう。それが礼儀というものだし、この二人にはなぜか聞いてほしかったのだ。

 菊次郎は手短に五年前の体験を語った。二人は驚いた顔で聞き入り、いくつか質問をし、その答えを聞くと黙って考え込んだ。


「たった十歳で……」


 しばらくして忠賢がつぶやいた。


「すごいな。お前は本当に賢いんだな」


 忠賢は菊次郎をじろりとにらんだ。まるで自分の野望の邪魔をする敵や競争相手を見るような目つきだった。が、忠賢はすぐに笑った。呆れているような、うらやんでいるような笑みだった。


「そんな才能を持ってるのに出家かよ。もったいねえな」


 思わぬ反応に、菊次郎はとまどった。


「僕がどれほど愚かかという話をしたんですが……」

「何言ってやがる。自慢話にしか聞こえないぜ」

「どこが自慢話なんですか。僕は自分の知恵を過信して思い上がったせいで大勢を殺したんです。少しも賢くなんてないんです」

「いや、そんなことはないぜ。湯山の宿屋でも思ったが、お前は人の考え付かないようなことによく頭が回るようだな」

「あれはお金のためにやむなくしたことで……」

「だが、解決しただろ」

「たまたまうまく行っただけですよ」


 菊次郎と忠賢が言い合いをしていると、何やら考え込んでいた直春が突然立ち止まって言った。


「菊次郎君は、出家して本当に後悔しないのか」


 二人が振り向くと、直春は重ねて問いかけた。


「俺も忠賢殿と同じ感想を持った。君は滅多にないほど知恵が働く人物だと。なのに、その頭で考えて出した結論がなぜ出家なんだ。本当にそれでよいのか。それが正しい道だと断言できるのか」


 直春の深いまなざしに、反射的に言い返そうとした菊次郎は言葉をのみ込んだ。


「君は恐らく、本気になれば相当のことができる男だと思う。なのに、過去の失敗にとらわれて未来を捨ててよいのか。それが本当に賢明な判断なのか」


 口先だけの答えは許されないと感じて、菊次郎は本音を言った。


「僕は怖いのです」

「怖い?」

「はい。怖いのです。自分がまたあやまちを犯して多くの人々を苦しめてしまうことがです」


 じっと耳を傾ける直春の姿はあとを継がないかと尋ねた時の適雲斎を思い出させて、菊次郎は胸が苦しくなった。


「故郷を失った僕を育ててくれた兵法家は、僕には軍略の才があると思っていたようです。正直に言えば、自分でもそう感じることがあります。ですが、僕は未熟な人間です。よく考えたつもりでも、分かっていないこと、気付いていないことが必ずあります。それがこの戦乱の世では人の死に直結します。実際に、死ななくてよかった人を僕は大勢殺してしまいました。それに、軍略とは敵を倒すためのものです。軍略家になれば必ず誰かを殺すことになります。僕はその責任を取れません。いえ、人を殺して責任など始めから取れるはずがありません。自分で責任を取れないこと、取り返しがつかないことになるかも知れないことに、もう関わるつもりはありません」


 言いながら、菊次郎は自分が意外に冷静なことに驚いていた。言葉にするのはもっとつらいだろうと思っていたのだ。だが、これが自分の本音だと、菊次郎は信じていた。

 直春と忠賢は黙って聞いていたが、顔を見合わせると、何かを言いたげに菊次郎を見た。

 先に口を開いたのは忠賢だった。


「それは違うと思うぜ」


 忠賢はいつものにやにやした表情を収めていた。


「気持ちは分かるけどよ、それじゃあ駄目だ。お前の選択は間違ってると俺は思うぜ」


 と隣を見ると、直春も頷いた。


「それでは前に進めない。そういう生き方は未来を閉ざしてしまう。君のそれは反省ではなくただの逃げだ」

「でも僕は怖いんです。もうあんな思いはしたくないんです!」

「そこで立ち止って背を向けていては、君は結局何もできないぞ」

「困っている人たちの力になりたいというのが、どうしていけないんですか!」


 なぜ僕の気持ちを分かってくれないんだろう。この二人は頭が鋭く人の心をよく見抜く人たちだと思ったから話したのに。

 菊次郎は悲しかった。

 適雲斎先生も同じようなことをおっしゃっていた。僕の気持ちを分かってくれる人はいないのだろうか。

 そんな菊次郎の顔を眺めていた直春は、何かを決意したように表情を改めた。


「君に一つ提案があるんだが……」


 言いかけて、直春は急に口を閉ざした。忠賢も刀に手をかけ、緊張した表情で辺りを見回している。


「どうしたんですか」


 菊次郎が尋ねると、忠賢が「しっ!」と言って黙らせた。


「今悲鳴が聞こえた」

「えっ?」


 驚いて耳を澄ますと、確かに遠くから女の悲鳴と叫び声が聞こえてくる。


「あの少女だ」

「田鶴ですか」


 頷くと、直春が道を先へ走り出した。忠賢も続く。菊次郎も慌ててあとを追った。駆けていくと、声が段々近くなってきた。

 街道のそばまで張り出した林を曲がると、少女が五人の男に囲まれているのが見えた。


「あんたたち何なの!」


 囲みの中心で少女が腕を広げている。その後ろで一人の中年の女性が地面にうずくまり、頭を抱えて震えていた。着物からすると、どこかの武家に仕える侍女のようだった。


「女の人を大勢で囲むなんておかしいよ!」


 どうやら、道に倒れていた女性を田鶴が助けようとしたら、男たちが襲ってきたらしい。


「気を付けろ」


 直春が走りながら刀を抜くと、忠賢も分かっているというように頷いた。男たちは鎧や兜こそ身に付けていないが、明らかに主持(しゅうも)ちの武者だったのだ。


「娘、そこをどけ! 邪魔をするな!」


 男たちはかなり殺気立っていた。全員が抜き身の刀を持っている。


「この人は渡さない!」


 田鶴が怒鳴り返すと、(かしら)格の男が舌打ちして、他の四人に指示を出した。


「うるさい小娘だな。人が来ると面倒だ。さっさと黙らせろ。殺してもかまわん」

「はっ!」


 頭が一歩下がると、四人は刀を構え、囲む輪を縮め始めた。


「いきなり刀を向けるなんてどういうこと!」


 田鶴は女性を背にかばいながら短刀を抜くと、四人をにらんで威嚇(いかく)した。


「双方、待て!」


 そこへ、直春と忠賢が駆け付けた。


「田鶴殿も刀を引け!」

「あなたは!」


 女性は直春の顔を見て驚いたが、直春はそれを気に留めず、忠賢と共に間に割って入ろうとした。田鶴のほっとした表情で仲間だと悟った男たちは、二人にも刀を向けた。


「その女はわけあって連れていかねばならん。よそ者が関係ないことに首を突っ込むな。邪魔をすれば斬る!」


 頭が脅すと、地面に座り込んでいた女性が「お助けください!」と叫んだ。


「捕まったら何をされるか分かりません。そこの方々、どうかこの者たちを追い払ってください!」

「その人はああ言ってるぜ」


 忠賢が女性にちらりと目を向けて言うと、田鶴が腹立たしげに説明した。


「こいつら、この人を見たらいきなり襲いかかってきたの。きっと拉致(らち)するつもりなんだよ」

「そういう無法を見逃すわけにはいかないな」


 直春が刀を構えた。


「ちっ、こやつらも切り捨てろ!」


 田鶴と侍女に一人を残し、頭たち四人が直春と忠賢に向かってきた。武者たちは目配せを交わすと、二人ずつ組になって一斉に斬りかかった。

 しかし、左右同時の攻撃を二人はものともせず、片方はよけ、もう一方は弾き返すと、返す刀で直春は相手の籠手(こて)を、忠賢は胴を打った。そして、残り二人の武者の第二撃をかわすと、背後へ走り抜けざまにその尻と背をたたいた。四人の武者はあっと言う間に刀を取り落とし、地面に倒れた。まるで事前に打ち合わせていたかのように、直春と忠賢の動きは見事にそっくりだった。


「くっ、こやつら……」


 頭格の武者は膝を突いて悔しげな顔をしたが、かなわぬと見たらしい。


「やむを得ん、引き上げだ!」


 無事だった一人が頭に肩を貸し、五人で道の脇の森の中へ逃げていった。


「すごいですね!」


 武者たちがいなくなると、菊次郎は直春と忠賢に駆け寄った。この二人は相当の手練(てだ)れだろうと想像はしていたが、本職の武者四人を軽々とあしらった腕前には驚いた。


「助けてくれてありがとう」


 田鶴が短刀を鞘に収めて言った。


「仲間だから当然だ」


 直春が言うと、忠賢も片目をつむった。


「お前に死なれちゃ寝覚めが悪いからな」


 田鶴が頬をゆるめると、直春は笑って頷いて、女性に話しかけた。


「お怪我はありませんか」

「は、はい、大丈夫です。本当にありがとうございました」


 二人の腕前に目を見張っていた女性は慌てて礼を言って深々と頭を下げると、直春の顔を食い入るように見つめながら尋ねた。


「あの、失礼ですが、お名前をお聞きしてもよろしいでしょうか」


 女性の様子に直春は首を傾げたが名乗った。


鴇戸(ときと)直春と申します」

直秋(なおあき)様ではないのですか」

「いえ、違います。私は直春ですよ」


 返事を聞いた女性はがっかりしたようにうなだれたが、「歩けますか」と言われて頷いた。


「では、近くの宿場までお送りしましょう。さあ、つかまって」


 引き起こそうと直春が手を伸ばすと、女性は四人を見回して首を振った。


「皆様にお願いがあります! 姫様をお助けください!」


 怪訝(けげん)な顔の四人に女性は地面に手を付いて頭を下げた。


「近くの村で姫様が捕まっています。このままではさらわれて、強制的に結婚させられてしまいます。どうか姫様を助けていただけませんか」


 田鶴は無理矢理結婚と聞いて目を円くし、男三人は顔を見合わせた。代表して忠賢が尋ねた。


「姫様ってのは誰だ」

桜舘(さくらだて)家の(たえ)姫様です」

「えっ!」


 菊次郎はびっくりした。訪ねていく相手の名前だったからだ。


「妙姫様というのは、この土地の封主様のことですか」


 確認すると、女性は頷いた。


「その通りでございます。姫様は桜舘家の現在のご当主様でいらっしゃいます。わたくしは姫様の侍女で(とし)と申します」

「女の封主か」


 忠賢が驚きの声をもらした。武家でも女性が家督を継ぐことがまれにあるが、戦狼の世に女の当主でやっていけるのかと思ったらしい。だが、直春は別なことを尋ねた。


「そのようなご身分の方をさらえる者がいるのか」


 妙姫は当然大勢の武者を従えているはずで、厳重に警護されているに違いないから簡単に誘拐などできるわけがない。

 すると、侍女は悔しそうな表情になった。


「姫様を捕まえたのは、筆頭家老の大鬼(おおき)家の者たちです」

「複雑な事情がありそうだな」


 四人は顔を見合わせたが、直春が決断した。


「話は道々聞く。とにかくその姫がいる場所へ案内してもらおうか」


 はい、と頷いて、お(とし)は立ち上がり、武者たちが去っていった林の間の道へ直春と共に向かった。田鶴は様子をうかがうように菊次郎を一瞥(いちべつ)すると、ぷいと顔をそむけて二人を追った。忠賢は呆れた顔で溜め息を吐いたが、嫌とは言わなかった。


「いいんですか」


 並んで歩きながら、菊次郎は小声で尋ねた。


「こういう面倒事は避けたかったのでしょう?」

「仕方ねえさ。乗りかかった船だ。あの二人は止めても行くだろうしな」

「そうでしょうね。性格がまっすぐなのがあの二人の美点ですから」


 忠賢は肯定も否定もせず、小さく笑った。


「お前はいいのかよ。もうすぐ目的地なんだろ」

「僕には行く理由があります。その妙姫様に会いにこの国に来たんですから」


 ほう、とつぶやいて忠賢は菊次郎を横目で見ると、前を歩くお俶に声をかけた。


「では、事情を説明してもらおうか」


 お俶は頷いて、そばに寄ってきた四人に歩きながら語った。


「桜舘家は高桐(たかぎり)総狼将(そうろうしょう)家に葦江国の国主(こくしゅ)に任じられたお家柄で、現在も半分を超える十六万貫を領する封主として、この辺りでは大きな力を持っています。ところが、五年前、菊見の宴の席で、隣国の封主家との内通を疑われて蟄居(ちっきょ)させられていた家臣によって、当主の直慶(なおよし)様が殺されてしまいました。筆頭家老の大鬼(おおき)厚臣(あつおみ)はすぐにその家臣の一族を討って事態を収拾しましたが、実は事件の裏で糸を引いていたのは厚臣(あつおみ)自身だったのです。厚臣は直慶(なおよし)様の唯一の男のお子様の虎千代丸(とらちよまる)様がまだ六歳と幼かったことを理由に、当時十二歳でいらした長女の妙姫様を当主にすえて、家中の実権を握りました」


 適雲斎が五年前に謀反(むほん)を起こした家老と対立して国を出たと言っていたことを、菊次郎は思い出した。


「無論、多くの者が反発しましたが、厚臣は(かかと)(くに)宇野瀬(うのせ)家と手を結んでいました。宇野瀬家は百万貫を超える大封主家です。皆内心の怒りを抑えて彼に従いました。それ以来、妙姫様の後見人となった厚臣は、事実上の国主として振る舞ってきました。反対する者は滅ぼして家中で絶対的な権力を振るう一方、宇野瀬家の命令で北の茅生国(ちふのくに)へたびたび出兵し、その費用と言って民に重税を科して、贅沢三昧の暮らしを続けてきたのです」


 侍女は語りながら怒りに震えていた。よほど悔しい思いをしてきたのだろう。


「ですが、虎千代丸様はこの春で十二歳になられ、元服をお迎えになります。桜舘家では代々十二歳で元服するならわしなのです。そうなれば、妙姫様は当主の座を弟君にお譲りになり、自分がその後見に付いて、大鬼家を家臣の地位に戻すとおっしゃいました。すると厚臣は、自分の長男の一臣(かずおみ)を妙姫様と結婚させて当主にすると言い出しました」


 お俶は目に涙を浮かべていた。


「それでは本格的な簒奪(さんだつ)です。名門の桜舘家が家臣である大鬼家のものになってしまいます。厚臣は二人の結婚は以前直慶(なおよし)様と相談して決めたことで、妙姫様が年頃になるのをお待ちしていたと言うのですが、もちろんうそに決まっています! 誰もが内心では反対なのですが、今や大鬼家の領地は五万貫、家臣たちの半数は配下と言ってよい状況で、表立って(あらが)う者はおりません。その力を背景に厚臣は息子と結婚しろと迫ってきましたが、妙姫様は(げん)を左右にして拒み続け、元服の儀を行う春始節(しゅんしせつ)に当主の地位を弟君に譲ると宣言なさるおつもりで、心ある家臣たちを味方に引き入れようと密かに動いていらっしゃいました。すると、それを知った厚臣は、春が近付く中、遂に強硬手段に出てきたのです」

「それが誘拐か」


 直春の言葉に侍女は頷いた。


「はい。今朝、(さかい)村の村長(むらおさ)から、大鬼家の武者が村に居座って金千両を払わないと家や田畑を焼き払うと脅すので助けてほしいと手紙が参りました。姫様は家臣たちにすぐに村へ行って武者たちを追い払いなさいとお命じになったのですが、皆大鬼家を恐れて行きたがりません。

 すると、姫様は、民が困っているのを放ってはおけない、私が自分で行きますとおっしゃいました。まわりの者たちは慌てて、姫様の身に何かあっては取り返しがつきません、せめて町の見回りに出ておいでのお馬廻頭(うままわりがしら)豊梨(とよなし)実佐(さねすけ)様がお戻りになるまでお待ちくださいとお止めしました。ですが、姫様は、私が行って退去を命じれば大鬼の兵とて従わないわけにはいかないでしょうと、実佐(さねすけ)様にあとからくるようにと伝言を残し、わたくしと警護の者二名を連れただけでお城を抜け出してこられたのです。

 そして、村に入ったところ、大鬼家の武者に取り囲まれて、姫様は捕まってしまいました。私は警護の武者たちが抵抗している隙に助けを呼びにここまで逃げてきたのですが、大鬼家の武者に追い付かれ、このお嬢さんに助けていただいたのです。

 大鬼厚臣は姫様をかどわかして自分の城へ連れていき、閉じ込めて結婚を迫るつもりなのでしょう。そのためには何をするか知れたものではありません。どうか姫様をお救いください」


 なるほど、と直春はうなった。田鶴も怒りに顔を赤く染めている。結婚を渋る若い女性を誘拐して無理矢理意志をへし折ろうとしているとなると、最悪の場合、卑劣な行為も想像される。


「しかし、相手は村を占領できるほどの数の武者なんだろ。それを俺たちだけで追い払うのは、いくらなんでも無理があるんじゃないか」


 忠賢の言葉に田鶴はむっとした顔をしたが、直春は考え込んだ。


「確かに、普通に考えれば不可能だ。村の様子を見て判断しよう。いざとなれば、その姫と護衛の武者だけ救い出して逃げればいい。それで大鬼の兵は引いていくだろう」

「その場合、村の人たちがひどいことをされる可能性がありますけどね」


 菊次郎は言ったが、内心ではその作戦しかないだろうと思っていた。恐らく、妙姫に届いた手紙はおびき出すための(わな)だ。となれば、少なくとも村長(むらおさ)は大鬼家のたくらみに加担したことになり、自業自得と言えなくもない。だが、直春は言った。


「いや、誰も傷付けずに村も姫も救う。それが俺たちの役目だ」

「そうよ。そんな連中、絶対に追い出してやろうよ」


 うんうんと田鶴は頷いている。その様子には横暴な武者たちに対する人事(ひとごと)でない怒りが感じられた。もしかしたら、まだ少女の田鶴が一人で旅をしていることに関係があるのかも知れないと、菊次郎は思った。


「とにかく、妙姫様を救い出すのが先です。人質がいては自由に動けません。それに、姫様を城へ送り届ければ、あとのことはなんとかなるでしょう。さすがに、当主をかどわかそうとしたとなれば兵を出すのに理由は充分ですから」


 他の四人も頷いた。


「あの村です」


 やがて林の向こうに小さな村が見えてきた。北の森から南の方角へ水量の豊かな広い川が流れていて、途中が(ふく)れて大きな池になっている。ふた付きの鍋のような形のその池の手前に水田が広がり、人家が点在している。対岸は杉の生えた小山で、池のそばまで急な斜面が迫っていた。

 お俶の話では、葦江国の中央部でお城や豊津(とよつ)港のある国中(くになか)郡と、大鬼家の領地である国東(くにひがし)郡はこの境川(さかいがわ)で分かれる。境池のこちら側の岸辺には魚を()るためのものらしい十艘(そう)ほどの小舟が引き上げてあり、そばに網が干してあった。境川には池に流れ込むところと出て行くところにそれぞれ橋が架かっているが、北側の橋の方が大きくて立派だ。西から来てその橋を通って対岸の丘の間へ消えていく葦狢(あしむじな)街道は、豊津の町と長斜峰(なはすね)半島東側の(かかと)(くに)を結ぶ重要な道なのだそうだ。


「姫がいるのは恐らく村長の家だな」


 忠賢は村で一番大きな家を指さした。川が森から流れ出てくる付近にある。裏手には簡素な桟橋(さんばし)のようなものが川に突き出ていて、釣り舟が一艘つながれていた。その家の周辺だけ警備が厳重だから、あそこに妙姫と二人の武者が捕らえられているのは間違いない。


「問題はどうやって助け出すかだ」


 林の(はし)で木の陰に隠れながら、直春は村を眺めてつぶやいた。大鬼家の武者は総勢で百人ほどだった。村中に散らばっているが、それでも村長の家の周囲には十人以上、すぐに駆け付けてこられそうな者を合わせると二十人はいる。その人数を倒すのは到底無理だが、村長の家の中に入らなければ姫は助けられない。それに、うまく助け出すことができたとしても、足の遅い姫君と侍女を連れて逃げ切る方法が問題だった。

 菊次郎が考え込んでいると、直春が尋ねた。


「君ならどうする」


 顔を上げると、忠賢と田鶴も菊次郎を見ていた。


「どうか、姫様をお助けください」


 お俶が菊次郎を拝むようにした。他の三人の様子から、(わら)にもすがる思いで菊次郎の知恵を頼みにしているらしい。

 自分は賢くありませんと言いたくなったが、そんな言い訳が許される状況ではない。覚悟を決めて四人に自分の考えを披露した。すると、お俶がびっくりした顔をし、他の三人が黙り込んだ。失敗したと思い、他の案を考えようとした時、直春が膝をたたいた。


「よし、その作戦で行こう」

「うん!」


 田鶴もうれしげに声を上げた。


「お前はやっぱり大したやつだ」


 忠賢は菊次郎の頭をぐりぐりと撫でた。


「役割分担は今菊次郎君が言った通りでいいな」


 直春の言葉に他の三人も頷いた。さらに細部を相談した後、忠賢と直春は林の中を村の奥へ向かった。お俶は深く頭を下げ、邪魔になる荷物を持って川の方へ消えた。しばらくして忠賢と直春が戻ってくると、四人と真白は見付からぬように村長の屋敷へ近付いていった。

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