第一話
石畳の上を軽快に馬車が駆ける。穏やかな品の良い御者が、よく手入れのされた白い馬を走らせていた。その馬が引く豪奢な車の中には、一人の令嬢がゆったりと腰掛けている。
彼女の名はイリス・ヘレーナ・フォン・ゾルベルグ。ヴァルシュタイン王国でも有数の貴族、ゾルベルグ伯爵家の令嬢である。質のいい生地で作られた、けれども貴族としては質素過ぎるほどシンプルな濃紺のドレスは、彼女の瞳の色に合わせて作られた物だ。そのドレスは彼女の清廉な美しさをよく引き立てていた。
伴と呼べるのは御者一人。荷物はイリスの背丈の半分ほどもない皮鞄だけだった。貴族の令嬢である彼女の旅には極めて異例の事だ。何度か家族で旅をした時ですら、こんな事はなかった。そんな状況に少しだけ不安を感じて、イリスは腰を上げ窓から背後に消えて行く生家ゾルベルグ城を見た。
春の柔らかな日差しを浴びて輝く白い城壁。それに相対して存在感を放つ黒々とした屋根。その城を目に焼き付けるかのようにイリスは見つめる。数秒、そんな時間を過ごしてから、彼女は一つ溜息をつくと柔らかな座席へと座り直した。くしゃりとよく手入れのされた長い黒髪を左手で掻き乱す。
(……自分で決めた事だもの)
もう一度溜息を零して、彼女はゾルベルグ城を振り返った。二度と戻ることのない生家を目に焼き付ける。ふと母と弟の顔が脳裏を過ぎった。それを振り切るかのように、目を閉じてゆっくりと頭を振る。彼女を乗せた馬車がゆっくりと城から離れて行く。
今ならまだ間に合うと、ふと、そんな考えが彼女の頭に浮かんだ。父に謝れば、恐らく許してくれるだろう。彼女が決めた我儘を受け入れた時のように。母も多分、喜ぶだろうし、弟も穏やかに受け入れてくれるだろう。『姉上は本当に無茶なさる』と母に良く似た紫水晶のような瞳を微かに潤ませて。そして平穏な伯爵令嬢としての日々を送るのだ。誰かに嫁いで子を産んで、穏やかに年を重ねていく。ほんの少しだけ、そんな日々もいいかもしれない、と思ったこともあった。
(……自分で決めた、事だもの)
幻想を振り切るように、きつく目を閉じて緩く頭を振る。そして彼女は目を開いて、絹で出来た手袋を取った。絹で隠されていた白く艶やかな手が現れる。伯爵令嬢に相応しいその手の甲には、けれど似つかわしくない白い刻印が刻まれていた。それを見てイリスは目を和ませる。それは彼女の決意の証……聖印だった。ドレスを捨て、安寧を捨て、家族を捨ててまで、彼女が選んだ道の証だった。
車外は緩やかに風景を変え、ゾルベルグ城を遠くの景色にしていく。ゾルベルグ領の栄えた街並みが穏やかな田舎の村の景色に取って代わる。それは、ある地点から再び活気を取り戻す。王領に入った気配とどこか見覚えのある風景にイリスは目を輝かせて魅入った。
そうしてゾルベルグ城を発って4日ほど経過したある日、遠くに青い屋根を持つ城が現れた。それを目に止めて、イリスは懐かしさに目を和ませる。彼女はそう遠くない昔に、その城を訪れたことがあった。少し赤みがかった土色の壁が懐かしく、温かく彼女の目に映った。
イリスにとっては遠い過去を思い出しながら、彼女は一人微笑んだ。少し寂しそうなその微笑みは、誰に見られることもなく消える。同時に目に宿っていた切ない光も消えた。代わりに決意が濃紺の双眸を燃やす。
(……やっと)
やっと、ここまで来たのだと、彼女はしみじみと思った。日数にしてたった4日……その短い日々がとても長く感じられた。後2日ほどで王都に着くだろうと教えてくれた御者の言葉を思い出す。後2日……それがなんと長く感じられることか。
(でも、あと少しで……)
あの城に程近い場所へ行ける。それは伯爵令嬢のイリスでは叶わなかったはずの場所だ。彼女が全てを捨ててまで渇望した場所だ。彼女は手の甲の刻印を見る。聖印……聖騎士の資格を持つ、その証。
ゆっくりと車内で王城へと刻印を持つ手を伸ばす。早く、早くと焦燥感が彼女の身を焼いていた。そんな彼女の思いに応えるかの様に御者は馬車のスピードを上げて行く。白馬に引かれた車が王都へと疾走する。
2日もかけずに馬車は王都の目前まで辿り着いていた。暗闇の中、誰に見守られることもなくひっそりと王都へ入る。御者は王都へ入る頃から馬を疾走から落ち着いた走りに切り替える。そして、王城に程近い場所にある建物をゆっくりと目指した。
王都をしばらく駆けると暗闇に王城と似た建築様式の建物が薄く見えた。昼間に見たなら、王城と同じ色の壁と屋根をはっきり見る事が出来たのに、と少しイリスは残念に思う。けれど直ぐに、その思いを自分で否定した。これから、いくらでも見る機会はあるだろう……自分は今日から、ここに住むのだから、と。
馬車は静かに、その建物の前で止まる。そこはイリスの目的地である聖騎士の宿舎だった。御者が車の扉をイリスの為に恭しく開けてくれた。彼女は優雅な立ち振る舞いで馬車を降りて、御者への礼と別れの言葉を口にした。
「ありがとう……今まで本当に。どうか元気でね」
「勿体無い御言葉でございます。どうぞ姫様もご息災であられますよう」
「ありがとう。……じゃあ、行くわ」
深々と腰を折る御者に別れを告げ、彼女は聖騎士の宿舎へと消えていく。御者は何時までも彼女の後ろ姿を名残惜しそうに見守り続けていた。
ーー王国歴429年。
後の世に《剣の姫》という名と共に語り継がれる事となるイリス・ヘレーナ・フォン・ゾルベルグはひっそりと聖騎士の宿舎へと入った。彼女が17歳の春の事だった。
更新予定は活動報告にてさせて頂いてますm(_ _)m