レゼナが咲いた日
東に聳えるトレア山の山頂から太陽が顔を出して、まだ日が昇ったばかりの早朝。町の皆は、朝の早い老人達や商店をきりもりする人達を除いては、まだ寝静まっている時間帯である。
鳥達が鳴き交わす中、町中に、軽快に駆ける足音が響いていた。
土で固められた公道を駆けてくる。年頃は十代の半ばくらいだろうか。髪は長く背中まで流して、どうやら寝間着姿の少女だった。
走っているためか頬は赤く紅潮し、そして瞳は喜びに満ちて輝いていた。いったい何が彼女の心を躍らせて急かせているのだろうか。
彼女の髪と瞳は、この地域では珍しいとされる漆黒だった。
少女は胸の前で指を握りしめて──何かを大事そうに包んでいるようにも見える──懸命に駆けていた。
やがて少女は青い屋根の一軒家にたどり着いた。
門を潜り抜け、そのまま玄関ではなく、迷うことなく庭先に入り込んだ。
庭先に張り出したポーチにそのまま飛び付く。そこで少女は、胸元の高さまであるポーチの縁に手をかけて──初めて周囲に気を配った。
素早く辺りに目線を走らせて、人がいないことを確かめる。そうしてから、ネグリジェを大胆に翻してポーチをよじ登った。
慣れた動作だった。ネグリジェの下にはいているペチコートが丸見えになってもお構い無しである。
「ユージン!」
少女は窓とカーテンが開いていることは最初から知っていた。部屋の主の名を呼びながら、遠慮なく窓から中に入り込む。玄関から入るよりも、庭先からここに来る方が一番手っ取り早かったのだ。窓とカーテンが開いているということは、部屋の主はもう起きている──そして、いつもこの時間帯には起きていることを少女は知っていた。
「ユージン!」
部屋の中に入り込むと、ネグリジェの乱れを気にすることなく、少女は再び主の名を呼んだ。
ユージンは、窓の側に据えられた黒塗りの大きな机に座っていた。
「ユージン、聞いて聞いて!」
ユージンと呼ばれた相手は、年の頃は三十代の半ばから後半ほどの男だった。緩く波打つ肩までのダークブラウンの髪を一つに結わえており、髭を生やしたガッシリとした体格の美丈夫である。
男は前髪を気だるげにかきあげながら、騒々しく飛び込んで来た少女に嘆息しつつ立ち上がった。長身だった。
「ミルフィ。ちゃんと玄関から入れと何度言えば分かる? しかも寝間着で外に出ていたのか。お前は女の子なんだぞ。もう少し……」
「待って。お説教は後で聞くわ」
ミルフィと呼ばれた少女は、ユージンの言葉を慌てて遮った。
「それよりも、ねえこれ見て!」
ミルフィはユージンに向かって右手を差し出した。潰さないように努めながら握っていた手のひらをゆっくりと開く。
青い花びらが一枚乗せられていた。
ユージンは片眉を潜めながら指先で花びらを摘まんだ。
「ほぅ。レゼナが咲いたか」
「ええやっとよ。丘の上は満開だったわ」
ユージンは瞠目して目を見開いた。
「お前、毎朝早くに出かけてたのはこのためだったのか」
「あら、バレてた?」
ミルフィは悪戯を見つかった子供のように肩を竦めてチラリと舌を出した。
「お前の脱走なぞお見通しだ」
「んもう! 脱走だなんて人聞きの悪いこと言わないで」
ミルフィはプッと脹れたが直ぐにえへへと笑顔になった。
「でも、お陰でこうしてレゼナの初咲きを見れたじゃない。私頑張って早起きしてたのよ。これで今年の幸せ者は私に決まりね!」
「いつも朝寝坊のお前が珍しいとは思ってたんだかな」
「んもう、一言多いんだから。ユージンの意地悪! 去年は種を取り損ねちゃったんだもの」
レゼナ花は青い花びらを持つ、野花だった。幸福の青い花とも呼ばれており、春の花だ。レゼナの初咲きを最初に見た者には幸福が訪れると言われていた。女性に人気の花だ。庭の花壇に植えたり鉢植えにされたりと、昔から愛でられている花である。
「頑張って早起きして通ってて良かった」
ミルフィは苦笑しているユージンから花びらを返してもらうと、上機嫌でユージンの書斎を後にした。
今年は押し花を作るつもりだった。
(どうしよう。ジャムも作りたいんだよね……)
マクベスさんに作り方教えてもらおうかなと、自室に向かって廊下を歩きながら呟く。マクベスさんは、近所に住むジャム作りが上手な婦人だった。
美味しいと近所でも評判で、本格的なお店は開いていないが、欲しいと頼まれれば安値で売っているのだ。
もちろんミルフィも何度か買ってお世話になっている。
(そうだわ。決めた。やっぱり今年はジャムと押し花で行こう!)
そう決意した時だった。玄関のチャイムが鳴ったのは。
「あれ?」
こんな早朝に誰だろうか。ミルク配達のハウエルだろうか。だが、配達は昨日来たばかりだ。
ミルク配達は二日に一度だった。
「速達の郵便屋さんかな」
首を傾げながら、はぁい、どなたですかとミルフィは玄関に向かった。
レゼナの初咲きの早朝──この日が、ミルフィにとって、運命の分かれ道になるなど、思いもせずに。