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狼達の花宴 ~大軍師伝~  作者: 花和郁
巻の二 大軍師誕生
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(巻の二) 終章 花宴

 湿り原の合戦のあと、宇野瀬勢の撤退を確認すると、直春は三千の武者を率いて駒繋城へ向かった。

 捕虜にした平汲可近の説得で城の門はすぐに開いた。可近は息子の死を知ると降伏を申し出、家臣に戦闘停止を命じたのだ。平汲家の武者はほとんどが湿り原で死傷するか捕虜になっていたので、留守の者たちも無駄な抵抗はしなかった。

 可近は全てを諦めた顔つきで、天額寺に入って出家すると言った。死んだ息子や家臣たちの光園(こうえん)での幸福を祈って余生を送りたいそうだ。

 夏姫は夫の死を聞いて卒倒した。介抱されて意識を取り戻すと、籠城して徹底抗戦すると主張したが、家老たちに説得され、城を出て桜舘家に戻った。直春と菊次郎に随分悪態(あくたい)を吐いたので、彼女なりに夫を愛していたらしい。出家を勧められたが拒否し、別邸で軟禁状態にある。美男の護衛の武者を部屋に引き込んだりして()さ晴らしをしているようだ。忠賢は可済との約束を守って時折菓子などを届けさせている。


 押中親子は湿り原の近くで武者をまとめて待機していたが、宇野瀬勢の敗北を知って千本槍城へ帰った。直春たちが二千五百の軍勢で包囲し、菊次郎の献策で城の金銀の半分を持って遠くへ行ってほしいと伝えると、翌日開城した。宇野瀬家の援軍は望めないし、合戦で死んだ者こそ少なかったが武器や鎧を失った武者が多く、勝ち目はなかった。押中親子は代々継承してきた領地を捨て、一族と側近を連れて都の方へ去っていった。

 平汲家と押中家の武者の多くは直春に仕えた。もともとこの二家は桜舘家の分家で、家臣たちも縁戚の者が多かったのだ。


 宇野瀬長賀は帰城後すぐに家老を使者として送ってきて、捕虜の返還を要請した。桜舘家は四つの条件を突き付けた。一つ目、和約を結び、二度と攻めてこないこと。二つ目、通商の禁令を解除し、豊津商人を保護すること。三つ目、捕虜と帯の数に応じた金額を支払うこと。四つ目、茅生国から手を引くこと。

 四つ目の条件は渋るかと思ったが、宇野瀬家はすんなりと受け入れ、茅生国にいる軍勢を帰国させるため、領内通過の許可を求めてきた。駒繋城を得た桜舘家はいつでも葦狢街道を封鎖できる。茅生国にこだわるにはもう一戦してこの城を落とすか、直春たちの機嫌を取り続けるしかない。しばらく再戦は難しいし、成安家派の桜舘家に重要拠点を握られた状態を続けるのは体面上も難しいと諦めたようだ。

 思い切った決断だが、それが最善だろうと菊次郎は思った。合計二十四万貫を失うことになるが、直轄地ではなく全て従属していた封主家の領地なので、宇野瀬家本体の軍事力が低下するわけではない。むしろ茅生国の勢力維持のための遠征がなくなることで、財政にも動かせる武者の数にも余裕ができる。百万貫の力は直接境を接する成安家と福値家に向けられることになり、両家の活動に影響を及ぼしそうだ。菊次郎は直春や田鶴と相談して、踵の国方面の隠密を増やすことにした。

 こうして桜舘家の葦江国統一は確定した。成安家も二家の領地の併合を承認した。援軍が遅れたのは、双方が疲れたところで出て行って恩を売るか、可能ならば葦江国を取ってしまおうという元尊の目論見だったらしい。そろそろ出陣しようと思っていたら、単独で撃退したという連絡が入って驚いたようだ。その後ろめたさもあって渋々直春の主張を認め、大勝利をほめ(たた)える書状を送ってきて、菊次郎たちは「あの陰険眼鏡め!」と呆れたり怒ったりした。


 降臨暦三八一六年桜月(さくらづき)一日の春始節(しゅんしせつ)、桜舘家は例年通り、家臣一同を集めて新年の始まりを祝う(うたげ)を開いた。中郭御殿が焼け落ちたため本郭御殿の評定の間が使われることになり、襖をたくさんはずして広げ、膳は並べず杯だけにしたが、それでも大勢が廊下にあふれてしまった。

 正装した当主直春は昨年一年の労をねぎらい、三ヶ月前の戦の勝利を皆と祝った。また、予告していた論功行賞の発表を行った。


「青峰忠賢殿。二万貫に加増する!」


 この発表にはどよめきが起こった。二家の領地十二万貫と木節(きぶし)他倉(たくら)釜辺(かまべ)などを取りつぶした分二万貫があったので大幅に加増された者が多かったが、元は五百貫で最大の引き上げ幅だった。


「宇野瀬倫長、平汲可済、二人の敵将を討ち取り、合戦で大変な働きをしたためだ。念のために尋ねるが、反対の者はいるか」


 当主の問いに誰も声を上げなかった。駒繋の町や豊津城や湿り原での忠賢の活躍には文句のつけようがなかったからだ。

 直春と忠賢の見事な連携は多くの者が見ていた。二人が組むとより一層力を発揮できる。この事実を否定できる者はいなかった。


「楠島盛昌殿。二万貫を与える! ただし、開墾が終わるまでは実質一万貫として扱う。また、武者ではなく軍船や船乗りを率いることとする」


 これがあの水軍の頭領かと注目を浴びつつ、盛昌は堂々と前に進み、直春に忠誠を誓った。


「籠城戦と合戦で実力は見せていただきました。主君と仰いで覇業に協力することに、楠島砦の者は皆異存ありません」

「槻岡良弘殿。二万貫へ加増し、駒繋城の城代を命ずる! 蓮山本綱殿。一万五千貫に加増し、豊津城の家老筆頭に任ずる!」


 戦で活躍した二人の家老も大幅な加増を得た。駒繋城に良弘を配置したことで、踵の国方面からの侵攻は警戒せずにすむようになるだろう。豊梨実佐は三千貫増の六千貫になり、人数が増える馬廻りの(かしら)を引き続き任された。萩矢(はぎや)頼算(よりかず)は一千貫で召し抱えられて仕置(しおき)奉行に任命され、領内の施政と商人たちとの連絡役を担当することになった。


「最後に、銀沢菊次郎殿。二百貫に加増する!」


 これには意外そうな声が上がった。直春はそれが静まるのを待って、さらに言った。


「加えて、大軍師の称号を与えて当主の顧問とし、(まつりごと)や戦に助言する権限を与える。これがその(あかし)だ」


 菊次郎は立ち上がって直春の前へ行き、黒漆塗りの軍配を受け取った。桜の花と散る花びらが描かれている。

 これは菊次郎が望んだことだった。直春は一万貫か二万貫にしようと言ったが断ったのだ。


「僕が多くの家臣を抱えても意味がありません。左腕に力が入らず武器を持って戦うことはできませんから」


 一万貫の俸禄を受ける者は三百人の武者を雇うことを義務付けられ、その指揮をとることになる。自分には無理だから、その分直春直属の武者を増やした方がよいと菊次郎は言った。武将ごとに命令を下すより融通がきくからだ。いずれは全ての武者を当主直属にし、いつでも好きな数を動かせるようにしたいと直春には言ってある。忠賢など自分の家臣を持ちたい者も多いので実現はしばらく先だろう。

 加増を辞退したかわりに、菊次郎は軍師の証を望んだ。まだ十七歳なので、身分と権限を示すものがあった方が面倒を避けられるからだ。また、書物などの資料集めや新しい武器の開発用に、ある程度の金額を自由に使えるようにしてもらった。


 賞罰の発表が終わると宴会になった。多くの部屋に分かれざるを得なかったが、直春はその全てを回った。新しい家臣たちも若い当主の人柄と飲みっぷりに好感を持つ者が多かったようだ。

 忠賢は自分の部下たちのところへ行った。一緒に戦った騎馬武者たちをそのまま直属にし、腕の立つ者を六百人厳選して家臣にした。今後、馬廻りと共に桜舘軍の中核を担うことになるだろう。

 別な部屋では水軍衆が騒いでいた。城に入るのは初めてで緊張気味だったが、酒が回ると歌や踊りが始まった。楠島でも毎年春始節に宴を開くが、そちらは息子の昌隆(まさたか)が担当している。親子で相談し、副頭領には息子が生まれたし、領地を受ける儀式があるので、顔見せになる初回は盛昌自身が城へ来ることにしたそうだ。

 菊次郎は田鶴や直冬や妙姫と膳を囲み、食べると一つ年をとる年餅を頂いた。



 翌桜月二日、菊次郎は天額寺へやってきた。

 桜は大神様の神話に登場し四尊の一つなので、どの寺院にも多く植えられている。天額寺も広い境内のあちらこちらで大きな木が満開だった。


「菊次郎さん、こっちだよ!」


 客殿(きゃくでん)の入口で田鶴が手を振っている。真白を抱いた直冬もいる。迎えに出ていたらしい。

 海が見える大広間に全員集まっていた。眼下の丘に点々と満開の桜が見え、縁側のすぐ横にも大きな木があって、時折花びらをまき散らしていた。

 菊次郎が入っていくと、直春が笑顔で赤い杯を差し出した。


「ご苦労だった。どうだ。うまく行きそうか」

「ええ、みんな熱心で、話はとても盛り上がっていました。見物の人たちには弁当が配られていましたよ」


 受け取って座ると、忠賢が意地悪な顔をした。


「じゃあ、酒はもういらねえな」


 何杯目かを自分の(うつわ)に注いでいる。


「私がお注ぎしましょう」


 妙姫が持ち上げた銚子(ちょうし)を雪姫が横から奪い取った。


「お姉様は座っていて。まだ産後だもの。私がする」


 雪姫は菊次郎の酒杯を白い酒で満たすと、忠賢へ酒器を向けた。


「忠賢さんもいる?」

「おお、もらおうか。花を見るには酒がかかせねえからな」


 忠賢は残りをくいっと飲み干して杯を差し出した。雪姫が空になった銚子を脇に置くと、隣の菊次郎は小声で尋ねた。


「もう怖くないのですか」


 以前忠賢は苦手と言っていたからだ。


「うん。直冬や直春兄様を助けてくれたから。あの合戦の時すごかったって聞いた。遠くだったけどちょっと見えたよ」


 天額寺は湖に突き出た丘の上なので、戦場を見下ろせたのだ。


「そうですか。よかったです」

「今でも狼みたいだなって思うけど」


 雪姫は菊次郎にささやいた。


「僕はやっぱり桜なのですか」

「うん!」


 雪姫は笑って、庭の満開の大木を見やった。


「はかないからではないの。菊次郎さんは全然私に似ていなかった。すごい人だった。でも、ぱっと開いて華やかなところがやっぱり桜かも」

「知恵の花ですね。大軍師ですから」


 直冬が頷いた。


「それは言いすぎですよ」


 菊次郎は逆に雪姫をほめた。


「雪姫様こそすごいです。四尊の旗の合図は感心しました。逃げ込んだ人々に毎日声をかけて回って、直春さんたちのことをいっぱい話してくれたそうですね。それが伝わって、葦江国の民の間で直春さんへの期待が高まっているそうですよ」


 雪姫は照れて頬を染めた。田鶴が言った。


「直春さんの顔も桜っぽい」


 直春は酒に強いがすぐに赤くなるのだ。菊次郎たちはくすくす笑った。芋を食べていた小猿が顔を上げて辺りを見回し、うれしそうに、うきゃっ、と声を上げた。

 と、隣室で赤ん坊の泣き声がした。


「行ってきますね」


 妙姫は夫に断って部屋を出ていった。


花千代丸(はなちよまる)。いい名前だね。直春さんが考えたそうだけど」

「うん。とってもいいと思う」


 田鶴も同感らしい。忠賢がつぶやいた。


「散らずにずっと満開の桜のような人物に育ってほしい、か。ちょっと贅沢だが、全ての親の願いだな」

「生きる時代が、常に花が咲き誇る平和で豊かな世の中でありますように、という意味もありますよ」

「桜舘家が途絶えず繁栄するようにって意味じゃないの?」


 菊次郎と田鶴が言うと、直冬がまとめた。


「多分、全部だと思います」


 花斬丸(はなきりまる)という刀があるので不吉ではないかと心配した家臣がいたが、直春はきっぱりと否定したそうだ。


「この刀だけがこの子を殺すことができるのなら、その刀は俺が持っている。俺の死後は息子自身が持つ。つまり、誰もこの子を殺せないということだ」


 妙姫が赤ん坊を連れて戻ってきた。直春が高く持ち上げて笑わせようとしている。妙姫は幸福そうに微笑んでいた。

 千本槍城が落ちると、直春はあとの処理を菊次郎や本綱に任せて楠島へ飛んでいった。とうに戦勝の知らせは届いていたが、布団から身を起こした妙姫は夫の顔を見て泣き崩れたという。もし夫が死んだらと不安だったのだろう。直春は何も言わずに妻を抱き締めたそうだ。昌隆やその妻にも会って仲良くなったと聞いている。


「あたしも子供がほしいな」 


 田鶴が小猿の頭を撫でながら小声でつぶやいた。忠賢が余計なことを言いそうだったので、菊次郎は慌てて遅れてきた理由の話を始めた。


「今朝、楠島領で山菜摘みが行われました。それをこれから運ぶそうです」

「開墾は順調か」

「ええ。予想以上に多くの人が集まりましたから。移住希望者はまだまだやってきそうです」


 湿り原の合戦の火の掘は天額寺に寄食している人々が造ったが、水軍の船乗りも手伝った。共に働き一緒に同じ軍勢を応援したことで親しくなり、海賊の領地に住む不安は払拭(ふっしょく)された。豊津の商人たちも炭や綿布を提供して援助し、互いに信頼関係が生まれた。

 その結果、新しい帆布の開発を商人と水軍が共同で行うことになり、森の開墾にも資金面で協力することになった。桜舘家の全面的な支援の下、新しい村々は当面の年貢を免除され、農具なども安く購入できた。これがよい噂となって諸国に広がり、領地や故郷を失った人々が葦江国に大勢やってきた。

 その中には御使島の津鐘(つかね)家・海処(うみが)家・(くぬが)家の遺臣たちもいた。海処家は水軍の家なので、一部は腕を見込まれて楠島家の家臣となり、重要な戦力となった。


「今日、頼算さんに城下と豊津港の町割り計画の図面を見せてもらいました。まだ第一案ですが、商人たちからもいろいろ面白い意見が出ているようですよ」


 新しい帆布に合わせて豊津港の拡張も計画されている。宇野瀬家との和約の成立で踵の国との交易が再開され、港や町は再びにぎわいを取り戻した。商船の護衛料も元の額に戻された。盛昌は領地からの収入が増え、新しい帆で寄港する船が多くなれば減額も検討すると約束した。

 直春は自身の経験や菊次郎の影響もあって商売の自由を重視する方針を取り、商人や船乗りたちに支持されている。麦や綿や炭の増産にも力を入れ、木節(きぶし)往伴(ゆきとも)などの例を教訓に家臣たちが勝手をせぬよう買い取り価格を定めて、農民の生活の安定を図った。


「通商や旅人の行き来には、多数の封主領に分断された吼狼国を一つにしていく効果があると俺は思う」


 直春は言った。


「以前菊次郎君は、新しい帆布は必ず吼狼国の海運を発達させ、どの土地でも地元用だけでなく他所(よそ)へ売る物を作る時代が来ると言った。豊津や葦江国を豊かにすることは、当家の収入を増やすだけでなく、もっと大きな観点でも意味があるのではないか」

「僕もそう思います」


 直春は宇野瀬家との交渉の場に商人を呼び、麦や炭や綿を売る仲介をした。もう冬が半分過ぎていたので値は安かったが、今年の分を売り切ることができたと感謝された。長賀は一部を買い取り、祖父と連名で配って人気取りをした。菊次郎は連署になった骨山願空の発案だろうと思ったが、直春は「民が助かったのならそれでいい」と言った。こうした交流や商売が、宇野瀬家との関係をよくしていくのに役立つだろうというのだ。

 やはり直春さんは気宇(きう)が壮大だ、と菊次郎は思った。宇野瀬家を破ったことで桜舘家の名は全国に轟いた。名実ともに葦江国二十八万貫の国主となり、もはや小封主家ではなくなった。だが、当主直春の目は遥か遠くを見ていた。


「商売を発展させて民と国を救うという考えには商人たちも驚いていました。直春さんの器量には、一国の(あるじ)では小さすぎるのですね」


 見合った仕事は本当に天下人かも知れないと感心すると、忠賢が言った。


「俺も二万貫程度で満足する男じゃないぜ」

「目指すのは城主だもんね。国主になりたいんだっけ?」


 田鶴はからかうような言い方だったが、以前と違い不可能とは思っていない様子だった。


「だから、城下の町割りには興味あるぜ」


 忠賢は平然と答えた。

 合戦後、城を焼いてまで町を守ってくれたことに商人たちは感謝し、桜舘家が賠償金で行う湿地の開墾や豊津城の改築を進んで請け負った。港の拡張に伴い、町の更なる発展と防備の強化のため、大幅な区画の整理が行われる。頼算を中心にすでに準備は始まっている。

 菊次郎は直春に、家臣を城下に住まわせるべきだと進言した。いざという時、領地から呼び寄せていては間に合わない。成安家は頼りにならないことがはっきりしたので、自力で葦江国を守らなくてはならない。このため、全ての家臣に城下に家を持たせることにし、城の縄張りや町割りに反映させる予定だ。また、新しい家臣たちは土地ではなく金銭で俸禄を支給する形にした者も多い。桜舘家が直接支配する土地を増やし、施政方針が行き渡るようにしたのだ。


「皆さん、楽しんでおられますかな」


 漢曜和尚が現れた。直春と菊次郎は慌てて立ち上がろうとした。


「そのままでかまいませんよ」


 和尚は止めて、直春に丁寧に頭を下げた。


「国主様、先頃の戦の折にはこの寺を守っていただき感謝申し上げます」

「いえ、こちらこそ民の避難場所にさせていただきました」

「妹がお世話になりました」


 直春と妙姫が返礼すると、雪姫もそれにならった。


「いつものことですよ。戦のたびに、ここは人でいっぱいになります。そのまま帰れなくなる者も少なくないのです。しかし、このたび多くの者が土地や働き口を得ました。正直申し上げて大変助かりました」

「こちらにとっても利のあることですので」


 直春が言った通り、人口が増え商工業が盛んになれば、桜舘家の収入が増えて強さにつながっていく。頼算の試算では、湿地の開墾で三万貫ほど増えそうだという。そうした土地で安定した収穫が見込めるようになるまで時間はかかるが、最も難しい人集めを天額寺と和尚が手伝ってくれることは非常にありがたかった。

 領内の開発や村人の募集、商人に役立つ情報の収集には隠密も協力している。田鶴は雪姫の侍女なので給金が少し増えただけで加増などはなかったが、隠密衆には戦の勝利に大きく貢献したとして多額の報奨金が出た。隠密の人数や活動も今後さらに強化されるはずだ。


「ところで、菊次郎殿」


 勧められて輪に加わった和尚が尋ねた。


「お名前は決まったのですかな」


 商人名を武家名に改めるという話だ。


「はい、決まりました」


 菊次郎は答えた。


信家(のぶいえ)と名乗ります」

「ふむ、銀沢信家、よい名ですな。由来は何ですかな」

「そう言えば聞いてなかったな」


 忠賢が言った。田鶴も首を傾げた。


「そうだね。あたしも知らない」

「教えてください。師匠!」


 すごい意味があるのだろうと直冬は期待する顔だ。


「ちょっと照れくさいのですが」


 菊次郎は顔が赤くなるのを自覚しつつ説明した。


「僕は都の軍学塾を離れてここに来ました。もうそこはなくなってしまったので帰れません。豊津城と桜舘家が今の僕の家です。ここにいるみんなが僕の家族です。その家族を、桜舘家の仲間を信じて一緒に戦って行こうという気持ちを込めました」


 静まり返ったので、菊次郎は慌てた。


「変ですか?」

「そんなことない!」


 雪姫が叫んだ。


「全然おかしくないよ! ねっ?」


 力を込めて断言し、全員に真剣に同意を求めた。


「うん、いい名前だと思う」


 田鶴が涙ぐんでいる。妙姫と直冬も頷いた。


「素敵な名前ですね」

「僕もいいと思います!」


 和尚は微笑んでいた。


「菊次郎殿らしいですな」

「俺も嫌いじゃないぜ」


 忠賢が杯を持ち上げてにやりとし、隣へ首を向けた。


「お前もそう思うだろ」


 直春は心底うれしそうに笑った。


「もちろんだ。桜舘家の大軍師殿にこれほどふさわしい名はない。俺たちも君を信じる。いつまでも、どこまでもな」

「はい! これからもよろしくお願いします!」


 一年前、菊次郎は直春の手をこの寺院の門の前で取った。あの時、この人たちとなら何でもできるだろうと思ったが、それは菊次郎の願望にすぎなかった。何より、自分自身がそれを信じることを恐れていた。

 しかし、今、この胸には確信がある。これは夢ではない。現実に、自分にとって新たな家族と呼べる人々ができたのだ。

 故郷で亡くした家族を忘れはしない。むしろ、彼等に見てほしかった。

 僕は今幸福です。一緒に人生を戦って行く仲間、困った時、苦しい時に頼ることができて、自分も彼等の役に立てる人々と共にいます。だから安心してください。そう伝えたかった。


「泣いているの?」


 雪姫に顔をのぞき込まれて、急いで目をぬぐった。


「大丈夫です。うれしい涙ですから」


 雪姫は安心したようにやさしく微笑んだ。十四歳になったばかりとは思えぬ大人びた笑い方だった。


「よかった。私もうれしい」

「はい」


 直冬が姿勢を正した。


「では、これからは信家師匠と呼ばせていただきます」

「いえ、これまで通り菊次郎と呼んでください。信家は外向きの名前ですから」

「知らない人みたいだし、あたしはその方がいい」

「うん、私も菊次郎さんがいい」


 田鶴の言葉に雪姫が賛成した。

 手に持った杯に花びらが一枚舞い落ちた。白い酒に浮かんだそれを菊次郎はしばらく見つめ、思い切ってぐいっと一緒に飲み干した。

 雪姫の視線に気が付いて微笑むと、田鶴が目配せした。分かっていると頷いて、菊次郎は立ち上がった。


「実は、花千代丸様ご誕生のお祝いに、記念の品をご用意しました」

「あたしと菊次郎さんと忠賢さんでお金を出し合ったのよ」


 田鶴は反対の(はし)を持って移動し、それを広げた。


「これは吼狼国の地図か! 見事な絵だ!」


 直春が感嘆の声を上げた。


「頼算さんと商人さんたちに頼んで作ってもらいました」


 丈夫な綿の布にたくさんの色を使って吼狼国の全体図が描かれていた。八十ある国の境や長い川を線で、大きな町や山を絵で表してある。季節は春で、あちらこちらに桜の花が散りばめられていた。葦江国には桜舘領を示す家紋とともに、豊津の町と城、天額寺、この場にいる七人の似顔絵が描かれている。


「僕たちが統一しようとする国の姿です。この国の支配者に花千代丸様はなるのです」

「ありがとう。最高の贈り物だ」


 直春は目を(うる)ませていた。


「豊津城の大広間に飾ろう。いつか必ず、この地図の全ての国に桜の家紋を描かせてみせる!」

「はい。全力でお手伝いします!」


 菊次郎は力強く約束した。

 直春が大きく頷いた時、忠賢が声を上げた。


「おっ、そろそろ出るようだぜ」


 菊次郎たちは目を外へ向けた。天額寺のある丘からは、細長い半島が、波や風を防ぐひさしのように豊津港の前に伸びている。その先端で、一隻の船が帆を上げようとしていた。


「あれが新しい帆ですか」


 妙姫が感心すると、直冬が威張って言った。


「大きいでしょう!」

「今までの帆より一回り広いそうです」


 菊次郎は織り方を説明しようとしたが、忠賢がさえぎった。


「船が動き出したぜ!」


 おおう、と全員の口から溜め息のような声がもれた。


「早いな」

「早いね」


 忠賢と田鶴が同時に言い、雪姫が尋ねた。


「どこへ向かうの?」

「沖に水軍の船がいるのです。ほら、見えませんか?」


 指さすと、直春が笑った。

「どこまでも進んで行きそうだな。都にも、もっともっと先にもだ」

「そうですね。新生桜舘家の船出の日です」


 大きな白い帆を広げた木造の商船は、青く輝く海の上を波を切って滑っていく。

 それをじっと見つめる菊次郎たちの上に、庭の桜の大木から、たくさんの花びらが風に乗って降り注いでいた。

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