(巻の二) 第五章 湿り原 下
七日後、宇野瀬勢は朧燈国へ帰り付いた。
「御屋形様、無事なご帰還をお喜び申し上げます」
旭山城の大手門をくぐると骨山願空が待っていた。戦の詳細は先に馬で伝えさせたので、出迎えた家臣たちは皆沈痛な表情をしていた。
長賀は頷いただけでずっと無言だった。珍しく機嫌の悪そうな主君に近習や家老たちも腫れ物に触るようで、頭を下げて去っていった。
本郭御殿に入ると、長賀は付いてきた願空に尋ねた。
「おじい様はどうなさっている」
「それが、三日前からお休みになったまま目を覚まされません」
「そうか、おじい様まで……」
つぶやくと、筆頭家老が言った。
「湯殿の準備ができております。先にお入りください」
長賀は頷いて浴室に向かった。垢を落としても湯につかっても疲れは取れなかった。体中に重く残り、心の奥に石のように沈んでいくだけだった。
家臣に見られたくなかったから廊下では必死に我慢したが、自分の部屋に入った途端、目から涙があふれ出した。
「畜生、負けた! まんまと策にはまった! やれることをしようとしたのに駄目だった! 叔父上は死んだ。おじい様も頼れない。どうすればいいんだ! ……誰だ!」
うめくように漏らした声に、隣の寝間で息をのむ気配がしたのだ。襖を開けて入っていくと、真っ白な着物の若い女が布団の横に控えていた。
「お前は何者だ」
長賀は不機嫌さを隠さなかった。女は寝間着一枚だった。誰かが当主を慰めようとしたのだろう。大変な美貌とは言えないが、そこそこ整った芯の強そうな顔つきだった。
「骨山琴絵と申します。年は十五でございます」
少女は平伏した。
「願空のしわざか」
長賀は呆れた。どうやら例の養女のようだ。結婚させたがっていたが、まさか寝所に忍び込ませるとは。
「出ていけ。女に用はない!」
長賀は命じた。が、少女は動かなかった。
「なぜ出ていかぬ」
「わたくしはあなた様の妻になりに参りました」
「それは願空が勝手に! ……なぜ泣く? いやなのに無理に命じられたか」
琴絵は目をぬぐって首を振った。
「御屋形様がそれほどお疲れで、苦しんでいらっしゃるからです」
「僕が苦しんでいるだと?」
「おじい様はいつも、長賀様はとてもおやさしい方だと話してくださいました。そういうお方がそれほど身も心もぼろぼろになっていらっしゃるのが、わたくしには悲しいのです」
「ぼろぼろだと! 失礼な娘だな!」
口では反発してみせたが、言われてみてその通りだと思った。当たり前のことだった。十七歳で、初陣で、あれだけの戦を経験して、しかも叔父と大勢の家臣を目の前で殺されたのだ。平然としている方がおかしい。
長賀は溜め息を吐いた。
「確かに僕は疲れているかも知れない。だが、お前はこんなことをする必要はないんだ。出ていってくれ」
「いやです。わたくしは御屋形様をお支えしたいのです。立派にご当主様としてお働きになれるように」
「お前が? どうやって? 僕自身すら僕を信じられないのに!」
長賀は怒りをぶちまけた。
「一万で出陣して帰ってきたのはたった三千! 副将は討ち死に。しかも相手は十六万貫の小封主だ。宇野瀬家は大恥をかいた。僕のせいでだ!」
叫ぶと、また涙があふれてきた。
「畜生! どうしてだ! どうして勝てなかったんだ!」
言いながら分かっていた。自分に力がなかったからだ。だから叔父も他の二家も言うことを聞かなかった。結果、味方の敗北を見守るしかなかった。
「もう誰も僕を信じないだろう! 誰も僕に期待しないだろう! 当主をやめさせられるかも知れない。殺されるか、出家させられて寺院に送られるんだ!」
情けなかった。こんな自分を殺してやりたいとさえ思った。先程大手門をくぐる時も消えてしまいたいほど恥ずかしかった。
「わたくしは信じます!」
言うなり、琴絵は立ち上がって駆け寄り、長賀の右手を両手でつかんだ。
「わたくしはいつでも御屋形様のおそばにいます。どんなことがあっても離れません!」
長賀はその手をふりほどこうとした。
「適当なことを言うな! 本当は僕のことなんか好きではないくせに!」
すると、琴絵は頬を赤らめた。
「わたしくは御屋形様のものになるとずっと決めていました。他の方には嫁ぎたくありません」
言うなり、体を寄せてきた。
「おじい様におそばに上がるお話をうかがった時、お尋ねしたのです。御屋形様はどのようなお方ですかと。おじい様はいろいろな逸話を語ってくださいました。それを聞いて、わたくしは自分から申し上げたのです。そのお方の妻になりますと」
長賀は目を見張った。
「話を聞いてなお僕の妻になろうと思ったのか。なぜだ? こんな飾り物のでくの坊に」
琴絵は長賀の胸に頬を付けて語った。
「御屋形様が幼い頃、おじい様の家臣がお犬を蹴飛ばしてしまったことがあったそうですね」
「ああ、あの時か……」
大人しかった長賀が珍しく父にねだったものだった。家臣から子犬をもらい受け、長賀は一緒に寝るほどに可愛がっていた。
「その家臣はおじい様に書簡を届けようと本郭御殿を小走りに歩いていて、部屋から走り出てきた小犬を蹴ってしまったそうです。小犬は飛ばされて庭に落ち、血を吐き骨を折って寝込んだとか」
「そうだったな」
その犬は二年前に死んだ。長賀の唯一の対等な友達だった。
「小犬を抱いて泣く御屋形様をご覧になってお父上や兄君は激怒され、おじい様は家臣に死を命じようとなさいました。すると、御屋形様は『その人を殺しても怪我は治らない』とおっしゃって、平伏するその者を小犬の看病役に命じ、二人で協力して治療なさいました」
願空も腕の良い馬の医師を手配してくれた。小犬は多少後ろの片脚を引きずるようになったが、走ることができるまでに回復した。
「そのお話をうかがってわたくしは思ったのです。そのようなお方に大切に思われたら、きっと幸せになれるだろうと。それ以来、御屋形様のおそばに上がることだけを夢見て修行して参りました」
「子供の頃のことだ。今の僕はただの役立たずだ」
琴絵は首を振った。
「そんなことはございません。御屋形様はそれほどやさしいお心をお持ちです。ご領内の民は幸せです」
琴絵は顔を上げ、手を伸ばして長賀の頬の涙の跡を撫でた。
「ですのに、今の御屋形様にはやさしくしてくださる方がおりません。お父上お母上兄君は亡くなられ、倫長様も討ち死にされ、道果様も目を覚まされないとお聞きしました。御屋形様がお疲れになった時、お困りの時、泣きたくなられた時に、どなたがおそばにいて差し上げられるでしょう」
琴絵の目には強い意志があった。
「おじい様はこたびの戦の結果を聞いて、御屋形様はさぞご傷心でいらっしゃるだろうとご心配なさっていました。ですから、わたくしは自分から申し出ました。御屋形様をお慰めしたいと。おじい様は悩まれて、ご承知くださいました」
「琴絵殿……」
「断られましたら死ぬ覚悟でございます。一生おそばに仕えさせてくださいませ」
しばらく長賀は黙っていた。やがて、深く息を吸い込み、小さな声で言った。
「僕のような男を信じて後悔しないのだな」
「致しません」
琴絵の声は震えていた。
「分かった。では、そなたを受け入れよう」
長賀は少女の背中に腕を回して抱き寄せた。琴絵は小さく溜め息のような声をもらした。
「琴絵、そなたを僕の妻にする。ずっとそばにいてくれ。そのかわり、僕も約束する。君に信じられるのにふさわしい男になると。君をきっと幸せにして、最後まで守り切ってみせる!」
琴絵の体から力が抜けた。長賀は少女を布団に横たえた。これほど何かを愛しく感じ、欲しいと思ったのは初めてかも知れなかった。
翌日、半月ぶりの御前評定に長賀は琴絵を連れて現れた。
平伏する家臣たちに、宇野瀬家当主は言った。
「皆、葦江国での負け戦のことは聞いていると思う」
家臣たちは何を言い出すのかという顔をした。自分の失態をひけらかしてどうすると思った者もいたようだった。
「あれは俺の失敗だ。許してほしい」
長賀は頭を下げた。家臣たちはさらに戸惑った。「僕」でなく「俺」と言ったことに気付いた者もいた。
「恐らく、福値家と増富家は勢い付く。しかも、倫長叔父上という経験豊富な武将を失い、おじい様も目を覚まされない」
道果の件は初めて聞いた者も多かったようで、家臣たちに動揺が広がった。
「宇野瀬家にとって、ここ三十年で一番の危機かも知れない。そこで、これまで叔父上に任せていた政を今後は俺自身が行う」
家臣たちは呆気にとられている。
「だが、経験も知識もなく分からないことも多い。よって、骨山願空を相談役とし、連署に任じる。おじい様が最も信頼なさっている者だ。政務の経験が豊富で戦上手でもある。俺に忠誠を誓うと約束もしてくれた」
「お待ちを!」
声を上げた者がいたが、長賀は無視した。
「事後承諾になるが、俺はここにいる願空の養女琴絵を妻にすることにした。つまり、俺にとって願空は岳父になる。これまで以上にいろいろと世話になるだろう。よろしく頼む」
「もったいないお言葉でございます。琴絵は思い込みの激しい性格で、すぐにおそばに上がりたいと言って聞かなかったのでございます。娘と共に全力でお仕えし、御屋形様をお支えする覚悟でございます」
「本当は駕籠に乗り、行列を作ってここへ参る予定でしたけれど」
琴絵は笑った。信頼に満ちた笑みだった。長賀が明るく笑い返すのを見て、家臣たちは目を白黒させた。
「俺の最初の仕事は桜舘家との交渉だろう。願空と相談したが、あの家とは和約を結ぶべきだと思う。具体的な条件の案を作ったから意見をもらいたい」
「では、わたくしからご説明いたします」
願空はうやうやしく義理の息子に頭を下げ、家臣たちの方に向き直って手にした紙を読み上げていった。その好々爺然としたにこやかな笑みはいかにも当主に従順で忠実な家臣らしく、娘の幸福を喜ぶ父親にしか見えなかった。
「本当に宇野瀬家が桜舘家に負けたのか。間違いないのだな」
葦江国の様子を探らせていた隠密の報告に、思わず声を上ずらせて聞き返した。
「状況を詳しく話してくれ」
合戦の経過を聞くうちに、表情には驚きが広がっていった。
「なるほど、そういう作戦か……」
「では、宇野瀬家の軍勢は大打撃を受けて逃げ帰ったのか」
もう一人が尋ねた。
「はい。当主長賀は空っぽの駒繋城を素通りして、旭山城へまっすぐ戻ったようです」
「驚いたな。桜舘家にそんな力があったのか」
感心する声に顔を上げた。
「銀沢菊次郎という軍師には注目していた。三倍の敵を破ったと聞いていたからだ。今回平汲家をそそのかして葦江国に乱を起こしたのは、茅生国を制圧する間混乱させておくためだった。宇野瀬家の軍勢が足止めされ、成安家にも取られない状況を作りたかった。桜舘家には頑張ってもらう必要があったが、その軍師の実力を測りたいのもあったのだ。しかしこれほどとは。直春という当主も、青峰とかいう騎馬隊の将も、かなりの戦上手のようだ」
「で、こちらの軍師はどうする」
からかうような期待するような口調だった。
「当家の目的や方針に変更はない」
答えは早かった。
「宇野瀬家が弱り、成安家が御使島に目を向けているうちに少しでも勢力を広げる。それが大殿のご意志で、大評定の決定でもある。従うほかないし、正しい判断だと思う」
「桜舘家と戦うことになるのか」
「分からない。だが、準備はしておいた方がいい」
「やれやれ。南北にいた強敵の片方が消えたと思ったら、新しいのが登場か」
「そうだ。それも飛び切り厄介な相手らしい」
「うれしそうじゃないか」
「そんなことはない。いろいろとうまく行っている方があの方の機嫌もいい」
「それはそうだな」
そばの箱から銀貨を五枚取り出した。
「よく知らせてくれた。聞いたことはあの方にお伝えしておく」
渡して命じた。
「引き続き葦江国の監視を続けよ。桜舘家の人々、特に軍師の少年の情報をできるだけ集めてくれ。あとの方は別枠で謝礼を出そう」
「かしこまりました」
隠密は去っていった。
「葦江国の変化が足の国全体にどんな影響を与えるか……」
「分からないのか」
「桜舘家の今後の動き次第だな」
「そこまで言うとは。確かに興味深いな」
ふふふと二人は笑い、干しいかを口にくわえて酒杯を手に取った。




