狼煙
修正第2版です。
無機質な石造りの壁。
ぞくぞくとした寒気を誘う、冷たい床。
そして、廊下とこの独房とを遮る冷たい扉。
この小さな空間の中で唯一、外とつながっているのが、扉に付けられた小さな確認用の小窓だ。
小さく開いたその窓が、外の世界へ続く、狭い廊下とこの独房とをつないでいる。
顔の丸い中年男は、ぼりぼりと背中を掻いた。
彼がこの牢獄に放り込まれてから、結構な年月がたつ。
髭も髪も伸び放題。
恰幅の良かった体も、随分と痩せ細った。
かつていた場所では、神よ、教祖よともてはやされたものだが、今やこの有様だ
「ここのとこ、かゆくっていけねぇ」
そうひとりごとを言うと、男は、よっこいしょ……と立ち上がる。
この牢屋の廊下からは、昼間絶えず、ぼそぼそ何か言っている声や、激しく何かを打ち付けるような音、どうでもいいような話声などが聞こえてくる。
「……ったく、どこのどいつだ。うるっせえなあ」
そう声を上げるが、壁を激しく叩くような耳障りな音は、全く止む気配がない。
男はこの独房の中で、比較的古参だ。
少なくとも自分ではそう思っている。
この国にいる魔術師によって、この世界へ引っ張ってこられたのだが、大して使い物にはならないと判断されたのか、あっさりこの独房に閉じ込められた。
オレの顔を見たとき、この国の王は、まるで汚いものでも見るように顔をしかめたものだ。
全く、失礼にも程がある。
そもそも使い物にならないと思うのなら、放っておいてほしいものだ。
「ったく、どいつもこいつも、馬鹿ばっかりでしょうがねえ」
こん、と右側の壁の一か所で音がした。
右側の壁を隔てた独房にいるのは、どこかの官僚だとかいう男だ。
まともに話したことはないし、顔もつれてこられた時にちらっと見た程度だが、神経質そうな男だった。
壁の特定の位置を一回叩くのは、「うるさいから、黙れ」という意思表示のようなのだが、それがまた癪に障る。
「うるせえ、ばかやろぉ」
男は右の壁に向かって、わざと大きな声で怒鳴ってやる。
すると今度は、左側の壁が、ざりざりと音を立て始めた。
左隣の男は、あたりは柔らかいのだが、言うことにはかなり遠慮がなく、一日に何度も体を鍛えるとかで狭い空間で運動をするので、奇妙な音をたてるのだ。
男は怒る気も失せて、ため息をつき、床にどっかりと腰を下ろした。
そして、目の前に立ちふさがった、見慣れすぎるほどに見慣れた、扉に目をやる。
半年ほど前、久しぶりに興味を引くような男が、向かいの独房に連れてこられた。
見慣れない……おそらくは軍服であろう姿のその男は、そこらの下っ端兵士ではないことはすぐにわかった。
眼光鋭く、他を圧倒するような体躯。
その男の眼は、憎しみに強く光っていた。
暴れるような様子はなかったが、その目に宿っている強い光に興味を覚えた。
憎しみは人を駆り立て、突き動かすもの。
ほどなくして、その軍服男は周囲に接触を求めてきた。
低くよく響く声は、感情を押し殺しているが、何かの欲求に満ちていた。
奴は情報を欲しているのだ。
その憎むべき相手をどうにかしてやろうという欲求が、彼を衝き動かしているのに違いない。
中年男は、その軍服男の問いに丁寧に応えてやった。
男が知っている限りのこの世界の情勢、制度、異能の力について。
そしてこの国の、国王について。
これだけの情報を得て、さて、この軍服男は、この独房で何をしようというのか。
男はそれに興味をそそられた。
軍服男は、国王から「大公」という大そうな爵位をもらったらしいが、この独房で一体、その爵位が何の役に立つというのか。
どうせ、王がいつもの気まぐれを起こしたのに違いない。
この国の国王は気まぐれで、陰湿な男だということは、この独房中の人間が知っているといっても過言ではない。
しかし。
軍服男がこの独房に来て、およそ半年。
「見込み違いってことも、あるわな……」
男はそう呟いて苦笑した。
長く独房にいれば、人は皆、退屈する。
軍服男が何かをしでかすのではないかと、勝手に想像したのだが、どうやらあてが外れたらしい。
それでも、男は「まあいいさ」と思った。
半年ほど、儚い夢想をし、退屈しのぎができたと思えば、それでいい。
そう思い始めた、ある日のことだった。
突然、大きな笑い声が聞こえてきたのだ。
その声には聞き覚えがある。
笑い声などはそもそも、この独房内で聞くことすら珍しいので、最初は何事かと思ったが……。
やはり、あの軍服男の声だ。
とうとう気でも狂ったのか。
「一体、なんだってんだ」
男は重い腰を上げて、小窓から廊下を覗き見た。
しかし、やはりいつもと変わらない、無機質な廊下がつながっているだけだ。
「おおい。大丈夫か。気でも狂ったのかあ」
男が声をかけて、ふと、周囲がそれに聞き耳を立てていることに気づいた。
周囲の者も皆、異様な笑い声の理由が何なのか、興味があるようだ。
軍服男の笑い声はしばらく続いていたが、唐突にその笑い声がやんだ。
独房に久しぶりの静寂が訪れる。
「狼煙をあげたのだよ」
軍服男は、いつもの低い、よく通る声で言った。
「一体どういう……」
「あの男には後悔してもらわなければならん」
男はたまらず、聞き返した。
「あの男ってぇのは、一体誰のことだい」
「この独房中の人間がよく知っている、あの男さ。オレたちをこの独房に押し込んだ人間だよ」
軍服男のその答えに、男はしばらく黙りこんだ。
何かが起こる――それは、あながち的外れではなかったのかもしれない。
男は久しぶりに、ふやけきった自分の頭に血が巡り、動き始めるのを感じていた。