第六話
ラルフの部屋を出て階段を降り廊下を進む。しばらくするとイリスとクリスティアンはエントランスに出た。昨日の出来事を思い出しイリスは少し眉を顰める。そんなイリスを一瞥してクリスティアンは入り口の正面にある大階段に挟まれた扉に手を掛けた。
扉の先にはエントランスよりも更に広々とした空間があった。大広間と言われても遜色ないその部屋に木で作られた長机と長椅子が整然と並べられている。ここが食堂なのだろう。イリスが食堂を見渡すと、聖騎士達が思い思いの場所で食事を摂っていた。
扉が開かれた事に反応したのは数人だ。その数人が唖然とした表情でイリスとクリスティアンを見る。ざわざわとした騒がしい空気がその場所だけしんと静まり返る。それから、それが周囲に伝播した。数人だった視線が増え、食堂に居る者全てが自分を見ているような、そんな気分にイリスはなった。食堂が静けさを帯びる。
「姫様、クリス……」
その雰囲気を壊したのはルーカスだった。彼は立ち上がり二人の元へ早足で歩み寄る。困ったような微笑みを浮かべながらも、その目はどうしてここへ来たのかと問うていた。こんなに人目を集めるとは思わなかったと、そんな言い訳は聞いてもらえないだろうと、イリスは溜息を飲み込み視線を逸らした。
そんな彼女を咎めるように見て、ルーカスが溜息をつく。それからクリスティアンに視線を移して口を開いた。
「場所を変えましょう」
そう行って2人を先導するようにルーカスが歩き出す。そして入って来た大きな扉の横にある少し小振りな扉を開けた。その先は先ほど彼女達が通った廊下だった。都合の良い事に人影はない……今ほとんどの聖騎士達は多分、あの食堂に集まって朝食を楽しんでいるのだろう。それはつまり、殆どの者に先ほどの出来事を見られていたのだと気付いて、イリスは嘆息した。悪い噂が立たなければいいと祈る事しか、もう彼女には出来なかった。
「それで、どうされたのです?」
食堂に行った事を咎めるような響きを持った声にイリスは俯く。クリスティアンは不機嫌そうにルーカスとイリスを見ていた。巻き込むなとその目は語っているようにイリスには見えたが、それでも口を挟む気は無いようだ。イリスは意を決して視線を上げ、ルーカスの瞳を見ながら口を開く。
「昨日は迷惑を掛けてしまったでしょう?それで謝りたくて……」
その結果、また助けられてしまった……とイリスの言葉は尻窄みになっていく。クリスティアンが片眉を上げて意外そうに彼女を見つめている。普段の彼女ならクリスティアンへと何か言い返す場面だが、そんな余裕は今の彼女にはなかった。
怒るだろうか、嫌われるだろうか……もう貴女には着いていけませんと、あの日ゾルベルグ城を去った時のように見限られてしまうだろうか。恐怖に顔色を青くして項垂れるイリスの耳に、ルーカスの優しい声が届いた。
「それで、わざわざ食堂までお越し下さったのですか?」
そこに嫌味な響きは無く、お説教が始まる気配もない。顔を上げるとルーカスが微笑んでいた。少しだけ疑問に思いながらもイリスが頷くと、ルーカスの笑顔は深まった。本当に嬉しい時の顔だとイリスには分かって、肩の力を抜く。すると冷たい目をしたクリスティアンがハッと酷薄に口角を上げた。
「俺は食堂に戻る」
不機嫌な声で宣言して、そのまま振り返る事もなく食堂への扉を開け立ち去る。訳の分からない男だとイリスは眉を顰めて、その背中を見送った。ルーカスはというと、困ったような光を瞳に宿して苦笑のような表情を浮かべていた。けれど直ぐにその表情を消すと、微笑みながらイリスに向き直る。
「昨日はごめんなさい……」
「……本当に、姫様はもう少し御身を大切にして下さらないと」
部屋を奪った事ではなく、昨夜の無謀についてのお説教を始めるルーカスにイリスは慌てて口を開く。
「そっちじゃなくてっ……」
「分かっておりますよ。けれど部屋の事ならば気にされることはございません。むしろ、きちんとしたお部屋をご準備出来ず、申し訳なく思っております」
クスリと悪戯に笑ってルーカスは頷き、それから笑みを消して頭を下げる。そんな彼にイリスは相変わらずだと少し懐かしく思いながらも苦笑した。私がお願いしたから、と言うと堂々巡りになってしまうだろう。イリスは何か別の話題をと探し、先ほどのクリスティアンへの疑問を思い出す。
「そういえば、クリスティアンってロイス男爵家の者なの?」
「その所縁ではあるようですが……突然どうされたのです?」
「……少し気になっただけ」
何故気になったかを説明すると、またルーカスのお説教が始まりそうでイリスは曖昧に笑って誤魔化した。それからクリスティアンの流れるような動作と仮面のような笑みを思い出す。
(所縁ね?)
所縁ぐらいであの様な動作が出来るものだろうか? イリスの疑問は深まるばかりだった。