王立魔法図書館
門の横に付随している小さな扉が開き、警邏隊の鎧を着た男たちが飛び出してきた。彼らは一週間に一度開かれる市の日には監視と巡回をおこない、市の立たない日には倉庫街の警備を主に任されている大門付きの隊員だ。東西南北に一つずつ、正門、裏門、港湾門と合わせて七つの大門の門下街はどこも陸路・海路の交易拠点として常に賑わいを見せていた。
「いやー、翼竜をこんなに近くで見たのは初めてですよ」シイタの後ろにやって来た男が眩しそうに空を見上げながら声を張り上げた。
「シイタ殿ですな? わたしは警邏隊、西二条門隊長のワラガンです。話は伺っとります、どうぞこちらに」
部下を従え挨拶した男はそのまま引き返すようにして、いまさっき出てきたばかりの門塀の内部にシイタを案内した。厚みがあり頑丈な構造の塀はかれら警邏隊員たちの仕事場でもあり、ウナギの寝床のような宿舎兼用にもなっていた。一行は待機所を素通りし狭い通路を進んだ。
「図書館長と治安維持卿に宛てて連絡用使い魔を送っていただきたいのですが」シイタは前をいそぐ男の背中に向かって云った。
「ヒューイ!」ワラガンは足を止めずに通りがかった部下に指を鳴らして命令した。
「最速の使い魔を二匹連れて来い」
彼は宿舎の庭にシイタを案内し、幾台か置いてある草臥れた二輪車の乗り物を示した。
「このスクーターをお使いください。我々が先導致します。シイタ殿にはいち早く図書館に到着していただくよう、命令を受けております」
「ありがとう。――そうだ、どなたか赤ちゃんのいる家庭をご存知ありませんか」
「はぁ、赤んぼですか?」
隊長は怪訝な顔をした。軍人らしく態度には表さなかったが、何をほざいとるんだ、この若造は? と考えているのがその目から読み取れた。隊長は顎ひげと口ひげがおしゃれな筋肉質の四十男で、将軍になるという若い頃の大望はとうに諦めている。そのかわりに経験豊富で常に確実な行動をとる、部下からの信頼厚い職業軍人になっていた。
「隊長、ヤイバんとこで、つい先日また男の子が生まれたじゃないすか」
「そうだった。今すぐ呼んで来い」ワラガンは打ち明け話のようにシイタに説明した。
「ヤイバって奴ぁ、若いくせにもうガキを三人もこさえてんですよ。ああ、来たな」
呼ばれた男はシイタといくらも変わらぬ年頃で、衛士というには頼りない感じの赤毛にそばかす顔。三人の子の父親というより自分自身が遊び盛りの少年のように見える。お世辞にも利巧には見えない純真な顔は子供のことを訊かれ、ぱっと明かりが灯ったように輝いた。
「ええ、うちには三歳と一歳と、つい二週間前に生まれたガキがおります」
「奥さんはベビー・パウダーを使っていますか? でなければ、滑石を砕いたタルクでもいいんだが」
「天花粉でよけりゃ、もちろん使ってますよ、おしめを取り替えるたんびに。夏場は特に汗疹対策に一番ですから」
「申し訳ないがそれを奥さんから借りてきてもらえないだろうか。出来ればたくさん欲しいんだ。我々は先に行っているので図書館に届けてもらいたい」
シイタは待機している十人編成ほどの隊員たちに合図を送り、スクーターの磁場エンジンに蹴りを加えて都大路に飛び出した。
王立魔法図書館は、この国最高学府のテナ・マダカ魔法大学に寄り添うようにしてアカシヤの都の北側に聳えている。大学は広い敷地にいくつもの建物を有しており、図書館に行くにはぐるりと敷地を巡るより大学内を突っ切って行くほうが早い。さいわい大学は夏期休暇に入り、閑散としている。
都大路を走り抜けたときにははやる心を押さえるように警邏隊に先導されていたシイタであったが、彼らが遠回りの道を選んでいることに気付くとスクーターを加速させて先頭に立ち、法定速度を無視して構内に入り込んだ。
隊員達を従えていくつもの門をくぐり抜け、図書館の側面ゲートに辿り着く。そこには車両進入禁止の標識もあったが、構わず二輪車のまま滑り込んだ。そのまま図書館のはずれに位置する一級魔法書室まで図書館内の回廊を巡ってゆく。
魔法書室の前には扉を警護している五人の兵士とともに落ち着き無く歩き回っている図書館長がいた。彼はシイタ達に気が付くと小走りに近寄ってきた。
「おお、シイタ! よくぞ戻った」
図書館長は普段だったら叱り飛ばすであろう館内への二輪車走行は無視することに決めたらしく、スクーターから降りるシイタの肩を神経質に叩きながら、親しげな態度で労をねぎらった。図書館の責任者の声は心持ち甲高く、身体全体にまんべんなく贅肉をつけ陽気で柔和な丸い顔をしているが、重たい瞼の下から光る目は馴れ馴れしい口調を裏切り冷ややかなきらめきを放っている。彼は人のよさそうな仮面の下に危険な罠を隠しており、にこやかな笑みをたたえながら情け容赦の無い解雇をするのをシイタは幾度か目撃していた。
「で、魔女は助けてくれるのか?」
「フールメイ殿は〝古井戸の書〟紛失事件の手口と犯人の目星をつけて下さりました」
「手口などどうでもよい!」館長はカッとして叫んだ。どうやら不安が高ぶり、いつもの愛想のいい顔を続けられないらしい。
「本は取り戻せるのか!?」
「犯人さえ捕まえられれば回収する見込みはあると言われました。──彼らを外に出してはいないでしょうね」
「あー、きみの帰りが遅いものでね」毎度のことながら、自分の逃げ口上だけはとっくの昔に用意済みなのが言外に現われている。
「そうそう全員を、いつまでも閉じ込めておくわけにはいかんだろう。外交特権を持っとる者もいるのでな。外務の役人からも自由にするようにとの達しがあったのだ」
「まさか黒の穴蔵国の王子たちを放免したんですか!?」しまった、遅かったか! シイタは臍をかみながら館長に詰め寄った。
「王子たちの行き先は? 都を出ましたか?」
「いや、それは許可されていない。大学の宿舎にいるはずだ」
「……学内には学生も職員も残っている。彼らを避難させなければ!」
シイタは振り返って後ろに控えている西二条大門付きの衛士たちを見た。
「隊長、大急ぎで大学構内から学生たちを退去させてください。オータン王子たちがいるのはマーナーハーン学生寮ですから、そちらには近づかないように。それから大学を封鎖するために──」
注意深くシイタの指示を聞くワラガン隊長を押しのけるようにして、館長が遮った。
「待て、待て! 治維卿が到着するまで勝手な命令は出せんぞっ」
「彼はいつこちらに来るのです? 連絡は最前よりついている筈ですよ」
「卿におかれては抜けられぬ仕事があるとか──」
シイタは館長に最後まで言わせず言葉を重ねた。
「それではあなたが命令してください!」
「しかし……わしの権限にはそんなものまで含まれていない」
「権限がどうとか言っている場合ですか! 古井戸の書がいかに危険なものか、館長もご存知でしょう!? さっき通ってきた様子では、都の人々へ避難勧告さえ出してないようじゃないですか」
「そんなものおいそれと発布できるものか! 一日でも都の経済活動が滞ったらどれほどの損失を被るか、きみはわかって言っとるのかね!?」
「この期に及んで人命より経済の心配ですか!」
二人のやり取りによって、今まで気楽に雑談を交わしていた衛士たちは気まずげに押し黙った。大門からここまでのような騒々しい軽口は聞かれなくなった。隊長でさえ巻き込まれるのを避けているのだろう無表情に部下を見つめている。彼らには関係ない諍いを目撃し、困惑しているのだ。
「……仕方が無い、先に学長の許可を取ります。いや、彼はソレイユ海でリゾートだった。──そうだ! 副学長のスメーズ教授はこの中でしたね、彼女の許可を取ります」
シイタは図書館警備の者たちに扉を開けるよう頼んだが、彼らは館長の顔色を窺って動かない。図書館の責任者は自分の権威を誇示するようにぐっと反り返り、出っ張った腹の上にずんぐりした指を組んだ。プライドが高く、自分の部下の前で逆らうシイタに面子を潰された思いの強い館長は、協力するつもりなど更々なかった。
シイタの中に苦々しいものがこみ上げてくる。彼は腹立たしさをぶつけるように大扉に取り付いた。
「何をするつもりだ、シイタ! ここは治安維持卿の許可がなければ開けられぬぞ」
「今は一刻を争うときです。彼を待ってなどいられません」
シイタは両手を真っ黒な石扉の中央に置き、力一杯押した。
「無駄なことだ、この扉は大の大人が四人掛りでやっと開けられるものだ」
「やってっ………みなければ……わからないっ」
重い石扉は上部で固定され、押されると部屋の内側に向かってせり上がる構造になっている。扉の表には長年司書たちが押し続けたせいで、うっすらと手の跡が残っている。床の黒芙石も足形に擦り減り溝が穿たれている。シイタは両方の足を溝に張り付けるように強く押し付け、力を込めた。
治維卿はいったいいつやってくる? 一時間後か二時間後か。目のまえにすぐにでも着手すべき事柄が控えているというのに、その間ここで手を拱いているわけにはいかない。
彼はかたく目を瞑り、渾身の力で押す。
それなのに扉はびくともしない。ずるずると足は後ろに滑って力を逃がし、両腕の筋肉に痙攣が走る。蒸し暑さが一気に襲ってきたようだ。噴き出した汗があごを伝ってぽたりと落ち、真っ黒な床に鈍色の模様をつけた。
広がってゆく染みを見るともなく見たシイタの脳裏に浮かぶのは、宇宙の深淵を覗き込むような巨大な一つ目の化け物、空に覆い被さるように現われる暗黒の天体だ。暗く冷たい虚無の口が刻々と迫り、すべてを飲み込もうと待ち構えている。
それはぞっとするような光景だった。
同時にそれを切望する気持ちがシイタのなかに忍んでくる。この腐敗しきった世界が一瞬で掻き消えたらどんなにせいせいするだろう。アカシヤの都もろともにすべてのものが、緑の峰々も荒々しい海も、人も動物も植物も何もかもが失われる。故郷のシンゴウ国にいる家族も、友人も恩師もだれもかれもが死に絶えるというのに……。
地震や津波などの天災によって崩壊し、打ち捨てられた樹海に沈む古代都市の話を聞いたことがある。シイタ自身、戦によって瓦礫と化した都を砂漠のなかに見たことがある。
自分の真の望みはあのような光景なのか。
こんなふうに救済と滅亡を同時に願うなど、思いもよらぬものだった。恐ろしい願望はいつ育まれどこに潜んでいたのか。知らぬ間に自分の暗部を覗き込む格好になった。
どちらが自分の本心なのか、それはシイタにも計りかねた。