表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
7/22

空翔ぶもの

 小屋には厩特有のフンとまぐさの入り混じった匂いがする。通路をへだてて区切られた二つの部屋の片方から、寝ぼけている馬の低い鼻息が聞こえた。シイタが渡した精神安定用の薬草が効いているらしく馬は怯えることなく眠っていたようだ。シイタは粗末な板張りの内扉をあけ、中に横たわっているものが静かに息をしているのを微妙に動く背中から確かめた。


『レディ・カルカルーリ、起きてください』

『……シイタ? ……お帰りなさい……』小山のような身体が動き、平たい頭が持ち上がった。

『ただいま戻りました』

『……どうやら無事だったようね‥‥』その声は深い湖から大きな泡が浮き上がってくるのに似て、人間の心にゆったりと訪れた。ここ数日で黒猫のマインドやカルカルーリのやらで心話に慣れてきたシイタだった。


『それでは……目的を果たし、巣に帰れるのね……』

『あなたさえよければ』

『わたくしはいつでも結構よ。……ここに長くいると隣の動物のおいしそうな匂いに誘惑されそう』

『おやおや、ここの主人の心配もあながち間違いではなかったんですね』


 身体と同じく灰褐色に退色した嘴から鳥のさえずりに似た音が漏れた。『く、く、く。あの男は終始びくびくして、自分に餌の資格があると思ったみたい。背中に鞍蛇を取り付けるときもおっかなびっくり、わたくしが行儀の悪い子供みたいに噛み付くとでもいうのかしら。――乗る前に鞍は締めなおしたほうがよさそうよ』


 翼竜の岩のように硬くなった皮膚の下では眠っていた力が活動をはじめていた。羽毛のない翼は石舞台のように大きく滑らかだ。彼女は鋭い鉤爪のついている発達した二本の後足で立ち上がり、滑空するために飛膜に進化させた前足を狭い空間の許すかぎり広げて伸びをした。小屋の壁には畑仕事の道具なども掛けてあり、彼女の動きにつれてがちゃがちゃ鳴った。


 シイタは彼女の首から肩にかけて生えている太く隆起した棘のひとつを掴み、レディ・カルカルーリを静かに仕切りから連れ出した。それでも物音に怯えた隣の馬は甲高くいななき、神経質な蹄の音で厩はにわかに騒々しくなった。カルカルーリの横幅のある身体は狭い出口で一度つかえたが、彼女の皮膚よりも小屋の柱のほうが被害は大きかった。


 宿屋の庭に二人が出てくると扉の影からのぞいていた亭主が飛び出してきた。「旦那、こ、これを」彼は翼竜に目を吸いつけたままマントを投げて寄越した。


 シイタはそれを肩に掛け、カルカルーリが伸ばした翼を踏み台にしてその背中にまたがった。


『いい天気になりそう、飛ぶには絶好の日和ね』彼女は楽しそうに付け足した。『ねぇ、最後にこの男に話し掛けてはだめ? きっとびっくりして彼のほうが高く飛び上がるわ』

『でしょうね。だがやめとくのがいいでしょう。しゃべる翼竜が都王のものだというのは有名だから。我々が王の関係者だと知れると面倒です』

『わたくしは別に王の持ち物なんかじゃないわよ。――すてきな巣がかかっている場所にたまたま彼が住んでいるだけ』


 そう言いながらも彼女はいたずら心を収め、のんびりと力強い翼を動かし始めた。すでに心は大空へとむかっている。シイタの目の隅で旅籠の主人が急いで後ずさりするのが見えた。彼女の背中はシイタの足で直接またがれるほど細くはない。まして棘とごつごつした皮膚に覆われておりそのまま座れば痛い思いをするだろう。


 シイタは調教してあるおとなしい性質の大蛇が翼竜の身体に絡みつき、鞍籠の形にとぐろを巻いた上に腰を落ち着けた。乗り手の尻の下で二匹の蛇が蠢き、程よくからだを締め付けた。森の湿気を含んださわやかな風が周りで渦を巻き始め真空の壁となって二人を包んだ。


 そこへ女将が玄関から走り出てきた。何か叫びながら手にした荷物を振り回している。亭主は慌てて危険な風に近づく女房を引き止めた。カルカルールは横目でその様子を眺めながら翼の動きを徐々にゆるめる。手をこまねいている亭主を尻目に、女将は馬をあやすときの舌打ちをしながら恐れ気なく翼竜に近づいた。


「うちの旅籠は一泊二食付きなんですよ。夕食も召し上がらなかったんですから、朝飯用の弁当ぐらい持ってってくださらないと」彼女はシイタの伸ばした手に紙包みを渡す。「東国からきた商人に以前もらったんだけど、旦那さんの好物じゃないかと見よう見まねで作ってみたんですよ。ゆうべの残り物で急いでこさえたんで美味しく出来てりゃいいんだけど」

「ありがとう、世話になりました」


 女将が退くのを見届け、飛ぶのを中断させられたカルカルーリは勢いよく翼を上下させた。巻き起こった風圧によって、シイタを乗せた翼竜の身体は一気に上昇した。見る間に地上は遠のき、新鮮な空気を切り裂いてゆく。翼竜の精神と一体化して気が遠くなるような昂揚感が襲ってくる。すごい! 上昇気流が唸り声を上げている。頬をなぶる風がまるで氷のようだ。シイタは竜巻に吹き飛ばされたかの錯覚を覚えた。


 大気とは妙なもので、目に見えないからとかく人はそこに何も無いと思いがちだが、現実に空気は強固に存在する。場所によって大気の層は潮流より激しい流れの渦となり、何ものも切り裂き破壊する。翼竜はその流れを難なく読み巧みに潜り抜けるが、シイタには呼吸もままならない。


「振り落とされないで! 飛ぶのに夢中で気付かないかもしれない」翼竜のひび割れて野太い声は喉の奥を震わせて発せられ、腹に響くほどの声量がある。


 心を読んだカルカルーリによってようやく周りの空気は固定され流れなくなっていたが、とっくに下界からは森や畑などが姿を消し、朝焼けに染まった一面の雲が広がっていた。


「レディ! 景色は爽快だが、こんなに地上から離れてしまっては方向を摑めない」

「平気。来るときにはあなたの誘導が必要だったけど、巣に帰るだけなら目を瞑っていてもやれるわ」

 シイタは空気抵抗を遮断している周りの層をほんの少し突っついた。「わたしの使い魔はここを通り抜けられますか? 都に連絡を取りたいのですが」

「それは使い魔の種類によるけど、必要ないと思うわ。この調子で気流に乗ってゆけば太陽の光が真上から背中を温めるより先に帰り着けるから」

「そんなに早く? たしかに使い魔より速い」シイタがカルカルーリとの意思の疎通に手間取り、魔女の森に来るのに丸二日かかったのとは雲泥の差だ。それでもトカゲ竜や馬などで来るよりよほど早かったのだが。

「なるほど、天空高く登ったのはそういうわけか。さすがですね」


 二度目ともなり、シイタも飛行をそれなりに楽しめるようになっていたが、最初は戸惑うばかりだった。乗馬の得意な彼にとっても空を飛行する生き物に乗るのははじめてで手綱のない乗り物には拳を通してハミへの扶助も使えず、たとえ鋭い拍車があったとしても届かぬ足では脚の扶助もままならない。まして分厚くとぐろを巻いた爬虫類の上に座ったままでは体重移動での方向指示は通用しそうもなく、目的地に行き着けるのか不安だった。


 レディ・カルカルーリが会話の出来る古生物だというのは有名だが、彼女は距離も速度も時間でさえ人間の測り方は理解できず、太陽を背に海の匂いを目指して進むなどという漠然とした指示の仕方しか通じなかった。


 ふたりの間で心話が開けてゆくに従い、飛行速度を上げなおかつ快適に過ごす一番手っ取り早い方法は翼竜に心の表層を沿わせることだとシイタは気が付いた。だがその本能は人間とは異なった次元のもので、お互いに触れ合うことは出来ても入り混じることはけしてない。彼女の意識や感覚を理解しようとするのは望遠鏡のレンズ越しに近くの風景を覗き見するのに似て、こちらの共感能力が腹立たしいほど低いためピントのずれた歪んだものになる。多少なりと一体感を味わえるのは彼女が力を貸してくれるおかげなのが次第にあきらかになった。


 今、彼女の心は自由に大空を謳歌する気分が大半を占めており、シイタはそれを一緒になって味わえる思いがけない幸運に深い感動を覚えた。それは高次の生物から劣等生物に与えられた最高の贈り物だった。


 しかしながらシイタにも目的を達成した安堵感や解放感はあるもののこれからの困難な予感が冴え渡る青空のイメージに暗雲を垂れ、魔女の森での出来事に心奪われると暗く沈み、翼竜の気持ちからしだいに引き離された。


「どうしたの、シイタ? あなたの心が摑めない」

「……え? ああ、失礼。考え事をしていたんです」

「考え事ですって、未熟な人間のくせに」

「未熟未熟って――まったくもう! いいかげんそのフレーズには飽き飽きですよ」シイタは大声を出して不満をぶちまけた。「あーあ、いっきに五十五歳ぐらいになっちまいたい」


「……若さをハンデだとでも思っているの? 若くて性急、未熟さと熱意、それらはさほど悪い組み合わせじゃない」

「そうでしょうか? 里でも都でも、わたしが十七だというのはマイナスにしかなりません。もっともあなたがた長命種にとっては人間などいくら年老いても赤ん坊並みなんでしょうけど」シイタはため息をついた。「あの黒猫にしたって……」


 シイタの心が急激に沈みこむのを感じ、カルカルーリは叫んだ。


「猫なんかに馬鹿にされたの、シイタ! そんな奴、今すぐ引き返して尻尾をかじってやるわ!」


 翼竜の身体に旋回のための力がみなぎるのがわかってシイタは慌てて否定した。「そうじゃないんです。なぜ銀の魔女殿はあんなふうに孤独な生き方をしているのかと思って。……優しいんですね、あなたは」


 シイタは手を伸ばし、翼竜の聴覚器官の後ろを力いっぱい叩いた。レディ・カルカルールは一族の中でもその勇猛果敢さで吟遊詩人の歌にも登場し詠われてきた歴戦の古強者だ。歴代の都王をその背に乗せ鋭い鉤爪と獰猛な嘴で幾多の戦を潜り抜けてきたかは、その翼に残る傷跡や醜く欠けた棘からも窺い知れる。


 伝説の彼女は今では火焔山の頂に日がな一日横たわり、鮮やかだった色とりどりの模様は退色し半ば石と化して飛翔する姿を見ることも稀である。そんな彼女が今回都王の願いを聞きいれ面識の無いシイタをその背に運んでくれたのだが、もしかしたら一人では飛ぶこともままならぬひ弱な生き物に母性を感じたのかもしれない。


「……どうあれ、英知は年齢と無関係なものだわ。しかるに魔女には魔女の使命があるのよ」

「使命っていったいどんな?」

「さあ、わたくしもよくは知らない。ただ誰にでも為すべきことはあるのじゃなくて? さしずめ今のあなたが下手な考えをこねくり回すより、せっかくの好意を汲んで食事をするとかね」


 彼は握っていた二本の棘から手を離し、身を沈めるように鞍籠に座りなおした。女将が持たせてくれた弁当は俵型の大ぶりな握り飯が二個と竹筒に入ったハーブ茶だ。


「あなたもいかがです?」

「いいえ、結構。人間の食べ物は口に合わない。遠慮なくどうぞ」

 シイタは翼竜の言葉に甘えて朝食にありついた。旅籠の女将は掃除嫌いらしいが料理の腕は確かなようで、はじめて作ったにしては味は悪くなかった。笹の葉に包まれた握り飯の見た目は普通だが中身の具材に迷ったらしくひとつには丸めたハムエッグが、もうひとつには西国らしく溶かしたチーズと味付けをして焼かれたひき肉が入っていた。


 日差しは暑くとも空気は適度に冷たく、シイタは食事をしながら思わずうつらうつらし始めた。気付いたカルカルーリの指示によって二匹の鞍蛇が緩みながら乗り手の身体を包み込むように形を変え、しっかり巻きつき落下を防いだ。水筒から垂れた雫は真下に向かって落ち、カルカルーリの翼のあたりに達して霧散した。


 目を覚ましたのは身体が逆さになりかかったからだ。翼竜はコマのように回転しながら地表にむかって落ちてゆく。シイタは安全ベルト代わりのおとなしい蛇を嫌がるほど強く握り締めた。


 カルカルーリにとってこの瞬間が最高に快感であるらしい。シイタの三半規管は異常をきたし、さっき食べたばかりの朝食が喉にせり上がって吐き気が襲う。きつく瞑った目をやっと開けたとき、見慣れた西二条大門のそばに無事着陸していた。


「……レディ、あなたのことは好きですけど……ちょっぴり絞め殺したくなりますね」


 彼らがいるのは都を囲む羅城の外城七門の中でも西国カザフへの商用に使われることの多い城門である。アカシヤの都の他の城門と同じように半円形の小郭を備え、闕楼・箭楼・正楼からなる三重の門楼を設け、その外側には広大な駐車場が備えられていた。


 こういった駐車場はすべての大門のそばに併設されており、各地からあらゆる方法で運ばれてきた物資はいったんここで荷解きされ動力による小型の輸送手段にとって代わられる。都大路は大型の動物や荷車が入るには狭すぎるうえ、五代前の都王がきれい好きで使役動物の糞が道に散らばるのを好まなかったのだ。


 人や乗り物が縦横に行き来する倉庫街の駐車場の真ん中で翼竜の甲高い鳴き声が響き、目を見張っていた人々が一斉に退いた。それが嬉しそうな笑い声であるのはシイタには明白だった。


 鳴き声とともにゴミや木の葉を吹き散らす激しい風が起こり、空中にカルカルーリが舞い上がった。彼女はそこで旋回を繰り返す。


『シイタ……、用があったらいつでも呼んで。あなたを乗せて飛ぶのはとても楽しい経験。……わたくしも恐竜と恐れられたものの端くれ、人間のあげる悲鳴は甘美な楽の音だわ……』

『失礼な、わたしは悲鳴など上げていません!』


 ムッとして言い返したが、それが負け惜しみなのは二人とも承知の上だった。カルカルーリは肉食獣特有の鋭い牙をのぞかせ、人間の強がりを嘲笑う鳴き声を一つ浴びせると都の南東にそびえるねぐら山に向かって飛び去った。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ