表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
8/39

第八話

 人気ひとけの無い廊下をイリスはゆっくりと歩いていた。本当はそれほど、ゆっくりとしている時間はない。早くしなければ午前の武術訓練が始まってしまうだろう。けれども、これからの事を思うとどうしても足取りは重くなった。彼女の心中に反比例するかのように、窓からは柔らかな朝の日差しが差し込んいた。


 そうやってのろのろと歩いていたにも関わらず、気が付けばイリスはラルフの部屋に辿り着いていた。重い溜息を一つついて、扉をノックする。軽い音が響いた。


「開いてるぜ」


 ラルフの返答を聞いてから、もう一つ溜息をつく。自分は今、きっと情けない顔をしているだろうと思いながらもつくろい切れないまま、扉に手を掛ける。


「失礼します」


 我ながら硬い声だと、イリスは思った。けれどやっぱり繕う事が出来るほどの余裕はない。……それでも逃げる訳には行かなかった。今日まで逃げた結果がこの事態なのだから。時間が解決してくれる、なんて都合の良い事は起きなかった。


 視線を上げるとラルフは剣をいている所だった。そういえば今日の武術訓練は剣技だったな、とイリスは思い出した。ラルフも教官の一人なのだろう。彼の剣術は荒いながらも素晴らしい。きっと戦場で磨かれた物なのだろう、とイリスは思っていた。

 ラルフは部屋に入って来た彼女を認めて驚いた顔をした。それから準備の手を止めると彼女の方に体を向ける。


「嬢ちゃんじゃねぇか、どうした?」


 その気やすい言葉が妙に心に沁みて、彼女は言いたかった言葉を一瞬、飲み込んだ。ラルフは彼女にとって、とても良い上官だった。伯爵令嬢フォン・ゾルベルグを辞めて来たと告げたあの日以来、彼女を彼女自身イリスとして見てくれる。武術訓練の時など時に厳しい指導を受ける事もあったが、それも自分自身を見てくれていると思えて嬉しいくらいだった。そんな彼に迷惑を掛けようとしている……自分は酷く恩知らずな事をしていると、イリスは思った。

 そんな彼女の真剣な表情に気付いたのだろう。ラルフは彼女の方に椅子を向けると、どかりとその椅子に座り込んだ。視線でもう一つこの部屋にある素朴な木の椅子を示す。そんな心配りも今のイリスには辛かった。余計に言い出し辛くなる。


「何かあったか?まぁ座れ」


 その言葉に首肯だけ返して、相変わらずのろのろとした動作でイリスは示された椅子を手繰たぐり寄せ座った。こうして逃げていても何も変わらないと分かっているのに、何でもありませんと退出したくなる。まだ言うべきか悩みながらイリスは唇を噛む。


「どうした?またクリスティアンが何かやったか?」


 クリスティアンの事を直接ラルフに相談した事は無いのに、それも把握してるらしい。それでも今までそっとして置いてくれたのだと、イリスは溜息をついた。そんな心遣いに「何でもありません」と立ち上がって退出したくなる。きっとそうすればラルフの心労が増える事は無い。けれど、変わりにこの胸の中のもやもやとした物は膨れ上がるだろう。どちらを取るべきか散々悩んで……彼女は結局、重い口を開いた。


「私は、いつになれば出陣できるのでしょうか?」


 逃げ出したい自分を押し殺しながら、イリスは尋ねる。ラルフの反応が怖くて視線を上げる事が出来なかった。本来ならば、もう出陣の命令が出てもおかしくはない時期だ。イリスは武術訓練ではそれなりの成績を上げていたし、神聖術も及第点はとっていた。それなのに未だに出陣できないのは、伯爵令嬢フォン・ゾルベルグだと見なされている所為ではないだろうか……と彼女は思っていた。……あるいは父の命令か。どれだけ彼女が否定しても無駄なのだと、そんな諦めにも似た感情が胸中を支配する。そんなイリスの耳にラルフが小さく息を飲むのが聞こえた。


「それは……嬢ちゃんは、出陣したいのか?」

「もちろんです!」


 躊躇ためうように聞くラルフに、イリスは反射的に強く頷き顔を上げる。そんなイリスにラルフは困惑した顔をした。それから何か思案するような顔をして、次に真剣な表情になる。強い眼差しが彼女を射た。


「嬢ちゃんには戦場に立つ覚悟があるか?」

「もちろんです」


 何を今更と思う。その覚悟をして……戦う為に彼女は剣を手にしたのだ。神聖術の印を身に刻んだのだ。彼女以外の聖騎士だって同じ覚悟をしたはずだ。それなのに何を今更、問う事が有るのだろう、と疑念を持ちながらも彼女は頷く。そんな彼女にラルフは溜息をついた。


「判った。上に確認してから追って指示を出す。今以上に訓練に励み指示を待て、ゾルベルグ聖騎士」

「はいっ」


 瞳に明るい光を宿すイリスとは対照的にラルフは苦い目をしていた。けれどそれに気付かないまま彼女は立ち上がり、腰を折る。


「ありがとうございます、ラルフ中隊長」


 さらりと黒く長い髪が宙を踊った。来た時とは打って変わって明るい表情で部屋を出て行くイリスをラルフはいつまでも苦い色をした瞳のまま見送った。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ