(巻の二) 第三章 それぞれの思惑 下
水仙月二十八日の夜、朧燈国の旭山城は集まった軍馬のざわめきで日が暮れても騒がしかった。小高い丘の上に築かれた大きな城の最奥の座敷にも、その喧騒はかすかに聞こえていた。
「おじい様、起きておいでですか」
呼びかけられて宇野瀬道果は目を開き、枕に乗せた首をそちらへ向けた。
「長賀か。出陣するのか」
「はい。明日城を発って葦江国へ赴き、桜舘家を討ちます。そのご挨拶に参りました」
行儀よく正座した孫は宇野瀬家の現当主だ。その隣に道果の次男で連署の倫長が座り、布団の足元の方に筆頭家老の骨山願空が少し離れて控えていた。
道果は孫の顔をじっと見つめると、布団から右手を出して伸ばした。長賀は祖父の意図を察して震える大きな手を握った。道果は床を離れられなくなって数年になるとは思えぬ強い力で孫の柔らかな手を包み込むと、しゃがれているがよく響く声で尋ねた。
「戦が怖いのか」
「いえ……」
長賀は否定したが、手から本心が伝わってしまった。
「そうか、初陣だったな。いくつになった」
「十七です」
「あれの忘れ形見がそんな年になるのか。もう六年もたったのだな」
道果は孫の顔に先に逝った息子の面影を探すようなまなざしをした。
「あれはすぐれた子だった。わしが殺したようなものだ」
道果の長男で前当主の長庸は、誠実な人柄と家臣へのやさしさで慕われていたが暗殺された。かつて道果が打ち破って領地を奪った一族の一人が、身分を隠して近付いて斬り付けたのだ。その男はすぐさま殺されたが、最後まで道果親子に呪いの言葉を吐き続けていたという。
「殺し滅ぼせば恨みを買う。分かっていたこととはいえ、老いた身にはこたえる。だが、お前はまだ若い。恐れ、神にすがるには早すぎる。存分に戦ってこい」
踵の国の南副探題の家に生まれた宇野瀬師長は豪勇かつ知略にすぐれ、わずか十三歳で城を一つ落として周囲を驚かせた。探題の福値家にその才を恐れられて追放されたが、密かに戻って仲間を集め、城を奇策で落として立て籠もり、寡兵で大軍を打ち破った。やがて福値家を朧燈国から追い出し、周辺国を切り取って百万貫の大封主家を築き上げた。
既に七十四と高齢だが、数年前まで宿敵成安家や新福値家などと激闘を繰り広げていた。後者は北副探題家だったが庇護した福値家当主の養子となって探題職を受け継いでおり、新たな探題を自称した宇野瀬家とは互いに相手の存在を容認できなかったのだ。
しかし、家督を譲ったばかりだった息子に先立たれると、幼い孫にかわって実権を振るいつつ、寺院に深く帰依して道果と名乗るようになった。
「おじい様は百を超える戦いを経験され、その多くに勝ってこられました。勝利の秘訣をお教えください」
長賀は不安なのだろう。それが初めての戦だからだけではないことに道果は気が付き、無理をして布団から半身を起こした。
「戦が怖くない者などおらん。わしもいつも怖かった。だが、その怖さに負けてしまった者は決して勝利できぬ。生きて帰りたければ、敵に勝つ前におのれに勝たねばならぬ」
長賀は腕を伸ばして祖父の背中を支えながらうつむいて何かに耐えていた。
「僕はおじい様や兄上とは違います。殺し合いがどうしても好きになれません。百万貫の当主は荷が重すぎます」
兄の長顕は父長庸が襲われた時、守ろうとして死んだ。豪胆で戦上手、祖父の若い頃にそっくりだと期待されていた十歳上の兄を、長賀は慕っていた。いまだにそのかわりを務められる自信はなかった。
「皆一度は通る道だ。それを乗り越えた時、お前はようやく武家の男になる」
道果は温かい声で孫を励ました。
「どんなことも数をこなせば慣れるものだ。戦の恐怖もやがて平気になる。お前は細かいことに気が付くやさしい子だ。いかにもあれの息子らしい。だが、お前はいずれは宇野瀬家を導いていかねばならぬ。わしが生きておるうちに多くの経験を積み、力を付けなさい。でないと、お前はこの家もお前自身も滅ぼすことになるぞ」
「僕にできるでしょうか」
長賀の声は消えそうなほどか細かった。今回の出陣は十七歳の当主にそろそろ戦を経験させるべきという意見が家老たちから出されて断れなかったためで、長賀の意志ではなかった。
「叔父上や家老に任せては駄目でしょうか」
と、隣を見やった。四十四歳の倫長は何も言わなかったが、口元にかすかな笑みを浮かべた。
「それはいかん」
道果は大きく首を振り、声を強めた。
「お前に相応の実力があれば、他の者に一部を任せても問題はない。任せた者はお前を恐れ、心中を慮りながら役目を必死で果たそうとするだろう。だが、実力なしで実権を譲り渡せば、やがて家臣たちはその者の指示にばかり従ってお前の言うことを聞かなくなる。そうなればお前の命すら危うくなる。宇野瀬家を守るにはお前が強くなるしかないのだ」
言葉は次第に熱を帯びてきた。が、道果は気が付いて肩から力を抜いた。
「そんなに心配することはない。お前は総大将で、しかも初陣だ。皆が守ってくれる。難しく考えず、全体をよく眺め、多くのことを見聞きして、戦とはどういうものなのかを経験してきなさい。学んだことを生かすのはもっと先の戦でよい。この戦いに勝っても負けても、お前の気持ちが負けなければ、それで十分な成果だ」
道果は孫の肩に手を置いた。
「迷った時は正しいと感じる方を選びなさい。お前が決めたのなら結果がどうなろうとお前の責任だ。それを体験することこそが若い者には最も必要なのだ。判断を人に預けてばかりの人間は成長できぬ」
道果は筆頭家老の骨山願空に目を向けた。
「長賀の初陣、勝利できるように手はずは整えてあるな」
「はい、手抜かりはございませぬ。必ずや豊津城は落ちましょう。わたくしは参りませぬが、倫長様と腹心の者が同行致します。御屋形様には悠々と馬上から勝利を味わっていただきます」
「腹心とは誰だ」
「赤潟武虎でございます」
道果は眉をひそめた。
「あの男は好かぬ。冷酷で勝つためには手段を選ばぬからな。だが、役には立とう」
道果は自分のかわりに当主を補佐している次男に言った。
「倫長、お前はやや性急にすぎる。焦ってしくじらぬようにせよ。桜舘家の当主はまだ若いがなかなかの人物と聞いておる。油断してはならぬ。お前はあくまでも副将、長賀を立てることを忘れるな」
「父上、分かっております。この戦、必ずや勝利してご覧に入れましょう。既に策は動き出しておりますぞ」
倫長は自信をのぞかせた。
「過信するな。武虎の助言をよく聞け。あの男は一度桜舘家と戦っておるからな」
「承知致しました」
その言葉が口先だけであることは、願空にちらりと向けたまなざしから明らかだった。筆頭家老とは様々な方針が違い、目の上のこぶなのだ。そんな相手の腹心の助けは借りないつもりなのだろう。それに気が付いて道果はなおも次男を諭そうとしたが、急に咳き込み、疲れたように再び体を横たえた。
「もう行け。わしは眠る。倫長も戦の経験は多い。十分な準備をして臨めば大きな失敗はしないだろう。次に会う時に戦の詳細を教えてくれ。助言ができよう」
「きっと勝利の知らせを持って参ります」
長賀は約束すると立ち上がった。
「おじい様も早くよくなってください。一緒に戦場に行って、いろいろ教えていただきとうございます」
道果は頷いた。
「そうだな。わしも楽しみにしておるよ」
孫たち三人が出て行くと、道果は深い溜め息を吐いた。
「残念だがその日は恐らく来ぬだろう。だが、わしはまだ死ねぬ。今死ねば宇野瀬家はどうなる。あやつの手綱を取れるのはわしだけなのだ」
道果は閉じたばかりの襖をにらんだ。
「筆頭家老の骨山願空。随分と役に立ったが、わしの目の黒いうちにお前に鎖を付けねばならぬな」
苦し気につぶやくと、荒い息をして、道果は再び目をつむった。
廊下に出た三人は本郭御殿の玄関まで無言で歩いた。
願空が頭を下げると倫長は自室へ戻っていった。が、長賀は動かず、少しためらって筆頭家老に声をかけた。
「少しよいか」
「何かご相談でございますか」
長賀が頷くと、願空は辺りを見回してそばの小部屋に入った。誰にも見られていないことを確認して襖を閉め、近付いていくと、部屋の中央で所在なげに突っ立っていた長賀はためらいがちに言った。
「桜舘家とは和平の道はないのだろうか」
願空はすぐには答えなかった。しばらく長賀の様子をうかがい、低い声で答えた。
「ございませぬ」
「全くないのか」
長賀は重ねて尋ねた。
「あったとしても、もはや不可能でございます。そのお考えは、戦と決まった一ヶ月半前の評定でおっしゃるべきでございました」
「言っても通らなかっただろう。誰も僕の意見など求めていなかったのだから」
「御屋形様のお言葉を軽視する者などおりませぬ」
「そうかな。少なくとも叔父上は違う」
長賀は自嘲するように言った。
「葦江国との通商を止めたのは叔父上だ。再開を願う商人たちから大分付け届けがあったそうだな。あの程度の金額では満足しないらしいと家臣たちが陰口をたたいているのを聞いてしまった。大鬼家からかなりの額が流れ込んでいて、それが止まったことに腹を立てたのだという噂もある。この戦は豊津の商人からもしぼり取るためではないか」
「そういう見方をする者もおるかも知れませんな」
「そなたはどう思うのだ」
長賀は探るようなまなざしだった。
「わたくしは評定で決まったことに従うだけでございます」
「そんな言葉が聞きたいのではない。そなたの存念を申せ。ここだけの話でよい」
長賀は筆頭家老の柔和そうな笑みをじっと見つめた。すっかり頭の禿げ上がった六十二歳の老臣は、いつもにこにこしているのでうっかりするとだまされそうになる。が、その戦歴の豊富さと容赦ない戦いぶり、たくさんの敵武将の調略や暗殺をなしとげた知略は、多くの者から一目置かれていた。
「おじい様が最も信頼している家臣はそなただ。最も恐れている者もそなただと思う。おじい様の若い頃から従い、ただの下男からここまで取り立てられた者は他にいない。失敗できない重要な仕事があるといつもそなたに任せていた」
師長が道果と名を改めた時、骨山義純も在俗出家して願空と名乗った。この法号は早く空の上の光園へ上りたいと願うとも、様々な望みはもはや空しいとも解釈でき、死が近付いて弱気になったのではないかと家中で噂になった。それを裏付けるように、本人は献身的に道果の世話を続け、連署となった倫長に大人しく従っていた。
「そなたは叔父上に表立っては逆らわない。だが、腹の中には別な考えがあるのではないか。この戦にも本当は反対なのだと思う」
「よく見ておられますな」
曖昧な言い方での誤魔化しは無駄と知って、願空は少し黙り、口調を変えた。
「では、申し上げましょう。桜舘家との戦は今は避けるべきでございましょうな」
「その理由は」
「万が一負けた場合、失うものが多すぎまする」
「何を失う」
「まず、葦江国の通行権。次いで、周辺諸国への武威」
「武威? 名誉ということか」
「威信のことでございます。桜舘家はたった十六万貫、負ければ大恥でございます。当家が恐れられていてこそ茅生国の諸家は従っておるのです。離反し増富方へ鞍替えする家が出るやも知れませぬ」
「確かにそうだな」
長賀は考える顔になった。
「それに、勝って多くの捕虜を得れば、桜舘家は通商の再開を要求して参りましょう。当家は向こうに有利な条件をのまざるを得なくなります。絹や鉄器の売値を下げることになれば、農民や商人から恨まれましょうな」
「なるほど」
「当家は今、福値家と増富家という強敵と戦っております。軍費が膨らんでおりますが、禁令のために商人からの運上金が減っております。桜館家と正式に和睦して通商を再開する方が、当家にとっても農民や町人にとっても得になりましょう。今の状態は一部の者の懐しか温まりませぬ」
「叔父上は分かっておいでなのだろうか」
「きっとお金が必要な事情がおありなのでしょう」
「どんな事情だ」
「それは申し上げかねます」
「もしかして、叔父上は当主の座が欲しいのではないか。そのために味方を増やそうと……」
「お答えしかねます」
長賀は深い溜め息を吐いた。
「欲しいなら喜んで譲るのだが」
「そのお言葉はうかがわなかったことに致します。当家のご当主様は長賀様でございます。皆、御屋形様に忠誠をお尽くし致しております。わたくしも同じ気持ちでございます」
「僕にではないだろう。叔父上にでもない。おじい様がいらっしゃるから宇野瀬家はまとまっていられるのだ。それくらい分かっている。僕たちではかわりは務まらない」
「あなた様にしかできないことがございます」
「何だ」
「お世継ぎを作ることでございます」
「またその話か。そなたの養女を妻にしろと言うのだろう。それは断ったはずだ」
「琴絵はよい娘でございます。見目形もさることながら、心やさしく、御屋形様と気が合いましょう。幼き頃より手塩にかけて育てて参りましたゆえ、情では我が子と違いはございませぬ。よきお方に嫁がせたいという親心でございます」
「この戦から生きて戻れたら考えよう」
長賀は根負けしたように言ったが、すぐに表情を引き締めた。
「そなたの考えは分かった。だが、もはや遅いのだな。全ては動き出し、戦は避けられない」
「はい。今となっては戦に勝つのが最上でございます。負けては損ばかりでございます」
「僕にできることは少なそうだが、勝つために努力しよう。話してくれてありがとう」
決意を述べると、長賀は部屋を出ていった。
願空は本郭御殿を離れ、城の中にある自分の屋敷に戻ってきた。
「武虎はいるか」
与えた部屋に行くと、傭兵集団の二十一歳の頭は出陣のための荷造りをしているところだった。
「お前に再度命じる。長賀を生かして帰せ。それが最も重要だ」
武虎は無言で振り返った。
「やはり長賀はばかではない。だが、当主の器でもない。うまく手なずければ操れよう。倫長が自分に任せろと言うのを、家老たちに手を回して当主の出陣を決めたのは、戦を知らぬという批判に対抗するためだ。生きて帰ってもらわねばならぬ」
「では、戦に勝てという命令は変わらないのだな」
武虎は確認した。
「そうだ。この戦には勝たねばならぬ。勝てば豊津商人を支配下に収めることができる。倫長は苦しめて言うことを聞かせようとして、かえって嫌われておる。旭山の商人たちもわしから引き離して自分に付かせたいらしいが、禁令にあえぐ彼等には兵糧の調達で恩を売った。この戦に勝てば、葦狢街道の交易は完全に当家の管理下に入り、多くの収益が見込める。その金があればもっと大きな戦が起こせる」
「倫長の手柄になるがよいのか」
「あの程度の男、いつでも排除できる。今は茅生国への通路を失うわけにはいかぬ。南国街道を押さえる豊津城は目障りだ。例の策は進んでおるな」
「ああ。平汲家から桜舘家が誘いに乗ってきたと連絡があった。恐らくこちらの裏をかくつもりだろうが、そのさらに裏をかく。あの二人からも桜舘家の計画の詳細が届いている」
「よしよし。勝てそうだな」
願空はにんまりとすごみのある笑みを浮かべた。
「大鬼家に主家を乗っ取らせて味方に引き込んだが、厚臣め、豊津の利権は決して手放さなかった。謀反を手助けすることに反対した長庸と長顕を暗殺までしたというのにな。この戦に勝てば足の国への道が確保でき、都が一気に近付く」
「法号はそういう意味か」
空たらんと願うとは、小高い丘のてっぺんに立つ旭山城の主の宇野瀬家より上に行きたいということだ。探題より上の役職は、安鎮総武大狼将、即ち天下人以外に存在しない。
「わしにどれほどのことができるか試したいのだ。命あるうちにな」
願空の顔からにこやかな笑みが消え、鷹のようなまなざしが野望にらんらんと輝いていた。
「道果様に忠実に仕えてこの地位まで登ったが、あの方は老いた。もう充分恩は返したろう。これからはおのれの力で天下を目指す。その始めの一歩だ。倫長の起こす戦で利を得るのはこのわしだ」
「功成り名遂げた老人が、なぜいまさら無理をする。隠居して安楽な余生を過ごせばよかろう」
「お前には分かるまい。まだ若いからな」
願空はゆっくりと首を振った。
「年を取ると死が身近だ。知り合いが次々に死んでいく。わしももう死んでいてもおかしくない年になった。日々、いつ死ぬか、いつまで生きられるかと思いながら過ごしておる。もうすぐこの世から永遠に消え去ることが決まっておるというのは、薄い氷の上を歩かされるような、寒々しく恐ろしい心地なのだよ」
願空は武虎に分からせたいのではないようだった。
「その恐怖から必死で目を逸らそうとする者もおる。他人を憎み不満をぶつけることで、おのれの正しさや強さを確認したがる者もおる。もう大したことはできないからと、引退して日々を楽しみながらゆるやかに朽ちていく者も少なくない。だが、わしはそういうのは好まぬ。いっそ、行けるところまで行ってやろうと思うようになった」
「最後に一花咲かせたいのか。それも逃避だと思うが」
「かも知れぬが、止まるつもりはない。どうせ長くない命だ。嫌われようと恨まれようと、もはや気にはならぬ。死の間際までやれることをやりつくす」
武虎は冷ややかな表情のままで、心を動かされた様子はなかった。
「俺はそんなことには興味がないが、依頼は達成する。あの廻山の小僧には借りが二つもあるしな」
願空と武虎は互いに油断できぬ相手と思って心を許してはいないが、それゆえに信頼し合ってもいるのだった。
「忘れるな。豊津の町を占領することが第一の目標だ。麦を入手してこの国の民を手なずけ、商人たちを服従させて多額の軍資金がいつでも調達可能になれば、もはや道果には用はない。寝たきりで飾りにすぎないとはいえ踵の国での声望は侮れなかったが、そんなものに頼る必要はなくなる。最大の邪魔者を始末したら宇野瀬家はわしのものになる」
道果にすら見せたことのない猛禽の本性を、同類の武虎の前でだけは願空も隠さなかった。
「御使島ではよくやった。お前のもたらした情報で鮮見家は氷茨元尊のたくらみを知り、待ち伏せして撃破した。成安家はしばらく動けまい。その間に葦江国を完全に支配下に置く」
武虎は以前廻山城の攻略に手を貸した。だからこそ、鮮見家はその言葉を信じたのだ。
「豊津を直轄地にして足場を築いたら、茅生国に再度進撃し、都への道を切り開く。やがて吼狼国全てがわしの支配下に入ろう。戦狼の世に生まれたのは幸運だった。宇野瀬家も長賀もただの道具にすぎぬ。命尽きるまで、わしはこの戦乱の時代を存分に楽しむのだ」
願空の目は長賀や倫長には想像もできないほど遠くを見ていた。軍略と政略に非常に秀でているからこそ、途方もない大きな野望を胸に抱くことができるのだ。
「おじい様。こちらにおいでですか。そろそろ夕食になりますよ」
廊下から琴絵の声が聞こえてきた。
「ああ、ここにおる。すぐに行くよ」
願空は好々爺然とした笑みに戻り、武虎に一つ頷くと襖を開けて、廊下で待つ十五歳の養女に声をかけた。
「今日、長賀様にお前の話をしたよ」
「何とおっしゃっておられましたか」
夫となる相手の反応が気になるらしい琴絵に、願空はやさしく言った。
「お前がどれほどよい娘かお伝えしたのだよ。もうおそばに上がる日は近い。こたびの戦からお帰りになったら正式にお話を持ちかけよう」
琴絵は期待と不安と寂しさの入り交じった表情で微笑んだ。
「おじい様がお薦めくださる方ですもの、きっとわたくしは幸せになれますわ」
「そうだな。わしもそう思うよ」
願空の笑みから大切に育てた娘への愛情以外のものを読み取ることは、琴絵でなくても不可能だった。
「ご報告致します。先程桜舘勢が領内に入りました。もうじきこの城下に到着します」
「よし、全ては順調だな」
椿月五日の朝が終わる頃、伝令武者の報告を聞いて、平汲可済はにやりとした。
「父上、当家の飛躍の時が参りましたぞ」
完全武装して評定の間に集まった家老たちを見回して、平汲家の嫡男は作戦を確認した。
「もうじき押中勢がこの駒繋城へやってくる。桜舘家にはそれを一緒に打ち破り、一気に千本槍城を落として領地を分け合おうと言った。宇野瀬家には桜舘家の主力をそう言って誘い出すから、共同で撃破し、豊津城を攻略しようと伝えてある」
家老たちは真剣な顔で頷いた。
「だが、実際はどちらも違う。桜舘勢は城の隣の森の中に隠す。押中勢が来たら、その前まで誘導して当家の軍勢と挟み撃ちにし、殲滅する。次に、宇野瀬勢を待ち伏せし、桜舘勢と共に攻めて撤退に追い込む。そのあと、桜舘勢に毒を入れた井戸の水を飲ませ、弱ったところをたたいて豊津城を陥落させる。最後に押中家の千本槍城を落とす」
「そううまく行くだろうか」
当主の可近は不安げな表情だった。もともとどこか疲れた感じのする五十男だが、今日は一層その顔が暗かった。一方、二十八歳の息子は興奮気味だった。
「夏、もうすぐお前を豊津城の主にしてやれるぞ」
「期待しておりますわ。あなたならできますとも!」
夏姫は甘えるような声を出した。
「わたくしこそ桜舘家の正当な跡取りですわ。夫であるあなたが国主を名乗るべきなのです。どこの馬の骨とも分からぬ浪人など、さっさと引きずりおろしてくださいな。世間知らずの妙姫はたぶらかせても、あなたの敵ではないと信じておりますわ」
「おお、任せておけ!」
息子が胸をたたいてみせると、夏姫は夫ににっこりと笑いかけたので、可近は不愉快そうに目を背けた。
可済は十歳下の妻にべた惚れしている。確かに、夏姫は妙姫の従姉だけあって美しく、黙って控えていれば誰もが見とれるほどだ。侍女たちによれば寝床でも積極的らしい。快楽に弱い女は魅力があるし、わがままも甘えていると思えばかわいく見える。
可済は子供の頃からほめ言葉に弱かったので、夏姫のおだてに抵抗できないのは分からぬでもない。しかし、夫を操ろうとする意図が見え見えなのは、舅として腹が立つ。また、それに乗せられる息子も情けなかった。可済夫婦は互いに相手をうまくあやしているつもりらしいが、二人ともあまりおつむが良くなさそうに見えてしまうのだった。
「どこにも気取られていないのか。宇野瀬家にも押中家にも」
可近は再度尋ねた。
「父上、ご安心ください。押中家からは昨日城を出発したと連絡が入っております。特に警戒する様子はなかったようです。これは宇野瀬家からの出陣命令なのです。疑う余地はなく、従うほかありません」
可済は得意げに言った。
「桜舘家とは繰り返し打ち合わせをしております。始めは疑っている様子でしたが、十日前の最後の時はすっかり信じ込んでおりましたぞ」
「妙姫からも、押中領を公平に分け合い、従姉妹同士力を合わせて成安家のために戦いましょうと手紙が来ましたわ」
夏姫はうまく罠にはめてやったと勝ち誇った笑みを浮かべ、妙姫への対抗意識と優越感を露わにした。こういう表情にこの女の本性が表れていると可近は思うのだが、息子には無邪気に喜んでいるように見えるらしい。
「宇野瀬家の動きはどうだ」
面会したことがある道果や願空の顔を思い浮かべて心配になったが、可済は自信があるようだった。
「宇野瀬家からは今日着く予定で旭山城を出発したと知らせが来たではありませんか。葦狢街道は倒木で封鎖してあり、それを取り除かなければ馬は通れません。ここへ来る頃には押中勢は壊滅し、我が方の準備はすっかり整っていますよ」
「本当に大丈夫なのだな」
まだ心配そうな義父に、夏姫は哀れむようなまなざしを向けた。
「もちろんですわ。きっとうまく運びます。増富家からも連絡がございました。援軍は既に出発したそうですわ」
平汲家にこの企てを持ちかけたのは北の大封主家だった。いわく、宇野瀬勢を打ち破ってくれるなら後詰を出す。葦江国と豊津城は差し上げるから同盟を結びたい。
増富家のねらいは明白だった。茅生国へ宇野瀬家が援軍を送れなくしたいのだ。平汲家は狢宿国との境を領していて、駒繋城は葦狢街道の上にある。平汲家はここに関所を設け、通る荷から税を取っていた。平汲家が離反すれば、宇野瀬家は足の国へ来られなくなる。増富家の茅生国攻略はなったも同然だ。
増富家は宇野瀬勢の撃退を依頼し、自分たちは茅生国を手に入れるから、平汲家は葦江国を取れと言ってきた。同盟は本気かどうか怪しいが、もし攻めてきたら成安家に従属を申し出ればよい。喜んで援軍を送ってくれるだろう。
「当家がどの勢力に味方するかで足の国の情勢は大きく変わるのです。大封主家も我等を粗略にはできません」
可済の声はわずかに上ずっていた。桜舘家と押中家だけでなく宇野瀬家まで手玉に取ろうというのは大変な賭けだった。失敗すれば七万貫の小封主家など簡単に滅ぼされてしまう。
それでもこの誘いに乗ったのは、妻にそそのかされたからではなかった。可済は二十八歳の風采の上がらぬ小男だが、相応の野心はあったのだ。
戦狼の世に武家の男に、それも封主家の跡取りに生まれたのだから大きな夢を見たかった。ただ狭い領地を必死に守って一生を終えるのはいやだった。百万貫などと贅沢は言わないが、せめて葦江国一国くらいは手に入れて国主と呼ばれ、平汲家発展の祖として名を残したい。命令一つで戦場へ駆り出される宇野瀬家の子分ではなく、大封主家にも一目置かれて対等に同盟を結べるくらいになりたかった。
可済は自分が武将としても領主としてもさほどすぐれてはいないことを分かっていた。かといって、特別に劣っているとも思っていなかった。道果や願空や沖里是正と戦えば負けるだろうが、まだ二十歳にもならぬ直春や、五万貫の領地に満足しているらしい押中家の親子、十七歳で今回が初陣の長賀になら勝つことも可能だと考えていた。
今、宇野瀬家は二方面で戦をしていて、撤退に追い込むことができればすぐには再侵攻してこない。桜舘家も新当主に不満な者が多くいて、家中が結束していない。成安家は御使島の戦のために桜舘家への援軍に消極的だ。今年は麦や綿が高く売れたので軍資金に余裕がある。その上、増富家の後援まで得られたのだ。こんな好機はもう二度とないと思われた。
しかも、妻は桜舘家出身で、家臣たちを従える自信があるという。夏姫は長男の娘で、妙姫は次男の娘だ。大鬼厚臣の謀反がなければ、夏姫の兄の直秋が当主になるはずだった。夏姫の意識では妙姫は傍流なのだ。桜舘家の家老には宇野瀬家に負けたら地位を失う者も出る。ならば、桜舘家の血を引く夏姫を担ぐ方がましだ。
宇野瀬家と戦いになっても、増富家の援軍があれば籠城に勝算がある。福値家も攻勢に出るはずで、宇野瀬家は三国での戦いに苦しくなり、やがて撤退せざるを得なくなる。
増富家と同盟すれば成安家や宇野瀬家にも対抗できる。もしかしたら、孤立した茅生国の宇野瀬家派の数家を下せるかも知れない。従属する立場から従える側になれるのだ。
「俺は英雄ではないが無能でもない。入念に計画を練って慎重にことを進めれば、成功の可能性は低くないはずだ。この状況で何もしないのは臆病者だ」
「そうです。あなたは臆病者ではありません! わたくしの夫ですもの!」
わたくしは特別な女よ。つまらない男の妻として、注目を浴びることなく平凡な人生を送るなんて似合わない。夏姫の強い自己愛と権勢欲が、いつの間にか夫にも伝染していたのかも知れなかった。
「無理は好かぬ。が、やると決めたからには成功させねばならぬな」
可近は随分迷ったが、結局息子の企てをやめさせなかった。危険だが、うまく行けば手に入るものは大きい。可近のように冒険をせず、家と領地を守ることに全力を注いできた者ですら、この誘惑には心が動いた。いや、堅実な生き方をしてきたからこそ、かえって引かれたのかも知れない。
「父上は心配性ですな。今のところ全ては計画通りに進んでおります。もし宇野瀬勢に勝てそうにない時は、桜舘勢を共に攻めればよいのです。宇野瀬家とはそういう話になっているのですからな。押中勢を殲滅したことはとがめられず、五万貫は手に入ります。元浪人の目障りな若造も今日限りの命。名門桜舘家の当主の地位と葦江国国主の称号は我等のものです」
「妙姫はどんな哀れな顔をするかしら。今のうちに慰める言葉を考えておかなくてはなりませんわね」
可近は息子に頷きを返しつつ、この若い夫婦に危うさを感じずにはいられなかった。が、不安を無理に心から追い出すと、当主として命じた。
「なんとしても葦江国を制圧し、国持ち封主家の仲間入りをする。今日は勝負の日だ。皆、心してかかれ。成功の暁には加増は思いのままだぞ!」
「ははっ!」
家老たちは一斉に頭を下げた。全員、緊張と興奮の入りまじった表情を浮かべている。
可近は鎧を鳴らして立ち上がり、息子に言った。
「では、その直春殿に挨拶に行こうか」
「はい」
「わたくしも参ります」
可近は息子夫婦を伴って、城の前の広場へ向かった。




