秋桜
あなたを見ているとまるで春陽のような気持ちになります。暖かくて、穏やかで。心に花が咲いたような感覚。人生で初めての感覚に違和感を覚えながらもどこか懐かしいような、嬉しいような心境。言葉では表しきれないこの感情。いつかこれを言葉で正面からあなたに伝えたい。でも今の私にはそんな勇気なんてないから物語にしてあなたに捧げます。
あれは暑い夏から解放され、秋桜が草原を鮮やかに彩らせようやく秋立ってきた頃のことです。
秋気と共にやってきたのは心の春風。心地よいそれは私の心を満たしていきました。あの頃の私は心を病み、人生の終わりを感じていた頃。十四という若さでの病みは私にとって大きな負担でした。親にも打ち明けられず当然友人にも言うことができませんでした。
心の病みと言っても大層なものでもなく、ただ人生の意味について考えたとき自分の生きている価値が分からなくなり混乱してしまったと言うだけなのです。才能のなさ、生きる意味、自分の無力さ、そんな事を考えていると頭が痛くなってくる。
私はその日も頭が痛くなりました。まるでカナヅチのような硬いもので殴られたような。気晴らしにと近くの草原へ足を運んだ事が私の運命の出会いの元となりました。一目見ただけで人生への価値観は一変し、生きる意味が何かのサービスのように頭の中を駆け巡るように鮮明に見えてくるようで。これは、きっと、一目惚れというものでしょう。
その日を境に今まで錆び付いていた心は一瞬で鮮やかに彩られ、喜びが見えると同時に心に靄がかかったようになりました。初めての事で私には霧の正体を知る由もありませんでした。
夏と秋の境目を感じさせる冷たさとの暖かさを持った風が吹くたび揺れるその髪は短いくせに綺麗で。私はまず、そのふわりとしたその髪に目を奪われました。次に振り向いた時の大きな黒い瞳、薄く淡い色をした唇、美しい曲線を描く輪郭、桃色に染まる頬。何もかもが私を虜にし、私を初恋へと誘っていきました。
「綺麗な秋桜ですね」
その声は透き通っていて、今でも鮮明に思い出すことができます。私のくぐもった声に比べたら天地の差。いつも他人と比べてしまう私。自分より優れている人を見るとつい妬んでしまう。でも、その日ばかりは、いや、その日から相手を妬むどころか認めるようになりました。
「えぇ。本当に綺麗な」
きっとこの言葉を秋桜とあなたの美声に向けて言われた言葉とは思わなかったでしょう。それどころか、この会話すら覚えていないかもしれない。きっとそう。あなたはいつも肝心なことを忘れてしまう。
「秋桜はお好きですか」
彼は私に問いかけました。たわいもない質問にさえどこか心惹かれるような、くすぐったい感覚が忘れられません。だって、今でも話しているだけで心が疼くのが止められない。これは私の中で一種の自然現象と言ってもいいでしょう。
「はい」
返事をするその一言にも心がこもります。あなたと話すときは必ず穏やかな口調で返してしまいます。これは意識的にやっていることではなく、あなたの前だからこそのものです。
「僕も好きです。淡紅色とか」
そう言って彼は足元に咲く秋桜の花弁に手を添えた。私もしゃがみそれを見た。細い指先が触れるその花弁は魔法がかかったかのように輝いて見えました。淡紅色はこんなにも美しかったか。たった一枚だけの花弁をこんなにも丁寧に、宝物のように扱う彼を私は優しい人だと思いました。
「私は白も好きです。純粋で透明がかった白。何者にも汚されてないようで」
私はその時初めて本心を告げたような気がしました。今まで他人と話すときや親と話す時でさえ相手の意見を尊重し、自分の意見を曲げてでも相手に賛成する。その方法以外の会話の仕方を知りませんでした。相手と違った意見を言えば反感を買う。まだまだ幼い私は会話とはそういうものだ、と定義付けていました。その時も自分の台詞に不安を持っていました。そんな私に暖かい返事を返してくれたあなた。その頃にはとうに心を奪われていたと思われます。
「感性が豊かですね。僕にはそういう綺麗な考え方ができない」
私を褒めるその言葉は、お世辞とは思えないくらい心のこもった言い方でした。でも、どこかさみしげな感じがしたのも事実。その時あなたも私と同じ思いをしていたのかもしれない。そう感じられました。でもそれは私の作り上げた勝手な意見。それを言葉にすることができない。そんなもどかしさに胸を締め付けられながらも必死で頭を悩ませ文を書いているのです。それだけは信じてください。
「ありがとうございます」
素直に礼を言うとあなたはこちらを一瞬だけ見てすぐに秋桜に目を戻したことも覚えています。目があった刹那あなたが頬を少しだけ淡く染めたのを見て思わず可愛いと思いました。そして、ありがとうの破壊力の凄さに私は改めて思い知らされました。こんなにも快いものだったか。
その後私達は秋桜や、他の花達の話をしていました。と言っても話していたのは九割私なのですが。あなたは真剣な眼差しで私の空想の物語を聞いてくれました。こんなにも私の言葉に興味を示してくれているなんて。私は嬉しさのあまり涙が出そうになりました。あなたに物語っている時間はあの無口な私が秋風と共にどこかへ消えてしまったようでした。夕日が山に隠れてしまうのに気づいた時にはもう七時を回っていましたね。あなたと話した数時間は私の中ではたった数分のように思えました。きっと神様のいたずらでしょう。時には神様も面白いことをいたします。つまらなかった日々にあのようないたずらは少々きついです。とても、とても、いい意味で。
家へ帰っても親は何も言いませんでした。どこへ行っていたの。それすら聞いてくれませんでした。私に関心がない。そんなことは昔から知っています。でも、少し位は見てくれてもいいじゃないかな。まあ、私にとっては贅沢な事かもしれないけれど。私は布団に潜り込みながらその日の会話を思い出していました。今までにない喜び。自分の話を受け入れ、聞いてくれて、それに対しての意見も伝えてくれる。なんて夢みたいな話だろう。もし夢だとしても覚めないでほしい。そう思いながら眠りについたのは、あなたに初めて会った日のことです。
次に会ったのは、それから一週間後のことでした。あの日からあなたに会いたくて毎日の野原へ足を運んでいました。今日もいないのか、そう思い帰ろうとした時に肩を優しく叩いてくれたこともよく覚えています。
「久しぶりですね」
あなたは、この言葉にどんなに安心感を抱いたか知るわけもないでしょう。初めて会ったあの日から毎日あなたを探し続けてきたこの気持ちが。
「一週間ぶりでしょうか」
「そうですね」
「また会えたことが嬉しいです」
あなたは思ったことをそのまま言葉にすることができる。私にはないものを持っている。そう思うだけで胸がきゅうと音を立てて圧縮されるのです。それは悲しい心の鳴く声。病気でしょうか。でも、もし治す薬があったとしても私は飲まないと思う。こんなことが思えるのは『あなたへの想い』だからなのです。
「私も、です」
そう言ってあなたと顔を見合わせました。同じことを考えていたのだ、と理解した私達は同時に微笑み声を立てて笑いました。あなたの初めて見た笑は輝いていました。私の瞳を焼き尽くすほどに。潤んだ瞳、赤らむ頬、笑い声が溢れるその唇、それを隠そうとする指先の仕草までもが私の心を強く引っ張っていきました。その時でした。『好き』という感情に気づいたのは。先程からあなたの鈍さを綴っていますが、私も相当鈍いようです。
「この前の花のお話。また聞かせてくれませんか」
あの身勝手な空想のお話をまた聞いてくださるのですか。私はその時あなたは神様がくださった私の心を癒す使いなのではと思いました。
「つまらなくないのですか」
私はあなたの返事を聞くのが怖かった。でも、もし私の話に苦痛を覚えていたのならば、それこそ私にとって一番何よりも恐れることでした。でもあなたはそんな私の複雑に入り組んだ気持ちをいとも簡単にたった一言でほどいてしまいました。
「なぜですか。僕は本を読むのが好きですが、あんなに楽しい物語を聞いたのは初めてです」
なんてことを言うのでしょう。本は作家と言うとてつもなく壮大な考えをもった方が心を込めて作られたものなのに、私のただの空想話の方が面白いだなんて。私は心臓が炭酸のように弾けるような気持ちになりました。シュワシュワと音を響かせながら湧き出る泡は今も止まることなく吹き出ています。無限の泡。その時一つの詩を思い出しました。『方丈記』。これは、鴨長明が水の流れを詠ったものですが私にはこれが恋にも引用できるような気がしてなりませんでした。もしかしたらあなたはこの詩を私が一度教えたことを忘れたかもしれない。ここにあの頃の思い出が吹き出るくらいの刺激を与えてあげましょう。あの日教えたあの詩を思い出してください。私はただ詩を教えたかったわけではないのです。きっとあなたはこっそりと私の気持ちを混ぜて詠った事を知らないでしょう。次は私の心の泡の事を思って聞いてください。
ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。
よどみに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたる試しなし。
世の中にある人とすみかと、またかくのごとし
『方丈記』より
私の心はまさに、そのうたかたのように絶えず私の心を泡立たせます。そんな事を書いたところであなたはなんのことだか分かってくれないのでしょうか。
「いい詩ですね」
あの時のあの台詞を今の私にも向けてもらえるのでしょうか。今のこの心にも言ってくれるのでしょうか。
その日からまた一週間後。また同じ場所であなたは立っていました。
「久しぶりですね」
あなたは会うたびいつもそう言っていました。私も返す返事はいつも同じでした。
「一週間ぶりでしょうか」
この台詞は、何度言ったかわかりません。会うたびにこの言葉を交わし、それは時が経つにつれてお決まりとなっていくのです。
それから数ヶ月が経ちました。週に一度あの野原の上で会っていました。数ヶ月という月日が経っているのにあなたの名前を聞いていなかったあの頃の私に驚きを隠せません。そして、その事に後悔を覚えたのもあの頃でした。毎週同じ曜日に同じところであったことがまるでなかったかのように途絶えてしまったのです。毎日見に行ってもあなたの姿はありませんでした。冬の冷たい風は私の心をも凍らせてしまいました。長かったあの美しい日々は夢だったのでしょうか。神様がくれた一瞬だけの喜びなのでしょうか。走馬灯のように過ぎていったあの日々は戻らないのですか。
時は過ぎゆき、とうとうあなたに会わぬまま年が明けてしまいました。それでも私は、いつかもう一度あなたに会えるのではと毎日あの野原へと行きました。雨が降っていようが、風が吹き荒れようが、雷が鳴っていようが、なりふり構わずあの場所へと行くのです。数える程しか合っていないはずのあなたの顔も声も指先も、何一つとして忘れてはいませんでした。あなたと会うことなく過ぎ去っていく毎日は退屈であの頃の輝いた生活に戻りたい、となんの宗教も知らない私がひたすら神様にお祈りいたしました。「もう一度だけでいいから会いたい」「最後にこの想いだけは伝えたい」ひたすら私は形無い神に祈り続けました。気づいた時にはもう春がすぐそこまで来ていたのです。
春がやってきました。暖かい風を体で感じていても心中はまだまだ冬。吹雪が吹き荒れ、雪は積もり心を埋め尽くしてしまっていました。それでもひたすら神様に哀願し続けました。私はそんな生活ゆえに心は枯れ、ストレスあまりか肌は荒れ、指先など老婆のように血管が浮き出るほどでした。それでも祈り続けたのです。そしてあの場所に行き続けたのです。その頃も私の両親はそんな変化に気づくはずもなく、最低限の会話しか交わしませんでした。
とうとう初夏にまでなりました。半年以上経っても忘れることはできませんでした。そんな時です。猛吹雪の中一本の細く薄い希望の光が指したのです。あの時の感動は忘れられません。七夕の前日の事です。その日も祈りを捧げ、野原を訪れ、七夕竹に短冊も飾っていました。もちろん願いは「あなたにもう一度会えますように」。そしてとうとう七夕になりました。その日の夜のことです。私は我が耳を疑いました。その日一段と輝くその月と星達に照らされた私はある不思議な出来事に直面します。
「手を見なさい。そこに希望はあります。感じなさい。感じることで幸せはつかめるでしょう」
誰の声か分かりません。あなたの声でもなければ母の声でもなくもちろん父の声でもない。静かな夜に響くその声に驚きながらも自分は冷静でいました。なぜ自分があの時冷静を保つことができたか、自分でもわかりません。その声はそれだけ言うと消えてしまいました。そしてまたあの静かな夜に戻りました。なんでしょう。この感じは。あなたへの想いに似たような、それでもあなたのとは少し違うような。そしてあの声には安心を呼び寄せるような力がありました。あなたの声もそんな感じでしたね。私はその日不思議な声を聴き、意味も分からぬまますぐにベッドにつき、すぐに眠りにつくことができました。
そして奇跡が起きたのはその翌日。目覚めはよく空も澄み渡り、雲一つない青空が広がっていました。その時ふと昨日の言葉を思い出したのです。私は不意に手を見ました。
手に希望。よくわからぬまま見ました。その時脳裏に電流が流れ私は目を疑い、驚きを隠せずただ呆然と立ち尽くしていました。私の手には本当に希望が宿っていることを後々知ることになるのですが、その時はそんなことより驚き。それに尽きます。だって、私の手が、あの老婆のように血管が浮き出て、皺だらけで、生気を失ったようなものが、一夜にして若返り、血管は薄く、ほんのりと紅色に染まった指先には生気がやどり、それは、あなたの好きだった淡紅色。それを奇跡と言わずなんというか。ほかに言葉が見つからない。なんでしょう。あなたに会えたわけではないのに、あなたがすぐ目の前にいるような。その時もうひとつの言葉を思い出しました。
感じることに幸せ。感じること。それは目に見えるものではない。何を感じるのか。この辛い気持ちを、ですか。あの頃の喜びを、ですか。今も続くこの永く光を宿す恋心を、ですか。その時私は悟りました。全部。この想い全ての事だ。私に、いよいよこの長い心の冬に終止符を打つきっかけがやってくるのです。
あの声を聴き全てを悟り、また秋がやってきました。毎日祈り、毎日あの野原へ足を運び、そしてあることを続けました。そしてようやく喜びが実り始めたのです。
秋桜が野原を鮮やかに彩らせ、今日もまたあの野原へと出かけていた時のことでした。もちろんその日もあなたは現れず私は帰るほかありませんでした。夕日が山に隠れ始め、月の明りが夜の秋桜を一層際立たせ、美しく輝くそれを見届けてから家へ一歩、また一歩と、あなたへの想いを噛み締めながら歩いていましいた。
「久しぶりですね」
肩に降り注ぐ体温と同時に優しく懐かしいあの声が私の心に染み渡ります。ほのかに香るあなたの匂い。振り向いた時に見えた、ふわりとした茶色い髪、大きな黒い瞳に、薄い唇、曲線を描く綺麗な輪郭。何一つとして代わりのないあなた。いや。一つだけ変わったことがありました。その声には以前と同じ暖かさがありましたが少し男らしくなったような気がします。そしていつも聞いていた落ち着いた声はその日限りだけ喘ぎが見られました。
「一周…一年ぶりでしょうか」
私は涙を盛大に流しながら、声を震わせながら、それでも笑顔を保ちお決まりの返事をしたのです。その時初めて人前で涙を流しました。そしてあなたは何も言わず私を抱きしめてくれました。初めての暖かい体温。焼け付く心。冷たい涙。力強い私を抱きしめる手。
『世界で誰よりもあなたを愛しています』
こんなことを綴っていてもあなたが読まなければ意味がない。この文を一刻も早くあなたに渡したい。伝えたい気持ちがまだまだある。でも、私はこの気持ちをあなたに伝えることを最優先にしたい。何度も書き直して出来たこの本を今、あなたに捧げます。そして、いいお返事をお待ちしております。
私の初めて書く恋文はこのように終わりを告げあなたへの元に行き届くのです。
あとがき
これは私のはかない想像力が生み出した物語に過ぎません。それでもこの感情には嘘をついておりません。
私が書いた『私』の物語。なんだか複雑で自分でも混乱しております。いつかこの物語が私の大切な人に届くことを願い、 そしてここまで読んでくださった方々の幸せを願って終わらせてもらいます。




