東方の女帝
議員連合国の南東、大公の国からは東にあたる位置に巨大な帝国がある。
歴史あるその国は、長く皇帝によって統治されてきた。
領土の多くが寒冷地であり、冬が厳しいことでも有名な国であった。
そんな厳しい環境の国に他国から嫁いできたのが、現在、東方の女帝と呼ばれる女性である。
彼女は幼くしてこの国に嫁ぎ、皇太子の妻となった。
しかし、皇帝が若くして病に倒れたため、彼女の予想をはるかに超えた年齢で、夫に皇帝の位がまわってきた。
夫は優しい人間だったが、父親同様に体が弱い上、覇気がなく、全く彼女の頼りにはならなかった。
彼女はそんな夫の代わりに政権を握り、今や女帝と呼ばれるまでになったのである。
嫁いできた時には幼く可憐な少女だった彼女だが、四人の子供にも恵まれ、今は皇族の優雅さとともに貫禄が漂っている。
数年前に出来上がったばかりの宮殿は広大な土地に築かれ、教会と王宮が調和した、総麗で豪奢な造りになっていた。
彼女の趣味のまま、壁や柱にまで美しい細工が施され、壁画には神話の世界がそのまま再現されていた。
大広間の天井にまで描かれた美しい天使たちが、彼女のお気に入りであった。
彼女の居室もまた、同じく優美な装飾が施され、広い室内の壁には美しい絵画がいくつもかけられていた。
その広い部屋で、彼女は長椅子にゆったりと腰掛け、今朝方届いたばかりの衣装を吟味していた。
「陛下。宝石商が参りました」
侍従の言葉に彼女はゆったりとうなずく。
「待ちかねたぞ。今日の午後は久しぶりに大司教様がおいでになる。せっかく久しぶりに大司教様に会うのだから、新しい宝石を身につけてお目にかかりたい」
「そうでございましょうとも」
お付きの女官はそう言って、生真面目な顔つきで頷いた。
「早くお通しなさい。もちろん陛下がお気に召すような物を持ってきたのでしょうね」
宝石商は作り笑いを浮かべながら、品物を丁寧に女帝の前に並べ始めた。
どれも大ぶりの宝石をふんだんに使った高価なものばかりだ。
彼女が大ぶりの指輪を眺め初めてほどなく、彼女が懇意にしている貴族の到着を告げる声がした。
「まあ、今日は来客が多うございますね。陛下どうなさいますか」
女官はそう女帝にお伺いを立てながらも、彼女が断りはしないだろうということが分かっていた。
彼もまた、大司教同様、女帝のお気に入りの一人だからだ。
「あら。もしかしたら、約束の物を持ってきてくれたのかしら」
彼女の顔が輝いた。
目通りが許され、親しげに現われた貴族は、すらりと背の高い壮年の男性だった。
「おお、麗しの女王陛下。ご機嫌いかがですかな」
大仰に手を広げて、彼は女帝ににこやかに微笑みかけた。
「ご覧のとおり。新しい宝石の吟味をしていたところよ」
女性らしく優雅に応えた女帝に、貴族は目を細めた。
「それは残念。私の役目は果たせそうにありませんな」
少しも残念がった様子もなく、彼はうそぶいてみせる。
「あら、何をおっしゃっているのかしら」
彼は少し勿体ぶったように、従わせてきた従者に目配せをした。
従者は頷き、さっと細工の施された木箱を取りだす。
彼がそれを開くと、宝石商が持ってきた品々とは明らかに別格の、斬新な意匠の施された首飾りが光輝いていた。
「まあ」
女帝と女官が同時に感嘆の声をあげる。
「なんという……」
「このような斬新なもの、見たことございませんわ、陛下」
女官も自分のことのように、喜びの声をあげた。
「貴族の女どもも、さぞ陛下をうらやましがることでしょう」
貴族はにやりと笑って、その首飾りを女帝の首につけた。
彼女の胸元で、その首飾りは燦然と輝く。
「このようなものを、どこで……」
女帝のつぶやきに、貴族は頷いた。
「北の国に古い知り合いがおりましてな。なんとか、陛下にご満足いただけるような、今までにない品が用意できないかと無理を言ったのですよ」
「まあ、北の国に」
「これで約束は果たせましたかな」
彼女がこれまで目にしたことのないような品を探し出してくるという、戯れのような約束。
女帝は半ば期待し、半ばあてにはしていなかったのだが。
「ええ、ええ。もちろんですとも。このような意匠、見たことがない」
女帝はうっとりと鏡に映った自分を眺めながら、首飾りに手をやった。
「さぞ、お値段もするのでしょうね」
遠慮気味に聞いた女官に、貴族は頷いた。
「陛下ならば、たいしたことはありますまい」
だが、そう言って、貴族が言った額は桁はずれな額であった。
「そんなにするのですか」
女官は驚いたが、女帝は気にするそぶりもない。
これだけ珍しく、美しい首飾りなのだ。
当然買うに決まっている。
「本当にそのような額なのですか……」
女官が再び尋ねようとしたが、女帝はそれを遮った。
「これほどのものなのじゃ。それぐらいは当然であろう。なあ、宝石商」
隅で控えていた宝石商は突然声をかけられ驚いたが、頷いた。
「恥ずかしながら、私もそのように珍しい造りのものを見たことがございません。宝石とその装飾を考えれば、それぐらいの価値になろうかと存じます」
宝石商がそう言うのだ。
間違いないのであろう。
女官にとってみれば、気の遠くなるような額であった。
「ことに、殿下。西の国の噂をご存じですかな」
貴族がさりげなく切り出したので、そこにいた誰もが、何のことかと首をかしげた。
「何の話じゃ」
「西の国で一波乱あり、小国が全て統一されたのですよ」
そう聞いても、女帝はさして驚かなかった。
小国の大小など、彼女にとってそれほど重大なことではない。
彼女の国は、この周辺で一番巨大であり、兵は最強と謳われているのだから。
「それがどうしたのじゃ」
そう言いながらも、彼女はまだ、鏡の前で首飾りを右から左からと角度を変えて眺め、その光り具合を確かめていた。
「小国を吸収したばかりの国は、未だ脆い。少し突けば崩れるでしょうな」
明日の天気の話でもするようにさわやかに言う貴族に、女帝はようやく振り返った。
「攻めよと申しておるのか」
「絶好の機会だと申し上げているだけですよ。かの国を少々つついてやれば、その宝石の金額など足元にも及ばないほどの額が、簡単に手に入るでしょう」
貴族は内心を見せることなく、鷹揚に微笑んだ。
女帝はすぐに考えを巡らせた。
彼女の国は、長年にわたり、幾度となく周辺国に攻め入っては和平金を手に入れてきた。
敵対する国を攻めとってしまうのではなく、どうしようもないところまで追い詰めてから、和解を持ちかける。
多額の和解金を条件に。
この国の税金は決して低いものではなかったが、豊かな土地ではない。
民衆から搾りとれる額などでは、到底彼女は満足できないのであった。
「私は戦などあまり好かぬ。だが、そなたの言うことだ。考えておこう」
女帝はしおらしくそう応えた。
貴族はそれを聞いて、畏まって頭を下げたが、口元はにやりと笑っていた。
彼にはもうわかっていたのだった。
いくらでも高価なものが欲しい女帝は、金が安易に手に入るとなれば、必ず動く。
彼は女帝の心情をよく把握し、彼女のお気に入りとなるようふるまっていた。
この国の名門貴族でありながら、議員連合国から多額の賄賂を受け取り、ちょっとした策略を巡らせるのが、彼の日常であった。
今日持参した首飾りも、議長連合国で手に入れたものだ。
そうして、彼は女帝を巧みに誘導していたのである。
いや、誘導するまでもない。
このような役目など、簡単すぎてつまらないぐらいだ。
話を終えた貴族は、来た時と同じように軽やかに退室した。
「今日はこれをつけて大司教様にお会いしようかしら」
女帝はもはや貴族のことなど忘れ、また首飾りに見入っている。
「それはようございますわ。大司教様もさぞ、驚かれることでしょう」
女官の言葉に満足そうに頷き、女帝は、今度は首飾りにあう衣装を選ぶことで頭がいっぱいになっていた。
敷地内にある教会は、この世界では珍しいステンドグラスが多く取り入れられ、彼女自慢の教会であった。
幻想的なその教会で特別な礼拝を終えた後、彼女は大司教を居室に招いた。
「本当にお久しぶりですこと」
そう言って、彼女は嬉しそうに微笑んだ。
彼女の父親ほどの年齢の大司教は、まさしく、彼女にとって父親のような存在であった。
威厳ある衣装に身を包み、大司教は親しげに微笑む。
「私も今日、陛下にお会いできるのを楽しみにしておりましたよ。陛下の美しさは本当に変わりませぬな。私はすっかり白髪が増えましたよ」
笑いながら大司教は自分の頭を軽くなでて見せた。
「変わらぬものなどありませぬ。ずっと若くていられる秘薬があるのなら、国を投げ打ってでも欲しいくらいですわ」
「ご冗談を。陛下は本当にお変わりない。私の知る可憐な少女そのままですよ・・・おや。今日のその首飾りはまた、美しいですな」
彼女は大司教が彼女の新しい首飾りに気づいたことに満足して微笑んだ。
「さすが大司教様。これは今日届いたばかりの異国の品ですのよ」
自慢の首飾りに手を添え、嬉しそうに目を細める様は、確かに可憐な少女を思わせるようなかわいらしい仕草であった。
「さぞ、珍しい品なのでしょうな。美しい陛下をより一層引き立たせておりますな。まさにこのような品は陛下にこそふさわしい」
そう言って、大司教は微笑んだ。
女帝は嬉しげに頬を染める。
「陛下はそのように穢れなくお美しい統治者でいらっしゃるというのに……」
急に顔をしかめた大司教に、女帝は驚いたように尋ねた。
「一体どうしたというのです」
「陛下は西の大公の話をご存じですか」
「さあ、どうかしら。初めて聞くと思いますわ」
そう答えながら、彼女は即座に首飾りを持ってきた貴族の話を思い出していた。
彼が言っていたのも、確か西の国ではなかったか――。
だが、彼女は黙って大司教の話に耳を傾けた。
黙って無知なふりをしていれば、男どもは嬉しげにあれやこれやと語ってくれる。
彼女はそうやって、今まで様々な謀略を聞き出して相手を蹴落とし、彼らからもたらされる話の中から、必要な戦略を取捨選択してきた。
「西の国におる、大公という輩、枢機卿の地位に就いたのですが、これが大層穢れた男でしてな……」
大司教は語るだけでも穢れるというように、仰々しく首を振った。
「その男は枢機卿という地位を利用して、教会を政治の道具のように使っておるのです」
「まあ」
彼女は驚いて見せたが、さほど珍しい話でもない。
「そもそも、枢機卿という地位も金で買ったのではないかという噂があるぐらいですからな」
「まあ。枢機卿たる者が、地位を金で買ったというの。宗教者としてあるまじき行為ですわね」
彼女は大司教の話に合わせながら、彼の話の行方に思いを巡らせた。
宗教界においても派閥争いが激しいと聞く。
かの国とこちらの国で崇拝されている神は同じ。
布教されている教えは元々同じものだったが、彼女が生まれるもっと前に、宗派がいくつかに分かれていた。
「陛下はどう思われますか。そのような輩が宗教者として、いえ、枢機卿として堂々と幅を利かせていることを……。私には耐えられません。神への冒涜といえるでしょう」
「……そうですわね。他の枢機卿たちは何も言いませんの」
「彼を表だって非難する者はおりません。なにせ、彼は一国を治めている人間ですから」
彼はやはりその、大公とやらをどうにかして欲しいのだ。
「他ならぬ大司教様のお願いですもの。考えておきますわ」
そう言うと彼女はふわりと微笑んだ。
それを見て、安堵したように大司教も微笑み返す。
大司教が帰った後、彼女は乳母に預けてあった子供の様子を見ながら思案した。
今日は西の国の話ばかり聞いたような気がする。
これは、今攻めるべしという神の啓示であろうか。
周囲のいいなりになるのは面白くないが、これ以上ない良い話のような気もしていた。
労せず金が入る条件が整い、なおかつ大公には背徳者という名目もある。
攻めなければ、むしろ愚かなような気さえする。
国内には「背徳者を懲らしめる」といえば、信仰心の篤い女帝よともてはやされるであろう。
諸外国には、もっと別の理由があった方が分かりやすいかもしれない。
――もっと情報を集めなければ。
大公というのはどういう男であろうか。
枢機卿の位を金で買い、小国を次々制圧し、さぞかしうまくやっていると思っていることであろう。
だが、そんな小さな男など、彼女の相手ではない。
野心に満ち、高くなったその男の鼻をへし折ってやるのも面白そうだ。
そう考えると、彼女の頭は、見知らぬ男の国を翻弄する作戦でいっぱいになった。
そうして、彼女の瞳は、まるで楽しいいたずらを思いついた小さな少女のように、輝いたのだった。




