魔術師の弟子
まず、混沌がある。
無限の広がりを持つ黒い海と説明されることもあるが、混沌には光も余計な次元も無いのでこれはあくまで例えでしかない。
混沌の中心に円形の海がある。魚や水竜が棲む、生きた海だ。
広大な――といっても無限の混沌と比べればちっぽけなものだが――その海の中央に、三つの大陸と無数の島々から成る大地、我々の知る大地がある。
天は星々の輝く天蓋に覆われ、その天蓋は北極星を中心にゆっくりと回転している。
天蓋の内側では太陽と二つの月と四つの惑星(占星術では太陽と月も惑星に含まれるが)が巡っている。太陽と月はそれぞれの軌道を概ね一定の速度で動くが、惑星はときに無作為とも思える動きをする――惑い星、という呼び名の由来である。
――と、これが現在広く知られている我々の〝世界〟の姿だ。
創世の時代、神々が如何にして虚空から力と物質を汲み出し、如何なる理由から今の形で天と地を創りたもうたか、は神話に語られている。ので、ここでは語らない。それは聖職者たちの役目だ。
我々魔術師は過去よりも現在と未来にこそ重きを置く。
ところで。最近、師匠が妙なことを言い出した。
世界が丸い――球体である、というのである。
●
別に何の脈絡もなく妄言を吐き始めたわけではない。そういう説を唱えている賢者がいる、という話を又聞きに聞いてきたのだそうだ。
「丸いってのは……端まで行くと大地が斜めになっている、ということですか?」
玉の上の面に大陸が載っている様を想像した。中央は玉の中心点に対して垂直なので問題ないだろうが、そこから離れるほど玉の丸みに沿って大地が曲がっていくことになる。
「ふむ、どうじゃろうな。若い時分にあちこち周って、大陸の北端だの東端だのを訪れたこともあるが、とりたてて斜めだった記憶は無い」
師匠は少し考えこんでから、
「例えば……その球体が十分な大きさを持っておって、大陸の全てが限りなく中央に寄っておれば、球の曲面は平面と殆ど同じになるじゃろうかな」
「であれば随分大きいことになりますね、その……〝世界球〟でしたっけ?」
「うむ、件の賢者はそう呼んでおるらしいの」
ちょっと想像が付かない。
「そもそも何で丸いとか言い出したんですか?」
「月蝕の仕組みを研究していて出てきた仮説なんだそうじゃ。世界が丸く、その影が月に映っておるというんじゃな」
「……また随分突拍子もないですね」
勘違いして欲しくないのだが、突拍子もないというだけで頭ごなしに否定するつもりはない。それは自分で考えることをせずに人から言われたことを鵜呑みにするのと同じぐらいの悪徳だ、と師匠に言われたこともある。全くその通りだと思ったので「判りました」と即答したら「だから考えずに鵜呑みにするんじゃない」と叱られたが。
常識的に考えて、大地は平らだというほうが自然であるように思える。神話の記述からもそう読み取れる。だがそれを天蓋の外から見たことがあるわけでも、〝平らであることの証明〟がされたわけでもない。
もしも〝世界が球形である〟ことの明確な証左があるのならば、反証無しにそれを否定するのは魔術師の流儀ではない。
師匠は件の賢者の論文を取り寄せる手配をしたとのことなので、いずれまた話を聞かせて貰うとしよう。
●
「さて……」
私はいつものように地下室の床に召喚円を描くと、描き損じなどないか繰り返し確認した。
魔術師と一口に言っても色々あるが、私の専門は〝悪魔使い〟だ。我々の住む世界とは異なる次元界にあるという〈魔界〉から悪魔を召喚し、使役する――と言うと一般人からは恐れられ寺院からは警戒され冒険者はおもむろに討伐しようとしてくるのであまり公言しないようにしているが。
使役と言っても永遠の命を得るために無辜の民を夜な夜な生贄に捧げるわけでも国を滅ぼして一〇〇〇年の間その土地に草木一本生えなくなる呪いを掛けるとかいったことをするわけでもない。出来なくもないだろうが代価が大きすぎる。結界の中で簡単な術を使って貰ったり知恵を借りたりする程度だ。
術の具体的な手順をここで述べても仕方がないし、また述べるべきでもない。符を焼いて香を焚き印を組んで呪文を唱え――と、まあよくある感じだ。対象となる悪魔の〝真の名〟を媒介に現世と〈魔界〉とを繋ぐ門を開く。召喚円を結界として設定、外部の情報を取り入れることは出来るが外への干渉は認めない。結界の内外を相互に行き来して良いのは会話に必要な音と光だけだ。
黒い炎の渦が召喚円の内側で燃え上がり、それが消えたあとに悪魔が現れた。身長二メートル半。赤黒い装甲のような皮膚。二対四本の腕をそれぞれ胸の前で組み、背中には大きな翼がある。
閉じられていた目がゆっくりと開く。禍々しい輝きを放つ緑の瞳がこちらを見据え――
「うっス」
腕を一本だけ上げて気楽に挨拶してきた。
が、私は迂闊には応えない。毅然とした態度を崩してはいけない。真の名を抑えたことでこの悪魔は直接私に危害を加えることは出来ないが、言葉巧みに私に取り入り術の綻びを突いて来ることは出来る。そしてそれは術では防げない。
私が黙ったままなのを見て悪魔は小さく肩をすくめ、独自の韻律を伴った口調で言った。
「――相変わらず愛想がないな定命の者よ。して、如何なる用向きにて我を呼び出した?」
「いつも通りだよ。今日は失せ物探しが八件に、失せ人が二人」
「定命の者よ汝が望むならば失せ物はこの場に呼び寄せることも出来るが如何する? 失せ人は何者か、科人であるなら直に滅びを与えることも出来るが如何する?」
「必要無い。どちらも直接探しに行くのは私じゃない。場所だけ判れば十分だ」
「定命の者よ今なら代価据え置きであるが」
「いらんつーに。だいたいそれやろうとしたら結界の術式組み替えて外部に干渉出来るようにしなきゃならないだろ。絶対にやらないぞ」
悪魔は小さく嘆息を漏らすと、ようやく仕事に入る気になったらしい。
「汝の求めし最初の失せ物について述べよ定命の者よ」
終わったのは小一時間ほど後のことだった。
失せ物や失せ人。これらは師匠を通して各所から受けてきた依頼なのだが、具体的には述べない。依頼者が貴族だとか高位の聖職者だとかであると言えば察して貰えるだろうか。それ失くした時点でまずいだろう、というものもいくつかある。公に出来ず、第三者に知られる可能性も限りなく小さくしたい、そういったものであるが故にわざわざ悪魔使いの所へ依頼が来ることになる。実際に探しに行くのはおそらく詳細を伏せて雇われた冒険者などになるのだろう。
これぐらいの仕事だと悪魔へ支払う代価は銀貨(貨幣としての価値があるわけではないと思う)や動物の血肉といったものだ。一般には魂というのが相場だが実際はそんなものは求められない。そもそも魂なるものは本当に存在するのだろうか。
失せ物と失せ人の在処を書き留めた羊皮紙を確認しつつ、〈魔界〉へ還った悪魔にふと思いを馳せる。というか主に〈魔界〉に。
〈魔界〉は、我々の住む現世と対になる悪魔たちの世界だ。そこでは全てが逆になっているという。現世が昼のとき〈魔界〉は夜であり、〈魔界〉が夏のとき現世は冬となる。
〈魔界〉を訪れることは物理的には可能だ。悪魔を召喚するのと同じ要領で門を開き、そこを通れば良い。だが命の保証はない。悪魔は本質的に我々よりずっと強力な存在であり、〈魔界〉においては現世に召喚されたときのような結界による能力の制限も無い。
もし結界の力などなくとも悪魔たちと対等に渡り合える力を私が得ることが出来たならば――一度訪れてみたいとは思う。
●
「ふうむ」
届いた〝世界球体説〟に関する資料を眺めながら師匠が何やら唸っている。
「どうですか師匠」
「そうじゃな、論文というよりもまだまだ仮説だらけの草稿段階のようじゃが、なかなかに面白い」
羊皮紙の束をいくつか手に取り、適当にめくってみる。
月蝕時の太陽と月と世界球の相互位置を現した模式図は、太陽と月がほぼ同じ大きさで同じ距離にあるものや、太陽がずっと大きくずっと遠くにあるものなど、幾種類かが添えられていた。
北極星は回転する天蓋の中心にあって常に北の方角を示すことが知られているが、その高度が見る土地によって異なるという予測もあった。これは観測隊を組織中だそうだ。
他にも色々と仮説や推測や観測の結果待ちの事柄が連ねられている。読んだだけで成否が判断出来るほど天文学や地理学、或いは幾何学に詳しいわけではないが、明確な矛盾を指摘出来るような部分は見つからなかった。
ふと、師匠が言った。
「面白いが、しかし……」
「しかし?」
「うむ。これは寺院が黙っておらんかも知れんなあ、と」
「寺院が?」
私は眉をひそめた。何故ここで寺院が出て来る?
「ここで書かれている内容は神話が語っているそれといくつもの点でつじつまが合わん。仮にこれらが事実であったならば、寺院の教えがそうではなかったということになるのじゃ」
「それは……しかしそれが観測と考察の結果事実であるならば、認めるしかないのではないですか?」
「それは魔術師の考え方じゃ。わしらは確かに認めることが出来るかも知れん。じゃが市井の人々はそう簡単にも行くまい。彼らに教えを広める立場にある寺院もな」
「…………」
そうだろうか、と考え、
「……あー」
そうかも知れない、という気がしてきた。
寺院は人々に教えを広める。それは正しい唯一絶対の真実を彼らが知っているという前提に依るものだ。
我々魔術師や賢者はそうではない。我々は世界について知ろうとしている。より新しくより正しい知識を常に求めている。我々が確信を持って言える唯一のことは、我々は世界について何も知らないということだけなのだ。
●
「え、世界が丸い? 何で?」
紅茶を飲む手を止めて友人が言った。彼女は大地母神を祀る寺院で修行中の司祭見習いで、魔術師の弟子である私とは似ていて且つ真逆という何とも言い難い関係にある。年齢が近く付き合いは長い。
小さな村の茶店である。師匠の使いでしばしばこうして人里まで出て来ることがあるのだが、今日は偶然同じように寺院の使いで来ていた彼女と会ったので、こうしてサボりクレつつ件の世界球体説について話を振ってみたのだが、
「何で、ってそう返されるとは思わなんだ。今のところはそういう説を唱えている賢者がいるらしい、ってだけなんだが。そういう話を聞いて聖職者としてはどう思うかってのを聞いてみたいんだ」
「どうって……違うよ、としか言いようが無いけど」
司祭見習いとしては確かにそうだろう。
私はどう言えば私の言いたいことが通じるだろうかと考えつつ、
「その賢者は観測や計算からそれなりの論拠を持っているらしい。今はまだ仮説の段階に過ぎないようだが、ある程度の確信に至れば大きく発表するだろう。それが仮に十分納得のいくものだったとして、しかし神話で語られている内容とは違うって話になるわけで、そのとき聖職者たちはどう反応するだろう?」
「うーん……」
彼女はしばらく考え込み、やがて言った。
「たぶん、あなたが心配してるほど大事にはならないと思う」
「そうか?」
「ええとね、これはあんま大きな声で言って欲しくないんだけど」ここで一度言葉を区切り、「神話の内容って杓子定規に解釈し過ぎてもしょうがないってとこがあるんだよね」
「って言うと……」
「けっこー細かいとこで矛盾があったりすんの」
「矛盾」
そう言えば……師匠の知り合いだという神学者に教えを乞うていたことがあるのだが、似たようなことを言っていた。
「世界が丸かったとして、まあそれならそれで適当にこじつけて受け入れるんじゃないかな。どうしても平らじゃないと駄目ってわけでもないし。それこそ〝太陽が世界の周りを廻っているのではなく世界が太陽の周りを廻っているのだ〟ぐらいのこと言い出さないとそんなにインパクト無いと思うよ」
そういうものか。なんだか肩すかしを食らった気分だ。もちろんこれは一司祭見習いの見解だというだけで、もっと違う考えの者が上の方にいればまた違ってくるだろうが。
「そんなことより悪魔の話しようぜ悪魔」
「……そっちのがよっぽど大きな声でしちゃだめな話だろう司祭見習い」
彼女は最近悪魔や〈魔界〉に興味を持っている。もちろん悪魔信仰などというわけではなく、子供が冒険者に憧れるような純粋な興味だとは思うが。多分。
仮にも聖職者が本当に大丈夫なのかは判らない。私と――悪魔使いを専門とする魔術師の弟子と友人づきあいをするのも、面と向かってどうこう言われたことはないが寺院ではあまり良く思われていない筈だ。
「いーからいーから。ええと、こないだ言ってた話。〈魔界〉はこっちと昼夜が逆だって」
「ああ。だから彼らを呼ぶのは主にこちらが夜の時になる」
悪魔は夜に活動する、と言われるが誤解だ。彼らも〈魔界〉では昼間に活動し夜眠る。
「〈魔界〉では真夜中のあとに明け方が来て朝になって真昼になるの?」
「……難しいこと言うな。そんな妙ちきりんな〝逆〟じゃあない。順番は普通だよ。こっちが昼間のとき向こうは真夜中で、向こうの夜が明ける頃こちらで陽が沈む。向こうの太陽とこちらの太陽の位置がちょうど半日ぶんずれている――どっちが早くてどっちが遅いのかは知らんが――と考えれば良いんじゃないか」
「なるほど。不思議だねえ」
「まあ別の次元界にあるそうだからな」
何気なく言うと、彼女はふと眉をひそめた。
「んー、それって逆じゃない? それこそ」
「逆?」
「別の次元界とやらにあるならこっちと連動してる方が不自然なんじゃないかな。まあ絶対に無いとは言わないけど、例えば神様や精霊の世界に迷い込んだ人の伝説なんかだと、向こうで数日過ごす間にこっちでは何年も何百年も経ってた、とか定番だよ?」
神々が住まうとされる〈神界〉や精霊たちの世界である〈精霊界〉は、〈魔界〉と同じくこの世界と重なりながらも別の次元界にあるとされる世界だ。
これらのうち我々魔術師に馴染みがあるのは――私が悪魔使い専門であることを差し引いても――〈魔界〉で、悪魔をこちらに召喚したり逆に向こうを訪れたりといったことは技術として確立している。対し、神や精霊には制御された状態で直接干渉出来たという報告例は皆無だ。その力や法則のみを間接的に引き出すしかない。
〈神界〉や〈精霊界〉はもっと観念的な存在で、〈魔界〉がそうであるような意味では実在していない、という学説もある。
「まあ、そうだな」
我々の世界と対であり真逆の世界である〈魔界〉は、しかしそれ故に我々の世界と近しいとも言える。
我々の世界で陽が昇るとき、〈魔界〉では陽が沈む。向こうが真夜中の間に我々の世界は陽に照らされている。それが沈むとき向こうに朝が訪れる。
それらの太陽は――果たして別の太陽なのだろうか……?
と、ふと私の内で何かが何処かにはまる感触があった。
「――――」
見れば、友人も何やら神妙な顔つきをしている。
私はお茶請けのプラムを手に取った。丸い果実を顔の高さに掲げる。
思いついたことをどうにか言葉にまとめながら、
「これを、世界球だとする。我々はこの辺りに住んでいる」
もう片方の手の指でプラムの上面を指さしてから、その指を上に上げていく。
「昼間、太陽はこの位置から世界を照らしている」
「時間が経つと太陽は沈んでいって、夕暮れが、やがて夜が訪れる」
彼女の言葉にあわせて太陽の位置を示す指を下面へ、プラムを迂回するように回りこませていく。
やがて下面に達した指を見ながら私は言う。
「真夜中。そのとき太陽はどこを照らしている……?」
指はそのままプラムの周りを一周し、元の位置、プラムの上に戻った。
今、私は太陽の動きを世界球に対し垂直な円として示したが、実際にはやや南側に傾いている。その最高値――南中高度は常に一定ではない。それが最大のとき、太陽が世界を照らす時間は長くなり、夏となる。逆のとき、冬となる。
それは、
「太陽の軌道の中心点が世界球のそれに対して常に一致はせず、周期的に高くなったり低くなったりしているということだ」
そして、
「〈魔界〉は……昼夜だけでなく季節も逆だ」
そのように聞いた。悪魔も言っていた。召喚の術を覚えて間もない頃、なんとなく確認してみた(代価として間食用に持ち込んでいた焼き菓子を要求された)。
軌道の中心点が世界球の中心点より高く、南中高度が最大で、真夏のとき、逆に、その場所にとっての南中高度――〝北〟中高度?――が最低に、真冬になるのはどこだ?
太陽を模してプラムの周囲をくるくると廻っていた指が、ある一点を、プラムの下面を下から指し示して停まる。
「ということは……!」
「そう、〈魔界〉が〝ここ〟にあるのだとすれば……!」
●
「〈魔界〉は昼夜や季節のみならず天地もここと逆であり、〈魔界〉の住人は天井にぶら下がって生活している……!」
「そんなわけがあってたまるか定命の者よ」
友人と二人で至った結論はにべもなく否定された。即答。容赦なし。色々と盛り上がっていたものも沈んでいく。
あれから何日か経ったあとのことだ。依頼が溜まってきたのでまた悪魔を呼び出し、いつものように仕事を終えたあと、ふと思い出して聞いてみた。
「……思いついたときはすごい思いつきだって思ったんだがな」
「汝らは面白いことを考える定命の者よ」
悪魔が、こころなしか笑っているような、或いは呆れているような口調で言った。相変わらず彼らの感情(と呼べるものがあったとして)は読みにくいが。
悪魔が言った。
「〈魔界〉に興味があるのならば定命の者よ汝が取るべき道は一つだ訪れよ〈魔界〉を可能であろう汝ならば」
それは確かに常々考えているが、
「行くだけなら行けるだろうが、身を守る手段が無い」
やや苦笑気味に言うと、それに対する悪魔の応えは意外なものだった。
「ならば我が守ろう」
「守る? 〈魔界〉で悪魔に守って貰うなんてどれだけの代価が必要になるか」
「代価など求めぬ」
「……?」
悪魔は真っ直ぐにこちらを見据えている。
私は静かに問い返す。
「何で」
「汝は強き力を持ちまたそれ以上に契約を正しく遂行する良き術者だ定命の者よ」
その緑の瞳は深い輝きを湛えている。
「我は汝と契約以上の繋がりを持ちたいと希望している」
頭の中で警鐘が鳴り響き、私は半ば反射的に叫んでいた。
「シャットダウン!」
コマンドワードに応じ、予め緊急用に組んであった一連の術式が展開する。
召喚円が赤い輝きを放ち、境界神の名を刻んだ三重結界符が部屋を封鎖。同時に悪魔の強制送還術式が起動する。
私は防御のために世界から霊的に遮断され、視覚や聴覚が曇硝子を通したようになった。
「私に取り入ろうとするな」
「ふむ、警戒させてしまったか」
くぐもった声で悪魔が言う。
「定命の者――我が友よ」
「私を〝定命の者〟以外の名で呼ぶな!」
名前とはその存在を定義する根源的な言葉だ。とくに真の名を知ればその相手を支配することも出来る。魔術師にとって自らのそれは最優先で秘匿されるべきものであり、私の真の名も私自身と名付け親である師匠しか知らない。
十分な力を持っていれば日常的に使っている名前でも支配の手掛かりにはなり得る。相手が悪魔ともなればその場で取ってつけたような渾名(我が友、だと?)で呼ばれることも避けるべきだ。故に〝定命の者〟以外の呼びかけは出来ないように縛っている筈だが――
「名を呼んだのではない。汝を友と思っているからそう言ったまでだ」
そう言われたからといってそうかと納得出来るものではない。結界に綻びがあったのか。知らぬ間に術式に干渉されていたのか。
最大限の警戒と共に悪魔を睨めつけ、攻撃の術をいくつか脳裏に思い浮かべる――本当に結界が破られたのならば私ではとても悪魔に太刀打ちなど出来ないが。
悪魔は黙ったまま腕を組み、静かにこちらを見ている。
そのまま――やがて送還術式が完了し、消えた。
小一時間ほど経ってようやく落ち着き、師匠を呼んで状況を報告した。
術式を――召喚円や符や香の配置を念入りに点検したが、どこにも綻びは見つからなかった。
「ふむ……」
師匠はしばらく考えこんでから、
「本心だったんじゃないかの」
「え?」
「取り入るとかそういうのでなく、その悪魔が本心からお主を気に入り、友となりたいと思っているだけ――そんなことはないかの?」
「そ……あり得るんですかそんなことが?!」
「あるとも無いとも言えん。悪魔と一口に言っても、わしらと同じじゃ。いろんな者がおる」
「…………」
「何か無いかの? その悪魔が、契約の範疇を超えてお主に何か便宜を図ってくれたとかは」
「そんなもの……」
言いかけて、ふと思った。
「代価を……求められませんでした」
「む?」
世界球体説について友人と二人で思いついた〈魔界〉の位置に関する結論、それについての問いに対し、悪魔は代価も求めず答えを返した。通常はどれだけ些細であっても悪魔がこちらの要求に対し代価無しで何かを行うことはない。一仕事終えたあとの雑談のような空気で問い、答えられたのでそのときは気にもしなかったが……
それを言うと、
「ふむ」
師匠は呟くとまた考えこみ、
「まあ、なんじゃな。術式を見直し、必要ならいくらか追加でもして、改めてまた悪魔を呼んでみることじゃな」
「また呼ぶ……良いんですか?」
呼んだ悪魔を制御出来なかったなど悪魔使いとしては失格だ。解放でもしてしまえば最悪の魔導災害にもなり得る。
「お主はきちんと緊急措置を取ったし、今のところ問題は無かろ。いずれにしろあれはもうお主の悪魔じゃ、お主が対決せねばならん」
「――はい」
私は頷いた。
* * *
面白い。悪魔は思った。
視界を覆っていた黒い炎が薄れ、見慣れた光景が見えてくる。
石造りの殺風景な部屋だ。窓の外には、晴れた空の下に草原が広がっている。
定命の者――実のところ悪魔も定命には違いないのだが――の魔術師たちが〈魔界〉と呼ぶ土地に還って来たのだ。
その土地が物理的にどこにあるか、彼らが知るまでまだ数百年は掛かると考えられていた。だがその日は思いの外早く来そうだ。
もっとも、世界が球体であることには気付きかけていても引力の概念――ものが〝下〟に落ちるとはそもそもどういうことか――にはまだ至っていない様子だが。
「ぶら下がって生活している、は良かったな」
思わず笑いが漏れる。
悪魔は呪文を唱え、空中に青い球体を投影した。球体は回転していて、その回転軸は垂直よりもやや傾いて表されている。傾きの角度は約二十三・四度。
それは現在判っている世界の姿だ。
定命の者たちにとっての全世界である三つの大陸と無数の島々は、面積としては球の表面全体のだいたい四分の一の範囲に収まっている。位置は北半球で、北極点よりやや下った辺りから赤道のすぐ上の辺りまでだ。地形は彼らが描いた世界地図をそのまま転写しているのであまり正確ではないかも知れない。
球を一八〇度回転させると、今度は南半球側に大きな一つの大陸が見える。面積は三つの大陸を合わせたのと同程度。それが〈魔界〉だ。地形はあまり調査されていないので大雑把な円で描かれている。
遥か古の時代、定命の者の魔術師が半ば偶然から最初の門を開き、彼らからすれば世界の真逆とも言えるこの土地を訪れた。考察(だけ)の末、彼はそこを異なる次元世界と考え、〈魔界〉と呼び、そしてその土地に住まう種族を〝悪魔〟と呼んだ。
時が流れ、今ではそのときの記録も失われている。〈魔界〉も悪魔も彼らの神話に取り込まれ、創世の時より今の形で在ったものとされている。
定命の者たちが航海技術を発達させれば、いずれ彼らは世界全体へ広がっていくだろう。そして遂には〈魔界〉にもやって来るだろう。〈魔界〉が異なる次元界などではなく、悪魔が長命で強靭ではあるものの世界に遍く存在する数多の種族の一つでしかないことが明らかになるときが来るだろう。
そして定命の者たちと新たな関係を結べるときが来るだろう。
そのときが来るのを、悪魔は楽しみに待っている。
(了)
Wed, 18th Mar, 2015:最後の方、三つの大陸の位置に関する記述を「位置は北半球で、北極点よりやや下った辺りから赤道のすぐ上の辺りまでだ。」→「位置は北半球、上端は北極点をやや回りこみ、下端は赤道のすぐ上の辺りまでだ。」に変更。