第五話
柔らかな朝日が差し込む廊下をイリスは歩く。隣には彼女をエスコートするクリスティアンが貴族然とした微笑みを浮かべたまま堂々と歩いていた。朝早い為か、他の聖騎士達とすれ違う事は無かった。運がいいとイリスは胸を撫で下ろす。初日からこんな光景を見られた日には悪い噂が立つかもしれない。我儘な令嬢が初日から我を通した。そんな噂ならまだいいが、クリスティアンと親密だとでも噂された日には……城に逃げ帰りたい気持ちになるだろうとイリスは思った。苦々しい胸中を見せない澄ました令嬢の笑顔を貼り付けたまま。胸中を伺わせない優雅な足取りで彼女は歩を進める。
(それにしてもロイス、ね……)
昨日クリスティアンが名乗った家名を思い出す。直ぐに思い浮かんだのはロイス男爵家だ。男爵家ならば<フォン>を名乗ることは無いし、跡継ぎである長男でもない限り聖騎士となるのも頷ける。けれど先程の流れるような動作がイリスの中で引っ掛かっていた。
イリスは引っ掛かった物を取り除く為にロイス男爵家について思い出そうとした。けれど生憎、家名と爵位以上の先の事は思い出せなかった。まだ子爵家以上ならばある程度家族構成なども頭に入っているのだが、深い関わりもない男爵家の事となるとお手上げだった。本人に聞くのも躊躇われる。……また先程のように、からかわれるのは御免だった。
(となると……ルーカスに聞くしかないかしら)
昨日の様子からして仲も良さそうだし、とイリスがそんな思考を巡らせている間に、クリスティアンが一つの扉の前で足を止める。その扉をノックしてから「入れ」という返事と共に扉に手を掛けた。その声がルーカス以外の声だったのでイリスは慌ててクリスティアンから手を離す。クリスティアンは既に仮面のような笑みを消していた。そしてイリスを一瞥してから扉を開けた。
「クリスじゃねぇか? なんだ、そのお嬢さんは?」
中には一人の男が居た。年は30代後半位だろうか。茶色い髪に同色の瞳という貴族以外によく見られる色を持った、どこか荒々しい雰囲気を持つ男だ。聖騎士と言うよりは兵士や傭兵と言われた方が納得出来るだろう、とイリスはそんな印象を持った。
「隊長が言ってたイリス・ヘレーナ・フォン・ゾルベルグ伯爵令嬢ですよ」
「は?姫さんなら今朝到着予定だろうが……」
そう言って男はまじまじとイリスを見た。日焼けを知らない白い肌と手入れの届いた長い黒髪。朝日の下でようやく青味がかっている事が分かる濃紺の瞳。それを見て嘆息し苦々しい表情を浮かべる。
「……失礼致しました。ラルフ・バスラーです、中隊長の任を拝命しております」
ピシリと敬礼して見せるラルフにイリスは困惑の表情を見せる。貴族への不敬罪は死罪となる事もある。たぶんそれが彼の態度の理由なのだろうと理解しながらも、イリスは釈然としなかった。自分がどれ程貴族を捨てたのだと言っても彼らの耳には届かないのではないかと、そんな疑念が頭を擡げる。
「イリス・ゾルベルグです。ゾルベルグ所縁ではありますが、伯爵令嬢は辞めて参りました。ですので、どうか唯の一兵卒として扱って頂けませんか」
それでも何も言わなければ届く事なんて一つも無い。そう思い直して俯きかけていた顔をイリスは上げた。胸にかかった青いペンダントに右手が触れる。その感触に勇気付けられて、イリスは強い視線でラルフを見た。すると彼の表情が一瞬困惑に染まり、それから苦笑に変わった。
「ま、こんな可愛い嬢ちゃんの言葉じゃ嫌とは言えねぇわな……よろしくな、ゾルベルグ聖騎士」
その言葉にイリスは一瞬、耳を疑う。そんなに都合良く行くはずがないと心の声がする。きっと、聞き間違いだ。けれどラルフの笑顔と差し出された手が、聞き間違いでは無いと彼女に知らせた。
イリスの顔に笑顔が咲いた。先程までの作り物の笑みとは違い、周囲までも温かい気持ちにさせる。普段の彼女の強い美貌を、とても優しい物に見せる。そんな柔らかな笑みだった。その笑顔にラルフとクリスティアンが息を飲む。イリスがそれに気付く前にラルフは誤魔化すように口を開いた。
「で、何の用だ?」
「あ、えっと……ルーカス・アルノルト聖騎士の居場所をご存知ではありませんか?」
「さっきまでこの部屋に居たが……もうすぐ飯の時間だし、食堂辺りじゃねぇか?」
やっぱり見張りの交代は有ったのだ、と知ってイリスは少し眉を顰めた。それから、またルーカスに迷惑を掛けてしまったと自己嫌悪する。けれど彼女はその気持ちに、ひとまず蓋をした。反省は一人の時にすればいい。
(今、私がしないといけないのは反省でも自己嫌悪でも無い)
「予定が少し早まって、昨日の夜こちらに着いたのです。夜も遅かったのでルーカス聖騎士の部屋を借りました。中隊長にもご迷惑をお掛けして申し訳ありません。けれど、どうか罰は私にお願いします」
イリスはルーカスが中隊長の部屋を訪れた理由を正直に告げた。全て自分が悪いのだと、そう言う彼女は先程までと打って変わって沈痛な面持ちをしていた。そんな彼女の纏う深刻な雰囲気を壊したのはラルフのからりとした笑い声だった。
「んな大した事はしてねぇし、誰かを罰するつもりもねぇよ。嬢ちゃんは、ちょっとばかり堅く考えすぎだ」
その言葉にイリスが肩から力を抜くとラルフがまた、からりと笑った。「お前らも飯でも食べてこい」そう言うラルフに頷いて、イリスは部屋を後にした。