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大公  作者: ヨクイ
第6章 閑話
73/80

大公の息子

「すきありっ」

 肩のあたりを小さな棒きれで叩かれ、少年は思わずうめいた。

「こらっ。いい加減にしろよ。オレは今勉強中なのだぞ」

 少年が大きな声で振り返った時には、叩いた当の本人は、するりと部屋を出て行くところだった。

(まったく、逃げ足の速い奴だ)

 少年は苦々しく思いながら、机の上の書物と自分の描いた絵に視線を戻した。

 そして、ため息をつく。

 まだ描きかけの地図。

 一直線で無造作に描かれた線では駄目だと言われ、今再び描き直しているところだ。

 ここには港。

 ここには山脈。

 今日は書物にある、この地図を丁寧に書き写して、その国名とそれぞれの国の特徴を覚えてしまわなければならない。

 少年にはすごい肩書がある。

 この国を統括する大公――その、長男だ。

 いずれは、この国を継ぐ……そう周囲に言われて育ってきた。

 まだ実感はないけれど。

 少年はまだ十歳だったが、自分の役割ぐらいは分かっていた。

 彼の下には、八歳の次男と五歳の三男がいる。

 さっき、少年の背中を棒きれで叩いてきたのは、三男だ。

 いたずら盛りで、特に勉強中にああやって強襲してくるのには、ほとほと困り果てている。

 少年はひとつのことに集中すると、周りが見えなくなるのだ。

 それを知った上で、三男は容赦なく攻撃してくる。

 だが、仲が悪いというわけではない。

 三男はいたずら好きだが、幼いせいか、妙に愛嬌があって、憎めないところがある。

 次男がもしも同じことをしていたら、少年は間違いなく捕まえて懲らしめていたところだ。

 ――もちろん、次男はそんなことをしないのだが。

 次男は三男とはまったく違い、八歳のわりに落ち着いていて、争い事は好まない。

 もう少し覇気があれば……と、大人たちが話しているのを聞いたことがある。

 それでも、三人とも仲だけはよかった。

 他にも姫と呼ばれる姉妹たちがいるが、彼女たちは最初から後継者候補から外されているので、ほとんど接点がない。

 大公である父すら、ほとんど兄弟に顔を見せにくることはない。

 来る時には突然やってきて、無理難題を言ったりするので、少年は父が少し苦手だった。

 それでも、その難題をどうにかこなせないことには父の後継者にはなれないと思い、必死に食らいついている。

 いや、むしろ後継者がどうとかいうより、父に気に入ってもらいたいというのが、本心に近いかもしれない。

 それは次男も同じだろう。

 たまにしか会うことのない父は、子供の目から見ても偉大で、無敵で、かっこよく、そして怖かった。

 もっとも、三男だけは、そんな父であろうが誰であろうが関係なく、いつでも自由奔放だ。

 自分の描いた地図と書物に載っている地図とをにらめっこしている間に、彼の指導係としてついている老齢の男が入ってきた。

「おできになりましたかな」

 彼は老齢のために親衛隊を引退し、彼の教育係になった人物だ。

「……まだ」

 少年は決まり悪そうに、小さな声で言った。

「早く終わらせて、父君の英雄譚を聞きたいのではなかったのですかな」

 返す言葉もなかった。

 彼は父が指揮してきた戦争の話が大好きだった。

 その続きを聞かせてもらう約束をしていたのだが、それは、書き写しの勉強が終わって、指導係の彼が出す問題が全てできたらということになっていた。

「絵を描くのは苦手なんだ。国名とか、特徴とかはもう覚えているのに」

 そう言って、明らかに歪んでいるとわかる、地図であるはずの図形を見た。

「絵ではなく、地図です。地形を正確に把握することも大事なのですよ。軍を動かす時には、地形も重要になります」

「でもっ……」

 少年は自分の中のもどかしい思いを何とか伝えたくて、頭を絞った。

「父上には……。この国には、情報省がある。オレが地図のことを知らなくたって、情報省を使えば、いろんな情報が手に入るのでしょう」

 それはずっと胸にあった考えだったが、口にしたら怒られそうな気がして言えずにいた。

 楽をしたくてこんなことを言っているのではない。

 実際にたくさんの家来たちが動いてくれるのだから、細かい勉強など、必要がないように思えるのだ。

 こんな勉強をするより、もっと軍隊の動かし方とか、武器について……特に、親衛隊が持つ最新鋭のすごい武器について、少年はもっと詳しく知りたいと思っていた。

 だが、教育係の男はゆっくりと首を横に振る。

 それを見て、少年はさらに言い募った。

「楽をしたいと思ってこんなことを言っているじゃないんだ。こういう細かい勉強より、人を使って調べさせる方法を学んだり、もっと大きい……なんていえばいいのかな。そういう、指導者に相応しいことを勉強した方がいいんじゃないかって」

 そこまで言って、少年は大きく息を吸った。

 一気にまくし立てたので、息苦しくなってしまったのだった。

「それも一理ありますな」

 教育係の男は目を細めて頷いた。

「ですが、それはもっと大きくなってからでよろしい」

「どうして。理由を教えてよ」

 全く納得がいかない。

 いつもはさらりと流すような話だったが、少年は、今日は珍しく食い下がった。

 ちゃんとした答えが欲しい。

 教育係の男は少し考えるようなそぶりを見せたが、ほどなくして小さく頷いた。

「帝国はご存じですな」

「もちろん」

「帝国を治めているのは」

「本来は帝だけど、実権を握っているのはその奥さんの女帝でしょう」

「まさしく。……では、女帝に取り巻きがいる話は聞いたことがございますかな」

「取り巻き……」

 そんな話は聞いたことがない。

 まだ、どこの国がどういう名前で、誰が治めているかぐらいしか教わっていないから。

 少年にとってまだ、他国の君主など、物語の登場人物とさほど大差ないぐらいに現実味が薄かった。

「女帝は自らが優れていると信じ、権力をふるっておりますが、彼女には取り巻きが非常に多い。なぜなら、彼女が周囲の意見を採用するからです」

 少年は首をかしげた。

 その話がどういう風につながるのかが、全く分からない。

 反論するように、教育係の男に向かって少年は言った。

「家臣の意見を聞くことは大事だと聞きました。なんでもひとりで決めるより、もっといい案が浮かぶかもしれない」

「そうですな。それも大事です。ですが、助言を受けることと、意見を鵜呑みにすることは、違う」

「鵜呑みって」

 少年は素直に聞く。

「家臣が何かを進言してきたとしましょう。それは正しい意見だとお思いになりますか」

「え……。だって、正しい意見だから、進言してきたのでしょう」

 困ったように首をかしげる少年に、まるで悪さでもするような顔で、教育係の男は少し声をひそめて言葉を続けた。

「家臣がそう信じているだけかもしれないし、実は策略を巡らそうとして、進言をしてきたのかもしれませんぞ」

 そんなことは考えたこともなかった。

 大人が嘘をつくことぐらいは知っているが、自分の家臣がそんなことをすることまでは、思い至らなかった。

「でも、その人がどういう人間かが分かっていれば、その人が正しいかどうか分かるんじゃないのかな」

「問題はそこです。では、とても信頼している家臣が、何かを進言してきたとして、果たしてそれは正しいのか。その意見を採用してかまわないのか」

「……良いのじゃ……ないのかな」

 そう言ってみたものの、それは正しくないと教育係の男の口調が語っているような気がする。

 でも、何が間違っているのかまでは、分からない。

「では、その家臣が、偽の情報を握らされているとしたら。その家臣には悪意はないのですぞ。どうやって判断しますか」

「それは……」

 そんなややこしいこと。

「その情報を、他の者にも尋ねるか、自分で確かめれば……」

 必死に考えたが、それしか答えが出てこない。

「そうです。上に立つ者とは、下から具申してくる意見を正しく取捨選択し、さらに下の者が思いつかないようなことをしてこそ、敬われるようになるもの。愚かな君主はあなどられ、いいように使われるだけです」

「女帝はあなどられているっていうこと」

 男はそれに応えずにうなずき、さらに言った。

「情報を自分なりに確かめることも必要ですし、自分自身に正しい知識がなければ、正確な判断は下せません。それが本当に有効な作戦なのかどうかも、判断できません」

 教育係の男が言っていることは、とても難しいことのように思われた。

 自分にそんなことができるだろうかと考えると、思わず眉間にしわが寄る。

「大丈夫です。まだお若いのですから。今はよく勉強なさって、知識を蓄えることです。そして、ご自身の目と耳で周囲をよく観察なさってください。誰がどういう発言をしているか。誰が本当の味方で、誰が自分を利用しようとしているのか」

 少年はそれでなくても、いつも家臣たちのことは見ているつもりだった。

 でも、少年にはそれが見たまま、そのままに見える。

「焦ることはありません。経験を積めば、見えてくるものもあります」

 そう言って、教育係の男はゆったりと微笑んだ。

 結局、地図は翌日までに仕上げる課題になり、各国の名前や特徴、それぞれ分かっている君主などについて、口頭で応えることで、その日の午前中の授業は終わった。


 剣術の道具を抱え、少年はうきうきとした足取りで回廊を歩いて行く。

 これから剣術の稽古なのだ。

 親衛隊に所属する教官たちから受ける武術の訓練は、兄弟三人一緒で受けることになっている。

 少年はいつもその時間が楽しみだった。

 剣術を覚え始めた三男がすぐに、彼や次男の背中を狙って打ちつけてくるのだけは、少々厄介だったが。

 訓練場の近くまで来ると、その出入口に、いつもいない兵士が二人立っているのが、遠目からでも分かった。

(父上がおいでになったのだ)

 心臓が一気に跳ね上がる。

 見慣れない兵士がそこにいる時、いつもそこに父がいることを、少年は知っていた。

 前に父と会ったのはいつのことだったか、思い出せないけれど。

 少年は入口近くまで来て、一度大きく息を吸って吐きだすと、今度は背筋をしゃんと伸ばし、大股で訓練場に入っていった。

 父は教官の親衛隊と話していた。

 もう一人、見慣れない男の人もいる。

 父より少し若そうな、眼つきの鋭い人。

「父上。お久しぶりでございます」

 少年は畏まって言った。

 父は表情を変えずに黙って頷いただけだった。

「ずいぶん大きくなられましたな」

 代わりにそう言ったのは、見慣れない男の人だった。

 少年の戸惑った気配を感じ取ったのか、見慣れない男の人は少し頬を緩めて少年を見た。

「私は、兵部卿と申します。お小さい頃に一度お会いしたのですが、覚えておられませんか」

(この人が、兵部卿)

 少年は父がいることもすっかり頭から抜けおち、驚きの表情で兵部卿の顔を見上げた。

 会いたいと願っていた人の、一人だった。

「あのう……、今度、兵部省を見学してもよろしいかっ」

 少年は興奮のあまり、つい本心を口走ってしまった。

「は……」

 兵部卿は少し驚いた顔をしたが、確かに小さく頷いた。

「戦争のなき間ならば。お付きの者に良く御相談されて、おいでになられよ」

「は、はいっ」

 嬉しくて舞い上がりそうだった。

 兵部省にはずっと興味を抱いていたのだが、閣僚たちと会う機会が皆無に等しく、日々の訓練や勉強でなかなかそんなことは言いだせなかったのだった。

「あとの二人は何をしておる」

 父が、低い声で言葉を発したので、少年の浮かれた心は、冷水をかけられたような気分になる。

 そこへちょうど、次男と三男が訓練場へ入ってきた。

 いつもの調子で歩いて入ってくる次男とは対照的に、三男は父の姿を見つけた途端に駆け寄ってきた。

「父上っ」

 父は駆け寄ってきた三男の頭に、ぐいと大きな手を乗せた。

 それは、頭を撫でているようにも見えたし、それ以上近づかないよう食い止めているようにも見えた。

 それでも、三男は満面の笑みを浮かべ、父を見上げている。

「私の剣術を見て行ってください。すごく、すごくうまくなったのですよ」

 その様子を、後ろから次男が冷やかに見ていた。

「よかろう。見せてみるが良い。では、お前が相手をしろ」

 そう言って父が指名したのは、次男だった。

「はい」

 次男は、静かに頷いた。

 どうせ幼い三男が負けるのは分かっているのにと思いながら、少年は場所を開けた。

 二人が模擬刀を構えて対峙する。

 驚いたことに、三男の構えはそれなりになっている。

 だが、打ちあいを始めると、やはり明らかな差がでた。

 次男は手加減をしていると、少年にはすぐ分かった。

 しばらく三男の定まらない太刀筋を器用に受けた後、一気に踏み込んで、軽く一本を取った。

「そこまで」

 教官が手をあげて、まだ次男に飛びかかっていきそうな気配を醸し出している三男を制止する。

 三男は悔しそうに声を上げた。

 次男も息は上がっているが、あまり表情は変わらない。

「つまらぬな」

 父がそう呟くのを、少年は聞いた。

 はっと顔をあげ、思わず父の顔を見る。

「次はお前だ。交代しろ」

 そう言って、父は、少年と三男とを交代させた。

 次男の息はまだ少しあがっていたが、呼吸を整え、二人は向き合った。

 少年は手加減するつもりはない。

 父の前で、いいところを見せなければならないから。

 立て続けに戦うことになってしまう次男には悪いが、本気でいかせてもらう。

 次男の太刀筋の癖は分かっている。

「始めっ」

 合図とともに、少年は、次男の苦手な場所を狙って容赦なく責め立てた。

 それでも次男は、意外にも持ちこたえている。

 目の前の次男も顔には出さないが、必死なのだ。

 父に認めてもらいたいという強い思いは、三人とも同じ。

(でも……)

 だからといって、譲れるわけがない。

 自分は長男なのだ。

 弟に負けるわけにはいかない。

 しかし、次男はなかなか引かなかった。

 次第に息が上がってくる。

 少年はここで、勝負にでた。

 誘いをかけるために一度引き、わざと隙を作って見せたのだ。

 引っかかるか自信がなかったが、次男はその誘いに乗り、打ちこんできた。

(よしっ)

 狙い通りの動きだ。

 予測した位置に踏み込んできた次男の模擬刀を、弧を描くようにうまく受け流し、打ちこむ。

 むしろ、こんなにうまく決まるとは思っていなかったぐらいだ。

「そこまでっ」

 教官が声を上げる。

 二人とも肩で息をしていた。

 これまでも二人で手合わせをしたことが何度もあるが、こんなに長い打ち合いになったことはない。

 少年は、思わず手を差し出した。

 次男はそれを見てにやりと笑い、軽く手をはたいた。

 互いに、なんとなくだが、心が通じた気がした。

 そして、はっとして父の顔を見る。

「上達したな」

 思いがけず、父は少年に向かってそう言った。

 初めて褒められた……。

 あまりにも嬉しく、少年は思わず破顔した。

「はいっ」

 次男は悔しそうに横を向いている。

「何故、手加減をする」

 今度は、父は次男に向かって声をかけた。

「手加減はしておりません」

「先ほどはそうであろう。その前も同じことが言えるのか」

 そう言って父は、三男の方を見た。

 父にも分かったのだ。

 いや、多分ここにいる大人全員、そのことに気がついていたのかもしれない。

 三男と次男が手合わせをしているとき、次男がそれほど必死ではなかったことが。

 三男はきょとんとしている。

「……手加減ではありません。こいつが滅茶苦茶に打ってきたので、機会を狙っていただけです」

「つまらぬことはせぬことだ。小さいと侮っているとそのうち足をすくわれるぞ。こやつのためにもならぬ」

 父の言葉にうつむき、次男は小さく「はい」と答えた。

「顔を上げよ。下を向くな。勝負の時には常に全力で勝ちに行け。余計な酌量を加えると、自分が痛い目にあう」

 よく通る声だった。

 父の言葉に、兄弟三人で「はい」と大きく返事をする。

 少年はふと、この言葉は父自身の経験から語られているのだろうか、と思った。

 だが、深く考える暇もなく、父は兵部卿とともに、その場を立ち去ってしまう。

 もちろん聞き返すことなど、できるはずがない。

 ――振り返ると、次男が泣いていた。

 少年は次男の肩をぽんぽんと叩いて、教官に向き直った。

「練習、始めましょう」

 少年の言葉に、教官も頷く。

 もっともっと強くならなければならない。

 そうしなければ、父の横に並ぶことも、下から支えることすらできないのだから。

 それはきっと、次男も同じ思いだろう。

 もしかしたら、三男も。

 少年はいつの間にか額に浮かんでいた汗を、そっとぬぐった。


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