(巻の一) 第二章 温泉街
「これが湯山の温泉街か」
両側に宿が立ち並ぶくねった坂道を見上げて、はずんだ声を菊次郎は上げた。
玉都を発って八日目、南国街道をひたすら東へ歩いた菊次郎は、既に三つの国を通過して、槍峰国に入っていた。
ここ吼狼国は大陸の西に広がる広大な海に浮かぶ島国の一つだ。大小多数の島々からなるが、最も大きいのが国土の九割を占める主島の臥神島で、吼く神の国、即ち吠える狼の国という意味の国名は、この島の形状に由来する。東に尾を向けた巨大な狼が、西に沈む夕日に大きく口を開けて吠えているような形をしているのだ。臥神島からは四つの大きな半島が突き出していて、頭部、尾、前足、後ろ足に擬されているが、菊次郎の目的地である足の国の葦江国は長斜峰半島にあり、狼の後ろ足の膝のすぐ下にあたる。
へその位置にある玉都から葦江国へは船が早いが、船賃が高いことと、近頃海賊の活動が盛んで物騒なため、菊次郎は全国八街道の一つである南国街道を歩くことにした。葦江国は都から数えて七国目なので、今菊次郎がいる槍峰国はちょうど道の半ばということになる。
適雲斎が多額の旅費を餞別として渡してくれたので懐には余裕があったが、菊次郎は農家に泊めてもらうなど節約していた。天涯孤独の身で頼れる人がいないので、いざという時のためにできるだけ多く残しておきたかったのだ。とはいえ、都を出てから雪こそないものの冬の旅は寒く、そろそろ疲れもたまっていた。無理をして体を壊しては元も子もないので、温泉地として有名なこの町で宿に泊まって湯につかり、体を休めることにしたのだった。
温泉街は南国街道からややはずれていて、長斜峰半島を東西に分断する大長峰山脈に連なる小山のふもとにあった。菊次郎は宿の並ぶゆるい坂道を一番上まで登って町の様子を確かめてから、あまり流行っていないらしい小さな宿に決めた。節約したのもあるが、値段の高い大きなところに泊まると多くの金を持っていることを宣伝することになるからだ。一人旅なので用心は必要だった。
湯之端屋というその宿は、五十がらみの主人とその妻、六十を越えているらしい女中の三人でやっていた。二階建ての一階は帳場を兼ねた玄関前の広間と厨房と主人夫婦の居室で、広間には囲炉裏があり、高い屋根のすぐ下に煙出しの穴がある。客室は二階で、左側から囲炉裏を見下ろす廊下に六つの扉があった。まだ夕暮れには間があるのに、既に二つの部屋に客が入っていると主人は言っていた。
案内された部屋は階段のすぐ脇でたった三畳だったが菊次郎に不満はなかった。どの部屋も同じくらいの大きさらしいし、一人で寝るには十分で、農家の納屋よりはるかにましだ。奥に窓があり、板戸を横に引くと、下は狭い畑で大根やねぎが育っていた。その向こうは隣の一階建ての土産物屋で、平たい屋根の上に風で飛ぶのを防ぐためのものらしい大きな石がたくさんのっている。二つの建物の後ろはやぶになっていて、その先は川が流れていた。
女中が去ると、菊次郎は荷物を解いた。夕食前に湯に行こうと思ったのだ。その間金目のものは帳場で預かると言われたので、着替えと汚れ物を持って一階に下りて財布を差し出すと、主人は自分の部屋へ行って先端に鈴が三つ付いた長い木の棒を取ってきた。壁の戸棚の鍵は高い柱の屋根近くに打たれた釘にかかっているのだ。主人は財布をしまうと、鍵を棒の先端の金具に引っかけて高いところに戻した。
あんなところに鍵を出しっ放しにして大丈夫かと思ったが、それを察した主人は自信ありげに言った。
「ご安心ください。他に踏み台やはしごになるものはありませんし、この棒は離れたところに置いてある上、先にうるさい鈴が付けてありますから、誰かが持ち出せばすぐに分かります」
菊次郎は納得し、宿を出た。
温泉場は坂の一番上にある大きな平屋の建物だった。服を脱ぐ場所は男女別だが中は混浴で露天だと聞いている。
戸を開けて中に入ると、入口のすぐ脇の番台に老人がいて、金を渡すとぬか袋と大きなたらいをくれて長い木の棚を指さした。そこへ服を入れろということらしい。菊次郎は裸になると、奥の木の戸を開いた。
露天の風呂場は石が敷いてあり、かなり広かった。周囲は簡単な板の囲いがあるだけで、背後の山がよく見える。奥にある石組みの大きな湯船は、十人は入れそうだった。竹の樋からかなりの量の湯がもうもうと湯気を立てて流れ込んでいて、反対の端からどんどんあふれていた。
先客は二組だった。湯口の近くで地元の人らしい老婆が二人世間話をしている。もう一組は十二、三歳の少女と全身の毛が白っぽい小さな若い猿だった。なぜ風呂場に猿がと驚いたが、かなり少女に懐いている様子なので、野生ではなく飼われているらしい。
よほどかわいがっているのか、猿と遊ぶ少女の笑顔は実にあどけなく、天乃を思い出した菊次郎はつい見つめた。すると、少女はちらりと視線を送ってきてすぐに顔を真っ赤にし、慌てて手拭いで前を隠すと湯から上がり、脱衣所へ駆け込んで戸をぴしゃりと閉めてしまった。あとを追った小猿が困って戸をたたくと、少しだけ隙間が開いて猿を入れ、またすぐに閉じた。菊次郎は自分の迂闊さに苦笑いし、おかしそうな顔をしている老婆たちに頭を下げると、かけ湯をしてからたらいに湯をくんで、木の腰掛けの一つに座った。
宿で聞いた通り、ぬか袋と湯にひたした手拭いで体を丁寧にぬぐってきれいにすると、汚れ物を洗ってからゆっくりと湯につかった。都ではもちろん故郷の家でも濡らした体をこすって垢を落とし水で流すくらいがせいぜいで、温かい湯につかるなどという贅沢はしたことがなかった。始めはやや緊張したが、かすかに硫黄の香りがする白っぽく熱い湯はとても心地よく、菊次郎はすっかり気に入った。
老婆たちにこの温泉の効能をいろいろと聞かせてもらい、教えられた通りに湯の中で手足をさすったり揉んだりしながら、菊次郎は一人残って長いこと湯につかっていた。もう存分に湯を楽しんだという頃、武家風の若い男が二人入ってきたので、名残惜しいがそろそろ上がることにした。
さて、と立ち上がった菊次郎は湯船から出て歩き出し、こちらへ歩いてくる男二人とすれ違おうとして、いきなりめまいに襲われた。
「うわ、何だ?」
頭がずきずきして意識が朦朧とし、菊次郎は大きくふらついた。
「おい、大丈夫か」
足を滑らして背中から石敷きの床に倒れそうになった瞬間、横から延びてきた太い腕に支えられた。重いまぶたを開けると、目の前に二十歳前後の若い男の顔があった。
「これは湯あたりだな」
「顔が真っ赤じゃねえか」
その後ろから菊次郎の顔をのぞき込んだのは、さらに数歳年上らしい男だった。
「少し風に当たって休んだ方がいいな。そこのすのこに寝かせてやれ」
菊次郎を抱えた男は頷き、軽々と持ち上げると、洗い場の端へ運んでいってそっと横たえた。
「ありがとうございます」
くらくらする頭をなんとか浮かせて礼を言うと、男は人好きのする笑みを浮かべた。
「今、水をもらってこよう」
「もう持ってきたぜ」
もう一人の男が番台の老人を連れてきた。老人は菊次郎の顔色を確認すると水の入った竹筒を渡し、「少しずつ飲むといい」と言って戻っていった。
「お世話をおかけして申し訳ありません」
「いいってことよ」
菊次郎の言葉に、二人目の男は笑みを見せた。
「もしかして、君は温泉は初めてなのか」
若い方の男が尋ねた。頷くと、もう一人の男が納得した顔をした。
「温泉に慣れてないやつは心地よさに負けて長湯しちまうことが多いからな。寝ていればすぐによくなるさ」
男たちは笑って離れていき、それぞれ体を洗い始めた。二人ともかなり体格がよかった。背が高いし、鍛えられた体付きをしている。相当腕が立ちそうだった。
菊次郎は顔を戻し、青く晴れ上がった空を見上げた。かすかに風が吹いていて、火照った体に冬の冷たい空気が心地よかった。力を抜いた全身から湯気が立ち上り、次第に汗が消えていく。深呼吸しているとようやく頭が澄んできた。ゆっくりと流れていく雲をぼんやりと眺めながら、菊次郎は不思議な自由さを感じていた。
と、足音が近付いてきて、一人目の男が上から見下ろした。
「熱は冷めたか」
菊次郎は頷いた。
「はい、もう大丈夫です」
「俺たちはもう上がるが、君はどうする」
「僕も上がります。でも、その前にもう一回湯につかりたいですね。少し冷えすぎました」
答えて菊次郎が体を起こすと、男は「俺もそうするかな」と言って、湯船に向かった。
もう一人の男も湯の中にいた。二人は目を見合わせると、菊次郎に尋ねてきた。
「もしかして、君は湯之端屋 に泊まっているのではないか」
「なぜ知っているのですか」
菊次郎が驚くと、二人目の男が言った。
「俺たちもそこの客なんだよ」
二人は宿の主人に菊次郎が先に湯に行ったことを聞いていたらしい。
一人目の男は鴇戸直春と名乗った。
「俺が宿に着いたのは君が出たあとらしい。荷物を置いて早速湯に行こうと思ったらこの男と一緒になってな」
もう一人の方は青峰忠賢といった。
「俺は昼前に着いて、さっきまでずっと寝ていたのさ。ここ数日歩きづめだったからな」
きっと長い旅をしてきたのだろう。
「お二人はお武家様とお見受けしますが、どちらへ向かわれるのですか」
当たり障りのない話題を考えて目的地を尋ねると、直春は答えた。
「俺は南へ向かっている」
「俺も南だ」
忠賢も言った。
「主家のご用事ですか」
重ねて問うと、手拭いを頭にのせた忠賢はのん気な口調で否定の返事をした。
「いや、俺は浪人だ。仕官先を求めて旅している。これでも剣と鎖鎌の腕はなかなかなんだが、主家運がなくてな。仕えた家がすぐに滅んじまうんだ。で、また次を探しているのさ」
「俺も似たようなものだな」
ということは、直春も浪人らしい。直春は間違いなく主持ちだろうと思っていたので、菊次郎は内心驚いた。
「南と言うと、どの封主家ですか。増富家ですか」
すぐ南の万羽国を領する封主家の名を挙げると、忠賢は首を振った。
「俺の目的地はもっと遠い。御使島へ渡って置杖国へ行く」
吼狼国で二番目に大きいその島は長斜峰半島のすぐ西にあり、羽を広げた鴉のような形をしている。その右の翼にあたる国には封主家は一つしかない。
「ああ、鮮見家に仕官するんですか」
五年前故郷の町を攻め落とした封主家なので菊次郎には複雑な思いがあるが、それを知るはずもない忠賢はあっさりと肯定した。
「あそこは最近勢いがあるから、俺も雇ってくれるんじゃないかと思ってね。で、こいつは大門国だとさ」
「墨浦の成安家ですね」
全国に探題家は九つあったが、今も生き残っているのは三家だ。その一つである成安家は、七国と一国の半分、合計百八十万貫を領する大封主家だった。
「成安家は現時点で最も天下に近いと言われていますからね。もたれるなら小藪より大岩ですか」
菊次郎が言うと、直春は首を振った。
「俺は仕官希望じゃない。偵察だ」
「偵察?」
まさか戦のためかと菊次郎が身構えると、直春は「違う。そういうことじゃない」と苦笑した。
「あの家がどんな様子か見に行くだけだ。噂だけでは状況がつかめないからな。気に入ったら仕官してもよいとは思っているが」
「どこかの封主家に頼まれたのではないのですか」
「いいや。俺の個人的な理由で、あの封主家が本気で天下を統一する気があるのか調べるのさ」
「何のためにですか」
ますます分からなくなって尋ねると、直春は「ちょっと興味があってな」と笑い、それ以上語ろうとしなかった。
そこへ、大勢の男たちが入ってきた。宿泊客や仕事を終えた近隣の者たちのようだ。
「さあ、そろそろ上がるか」
直春が立ち上がり、忠賢と菊次郎も湯を出た。
三人は手早く体を拭いて服を身に着け、混み合う脱衣所の騒がしさに背中を押されるように外へ出て、のんびりした足取りで宿へ向かった。既に空は夕焼けに染まり始めていた。
ちょっとした失敗もあったが初めての温泉体験に満足し、菊次郎がよい気分で宿の暖簾をくぐると、帳場に人が集まって騒いでいた。様子を怪しんだ三人が顔を見合わせ、何事ですかと尋ねようとした時、宿の主人が近付いてきて頭を下げた。
「申し訳ございません!」
驚いてわけを尋ねると、帳場にあった客の財布が全て盗まれたという。三人のものも含まれているらしい。確かに帳場の棚が開き、その手前に鍵の刺さった錠前が落ちていた。青くなった菊次郎に、主人は言った。
「ですが、犯人は分かっています。こいつです」
そこにいた全員がそろって一人へ視線を向けたので、つられてその人物を見た菊次郎は目を見張った。先程温泉場で猿と遊んでいた少女が頬を膨らませて立っていたのだ。肩にはあの毛が白っぽい小猿が乗っている。
「だから、あたしはやってないってば!」
周囲の視線に負けずに少女は言い返した。
「あたしはここにお客を探しに来ただけなの! だって太鼓を鳴らしても誰も見に来ないんだもの。宿を一つずつ回って呼び集めていたの!」
どうやら少女は猿回しが仕事らしい。先程湯の中で猿に向けていた笑顔は子供っぽかったが、無実を主張する表情は年齢以上に大人びていた。恐らく、猿と一緒に芸を見せながら各地をめぐり歩いているのだろう。
「うそをつくな。お前が来たあとに財布がなくなったのだぞ!」
「違うって言ってるでしょ。あたしが来た時には、その戸棚はもう開いていたの!」
「だが、誰も鈴が鳴る音を聞いていないのだ。棒は鈴が付いたまま部屋にあった。ならば、鍵を取れるのはお前しかいないではないか! 台所で料理をしていた私は、お前が出ていく音のすぐあとにここへきたのだぞ。さあ、財布を隠した場所を言いなさい!」
主人の言葉で菊次郎はようやく事態を理解した。主人は少女が猿を使って鍵を取ったと考えているのだ。確かに丸い柱にはでこぼこがあるので人は無理でも猿なら登れそうだし、それなら鍵を取るための棒の鈴は鳴らない。だが、少女を捕まえて調べたところ、財布を持っていなかったらしい。
「なんと強情な娘だ。もうすぐ御番所からお役人様がやってくる。厳しく詮議してもらおうじゃないか」
「あたしは無実よ!」
主人は顔を真っ赤にして怒鳴っているが、少女の方も認めたら牢屋行きだから負けじと濡れ衣を主張する。
菊次郎は困ったことになったと思った。財布がなくては旅を続けられないし、宿代が払えない。為替の割符も財布に入っているので、それがないと葦江国で金を引き出せない。唯一の財産で適雲斎にもらった大切なものだから、なんとしても取り戻したかった。
だが、少女が犯人とは菊次郎には思えなかった。先程温泉場で見たあどけない笑顔と盗みが結び付かなかったのだ。となると犯人は別にいることになるが、それにはまず鍵を取った方法を調べなくてはならない。
あまり出しゃばりたくなかったが、このままでは埒が明かないので、仕方なく菊次郎は言い合いを続ける主人と少女の間に割って入った。
「すみませんが、事件のことを詳しく知りたいので、皆さんにお話をうかがってもよろしいですか」
菊次郎は二人を黙らせると、まず少女に尋ねた。
「お嬢さんのお名前を教えてもらえますか。それから、言い分を聞かせてください」
少女は菊次郎の顔を見て温泉場で会ったことを思い出したらしく、「あっ、あの時の変態!」と頬を真っ赤にしてにらんだが、渋々といった風に名乗った。
「あたしは咲村田鶴。この子は真白っていうの。体全体の毛が白っぽいから」
名を呼ばれて小猿が頭を下げた。田鶴は十三歳、訛から察していた通りこの辺りの者ではなく、遠い土地から来たらしい。故郷は言わなかったが、恐らく長斜峰半島の東半分、つまり踵の国の出ではないかと菊次郎は思った。
「あたしは玄関の土間で『どなたか猿の芸にご興味ありませんか』と声をかけたけど、誰も出てこなかったからすぐに立ち去ったの。この町に三日前からいて同じことをしてるけど、文句を言われたことはなかったし。だけど、次の宿へ行こうとしたら、この人が追いかけてきて、泥棒だと言って無理矢理ここへ引っ張ってこられたのよ」
「出てくるお前をお為が見たと言ったからだ。お為は向かいの宿屋の前でそこの女将と立ち話をしていたのだ」
主人は自分の妻を指さして言った。
「他に宿から出てきた人はいないのですか」
菊次郎が尋ねるとお為は直春と忠賢を手で示した。
「このお二人とそのお嬢さん以外はどなたも出てきませんでしたよ」
「他に出口はないのですか」
「勝手口がありますが、滅多に使わないので前に大きな棚が置いてあります。それに、台所では私と女中が夕食の支度をしていました。一階の窓は泥棒よけに全て格子がはめてあります」
主人の答えにお為と女中が頷いた。
「直春さんと忠賢さんはどちらが先に宿を出られたのですか」
菊次郎の問いに二人は顔を見合わせた。
「同時だ。湯に行こうと降りてきたら玄関で忠賢殿と会ったのだ。すぐに別れたがな。温泉場へ行く前に町の中をぶらぶらして土産物屋をのぞきたかったのだ」
「俺も近所の店で飯を食ってから湯に行ったぜ」
「出て行く時に異常はなかったのですね」
二人は頷いた。菊次郎は主人の妻に確認した。
「お二人の持ち物は今と同じですか。手には何も持っていませんでしたか」
「そのお二人は一緒に出てこられました。持ち物は今と同じです。両手は空いていました」
お為は答え、二人も互いを見て頷いた。
「となると、財布はこの宿から持ち出されてはいませんね」
菊次郎は言った。
「六人分の財布となると、相当かさばります。二人で分けて持っても、懐に入れるのは無理でしょう。僕の財布はかなり大きくて重かったですし」
菊次郎は二十日分の旅費を板銀と銅貨で持っていた。長い旅では財布は最も重い荷物の一つで、茶店などで使う小銭以外は厳重に包んで背負うのが普通だ。
他の泊まり客の財布も同じ状態だろうから、いくらこの二人の体格がよいと言っても、財布をいくつも懐に入れたら胸元が大きく膨らんでしまう。袂に入れる方法もあるが、手ぶらだったことからすると、両袖には着替えの下着と今二人が肩にかけている手拭いが入っていたに違いないし、重いものを入れれば垂れ下がるからすぐに分かる。この二人はどちらもなかなかいい男なので、そんな不自然な様子があればきっと目を引いただろう。
「そして、もし田鶴さんの仕業でなく、ご主人と女中さんを除外するなら」
菊次郎はその場にいる宿泊客五人を見回した。
「犯人はこの中にいることになりますね」
「おいおい、俺は犯人じゃないぜ。お前と一緒に湯から帰ってきたじゃないか」
忠賢が抗議した。先程から面白そうに菊次郎たちのやり取りを眺めていたが、疑われるとあっては黙っていられないと思ったようだ。
「俺はこいつと一緒に宿を出たんだぜ」
直春に親指の先を向けた忠賢に申し訳なく思ったが菊次郎は答えた。
「お二人が共謀している可能性があります」
「俺たちが仲間だという意味か」
直春が尋ねた。
「ええ。お二人が手を組んで、無実を証明しようとしているのかも知れません。お二人が出てくる時に異常がなかったという証拠はありませんので」
「本気で俺たちを疑っているのか」
忠賢は心外だという顔だったが、菊次郎は譲らなかった。
「お二人を疑うのは心苦しいのですが、それでも犯人の可能性は消えません」
そう菊次郎が説明すると、直春は「なるほど」と頷いて忠賢をなだめた。
「まあ、この少年に任せてみよう」
直春は事件の調査に乗り出した菊次郎に興味があるらしかった。
「直春さんの財布もなくなったそうですから、直春さんが来るより先に宿を出ていた僕は犯人ではないことになりますので、調査役をやらせてください」
五人はやむを得ないという様子で承知した。
「では、まず、皆さんが宿に来た時間と何をしていたかを教えてください」
顔を見合わせた五人の中で真っ先に口を開いたのは忠賢だった。
「仕方ねえ。じゃあ、さっさと疑いを晴らしちまうか」
忠賢は手短に自己紹介した。
「俺は青峰忠賢、浪人だ。仕官先を探して旅をしてる」
周囲の反応を待たず、行動も話した。
「昼頃ここに着いて、疲れを取るためにずっと部屋で寝ていた。目を覚まして湯浴みに出る時に玄関でこいつと会い、途中で飯を食って、温泉場の入口でまたこいつと会った」
直春が頷いて同意を示した。
「俺の鎖鎌ならあそこにかけてあった鍵に届くだろうが、俺はやってねえぜ」
二十二歳だという忠賢は、今は鎖鎌ではなく刀を腰に帯びていた。粗末なこしらえだが切れ味はよさそうだ。きっと刀の腕も相当なものだろう。地味な着物を着崩して、伸ばした髪を頭の後方の高い位置で無造作にくくっているところや、あごにぽつぽつと伸びた不精髭は一見だらしがないようだが、ややつり上った目には油断がない。財布を取られた割に口調に深刻さが薄いのは、失った程度の金はまたすぐに稼げる自信があるからのようだ。
「湯山に来たのは二度目だが、この宿は初めてだ。財布を取られた上に盗みの疑いをかけられたんじゃたまんないね」
忠賢は温泉場にいたし、宿を出る時に直春と会ったそうだから、その言葉を信じるなら犯人ではないが、菊次郎はこの男の軽口の裏に油断ならぬものを感じていた。それが悪事を肯定する歪んだ心であるとは思わないものの、封主家をいくつも渡り歩き、何度も戦場に立ってきた経験からか、到底一筋縄ではいかないような、よく言えばたくましい部分が忠賢にはあった。
「では、次は俺だな」
続いて直春が名乗った。
「俺は鴇戸直春という。もう何年も国中を旅して回っている。湯山に来るのは初めてで、この宿には先程着いたばかりだ」
直春が十八歳と聞いて菊次郎は驚いた。その若さにしては随分と貫禄があり、落ち着いて見える。忠賢のどことなく野性を感じさせる精悍さと比べるとたたずまいに品があるので、育ちがよいに違いない。髷をきちんと結って身なりがこざっぱりしている割によく見ると着物が古いのは、やはり浪人だからだろう。
「主人に大事な物は帳場で預かると言われてその場で財布を渡し、二階に荷物を置いて湯に行こうと着替えを持って出てきたら、玄関に忠賢殿がいた。それから土産物店をのぞきながら温泉場に向かったのだが、やはり疑いを免れることはできないのだろうな」
直春もまた、盗人と疑われているにしては実に堂々としていた。そこが逆に怪しいという見方もできるが、菊次郎にはどうせ捕まえられまいというふてぶてしさよりも、自然に身に付いた自信のように思われた。
「調べられる前に言っておくと、俺は槍を持っている。だが、鍵は取っていないぞ。懐が寂しい時は、盗みを働くのではなく捕まえる方に回ることにしているのだ」
直春はいつも用心棒をして路銀を稼いでいるらしい。この男は押し出しも立派だし、腰に帯びた上等な刀がしっくりしているから、働き口には困らないだろう。
残りの三人は商人だった。
「私は墨浦から来ました。都へ向かう途中です。この宿はよく利用するんですよ。しかし、困ったことになりました」
遠原弥次郎はいかにも人の良さそうな顔を今にも泣き出さんばかりに歪めて溜め息を吐き、仕事は釣り道具の行商だと言った。
「釣り糸なんてどれでも同じと思うかも知れませんが、この糸は絹をより合わせた丈夫なもので、魚にも気付かれにくいんですよ。針も頑丈で折れません。重りも扱っています。お得意様が各地にいまして、国中を売って歩いているのです。私自身は釣りをしませんがね」
中年の商人は小さな針と細い糸を懐から取り出して見せてくれた。話が出た時にすぐ売れるようにいつも持っているらしい。鉛の重りは邪魔になるので部屋の荷物の中にあるそうだ。
「あの財布にはここ三ヶ月の売り上げが入っていました。見付からないと仕入れ先に代金が払えませんし、方々に迷惑がかかります。本当に腹立たしいですよ。なお、私も先程ここへ着いたばかりです。湯に行こうと思って財布を預けたんですが、これから混む時間だと言われて部屋に戻り、売り物の整理を始めたので、今部屋いっぱいに広がっていますよ。私がまた二階へ上がった時に、そのお武家様が表の戸を開けて宿に入ってきました」
その言葉に直春は頷いていた。
次は妙に陽気な男だった。
「私は薬売りなんだ」
畑抜三代吉はうれしそうに話し始めた。
「神つ国は隠湖国、藺の湖の象に踏まれて鍛えられし薬草は、天下一の効能なり、って歌を聞いたことがあるだろう。あれを歌いながら薬を売って歩いているんだよ」
隠湖国は玉都のすぐ北にあり、その丸薬は適雲斎の塾でも常備していたので、菊次郎はもちろん知っていた。
「それぞれ販売を担当する国は決まっているんだが、私は足の国方面でね。秋につんだ薬草を冬の間に丸薬にするんで、毎年この時期にできあがった薬を受け取りに国へ帰るんだよ。もう十日もかからないところまで来て、こんな事件に巻き込まれるとはねえ。一年の売り上げがなくなっちまったよ」
困っているはずなのに歌うような口調なのは不自然だが、いつもこういう調子かも知れないので、それだけで疑うことはできないだろう。
「私は夕方になるちょっと前に宿に着いたんだ。君が湯に出て行くところを見かけたよ。そのあとはずっと部屋にいた。いつも国に帰る時は妻と娘におもちゃを買うんだが、あちらこちらで買い込みすぎてこの町で買ったものが荷物に収まらなくってね。湯に行く前に整理していたら面白くなって遊んでしまって、いつの間にかもうこの時間だったよ。土産物を見て喜ぶ妻と娘のことを考えていたらつい時が過ぎてしまってねえ」
「ここではどんなものを買ったんだ?」
忠賢が尋ねた。
「紙鉄砲だよ。形は水鉄砲と似ているね。竹筒に湿らせて丸めた紙を二つ入れて後ろから棒で押すんだ。でも威力はあるんだよ。当たれば痛いねえ」
つまり、鍵に命中させることができれば落とせるわけだ、と菊次郎は考えた。
「最後は俺か」
周囲の視線を浴びて、ずっと黙っていた初老の男がぼそりと言った。玉都から来たという古浅十兵衛は見るからに無口そうな陰気な男で、手拭いを扱う商人だとつぶやくように自己紹介した。
「俺の扱う手拭いは高級品で、庶民が買うものではないんだ。ところが、今日、うっかり水たまりに手拭いの入った風呂敷を落としてしまってね。早めにこの宿に入って井戸で手拭いを洗い、竹竿を借りて部屋の中で干していたんだ。外に干して盗まれでもしたら大損だからな。部屋が狭いから全部は干せなくて、乾いたものから畳んで新しいのをかけていた。その作業でずっと部屋にいたよ。泥棒だという叫び声でここへ出てきたんだ。国元を発ったばかりで売り上げは入っていなかったが、財布がなくては旅が続けられない。悔しいが引き返すしかないかもな」
「なるほど。皆さんのお話は分かりました」
菊次郎は少し考えると、一つ頷いて言った。
「では、よろしければ皆さんの部屋と荷物を調べさせてください。この宿から持ち出されていない以上、財布が見付かるかも知れません」
田鶴という少女はお為と女中に見張らせておいて、菊次郎は駆け付けてきた町役人と一緒に宿屋中を捜索した。だが、菊次郎が予想した通り、財布は見付からなかった。
青峰忠賢と鴇戸直春の荷物は少なく、彼等の身分を証明するものも否定するものも出てこなかった。直春は虹と鶴が描かれた立派なこしらえの脇差を持っていた。どこかで耳にした絵柄だと思って尋ねると、直春の実家の家宝だという。
「家を飛び出した時に持ち出したが、なぜか売る気にならなくてな。ずっと持ち歩いている」
忠賢の鎖鎌と直春の槍は鍵に届くくらい長かった。槍は組み立て式で、三つに分割されて部屋に持ち込まれていた。
遠原弥次郎の部屋は言葉通り大小様々な釣り針や巻いた釣り糸や小さな重りが広げられていて、足の踏み場もなかった。畑抜三代吉の部屋は紙鉄砲の玉にしたらしい湿らせて丸めた紙が散乱していた。古浅十兵衛の使っていた竹竿は長刀ほどの長さの細いものが三本で、窓から大きな木の箱へ渡してあり、白や茶や灰色の濡れた手拭いが二本ずつかかっていた。
菊次郎は自分の部屋や主人夫婦の居室や台所も調べ、全員の体を触って財布を持っていないことを確認した。最後に二階の廊下から柱の釘とその周辺をよく眺め、一階へ下りて柱の根本の畳を調べたが、取り立てて怪しげな傷や釘を抜いた穴、はしごを立てかけた痕跡などはなかった。
財布が宿の中にないことが確実になると、今度は宿屋の周辺の捜索が行われた。横手の畑や庭はもちろん、隣の土産物屋の敷地や裏手の川沿いの茂みも町役人やその手下たちと一緒に探したが、財布は見付からなかった。
やがて日が暮れ、捜索は打ち切られた。全員が再び囲炉裏端に集まると、菊次郎は田鶴を見て言った。
「財布がこの宿の周辺にないことははっきりしました。となると、やはり、唯一宿から持ち出すことができた田鶴さんが盗んで町のどこかに隠したということになりますね」
「やはりそうか」
町役人は手下に捕らえろと合図した。
「あたしじゃない!」
田鶴は叫んで抵抗したが、囲まれて逃げ場を失い、手首を縄でしばられた。
「財布の隠し場所について考えがあるので、ちょっと彼女に話を聞きたいのですが」
菊次郎は主人と町役人に声をかけ、嫌がる田鶴を連れて主人夫婦の部屋に入った。
襖を閉めると、菊次郎は小声で言った。
「僕は田鶴さんが盗んだのではないと思います」
「なんだと! こいつが犯人だと申したではないか!」
町役人が驚くと、菊次郎はしっと口に指を当てた。
「あれは本当の盗人を油断させるためです」
「ということは、あの五人の中に犯人がいるのですか」
不安そうな主人に頷いて、菊次郎は言った。
「僕に策があります。真犯人を捕まえましょう。それには、田鶴さんが捕まって連れて行かれたことにする必要があります」
菊次郎は警戒するように三人を見ていた少女に確認した。
「協力してくれますね」
田鶴は疑いの口調で尋ねた。
「本当に犯人が捕まるの? あたしをだまして連れてこうってんじゃないの」
「いいえ、違います。あなたを助けたいんです」
菊次郎はちょっと困ったが、照れながら言った。
「温泉場で会いましたよね」
田鶴は顔を赤くして文句を言おうとしたが、菊次郎はそれを手で制して深く頭を下げた。
「あの時はつい見つめてしまってすみませんでした。そのせいで心証が悪いのも分かっています。でも、僕はあなたを無実だと思います。だから、あなたの疑いを晴らしたいのです」
「うそばっかり。変態の言うことなんて信じられない」
「うそではありません。犯人は田鶴さんではないと分かっています。もう盗んだ人と隠し場所の目星は付いています。ですが、財布を取り出す現場を押さえないと田鶴さんの無実は証明されません。それに、僕も確実に財布を取り戻したいのです。このままでは僕もあなたも困ることになります。僕を信じて協力してくれませんか」
田鶴は目を見張り、菊次郎の顔をまじまじと見つめたが、横を向き、視線を逸らしたまま渋々という様子で頷いた。
「分かった。言う通りにする」
菊次郎はほっとした。
「ありがとう」
菊次郎は早速町役人と宿の主人に作戦を話し、了承を得ると、四人は帳場に戻った。
直春たち五人に注目されて、町役人が説明した。
「犯人はお前しかいないのだと問い詰めたところ、娘は観念して、猿を使って鍵を取り、財布を盗んだことを認めた。財布は主人が追いかけてきたので川に捨てたと言い張っておるが、恐らくは宿を出てすぐに隠したに違いない」
「財布はどこにあるのですか!」
遠原弥次郎が急き込んで尋ねると、菊次郎は神妙にしている田鶴をにらんで言った。
「この娘は実に強情です。財布の隠し場所をどうしても白状しませんが、僕には見当が付いています。ですが、もう夜で暗く見付けるのは困難ですから、明朝探しにいきましょう」
「娘は詮議のために連れて行く。運がよければ明日には財布が戻るだろう」
そう言うと、町役人は猿を肩に乗せた田鶴を連行していった。
残された宿泊客たちは拍子抜けして顔を見合わせた。
「財布はどこにあるんですか。自分で探しに行きます」
遠原弥次郎は菊次郎に迫った。畑抜三代吉も面白そうに調子を合わせた。
「ねえねえ、教えてくださいよ」
古浅十兵衛まで陰気な顔を一層暗くして文句を言った。
「早く手元に取り戻して安心したいのだが」
菊次郎は説得した。
「猿を使って隠したようですから取り出すのは大変です。大丈夫、簡単に見付かるような場所ではないので、誰かに持っていかれる心配はありません」
教える気がないと分かると三人は仕方ないという顔になり、お為と女中が用意した夕食の握り飯を受け取って階段を上がっていった。
直春と忠賢はその様子を黙って見ていたが、おかしそうな顔で言った。
「日が昇るのを待つしかないか」
「そのようだな」
主人が盗まれた責任は自分にもあるから今夜の宿代をただにすると言うと、二人は大人しく部屋に帰っていった。
菊次郎も自分の握り飯をもらい、部屋に戻った。食べ終わると、護身用の短刀を抜いて輝きを確かめ、それを枕元において薄い布団をかぶり、すぐに眠りに就いた。
深夜になって、菊次郎は目を覚ました。
静かに体を起こして耳を澄ますと、湯に行っていたらしい主人夫婦が戻ってきたところだった。留守番をしていた女中がお休みなさいましと言って帰っていき、夫婦は戸締りをして部屋へ下がった。
それきり宿の中は静まり返った。菊次郎は短刀を握って布団にくるまり、廊下の物音に聞き耳を立てていた。
どれほどの時間がたったろうか。町がすっかり寝静まり、遠くで鳴いていた猫の声さえしなくなった頃、廊下を忍び歩く足音が聞こえた。それが階下に消えていくと、やがて閂をはずす音がして、その人物は外に出て行った。
菊次郎は静かに起き上って窓際に寄り、板戸を細く開いた。すると、窓の外に小さな光が見えた。
菊次郎はそっと板戸を閉めると、部屋を出て階段を下り、主人夫婦の部屋に行った。襖を軽くたたくと、灯りのない部屋から主人が畳んだ提灯を持って現れた。二人は一緒に帳場へ行き、草履を履いて外に出た。
空は晴れていて半分の月が明るく、うっすらと周囲が見える。菊次郎たちが足音を忍ばせて隣の土産物屋の前に行くと、町役人が手下たちを連れて待っていた。そこで提灯に火を入れると、頷き合って菊次郎と主人と町役人は、宿の横の畑に向かった。
男は土産物屋の屋根の上にいた。
「見付けたぞ。盗人め!」
町役人が叫んで提灯を掲げると、男は驚いて身をひるがえした。だが、周囲を灯りを持った手下たちに囲まれていることを知ると、戻ってきていきなり屋根から飛び降り、懐から光る短い刃物を抜いて向かってきた。
「逃がすものか!」
町役人も刀を抜いて構えたが、男の方が上手だった。手に持っていた屋根の上の石を、町役人に投げ付けたのだ。
至近距離からの投石を胸に受けた町役人がひっくり返ると、男は菊次郎たちへ迫ってきた。宿の主人は悲鳴を上げて逃げ出し、菊次郎は慌てて腰の短刀を抜こうとしたが、使い慣れない上に焦っているせいか引っかかって刃が出てこない。それを見た男は菊次郎を突き飛ばして尻餅をつかせると、走って表通りへ逃げようとした。
だが、男は急に立ち止った。道を塞ぐように咲村田鶴が立っていたのだ。肩に猿を乗せ、手に短刀を握っていた。
「ちっ、邪魔だ!」
男が叫んで切りかかると、猿はきいと叫んで逃げ出したが、少女は振り下ろされた刃を難なくよけて短刀で斬り返した。武芸の心得があるらしい。菊次郎は驚いたが、好機と思い、立ち上がると、腰の短刀を鞘ごと引き抜き、田鶴に気を取られている男の背後に近付いた。
少女と男は短剣を構えてにらみ合っている。菊次郎は田鶴に手で合図すると、「やあ!」と叫んで男の肩を短刀でたたうとした。男は振り返ってよけると、薙ぐように短刀を振り回したので、菊次郎は慌てて飛び下がった。同時に、田鶴が男の背に勢いよく斬りかかった。菊次郎は、これで決まった、と思った。
ところが、男はそれを予期していたのか素早く体を右に引いたのだ。そして、空振りして前につんのめった少女の腹部へ左こぶしを突き込んだ。少女は悲鳴を上げて後ろへ倒れそうになったが、男の腕をつかんでこらえた。男は舌打ちし、右手の短刀を振り上げ、少女の首筋目がけて突き込んだ。少女は反応できず、目を見開いたまま固まっていた。
「危ない!」
まずい、と思った瞬間、菊次郎はとっさに思い切り跳んで両手を伸ばし、男の背中を全力で突き飛ばしていた。男はよろけて体勢を崩し、短刀は少女の着物の衿をかすめた。男は少女を巻き込んで地面に倒れたが、すぐに体を起こし、恐怖に硬直している少女の腕を振り払って立ち上がると、そばに転がっている菊次郎を一瞬にらんで、表通りへ走り去った。
「大丈夫? 怪我はありませんか」
男を追うべきかと一瞬迷ったが、菊次郎は起き上がると田鶴に駆け寄った。戻ってきた猿が心配そうに主人を見つめていた。仰向けに倒れた少女は顔が青かったが、頷くと菊次郎の手をつかんで立ち上がった。
少女は菊次郎の顔をまじまじと見上げた。が、すぐに身をひるがえすと、表通りへ駆けていった。菊次郎も猿と一緒に追いかけた。
しかし、二人はすぐに足を止めた。男が道に倒れていたのだ。その前には刀を構えた鴇戸直春が立っていた。
峰打ちを受けたらしい男は右腕を押さえて立ち上がったが、かなわないと思ったのか、落とした短刀は諦めてくるりと背を向け、反対の方角へ走り出した。だが、その前に黒い影が立ち塞がり、いきなり男の顔を殴り付けた。よろめいたところへみぞおちに一発を食らい、男はうめき声をあげて地面にくずおれた。それを見下ろしてこぶしを握っていたのは青峰忠賢だった。
「どうして……」
菊次郎がつぶやくと、直春が笑った。
「君が町役人たちと相談して犯人をあぶり出そうとしているのに気が付いたので、手伝えることがあるかも知れないと起きていたのさ」
男の腕をひねり上げながら忠賢もにやりとした。
「主人の部屋から出てきたらその娘がしおらしくなってたじゃないか。これは何かあるなとすぐに分かったぜ。それまでとあまりに態度が違ったからな。あれだけ見え見えで気付かないはずがあるかよ。俺も財布を取り戻したかったしな」
そこへ、町役人と手下たちが駆け付けてきた。その後ろから宿屋の主人もついてくる。
手下の一人が持っていた灯りで男の顔を照らした。
「こいつだったのか」
身動きを完全に封じられた古浅十兵衛はさすがに観念した顔をしていた。町役人は十兵衛を縛り上げると、その懐から灰色の包みを六つ取り出した。
菊次郎たちは宿に戻り、帳場の灯りの下で財布を広げて金が減っていないことを確かめた。棚沢弥次郎は起こしにいった主人に財布が見付かったと知らされて布団から飛び起き、階段を駆け下りようとして足を滑らして直春に助けられたが、礼もそこそこに財布に飛び付いて涙ぐんでいた。意外だったのは畑抜三代吉で、財布を見せられるといきなりぼろぼろと涙をこぼして泣き始めた。中身を確かめた三代吉は売り上げが無事だと言ってまた号泣し、これで家族を飢えさせずにすむと、菊次郎が辟易するほどくどくどと礼を言い続けた。どうやらあの陽気さは空元気だったらしい。
町役人が古浅十兵衛を引っ立てて帰っていくと、残りの者は囲炉裏のまわりに集まって火と出された茶で温まった。
「あの男が犯人だと、君は最初から分かっていたのかい」
直春が菊次郎に尋ねた。
「ええ。間違いないと思っていました。お金の隠し場所も見当が付いていましたよ」
説明を求められた菊次郎は、推理の過程を語った。
「古浅十兵衛が怪しいと思ったのは、他の人が財布を盗むのは難しいと考えたからです。あの鍵を取る方法は二つありました。棒などで引っかけるか、何かをぶつけて落とすかです。
こう考えた時、遠原さんの釣り道具は役に立ちません。糸のついた針を放って鍵に引っかけるなんて不可能ですし、重りだけを投げても、あんな小さなものを高いところにある鍵に命中させるのは難しく、いつ人が来るか分からない場所で短時間に落とすのは困難です。同様に、畑抜さんの紙鉄砲もねらいが安定しないので、離れた小さな的に当てるのは無理でしょう。
その点、忠賢さんの鎖鎌は使い慣れているでしょうし長さも重さを充分でした。ですが、そんなものを投げれば周囲の壁に必ず傷が残ります。二階からよく眺めましたが、新しい傷跡は見付かりませんでした。それに、壁に当たれば大きな音がするでしょうが、誰も犯行に気付いていません。
これらと比べると、直春さんの槍は取ることが可能だと思いました。ですが、あの長い槍を三畳の部屋の中で組み立てるのは無理ですから、分けたまま持って出て、下の帳場でつないで鍵を取って、また分解して戻らなくてはなりません。不可能ではないでしょうが、他の人の道具と違って槍は鍵取り用の棒を連想させますから、誰かに見付かった時に言い訳ができません。失礼ながら、直春さんはそんな無謀な賭けをするような人には思えませんでした」
「失礼ではないぞ。ばかには見えないと言ってくれたのだからな」
直春は楽しそうに笑った。
「となると、財布を盗むことができたのは古浅十兵衛だけです。あの人の手拭いは濡れていました。恐らく、数枚を重ねて玉にし、鍵に投げ付けたのです。それなら大きさも重さも鍵を落とすのに十分ですし、壁に傷は付かず、大きな音もしません。もし途中で誰かが帳場に出てきても、洗ってきた手拭いをうっかり床に落としてしまったとでも言い訳ができるでしょう。
そして、盗んだ財布は灰色の手拭いにくるんで、隣の家の屋根の上に放り投げたのです。あの屋根には重しのための大きな石がたくさんありました。その中に混ぜてしまえば見付けにくいですし、財布を探すのに普通は屋根へは上がりません。
きっとあとでこっそり回収して逃げるつもりだったのでしょうが、昼間はあの屋根はこの宿から丸見えで近付けません。かといって、いつまでも湯山の町でうろうろしていては怪しまれます。今日の捜索のように夕方ならともかく、明るい日の光の下では石と手拭いの違いも分かってしまうでしょうから、急ぐ必要があります。
ですから、田鶴さんを犯人と決め付けて十兵衛を安心させれば、夜のうちにあとで取り出しやすい場所に移すだろうと思い、町役人にあの土産物屋を密かに見張るように言ったのです」
なるほど、と全員が頷いたところへ、台所からお為と女中が握り飯を持ってきた。
「皆様、お腹がお空きでしょう。どうぞお召し上がりください」
主人の好意に菊次郎たちは喜んで手を伸ばし、茶を飲みながら食べ終えると、眠気が今頃になって襲ってきて、皆部屋に戻った。田鶴は何か言いたげに菊次郎の方を見ていたが、疑ってすまなかったと謝った主人に泊まっていくように勧められ、猿に干し芋をもらうと、主人夫婦の部屋に入っていった。
翌朝、菊次郎が旅支度を整えて下りてくると、田鶴が囲炉裏端に一人座って朝食の雑炊を食べていた。小猿は隣でちょこんと背を丸めている。
「おはよう」
挨拶を交わし、菊次郎も座った。女中が雑炊の木の椀と漬物の小鉢を運んできて、すぐに台所へ戻っていった。
夜食を食べたのにもう腹が減っていたので、菊次郎は早速椀をとって雑炊を箸でかき込み始めた。すると、先に食べ終えて小猿に餌の木の実をやっていた田鶴が、突然ぼそりと小声で言った。
「なんであたしが犯人じゃないって分かったの?」
菊次郎は驚き、箸を止めて田鶴を見たが、少女は横を向いたままだった。それでも自分に尋ねているのだろうと思ったので、少し迷った末、正直に答えることにした。
「勘です」
「勘?」
田鶴は猿に向かって聞き返した。
「ええ、勘です」
田鶴はこちらを見ないが、菊次郎は気にしないことにした。
「実を言うと、田鶴さんが犯人でないという確証はありませんでした。猿を使えば鍵は取れましたし、主人に見付かるまでに財布を隠す時間もありましたから。三日前からこの町にいて、この宿にも何度か客を探しに来ていたようでしたので、天井際にぶら下がっている鍵の使い道を知っていてもおかしくないですし」
田鶴は息をのんで全身で聞いている。
「ですが、何と言うか、田鶴さんは盗人に見えなかったのです。温泉場で会った時、猿と遊ぶ様子がとても楽しそうでした。あの笑顔を見て、きっととってもやさしい子なんだろうなと思いました。だから、あんなに猿をかわいがっていて仲良くなれる人が、泥棒なんてするはずがないと思ったのですよ」
「そう、あの時にそんなことを……。あたしを信じてくれたのね」
「そういうことになりますね」
田鶴は顔を隠すようにうつむいてしまったので、表情は見えなかった。
と、再び田鶴が小声で言った。
「だから助けてくれたの?」
助けたことなんてあったっけ。
菊次郎は何のことだろうと考えて思い出した。
「夜、古浅十兵衛を捕まえようとした時のことを言っているのですか」
田鶴はこくりと頷いた。
「ありがとう」
田鶴は独り言のように言った。
「誰も信じてくれなかったのに、菊次郎さんだけが犯人は他にいるかも知れないって言って調べてくれた。だから、御番所に行くのを承知したの。夜になって町役人たちが出かけていったから、真白に牢の鍵を取ってこさせてあとを追ってきたの」
だから田鶴があそこにいたのかと、菊次郎は納得した。
「そうしたら、あいつが来て、助けてくれて……。感謝してる」
「お礼は必要ありません。あれは僕が十兵衛を逃がしてしまったせいですし」
思っている通りを言ったが、田鶴は首を振った。
「そんなことない」
そのまま黙り込んでしまったので、菊次郎はまた雑炊の椀を口元へ持っていった。田鶴も腰の袋から木の実をもう一つかみ取り出して与え始めたが、菊次郎が最後の一口をすすり終わると、再び口を開いた。
「菊次郎さんはどこへ向かってるの?」
菊次郎が椀を置いて田鶴を見ると、少女はいつもの数は食べ終わったのにもっとくれと甘える猿の頭を撫でながら、また言った。
「目的地はどこなの?」
菊次郎はどう答えるべきか考えたが、隠す必要はないと結論付けた。
「葦江国です」
「そう……」
つぶやくと、田鶴は声を震わせて言った。
「あ、あたしもね、そっちの方へ行くつもりなの」
「へえ、奇遇ですね」
菊次郎は答えたが、質問の意図がまだよく分からなかった。
「それがどうしたのですか」
尋ねると、田鶴はうつむいてしばらく逡巡していたが、耳を真っ赤にして提案した。
「い、一緒に行かない? あたしと」
なるほど、それが言いたかったのか、と菊次郎は田鶴の誘いの意味を理解した。この少女はまだ十三歳で、しかも一人旅だ。これまで危険を感じたり心細い思いをしたりすることが少なくなかったに違いない。だから旅の連れが欲しいのだろう。今回の事件で菊次郎を信用してもよいと考えたらしい。
「いいですよ」
菊次郎は少し考えて答えた。この少女はいかにも健康そうですたすた歩くと思うので足手まといにはならないだろうし、昨夜見た短剣さばきは武芸に自信のない菊次郎には心強い。宿や農家に泊まる時も、二人で割った方が安くあがるかも知れなかった。
年の近い少女と一緒というのも大きな問題は起きないだろう。彼女の好意がどの程度のものか分からないが、自分は祭官になるのだし、この少女は顔つきはまるで違うけれど、どことなく天乃を思い出させるのだ。全体として、道連れができるのは得なことの方が多そうだった。
「やった!」
菊次郎の返事を聞くと、少女はうれしそうにこぶしを握った。よほど連れが欲しかったらしい。
「じゃあ、早く出発しようよ」
急に元気になった少女が立ち上がった時、玄関の戸ががらりと開いて外から声がかかった。
「その道連れに、俺たちも加えてくれないか」
振り向くと、入口の暖簾をくぐって鴇戸直春と青峰忠賢が現れた。肩に濡れた手拭いをかけているので、湯に行ってきたらしい。忠賢は何やらにやにやしていた。
「そう言えば、お二人も南へ向かうんでしたね」
昨日温泉場で聞いている。
「俺たちと一緒に旅をしないか。こうして知り合ったのも何かの縁だろう」
「どうだ。悪い話じゃないと思うぜ」
直春は人好きのする笑顔で、忠賢はおかしそうな表情で、それぞれ言った。田鶴はものすごい顔で忠賢をにらんだが、溜め息を吐いて肩を落とした。
結局、菊次郎は直春と忠賢を受け入れた。二人は旅慣れていて腕が立つ。諸国の事情にも詳しいらしい。道連れとしては実に頼もしいし、人柄も信用できそうだと思ったのだ。田鶴は何やら不満そうだったが渋々といった風に承知し、忠賢に「すまないねえ」と言われてむくれていた。
こうして四人になった一行は、宿の主人夫婦と反対方向へ行く遠原弥次郎と畑抜三代吉に別れを告げ、女中が作ってくれた握り飯を持って湯山の町をあとにしたのだった。